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2018-12-31 (月)

2018年に観た映画

★は5点満点。

劇場で見たもの


配信やレンタルなどで観たもの

2017-12-31 (日)

2017年に観た映画

★は5点満点。

映画館で観たもの

配信やレンタルなどで観たもの

2017-12-17 (日)

スターウォーズ 最後のジェダイ

観てきました。実に良かった。元祖三部作をリアルタイムで観ていた世代にはたまらない内容だと思う。

以下ネタバレあり。

ネタバレまでの時間を稼ぐために、前作である「フォースの覚醒」にいたるまでを書く。

スターウォーズは元来、創造主であるジョージ・ルーカスのパーソナルな状況を反映した物語である。そもそもルーク・スカイウォーカールーカス自身の投影であり(ルークという名前がルーカスを由来としている)、ダースベイダーは確執のあった彼の父親象徴しているとともに、ルーカス自身を投影している。ルーカスは若いころ、レーサーになりたかったのだけれど事故にあい、それが叶わなくしまって映画の道に進んだ。ダースベイダーもまた、身体に損傷を負い、望んだ道には進めなくなって捻くれてしまった存在だ。辺境でくすぶっていたルークはルーカスが憧れてやまなかったレーサーのように戦闘機に乗り、サーキットコースのようなデススタートレンチを見事攻略して英雄になった。つまりルーカスの叶わなかった夢をルークに託して叶えたのがEp4なのだ。

Ep5はルークや反乱軍が苦難に遭い、修行をし、そしてルークは右手を失う。これはEp4で監督として苦労し、失望したルーカスの苦い実体験を反映していると思う。ルーカスはEp4が完成した後、その出来栄えに失望しており、公開が始まると、批判や不評を恐れてハワイに逃げていたぐらい、Ep4には満足がいっていなかった。なのでEp5では監督をやりたがらず、師匠であるアービン・カーシュナーに監督を委ねた。つまり、スターウォーズ=ルークを師匠であるヨーダに委ねたわけだ。もちろん、Ep4は空前の大成功を収めているのだけれど、のちにCGを追加して修正を行わざるを得なかったほど、ルーカスにとっては悔しくてならなかった出来なのだろう。ルークの失った右手が象徴するのは、不仲となり、後に離婚した妻のマーシャ・ルーカスか、断念した監督業なのかはわからない。

Ep6は副題が「ジェダイの帰還」となっている。このタイトルはダースベイダーである元ジェダイ、アナキン・スカイウォーカーを象徴しているといわれるが、実際のところ、帰還したのは幾多の経験の末、ゆるぎない地位と自信を得た、ルーカス自分自身のことなんじゃなかろうか。そうでなければ後のEp1で、トラウマともいえる監督業に復帰しようとは思わないはずだ。Ep6でルークはダースベイダーを打ち負かすが、結局のところ、ベイダーもまたルーカスの投影であり、かつての夢の名残でしかない。それもまた、自分自身であると認め、受容し、克服したこと、それが「帰還」の意味するところだろう。

Ep6から10年以上経って制作されたEp1では、思う存分に自分の好きなことをやっていて、本人も自信満々だったのだろう。映画の内容が非常に明るい。Ep4に見受けられた、疲れたジャンク感は一層され、ピカピカでツルツル、そしてゴージャスな情景が連続する。アナキンを子どもにしたのは、かわいがっていた自分の子どもたちを投影したのだろう。映画の中で自分の子どもを大活躍させたわけだ。

しかし、自信満々に送り出したEp1は酷評を受け、ジャージャー・ビンクスは憎悪の対象にすらなってしまった。その酷評のせいと、もはや巨大ビジネスになってしまったスターウォーズのため、Ep2とEp3はしぶしぶ作っている感じで、ルーカスの個人的事情はあまり見えてこない。Ep4に繋げるために大きく路線を変えられないという事情もあったのかもしれない。

そして、ルーカスはルーカスフィルムディズニーに売却し、映画からもスターウォーズからも遠ざかってしまった。

Ep7である「フォースの覚醒」はルーカスの手を離れているけれども、依然として、ルークはルーカスを象徴している。Ep7は過去に過ぎ去り、隠れてしまったルーカスとスターウォーズ自身を、ファンや製作者たちが追い求める物語なのだと思う。ジャクーに擱座しているスターデストロイヤーやXウィングは伝説になってしまったEp4〜6を象徴している。その伝説の遺物を漁り、その中で暮らし、輝かしい過去の再臨をひたすら待ちわびるレイは、我々ファン自身の投影だ。レイは我々と同じく、新しいビジョンには不安をいだき、尻込みし、逃亡しさえする。

Ep7にはハン・ソロやレイア、ルークが登場しており、彼らへのリスペクトにあふれているが、新三部作にも属しているC3POR2D2らドロイドコンビの扱いはおざなりである。制作陣は元祖三部作を敬愛しているけれど、新三部作には冷淡なのではないだろうか。

栄光の英雄たちに産み落とされながら、その栄光を台無しにし、殺してしまうカイロレンはジャー・ジャー・ビンクス。そのカイロレンが属し、帝国の残党から生まれたとされるファーストオーダーは、ルーカスが監督したEp1から3までの新三部作といえよう。

Ep4から6の元祖三部作では、血筋があるとはいえ、ルークのような青年でも修行を積み、ジェダイになってライトセーバーを振るえた。神秘的なフォースは誰の中にもあり、誰にでも資格があるように思えた。ところがEp1でジェダイになるには、特別な資質を持ち、幼い頃から訓練が必要で、ミディクロリアンの値がフォースの強さを決めているように描かれてしまい、我々のような一般人には道が絶たれてしまった。

しかし、ファーストオーダーから逃れたフィンは、なんの才能も持たず、勇気のみでライトセーバーを振るい、ジャー・ジャー・ビンクス、もといカイロレンに立ち向かった。これは新三部作への批判だろう。

Ep7のラスト、レイはルークを探し出し、ライトセーバーを差し出して示す。ライトセーバーもまたスターウォーズを象徴するアイテムだ。しかもそのライトセーバーはかつてルークが振るっていたものだ。「スターウォーズ、まだまだ終わりませんよ、どうしますか?」「僕らの作ったスターウォーズ、どうですか?」とルーカスに問いかけているように見える。

そしてEp8。冒頭、ルークはライトセーバーを放り出す。そんなガラクタ、もう関係ない。捨ててしまえと言わんばかりに。これはルーカスを象徴してはいない。Ep8のルークはルーカスではない。元祖三部作を愛していた人たちにとってのルークそのままである。もちろん、ストーリーラインに沿って、隠遁者らしい振る舞いをしているが、終盤の活躍はルーカスとは関わりがない。劇中、ルークが遺し、レイが振るっていたライトセーバーは粉々に砕け散る。もはや過去の遺物や束縛とは決裂し、未来を向くべきなのだ。その使命を担うレイ=俺たちファン(無論、製作者もファンだ)こそが最後のジェダイであり、ラストシーンで示されたように、希望に満ちた幼い子どもたちはレイから受け渡されるバトン、新しい物語を待っている。いつまでも旧作を神聖視し、伝説化し、崇拝するべきじゃないのだ。Ep7でハン・ソロは死んだ。そしてEp8でルークを過剰に追跡し、危険視するほど重要視していた大仰なスノークは間抜けのようにあっさりと殺された。そしてルークは皆を救ってフォースの彼方へ去った。Ep8において過去の伝説は葬られたのだ。

Ep9は束縛から解き放たれた新しい世界が広がることだろう。そしてそれはおそらく伝説の再臨を待ち望むファンからは激烈な抵抗を受けるはずだ。制作陣にはその覚悟があるとみているが、果たして。

2017-09-11 (月)

キングダム年表

中国古代史が好きなので、現在、週刊ヤングジャンプで連載中の「キングダム」にはずっと注目している。李信と王翦を題材にした漫画といえば鄭問東周英雄伝」のエピソードがあるのだが、あれを長編大河に仕立てたのはすごいと思う。

この記事を書いている時点では、王翦・楊端和・桓騎らが趙を攻めている段階。作者がどのような展開に料理するのかが楽しみである。

この後の展開が気になるためWikipediaで調べて、キングダムに関連した事跡を年表にしてみた。明らかなネタバレになっているので先が気になる人、史実を知らない人は観ないこと。

とはいえ「キングダム」は史実に忠実でありつつも料理の仕方が大変上手いので、物語の面白さが減じることはないと思う。

年齢と在位は秦王政のそれ。

年齢在位B.C出来事
130247秦王政、即位
141246蒙驁、王齮、麃公、将軍に任じられる
141246蒙驁、晋陽の反乱を制圧
152245趙の廉頗、魏に亡命する
163244麃公、韓を攻める
163244蒙驁、韓の13城を取る。
163244王齮、死去
174243魏の安釐王死去。信陵君も同じ頃に死去
174243李牧、悼襄王の命により、燕を攻め、武遂や方城に侵攻
185242蒙驁、魏の20城を落とし、東郡を設置
185242龐煖、燕を攻め、旧友の劇辛を敗死させ、2万の捕虜を得る
196241秦、魏の朝歌を奪う
196241秦、函谷関にて五カ国連合軍を撃退
196241龐煖、魏、楚、趙、燕の兵を率いて秦の蕞を攻めるも落とせず、反転して斉に侵攻し、饒安を取る
207240蒙驁、死去
207240秦、魏の汲を奪う
218239成蟜の乱
229238ロウアイの乱・呂不韋失脚
229238楊端和、魏の衍氏を攻める。
229238楚の考烈王死去。春申君、李園に暗殺される。
2310237斉と趙が秦に来朝し、酒宴を開く
2310237秦王政、大后を再び咸陽に住まわせる
2310237李斯、他国人追放令(逐客令)を撤回させる
2411236趙、龐煖に燕を攻めさせる
2411236王翦・桓齮、楊端和ともに趙を攻め、鄴、閼与などを落とす。
2411236趙の悼襄王死去
2512235呂不韋自害
2613234桓齮、趙を攻め、扈輒を敗死させ、敵兵10万を斬首
2714233韓非子入秦
2714233李牧、秦の侵攻を撃退、桓齮を敗走させる(肥の戦い)。李牧、武安君に封じられる
2815232李牧、秦の王翦の侵攻を撃退し、韓と魏の領土を回復(番吾の戦い)
2916231内史騰、韓から秦に割譲された南陽の郡守となる
2916231趙で地震が発生
3017230趙に飢饉が発生
3017230内史騰、10万の兵で韓を平定。韓滅亡
3118229王翦、羌瘣、楊端和、趙の井陘を制圧。
3118229王翦の策謀により李牧、司馬尚、更迭。李牧処刑される
3118229楊端和、河内の兵を率いて趙の首都である邯鄲を囲む。
3219228秦王政の大后死去
3219228魏の景ビン王死去
3219228王翦、羌瘣、趙を平定。趙滅亡
3219228羌瘣、燕攻撃のため中山に駐屯
3219228楚の考烈王の庶子、負芻が楚の王位につき、李園の一族は誅される
3320227燕、荊軻を刺客に送るが秦王暗殺失敗
3320227王翦、燕を攻め、燕と代(趙の残党)の連合軍を打ち破る
3421226昌文君、死去
3421226韓の旧都で反乱が起こるも鎮圧。旧韓王討たれる。
3421226王翦、燕の都を制圧、李信、燕の太子丹を討ち取る
3522225王賁、楚の北部を平定した後、北上して魏を攻め大梁を水攻め。魏を平定。魏滅亡
3522225李信、蒙恬とともに20万の兵を率い、楚を攻めるが項燕により大敗
3623224王翦、李信に変わって60万の大軍で楚を攻める
3724223王翦、蒙武と楚を攻め、楚王となった昌平君を討ち、項燕を敗死させる
3825222王翦と蒙武、楚を平定。楚滅亡
3825222王賁、李信とともに燕を平定。燕滅亡。趙の残党である代も滅ぼされる。
3926221王賁、李信、蒙恬、斉を平定、斉滅亡秦、天下統一

おそらく連載最大の目玉となるであろう、李信の大敗北や「風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去って復た還らず」をどう描くのかが見ものだし、完全オリジナル要素なサブキャラクター達の運命は作者にしかわからないのでそれも楽しみ。

荊軻の暗殺が成功して、替え玉が始皇帝となり、信は亡き政の中華統一の夢を果たすも…、という展開にしないと史書との乖離が大きくなるが、果たして。

2017-04-03 (月)

クソッタレな邦題

最近、劇場や配信で観た2つの映画、「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」「セッション」について、どうも邦題にムカつくのでそれについて。

「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」の原題は「Demolition」で意味は「(建物などの)取り壊し、破壊、(特権などの)打破」あるいは「解体」である。原題は映画の内容である「それまでの日常及び人生の破壊、解体と再生、再構築、再出発」をそのまま表しているのに対し、邦題は何かロマンチックな趣きを醸し出し、観客をあえて誤導しようとしているとしか思えない、全く不誠実なタイトルとなっている。これには本当にムカついた。タイトルライターは原作に対する敬意を持っていないとしか思えない。こんなタイトルはクソだ。

「セッション」の原題は「Whiplash」で意味は「鞭打ち症」であり、劇中で重要なキーになるジャズ名曲のタイトルでもある。この映画のタイトルは「Whiplash」以外あり得ない。なにが「セッション」だ。この映画で繰り広げられるドラマはそんな生易しいものではない。版権の関係なのかもしれないが、なんとか「Whiplash」に通じるタイトルを探してほしかった。

今まで見た映画の中で1番のクソ邦題である「戦争のはじめかた」よりはまだマシだけれども、ゴールデンラズベリー賞やはくさいアワードのように、クソな邦題を槍玉に挙げて改善を促すような賞とか創設できないものか。

2016-11-06 (日)

得物を使うコツ

twitterで少し書いてみたのだが、140文字では足りないためこちらでメモしておく。

得物を握らぬこと

まずは得物の執りかた。片手で軽く執ってダラリと提げる。その時の手のひらと得物の関係、力の抜き具合(これらを 手のうち という)を一切変えないで構えること。構える際に執り直してはならない。提げたときには肘が伸び、親指と人差指側の力が抜けているはず。つまり腕の屈筋側に力が入っていない。それが一番ベストな執り方。

屈筋側に力が入ると、肘が曲がり手首も堅くなる。得物を振ったときに伸びがなくなり、縮こまってしまう。それを補おうとして腰が引けて姿勢が悪くなる。

つまり獲物を執る場合は握ってはならない。すっぽ抜ける直前まで柔らかく包むようにして執る。わざわざ「執る」という言葉を使っているのはそのため。得物を「持つ」と言ってしまうと、固定観念からどうしても握ってしまう。

得物を執って進退するのは、非日常的動作であるべきで、従来の立ち居振る舞いの延長線上に在ってはならない。それまで経てきた生活動作とは全く違うものとして、新しく習得し直す必要がある。でなければ技の世界には入れない。

前記のように得物を執れば、日常的な立ち居振る舞いでは使えなくなる。姿勢も心の持ちようも新しく学び直すことを強いる執り方なのである。

握らず、持たず、で得物を繰り出そうとすると、それまで使っていた腕力は使えなくなる。少しでも腕力を使おうとすると、とたんに握ってしまい、持ってしまい、ダラリと提げたときの手のうちが破綻する。よって、腕力以外の駆動源を新たに見出さなければならない。

手ではなく肘を操作する

初心のうちは肘から先はないものと念じ、肘を操作するつもりで得物を繰り出すと良い。肘を使おうとすると肩が動き始める。それほどまでに、普段の動きの延長線上で肩は動こうとしないものなのだ。普段動かない肩を動かそうとすることによって、ようやく背筋(広背筋)が目覚め始める。肩を動かすことは畢竟、広背筋を操作することにつながるのである。

例えば木刀や竹刀の千本振りを行ったとする。その後で、腕に筋肉痛を覚えるようでは話にならない。広背筋、そして背中の中央部に筋肉痛を覚えるようになれば上出来であろう。得物と腕を背筋で引き上げ、振り下ろすことが第一目標である。

次に、肘と腰骨の位置をなるべくシンクロさせる。右腰が出るなら右肘も出る。左肘が下がるなら左腰も下がる。そうすることによって、得物を体全体で使うことができるようになる。この場合も手のうちを変えない。手のうちが変わると肘と腰の関係が破綻して体の力が得物に乗らなくなる。

目線を上げる

次に重要なのが体軸の確保。体軸がふらついていては手のうちも広背筋も、腰骨もなんにも機能しなくなる。体軸の確保はひとえに足腰の強さと目線にある。

体軸は可能な限り中立であるべきで、前傾や後傾してはならない。前傾するととたんに得物が重く感じるようになる。なぜなら腰から得物が遠くなればなるほど、得物だけでなく腕や頭を支える筋力が必要になるからである。

後傾すると腕の動きが胸で遮られてしまい、満足な動作が出来なくなる。また、敵との間合いが遠くなってしまい、利がない。

難しく考える必要はなく、目線、目のつけどころだけで姿勢は改善、最適化される。下から見上げるような目をしていれば前傾している証拠。水平よりも少し上、遠くの山を見るような位置に首を調整すればいい。

人間の目は常に真ん中を見るように出来ている。上下左右に眼球を動かし、どこかで固定し続けるとすぐに疲れる。なので首が自然と視線の方向に追随して眼球が疲れないようにしようとする。なので、遠くの山を見るような心持ちで視線を送ると、首が勝手に適切な位置に調節され、続いて全身の姿勢もそれに最適化される。人間の頭部は重いから、首の位置に応じて可能な限り身体が楽になる姿勢になろうとするのだ。その楽な姿勢こそ、得物を用いるのに適しているのである。

しかし、これらは本来、自然な姿勢ではない。人体は、闘争の際には前傾したほうが防御力が増すような構造となっている。人間の構造は攻撃よりは防御に適しているし、本能もそれを志向しているようである。故に意識して訓練しなければ、前述のような姿勢にはなれない。

足ではなく腰を使って移動する

得物を執って進退する際、足捌きを行わなければならないが、初学のうちはどうしても足を動かすと腰が遅れてしまい、結果、姿勢が崩れて手打ちになってしまう。後退する際は特にこれが顕著となり、足が下がっても上体が残ってしまい、相手との間合いが苦しくなり、後が続かなくなる事が多い。

大腿骨の付け根の上、腰骨の出っ張りを意識して、前進する際は腰骨を相手にぶつけに行く、後退の際は腰骨を可能な限り相手から遠ざけるようにすれば、足は勝手に動く。この際に重要なのが、動く足とは反対側の腰骨を相手に向けるような意識で留めておくこと。右足を動かすのであれば右腰骨が相手に向かうのと同じく、左腰骨も相手に向かおうとすること。実際には腰骨はそういうふうには動かないのだけれど、そういう意識で身体を制御すると、膝が必要以上に開かなくなり、身体に伴う体軸のブレが最小限に留められる。

2016-05-29 (日)

2016年に観た映画

★は5点満点。

映画館で観たもの

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