2012-05-19
■[日々のメモ]午前9時。畳の埃を机に載せる。

◇ハイハイが一気にスピードアップして、掴まり立ちも随分安定してきた。自転車や自動車の運転、あるいはスノボやスケートと同様の、移動それ自体の快楽というものがあるのだと思う。身体をうまく乗りこなすことの気持ち良さ。
◇先々週、先週、今週と、ここのところ週末は多摩動物園に行っている。もうあと一回行けば、入場料の累計がフリーパスの金額と同じになる。
入場ゲートをくぐる頃、息子はなぜか毎回決まって眠ってしまうので、入り口付近の動物はほとんど観ていない。親としては折角動物園に来ているのだからと思うわけで、起きた頃を見計らって、絵本でお気に入りのオランウータンやサイ、ゾウなどの檻の前に廻る。しかし彼にとっては動物園の生き物だからなんだといった具合で、動物を観るより檻の前の草などをじっと眺めている。あと何回回転すれば、それが自分の視点と気付くだろうか。彼が大人になる日のことを想像してみる。
◇おかげさまで『アラザルvol.7』は文学フリマでも相当数売れたみたい。今後、一般書店や通販などでも対応していくけれど(→http://gips.exblog.jp/18288716/)、正直在庫が厳しい様子。嬉しい悲鳴ではあるのだけれども。
◇批評とは何か系の議論は、自分が一体何をやってるのか把握しておきたいという欲望に突き動かされているのだろうけれど、当然のことながら、自分が何をしているかなんて問いに明快に答えることほど不自然なものはない。その意味において、非常に良い批評を書く人が意外に無垢な批評観を持ってたりすることは、なんだかんだ言ってあり得るかもしれないな、とは思っている。
けれどしかし、やっぱり批評においては、ある種の天然な作家たちが行う自問自答よりも、ある程度自覚的な回答を用意しておく必要がある。もちろんそれは暫定的な回答でしかあり得ないけれど、しかしそれなりの批評観を設定しておかないと、対象となる作品とそれを観る自分の間に線を引くことができなくなる。この「線を引く」という行為そのものが、やっぱり批評を批評たらしめているんじゃないか。
対象から受け取ったイメージを元手に創造することと、対象の持つイメージを丁寧に読解することは、全然違う行為だろう。前者が用意する豊かさは、対象が持ち合わせていたものとは限らないが、後者は、対象自体の持つ豊かさを読み取ることに勤しむ態度。僕は個人的に、後者を批評と捉えている。批評は作品とは異なって、それ自体で自律するものではなく、対象と合わせて立つ必要がある。
対象を自分に血肉化するのではなく、あくまで自分の外側に置いておく。しかし、批評は記録を第一の目的としているのかと言えば、それもまた違うような気がする。いわゆるドキュメンタリなどについて、純粋な客観性を保持することはあり得ず、なんらかの恣意性が絶対に紛れ込んでしまう、という指摘はよく言われることだけれども、記録がその恣意性から可能な限り遠ざかろうとするのとは違って、批評は別にそのようなことをするわけではない。批評が行うのは、これは語り手である私の恣意性に依る、と堂々と宣言することである。
つまり、私は対象にこのような輪郭線を引いた、というひとつの読みを提示する、ということ。それによって、輪郭線の外側に切り捨てられたものの存在を、その批評の外に感知することができるようになるだろう。そのような批評に立ち会ったとき、彼は再び対象を眺めようとする。自分にはどのような線が引けるのか、を問う余地が残される。
◇考えてみれば、セルフ撮りやらビデオチャットやらと地続きな「ガーリーラップ」が、今までなかったことの方が不思議に思えてくる。日本に置き換えれば、ニコ生アイドルとニコラップが合わさった状態かな。
ティーンアイドルがフリースタイルかます時代、こういう趣味のラッパー達はもっともっと当たり前になってくんだろな。
◇バリカンで髪を切った。坊主ではないセルフカットは初めてで緊張した(襟足は妻にやってもらった)けれど、なんとか格好はついたかも。
2012-05-01
■[日々のメモ]午後1時。動物園で雨を観る。

◇息子の生まれて初めての動物園は、あいにくの雨となった。
朝から雲行きは怪しかったのだけれども、連休の合間であるこの日を外したらものすごく混むだろうということで、計画を強行。昼食中に降り始めた雨はその後ずっと止まず、結局僕らが帰るときまで降り続けた。屋外の雨宿りポイントから雨を眺め、移動しながら動物の濡れ姿を眺める一日。皆一様に似たような仕草をしていたのが印象的だった。
◇多摩動物公園は我が家から電車で数駅の距離にあるので、年間フリーパスというものを買うことにした。学生時代から結婚後まで、ここには何度もデートに訪れているが、今年から僕らには子供が加わったのである。利用頻度は更に上がっていくだろうと見越しての購入だった。そういえば息子は、母の胎に居るときに一度来たことがあった。あのとき、今日のような日を夢想しては、二人でニヤニヤとしたものだった。生まれて一人の人間として活動を始めた彼は今、一体どんな顔で門をくぐるものだろうか。少々感慨深くベビーカーを覗き込んでみると、清々しいほどよく寝ていた。
◇水泳は50分2000メートル。四月は一度も泳がなかったので、とにかく筋肉痛がひどい。とはいえ、2000メートルのペースは崩れていなかったので、ひとまずは安心。
◇久々のブログ更新になったけれど、アラザルの方は無事脱稿。校了も済ませ、あとは文学フリマまでに本が出来上がるのを待つのみである。
それにしても、今回こそは絶対に間に合わないだろうと思った編集作業だった。締め切りギリギリまで粘る同人の原稿を、ほんの数時間程度で組み上げていくデザインチーム及び進行管理のdhmo。彼らの集中力はとんでもなく研ぎ澄まされたもので、だから多分これを続けてると、マジで死人が出るんじゃないかと思う…。
◇ヒップホップ、及びラップのことについて書いた連載エッセイ『ラッパー宣言』の第五回目を寄せました。「ラップは、歌というよりもダンスのイメージで捉えた方がしっくりくる」というところから話を展開させていきました。
もひとつ、パブリック娘。のインタビューを掲載します。今年の三月に大学を卒業し、それぞれ社会人としての道をスタートさせた彼らですが、学生時代の活動を振り返るという意味でも、パブリック娘。の貴重な資料となると思います。言いかえればつまり、今後の彼らはますます凄みを増して行くだろうということ。期待してるぜ!
というわけで、『アラザル7』は、5月6日の文学フリマで発売いたします。ブースは「オー38」。久々に分厚い21.5ミリ。500円。
その他のページについては、アラザルブログの方で告知する予定です。そちらも併せて、よろしくどうぞ。
2012-03-17
■[日々のメモ]午後9時。風呂にこだまするあの攻防戦。

◇顔を濡らされた息子が、水面を叩いてやり返す。
◇離乳食には色々と段階があって、現在は初期の初期、日に一度だけおかゆを何口か飲み込む。息子は新しい食生活にはまだまだ慣れない様子で、おかゆを口に入れるたびに渋い顔をする。まだまだ子供だ。
当然のことながら、母乳は母の体内で作られるけれど、おかゆは体の外で作らなければならない。子供と母の間に料理という作業が挟まることで、子供よりもむしろ親の側が子供との距離を自覚しようとする。離乳食や卒乳という言葉を、妻はさみしいと言う。そのさみしさは、子供の食生活への気遣いに引き継がれるのだと思う。
◇なんとなく腰が重く、水泳は来週火曜日の祝日に見送ることにする。
◇昨日は大谷能生×大和田俊之『ヒップホップ・ブックカフェ』というイベントへ(→http://snac.in/?p=1922)(http://d.hatena.ne.jp/adawho/20120311)。最終的にはヒップホップの話は少なめだったけれど、アフロ・フューチャリズムという独特の時間概念を、デューク・エリントンの『A Drum is a Woman』を軸に解説するというもので、かなり貴重な体験ができた。以下、このイベントから刺激されたことも含めてメモしておく。
大和田俊之『アメリカ音楽史』にも書かれていたけれど、公民権運動と宇宙開発史は全く同時期にあって、それがアフリカ系アメリカ人たちにちょっと独特なアイデンティティを形成させる。宇宙開発、というか宇宙人という他者に抱く幻想は、ここではないどこかへの願望を託す先である。自分を規定する時間軸を、毎日の生活を支配するこの時間(歴史)だけとするのではなく、同時に別のものを用意して、自分という存在を捉える視軸を複数化してしまう。昨夜の対談においては、自分を土星人と言い切るサン・ラから、ギリシャ人になろうとするマイケル・ジャクソン、あるいはバグパイプを持ったアンドレ3000や、バルカン星人のハンドジェスチャーをかますファレル・ウィリアムスまで、彼らは一様に他者を「偽装」(大和田俊之『アメリカ音楽史』)し、自分へのまなざしをいくつも用意するのだという(ただ、この偽装は自分の身体に無自覚だということではないと思っている。偽装することによって逆説的に立ち上がるのは、むしろ自分の身体そのものの自覚である。身体に裏切られる前提が担保されているからこそ、むしろ積極的に偽装することができたのではないだろうか)。
大和田氏によれば、アフロ・フューチャリズムはフューチャリズム(→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E6%B4%BE)とは異なり、過去に未来を幻視する想像力のこと。これは個人的にはすごく自然に受け止められるのだけれども、乱暴に言ってしまえば、言語活動そのもののことではないかと思う。例えば昨日の出来事を思い出そうとするとき、僕らはそれをひとつの独立したエピソードとして捉えようとする。あるいは一本の映画を批評するときにひとつの見立てを作ったり、歴史を政治というテーマから読み解こうとするのも同様で、僕らはそのとき、そこにひとつのフィクションを練り上げる。一冊の書物が、どう考えても文字を一文字も変化させていないにも関わらず、あらゆる読解を許容せざるを得ないのは、つまり読む=書き換えを僕らが常にしているからである。アフロ・フューチャリズムを、僕はそういうフィクション化の力によるものと理解する。
ヒップホップの四大要素といえば、DJイング、MCイング、ブレイキング、グラフィティだけれども、そう考えるとこれらは全て書き換え行為だということがよくわかる。自分にお構いなしにあらかじめ存在しているそれらを、自分の物語のなかの構成要素と見立て、書き換え、従属させていく。ラッパーとは、自分の物語の主人公の名前であり、彼らはラップすることでラッパーの姿を「偽装」するのだと思う。
◇それから、踊るという行為は、読む=書き換えと全く同じもので、聴くことと演奏することを同じ地平に見据えることだとも思う。ラップは、唇のダンスでもある。その意味において、踊る欲望を刺激しようともしない、鑑賞用のためだけになされるラップは、ラップではない。
◇SALU『IN MY SHOES』。聴いてるうちに、これはラップ曲というよりヴォーカル曲と言った方がしっくりくるような気がしてくる。ラップは、自らの身体を強く感じながら歌われるものだと思うからだ。自己と他者の区別を取り払おうとする歌唱とは逆のアプローチ。
「字足らず字余りがグルーヴを生む」「複数秩序の単線上の叙述が訛りを生む」。いずれも、言葉を物質に変える際、つまり発声するときに、身体側の抵抗が引き起こす現象だろう。身体を徹底的にコントロールするのではなく、むしろコントロールしきれない部分とどのように折り合いをつけるか。その試行錯誤がグルーヴを生み、聴くものの身体を踊らせる。ラップは、彼自身の身体の痕跡をレコードの上に刻み付けることで、それを聴く他の誰かにラップを促す。これはリリックが基本的にはラッパー自身の手によって書かれ、彼自身にのみ歌われることを前提としていることとも密接に関わる話だと思う。
さて、その視点で見ると、SALUが人類愛をテーマに巨視的な視点でリリックを書くということについても回答が出そうな気がする。SALUのラップは、身体をほぼ理想通りにコントロールしたところに成り立っている。それはラッパーのラップというよりも、優れたヴォーカリストの超絶技巧に近い。符割とブレスを自在に操って刻んでいくリズムは不安定な揺らぎを孕まず、つまり彼の身体は、彼にとっては完璧に制御可能なツールとなる。決して身体の側が彼の予想を裏切ることはない。だからこそ、SALUのリリックにおける主語はSALU本人から離れ、人類そのものにまで拡張することも出来るのである。
ラップが切り開いてきた歌唱技術を、従来のポピュラー音楽の図式に当てはめて応用したという意味において、ひとまずは優れたヴォーカリストの誕生を喜ばずにはいられない。今後のSALUが、この圧倒的なスキルを持ってしてラップそれ自体の可能性をどんどん開拓するラッパーになっていくことを期待する。
2012-03-12
■[日々のメモ]午前1時。寝室の外、夜中の音。

◇もう月曜日になってしまう。
◇3月11日から息子は6カ月目に入る。なんとなくおすわりもできるようになってきている今日この頃だが、本日はついに離乳食に挑戦したのであった。以前から両親の食事を涎を垂らして眺めていたので、さぞかし今日を待ちわびていたことだろうと思うのだけれども、しかしまず食べる前に首に巻いたエプロンに興奮を隠せない。ようやく口に放り込まれた母の手料理に、舌鼓を打つよりも先にまたエプロンを矯めつ眇めつする。そんな息子の姿を観ながら、僕らが食事と呼ぶものは、食べることにまつわるあらゆるものの全体を指すのだということを思い出したりする。
◇水泳に行ったのは先週の日曜日。完全に月に一度のペースだが、意外と泳ぐ速度は変わらず、45分2100メートル。けれども、泳いでる途中からずっと頭が痛く、それはその後数日間引っ張ることになった。やっぱり身体が鈍っているのかもしれない。
◇去年の3月11日以降の変化、特にメディアを介して意識が変化したという主張を聞くと、それは一体どの程度のものなのだろうと思う。3月11日由来の余震が収まり、津波の映像を観なくなり、放射能による健康被害の報告がないままに時間が経って、被災地の経済的な復興が終わったとき、ある程度の人はまた何事もなかったかのように新しい原発の建設計画を聞いてもぼーっと聞き流すのではないか、という強い疑念がある。
2011年3月11日に起きた震災は、地震や津波と、原発事故という二つの側面を持った災害である。実質的な被災を身近に感じる状況にない場合、それらはほとんどメディアを介した被災となる。市民の手によって撮影された無数の映像は、向こう側とこちら側の距離を一瞬にして乗り越える津波の様子を伝え、それはそのままその映像と閲覧者の間のフレームを乗り越えんばかりのインパクトを与える。あるいは放射能汚染の恐怖は実体のつかめない獏たる不安を象徴化し、それにまつわるあらゆるストーリー(虚構)は僕らの現実観にゆさぶりをかける。
つまり僕は、メディア上の被災が津波や原発事故による直接的な被災よりも軽い、などとは思っていない。いや当然被害は違う質のものだし、ある意味では軽いと言っても良い側面はあるだろうけれども、しかし意識の変化を促すという一点において比較すれば、どちらにも等しくその機会が用意されている。だからメディア上の被災から意識が変わることは、一本の映画が意識を変えるのと同様に、あるべきだろうと思う。ただそれが、残念ながら暇つぶしにテレビ番組を眺めるような類の、つまり漫然と消費して終わりにしてしまうようなことが、既に色々なところで起きているのではないか。例えば「3月11日以降、私たちは変わってしまった」という物言いなどはまさにその典型のように見えたりする。
変わってしまったのが「私」ではなく「私たち」であるかのような口ぶりには、ひとつの出来事が私たち全員に全く同じ現実をもたらすという感覚があるのだと思う。けれど、ばらばらである個人の意識を一斉に同じものに変えてしまうことなど、どんなに圧倒的な体験でもあり得ない。意識の変化とは、起こった出来事を複数の角度から捉えなおす態度をひとりの人間のなかに用意することである。それはつまり、どこまでも個人的なものでしかない。だから3月11日という共時性を強調するのならば、同時にどれだけ異なったその日の過ごし方があったのかを浮かび上がらせる必要がある。起こった出来事から受けたショックの程度を語り合うのではなく、起こった出来事を複数の角度から何度も捉えなおすこと。
◇実生活が変化してから見方が変る人は、実生活に変化がない限り見方を変えることができない。震災後1、2年騒がしい気がしても、表面上の生活がなんとなく前のものに戻れば、また何事もなかったかのような気分になる。それまでの騒がしさとはつまり、一時的な感情の昂りでしかないのだろう。「終わりなき日常が終わり、終わりなき非日常が始まる」という言い回しが大嫌いなのは、そういうところである。非日常が収まれば、また日常に戻る。始めからお祭り騒ぎとして何かを享受するつもりの物言いに過ぎない。どんな出来事が起きても、それもまた日常の一部であるのだと、どうして言えないのだろう。
2012-02-28
■[日々のメモ]午後9時半。隣の部屋の勝負の行方。

◇息子を風呂に入れるのは僕の仕事だけれど、寝かしつけるのはおっぱいのある妻である。妻はNHK『ニュースウォッチ9』のお天気キャスター「井田さん」が好きで、お天気の時間までに息子を寝かしつけられるかがひとつの勝負になっている。今夜は妻の勝ちだった。
個人的に一番好きなのは、多重人格についての記述。解離性同一性障害というと、どこかにあるべき唯一なる真実の私(同一性、アイデンティティ)を担保するような言い回しだけれど、佐々木さんはあえてそこに多重人格の語を充てることで、複数の私というイメージを喚起しようとする。
どこかに唯一の本当の私があって、それが自分の振る舞いの根底にあるといった感覚は、一種の自分探しやらここではないどこか幻想を用意するのだろうけれど、そうではなくて、私というものがそもそも複数居るのだと考えること。それは例えば、ここではないどこかを求める気持ちの裏返しとして噴出してきた、ここしかないからここを幸福だと認めなければいけない、などといった卑屈な現状肯定への防御策としても機能する。何より、現状を書き換えるために必要不可欠な態度のことではないだろうか。
自分を複数化するというアイデアは、逆を言えば身体自体はひとつしかないという身も蓋もない現実を強化してもいる。ここでいう身体とは、自分の意のままに操ることのできるものではなくて、自分の意図せざる方向へと突然動き出すもの。それこそ『英国王のスピーチ』でいうところの吃音を引き起こす身体であり、言い換えれば、これはつまりひとつの現実そのもののことである。ひとつの身体に対し、ひとつの私だけで、他の私を否定しながら応答しようとすると吃ってしまうが、複数の私をもってそのまま応えると、訛りのグルーヴを生みだす。吃りそうになる身体を、押さえ込むのではなく、「もーしょーがない!」とでも認めて解放すること。これが現状を書き換えるということである。
つまりまあ、呆れられるかもしれないけれど、僕はもう馬鹿みたいに単純に、ラップすれば全部上手く行くと思っている。ラップは、ひとつの口で複数の秩序を叙述する訛りであり、現在から過去を捏造してしまう演説であり、録音の担保によって逆説的に発生する即興演奏であり、日常を自分のものに書き換える手段である。佐々木さんの言い方に倣うならば、「多重人格」を支え、「過去物語り」を可能にし、「自分の運命を受け入れる」インプロヴィゼーションであり、「未知との遭遇」をもたらす、極めて現実的なツールのことではないだろうか。
それと、蛇足のようで実は蛇足でないことを少し。ラップがまた、言葉の手触りに注目して韻を踏むダジャレであることを考えると、佐々木敦さんが本書においてひたすらダジャレを連発し続けることの意味も充分に理解することができる筈。
◇今更だけど、zeebraと伊集院光のビーフについて、ちょっと触れておきたい(→http://togetter.com/li/260648)。ヒップホップ側から読むと、ジブさんの態度には相当の疑問が残る。
何かについて必死になっている人間を嗤う態度について、ジブさんはそれを、出る杭を打つ「島国根性」と言い放つ。それが「中二病」の解釈として正しいかはまた別の問題として、その主張自体には僕も全面的に同意する。だがしかし、このビーフで重要なのはそういった議論の中身以前の話であり、ジブさんはこれとは別の意味で「島国根性」を体現してしまった、というところだと思う。言葉のオリジナリティがどこにあるのか、完全に見誤っている。
有名な例として、ニガーという差別用語を挙げてみる。これはアフリカ系アメリカ人に向けた蔑称とされる一方で、ヒップホップコミュニティおいては自称とされる。この奇妙な変換の根底にあるのは、その語の語源に立ち返って最初に言い出した人物を糾弾する姿勢ではなく、むしろ積極的にその語を使用することによって自分たちのものに書き換えてしまおうという態度である。言葉のオリジナリティは語源にあるのではなく、使用する側にある。これがヒップホップの(ひいてはアフリカ系文化*1に連綿と続く)理解の仕方だった筈だ。
さて、これを踏まえた上でジブさんの言動を見ると、ラッパーを名乗る人物とは思えないほど取り乱しているように思える。中二病と揶揄するような心性を嫌ったとして、それを語源に立ち返って批判する彼の顔は、ラッパーというよりも勤勉な優等生aka世間知らずのおぼっちゃんのそれである。ラッパーを自覚的に名乗るのであれば、中二病という言葉を積極的に使い、語の意味それ自体を変えようとするだろう。思えばzeebraという人物は、日本のヒップホップシーンの創成にあたって、アメリカのそれを必死に勉強する優等生であった。その意味において、彼はラッパーではなく、善き紹介者でしかない。海の向こうに憧れるのは島国の美徳ではあるけれど、憧れるだけで満足できるのならば、ラッパーとしての欲望が淡泊だと言わざるを得ない。
◇最近の話だけど、ウォッカの美味しさに驚愕した。冷凍庫で冷やしておいて、とろとろになったものをストレートで飲むと震えるほど美味い。ショットグラスなんて洒落たものはないので、日本酒用のお猪口に注いで一気に飲み干す。
贅沢には集中力が必要で、それは決して楽することではない。
◇今日の昼間、息子は妻を連れて行きつけの子育て支援センターに行き、紙芝居を観てきたらしい。ただ、普段読む絵本とはやはり勝手が違うようで、紙芝居に熱中する諸先輩方の方が気になったとのこと。専ら家のテレビで映画を観ていたせいで、映画館に居心地の悪さを感じた自分の体験を重ねそうになるけれども、妻によれば息子はそのうちその場で寝てしまったらしいので、これは安易な自己投影だったと知る。
hirotec
ヒップホップ的にジブさんの態度が間違っているとつぶやいていた安東三さんの真意がわかりました。なるほどね。思うにジブさんの評価はUSの最新のヒップホップを取り入れる部分にあるのではないのかなと思います。でもこれだけ日本語ラップのシーンが成熟し、面白いラッパーが出てきている中で、段々とそこの評価は下がっているのかな? あと今回の伊集院光とのビーフは単純に酔っぱらっていたのでは?なんて思いますw あと若手のラッパーが伊集院光の代わりにジブさんをラップでディスって欲しいとかとも思います。
andoh3
まあ酔っぱらっていた可能性もゼロではないですけど、語源に立ち返って提議した人物をdisるって発想自体がジブさんにはあったわけですよね。優秀な商社マンには必要な能力かもしれないけど、ラッパーにはそういう生真面目さはないと思うんですよね。
2012-02-14
■[日々のメモ]午後10時。ストーブの上の薬缶の吐息。

◇息子が寝静まった後、ふたりでぽりぽりと柿の種をかじる。というか、妻は柿の種を噛まずに飲みこむのが好きらしく、彼女がかじるのは専らピーナツの方。嬉しそうに柿の種をごくんと飲みこむ妻の姿を不思議に思って「柿の種 飲みこむ」でググってみると、こういう食べ方を好む人は一定数居るようだった。
◇もう先週の日曜日になるけれど、水泳で新記録を達成したので書き残しておきたい。50分2300メートル。一分一往復のペースで2000メートル泳いだので、残りの10分間は左息継ぎの練習に充てた。左右どちらからでも息継ぎできなければ、まだまだクロールが泳げるとはいえない気がしてきた。
◇ラップのフロウについての菊地成孔氏の考察が面白い。もっとも、これは氏が以前から『憂鬱と官能を教えた学校』などでも言及しているリズムの訛りの問題で、特別目新しい更新があったわけではない。けれどもラップという日常口語に近い表現形式を例に取ると、それがアナロジーでもなんでもなくて、本当に訛っているというのがよくわかる。
複数秩序を単線上に叙述しようとすると、訛る。その訛りこそがフロウを生むというのが菊地成孔氏の主張で、これは多分、桜井圭介氏の言う「切羽詰まった身体」と同根だと思う。トム・フーパー『英国王のスピーチ』は、吃音持ちの王ジョージ6世のスピーチを扱った映画だったけれども、あそこでは王家の秩序と自身のリズムという二つの秩序を、ひとつの口からどのように発するかが描かれていた。つまり、複数秩序を単線上に叙述しようとすると、訛るか、もしくは吃るのである。両方とも同じものだけれども、吃音の制御不可能性それ自体の制御、つまり制御できないことを容認したうえでそのまま話すと訛りになる、ということだろう。それは、矛盾を孕んだまま、どちらの秩序も否定することなく曖昧なまま飲み込んでしまうことでもある。
ラップにおける執拗な押韻は、実はその矛盾を飲み込むためのエンジンなのではないかと思う。
韻は、言ってしまえばダジャレのことである。切羽詰まった身体としてのダジャレ、というのもたしか桜井圭介氏が言っていた気がするけれども、何も言うことがないのに何か言わなければならない状況に置かれたとき、つい口をついて出てしまうダジャレというのは、受け取った言葉を充分に意味レベルにまで咀嚼してから返すのではなくて、言葉の外殻、つまり音に反応することである。言葉を充分に抽象化する時間を与えられないまま無理矢理に飲み込もうとすると、まずは具体的な手触りにその注意が払われる。飲み込むために施された押韻が、揺らぎを孕んだフロウを可能にする。
◇やってみるとよくわかるけれど、実は韻を踏まないリリックは難しい。数文字で踏むよりも、子音や一文字だけで言葉にアクセントをつける方が、縛りが緩い分、適切な選択に迷う。ジャズにおけるコードとモードの違いも、もしかしたらこれと似ているのかもしれない。
◇息子はもう自在に寝返りは打てるようになったのだが、寝返り返りがまだできない。かといってうつぶせの状態が嫌なのかというと必ずしもそうではなく、とうとう今日はそのままひとりで寝てしまったらしい。段々とひとりでできることが増える。
2012-01-22
■[日々のメモ]午後5時半。膝から昇る寝息を聴く。

◇手を伸ばして届くか届かないかの距離に読みかけの本があったのだけれど、姿勢を変えられずに寝顔を眺める。
◇昨日の朝から息子に少しだけ咳と鼻水があり、念のため、いつも予防接種を受けている医院にかかった。万一のためにRSウイルスの検査もしてもらったけれど、とりあえずそれについては大丈夫そうで、抗ヒスタミン剤の入った薬をもらった。39度を超えるときは服用しない方が良いらしい。息子はここの医院の先生(雰囲気がキャシーベイツの人懐っこいときに似ている)が好きな様子。風邪気味なんですと訴える両親をよそに、診察時間中ずっと笑っていた。
◇なんだか、ブログの更新が隔週になってきた。そして水泳も隔週になってきた。一週間置きに水泳とブログがある感じなのだけれど、要するに今週は水泳に行ってない。
なので先週の水泳報告。45分2000メートル。1分50メートルのペースを保ってフルで泳ぎ続けられる日も夢じゃない。まあ今週は泳がなかったんだけど。
◇雄叫びをあげながら寝返りに挑戦する息子は、しかしまだ要領がわからないでいる。風が吹けばぱたんとうつぶせになりそうな姿を見ながら、もどかしい気持ちで妻と笑う。
息子が寝静まると、今度は妻が我が子のように見えて来る。
◇木曜日は映画版『ヒミズ』を観てきた。今回の映画化によって気がついたのだけれども、『ヒミズ』という作品は、今後も様々な人によって再解釈されていくのも面白いかもしれない。多義的な解釈を可能にする原作について、あるひとつの方向を持った物語として読み替えたのが、園子温版『ヒミズ』だった。
それはさておき、とりあえず園版『ヒミズ』を一本の独立した映画として観ると、水にまつわるお話ということになる。主人公の少年は川辺に暮らして貸しボート屋を営み、その敷地内にブルーシートを張って生活しているのは、2011年の震災によって津波被害を受けた人々である。物語の重要なシーンでは、人物が雨に濡れ川に落ち泥にまみれるなど、とにかく執拗に水浸しの人々の映る映画となっている。
主人公スミダは一生普通に暮らすことを願う中学生なのだが、その理由は不条理を感じずには居られない家庭環境にある。たまに顔を見せては金を無心して暴力を振るう父親と、男にだらしない母親。スミダがこの環境を「ありきたりの不幸話」と片付け、普通であることに執着するのは、その状況に甘んじて自堕落な生活を送ること、及びそんな両親への嫌悪だろう。
また、彼は普通でありたいという願望とともに、もうひとつ重要な願いを口にしている。「誰からもジャマされず…」。彼は自らの人生について、常に誰かから暴力的に脅かされるように感じており、自分のあるべき普通の人生を他人に破壊されているのだと考える。ともすれば弱音を吐いてしまいかねない感情を抑え込めるように、意固地に「ありきたりの不幸話」と言い切るが、その裏側にはこの環境への激しい憎悪が浮かぶ。「たまたまクズの両親の元に生まれただけだ。俺は立派な大人になる」。だが、自分の人生をめちゃくちゃにする暴力に対し、衝動的反射的に、そして象徴的に抵抗を試みた結果、スミダは父親を死に至らしめてしまう。
彼の人生を暴力的に歪める両親さえいなければ、彼の人生は彼のものとなるのだろうか。しかしスミダは、自分の人生のために父親の人生を奪ってもいる。暴力による干渉はスミダの最も嫌悪するところであるが、だが他でもない自分こそが、その最大の干渉を働く張本人なのである。そのことに充分自覚的なスミダは、自分の人生を自分のものとする夢を諦め、社会のために、それも最大の干渉を働いた者らしく、卑しく使うことを決意する。一年以内に悪いヤツを見つけ、一人殺す――。「オマケ人生」の始まりである。
さて、映画はこのあらすじに震災の影を忍ばせようとしている。明らかに整合性を欠いた部分も多いが、しかしその試みは一定以上の成功を収めていると思う。暴力的な干渉を常に孕み続ける運命に対して、どのように対峙するか。それを模索するスミダに、震災という圧倒的な不条理に臨む態度をなぞらえることもできるだろう。その意味で、古谷実の『ヒミズ』は良い素材であることは間違いない。
ネタバレしない範囲で言う。まずこの作品は、詩の朗読によって幕を開ける。ググってみると、どうやらヴィヨン『軽口のバラード』というものらしいのだけれど、とにかくこの詩はひたすら、わかるものとわからないものの区別を宣言していく。そのときスクリーンに映るのは、津波によって積み上げられたがれきの山。がれきのひとつひとつをよく見れば、確かにそれが倒壊した家屋の一部であったり、家電や自転車であったりと見分けることはできるのだけれども、しかし同時に沸き起こるのは、それが分かったところでどうだというのか、という気持ち。「何だってわかる、自分のこと以外なら」。スミダがこめかみにあてた拳銃の引き金を引くところで、その映像はぷつんと途切れる。
これが本作の幕開けである。だが、この作品はそうした無力感から出発するとともに、反対側の極に、二階堂ふみ演じるチャザワというヒロインを置く。彼女は溌剌というよりも、もうほとんど異常とさえ言える好意をむき出しにしてスミダにつきまとい、希望ある方向へと導こうとする。スミダの物語を、チャザワがひっくり返そうとする図式を保ちながら、この物語は進んでいく。
チャザワの好意は、当然スミダにとっては干渉である。だから彼女との接触には常に暴力が伴うことになるのだけれど、実はそのとき、用意されているアイテムがもうひとつある。それが水なのである。自と他の境目を曖昧にする水が、自と他を分割する暴力とともに描かれるとき、チャザワとスミダの間には性的な関係が結ばれる(最初に川辺で殴り合ったあと、びしょぬれのチャザワとスミダの間には、なんと虹が引かれている)。この水の暴力とは、言うまでもなくスクリーンの外に記憶される津波にもなぞらえられ、全く唐突に遭遇してしまう水の暴力とともに、スミダとチャザワはある方向に向かって突き進まざるを得なくなる。つまり――あまり野暮なことは言わないようにしたいので歯切れの悪い言い方になるけれど――セックスの先にあるものを、津波の先に見ようとする決意を感じられるラストシーンだった、ということだけ言っておく。チャザワがしまい込む「呪いの石」とは、怨念の託された水辺の石であり、つまりはこれからの子供のことなのだろう。
迷惑をかけずに生きようなんて傲慢。生きるってことは、迷惑をかけるってことですから。
(松江哲明『童貞。をプロデュース』より、カンパニー松尾の台詞)
◇ところで、好き嫌いを超えたところで語られる映画であることは間違いないが、とはいえ原作の解釈というレベルにおいては、園子温監督の読みはいささか単純明快な方向に引っ張り過ぎたようにも思う。以下に書き連ねることは、映画作品への評価ではない。そこから見える原作読解への評価である。
古谷版との比較において、最も違うのは父親を殺すシーンだろう。園版においては、父親による具体的な暴力によって干渉の暴力性を描くが、古谷版においてそれはない。明らかにダメっぽい父親の姿は描かれるが、住田に暴力を振るっていたかどうかはわからない。というよりも、殺害シーンにおいては、住田の方から一方的に父親に向かってコンクリブロックが振り下ろされるのである。不慮の事故という形式を取る園版スミダは、古谷版住田とは別人物である。
園版『ヒミズ』は、そこに主人公の迷いを挟むことによって、父親が居なくなったところで自分の人生が自分のものになるのではない、ということがあらかじめ見え隠れしている。震災後の日本の話としてアップデートする*1、という園監督の主張は、まさにこの部分に顕われているのだろう。これは、不安の立像たる「バケモノ」の扱いにも繋がって来る。園版において、「バケモノ」はただ単純にスミダに殺人を促す具体的人物としてしか顕われない。古谷版の「バケモノ」が、善悪の彼岸から運命を告げる不条理であったのとは大分異なり、むしろそのような存在を園版に見つけることはできないのである。これはつまり、住田よりも幾分周りの見えているスミダには、しかしその分、「バケモノ」との切実な対話をする権利を持たないことを意味する。簡単に言ってしまえば、その後の「悪いヤツを殺す」という理屈を持ち出すには、この状況は大分弱く、どう考えても警察に自首する方が賢く思われてしまう。
なぜ古谷版住田が、あれほどまでに警察への自首を拒んだのか。単純化して言うならば、そのような道徳的な意味での罪を感じていないからである。住田の倫理においては、それは正当化されるべき行為であった。自分の人生を暴力的に歪める存在への、唯一の抵抗である。だが皮肉なことに、自分の人生をあるべき普通の形に戻し、自分のものとして宣言する行為は、クズを殺すということになってしまう。この状況に整理を付けるために設けられた、一年間の猶予つきオマケ人生とは、広く社会のために生きるという形式を取りながら、実は自分のために生きる手段を探るどうにかして見つけ出したい期間でもある。
バケモノの言う「決まってるんだ」とは、住田が普通であるか否かを宣告するのではなく、ただ、最初から最後まで自分の人生は自分のものと「決まってる」ということである。あるべき普通の人生が、誰かの暴力によって歪められるのではなく、始めからそういった暴力ありきで運命は決まっている。古谷実『ヒミズ』のラストが、一面ではどうしようもない感情を呼び起こすとともに、しかし同時にある種の清々しさをたたえているのは、このバケモノの囁きに希望を託すことも可能だからである。それは次作『シガテラ』において、「不幸になるまでがんばる」という台詞に明言される決意である。不幸になることがあらかじめ決まっていようとも、それをも織り込んだうえで、「がんばる」。無力感に陥るよりも先に、常に既に動かざるを得ないこの「しょうがなさ」は、どこまでもポジティヴなものではないだろうか。


あと、スタートレックは、アメリカテレビドラマ史上初めて白人と黒人のキスシーンがあったドラマだそうです。 http://www.nhk.or.jp/kaigai-blog/100/15711.html 宇宙視点で見れば地球の人種問題なんてちーさいぜ!ってな感じですねw