アカデミックとヒューリスティック

andalusia2006-11-11

昨日の日記に対して、47thさんからコメントをいただきました。
新しいエントリを書かれたとのことなので、見させていただきました。


なるほど。ちょっと誤解していたようです。失礼いたしました。
ただ、少しだけクリアにならない部分が残りました。


「経済学を学ぶつもりのない奴は経済学を語るな、というなら同じじゃないの」と言われるかも知れません・・・それは、そうかも知れません
ふぉーりん・あとにーの憂鬱 - 「素人お断り」?
昨日の日記で、株式会社制度や、民主主義の例をあげましたが、
大学教授でもプータローでも誰でも等しく1票が与えられているように、
また、1万株しか持っていない雇われ社長より、1000万株持っている(議決権助言会社のいいなりの)機関投資家のほうが1000倍の議決権を持っているように、
そこに能力とか知識とか意欲とか真摯さとかいう要素は排除されています。
資本主義や民主主義の歴史や意義について詳しいわけではないですが、そのほうが優れた制度だということなんでしょう。
この疑問にもんもんとしていたところ、

一方で、弾氏のスタンスは、ディシジョンメーカーなんです。
すなわち、「実際の生活者である僕たちは、今後、具体的にどのような方針で、どのように行動すればいいのか?」
ということを問題としているわけです。
その意味で、弾氏の問題意識の核心は、極めて「正しい」。
劇場管理人のコメント - 正しい人たちによる間違った議論
を読んで、なるほどと思いました。「正しさ」自体が違うわけですね。
確かに、アカデミックな正しさを追求する立場では、学問に敬意や謙虚さを持つことは必要でしょうし、意欲も求められるでしょう。
しかし、ディシジョンメーカーとしての立場では、少ない努力で即座に結論を求めることに重きが置かれるため、
アカデミックな正しさよりヒューリスティックなものを重んじるのは当然でしょう。
こうやって考えると、ヒューリスティックな判断者に支配権を持たせる資本主義や民主主義が
優れているというのも、ある意味不思議なことに思います。集合知というやつでしょうか?


#集合知の総本山(と私が勝手に思っている)Googleが、自身に種類株制度を設けて支配権を創業者に残しているのも、ある意味で皮肉なことに思えます。