Hatena::ブログ(Diary)

日々:文音体触 〜compose&contact〜 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-07-17

[]午前2時。ストロングペプシを開ける。 22:31 午前2時。ストロングペプシを開ける。を含むブックマーク 午前2時。ストロングペプシを開ける。のブックマークコメント

◇ぷしっと音がして、何口か飲んでいるうちに目が覚めてくる。

◇昨夜は20時頃に寝てしまった。結果、変な時間に起きてしまったので、ライティング仕事をコツコツとこなす。書き方の要領をつかめば、どんな内容のものでもある程度は楽しめる。

 6時ちょっと前に妻が娘とやってきて、7時頃に息子が朝イチのトイレに走っていった。

◇息子の「空手」を見ているからか、娘も私に仕掛けてくるようになった。抱き上げると、一旦両手を大きく広げてから、左右同時に手の平を勢いよく振り下ろす。きえいというかけ声と同時に私の顔に何発か入れた後、歯のない顔でにやっと笑う。耳のつぶれた柔道家と歯のない空手家には気を付けろと、ずっと昔に父が言っていたのを思い出した。

 ちなみに娘は宇良関にちょっと似ている。

◇昨日はダイニングテーブルを買いに八王子へ。我が家こたつ机を使っていたのだが、息子が少し食べにくくなってきたようなので、我が家も思い切ってテーブルチェア生活に切り替えることにした。ちょうど安売りをしていたテーブルよさげだったので、店に入って現物限りの1セットを購入。

 その後、息子が2歳になる直前まで住んでいた八王子の街を歩く。夜泣きする息子を抱えて歩いた道のりを、家族で歩く。今抱っこ紐に包まれているのは、かつての赤ん坊の妹である。

 駅に向かって歩いているとき、今の住まいご近所さんとばったり会う。職場がこっちなんですよ、と話していて、私の方は「以前こちらに住んでいたんですよ」と答えた。

本日は午前中は仕事に当て、昼食を妻の実家でとった後に、家族全員で代々木公園に向かう。ブラジルフェススタジオパークが目当て。息子にとっては京王線の旅と井の頭線が目当て。娘にとっては初の渋谷が目当て。だと思う。

 スタジオパークは楽しんだものの、昼食を食べすぎた私たち一家は、ブラジルフェスはさらっと歩いてすぐに出てきてしまった。妻はなんだか疲れたと言い、人混みを避けたいようだった。私も気疲れしていた。妻がナンパでもされやしないか心配だったのだ。

◇三連休であることを忘れていた。すっかり夏。しかしいつ梅雨明けしたのかわからないまま。

◇非日本語ラップの件、つづき。

 GEISHA GIRLSは、その構想段階からすでに、松本人志高須光聖のなかでは「坂本龍一プロデュース逆輸入アーティストラップグループを作る」というコンセプトがあったらしい*1。『ガキの使いやあらへんで』のトーク中に松本人志がそのことを話してから、一気に実現に向けて動き出す。

 1994年シングル『Grandma Is Still Alive』のレコーディングで渡米したダウンタウンは、そこでほとんど初めてラップを聴き、テイトウワのレクチャーを受けてから、その場で一気にレコーディングをするという離れ業を見せている*2

 そこで生まれたうちの一曲が『Kick&Loud』なのだけれども、方言裏声シャウトがキツ過ぎて、一聴するだけではほとんど何を言っているのか聴き取れない。というか、日本語として受容不可能な域にまで達している。

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 松本人志によれば、「アマ(尼崎)弁っていうか、大阪弁でもないアマ弁。……アマ弁でもない連れ弁(連れにしか通じない言葉)」であり、つまり仲間内にのみ流通するスラングで構成されている。「アメリカ評価を得て日本に逆輸入されるアーティスト」として、彼らは日本語でも英語でもないラップをする必要があったのかもしれない。それは結果として、ダウンタウンが元々持っている「異国性」なる資質を、あらためて浮き彫りにする作業でもあった。

 「アメリカに受ける日本」という視点を一度経由することで、GEISHA GIRLSラップは、おそらくこの時期の日本語ラップ顕在化していなかったものを提出した。周知の通り、さんぴんは1996年だし、TOKONA-XTHA BLUE HERB、OZROSAURUSらの台頭よりも前の話である。彼らは地元をレペゼンする意図をもって方言活用し始めることになるが、GEISHA GIRLSは地方にある種の「異国」を見て、日本語の外側にある言語として方言活用し始める。

 自分たち言語を異国語として活用することの不自然さは、そのまま日本語ラップの持つ不自然さと同義である。日本語ラップを初めて聞いた人の多くが感じる違和感は、まさにその「日本語でやること」に向けられており、裏返せば、ラップすること自体がすでに異国語を話すことである、とも言えるだろう。

 もちろんそこには、そもそも正統な日本語というものからして相対的なものであり、その意味で、自分の話す言語は常に日本語の外側に向けられているという姿勢もあり得る。もしかしたら、日本語ラップに不自然さを感じなくなる瞬間、自分の話す言語の異国語性を発見しているのかもしれない。

◇非日本語話者に向けた日本語ラップグループであるGEISHA GIRLSは、しかし、コンセプトだけが先行するフェイクではある。

 翻訳可能日本語を駆使するKOHHとは逆に、翻訳不可能日本語だけでリリックを作るのも、日本での洋楽受容に即した結果だったりもする。とはいえ、ストリート志向を打ち出したさんぴんが、後発世代からフェイクと揶揄されることがなかったわけではない。これはもちろん、本質的リアルかフェイクかという話ではなく、オリジネイターにはコンセプト先行型のアーティストも少なからずいるという話なのだが、結果的にそういう側面から見ても、非日本語ラップ日本語ラップの鏡として見ることができるように思う。

*1高須光聖『御影屋』(ビクターブックス)

*2:『THE GEISHA GIRLS SHOW』(幻冬舎

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2016-07-14

[]午前6時。娘の寝癖を梳かす。 13:15 午前6時。娘の寝癖を梳かす。を含むブックマーク 午前6時。娘の寝癖を梳かす。のブックマークコメント

◇髪が長いので、寝癖もすごい。髪を整え、女の子らしいこぎれいな服に着替えて座らせると、酒飲みのようなげっぷをして娘が微笑んだ。

◇息子に空手の「突き」を見せてやると、私のあだ名が「空手くん」になった。息子を「空手キッド」と呼ぶと、喜んで妹に空手の「突き」のようなものを披露する。食事中も集中せずに空手キッドに成り切っているので、妻から「ごはん中は空手禁止」というお触れが出た。

子供が二人になって思うことは、会話が家のなかの至るところで同時多発するということ。まだ娘は言葉を話さないけれども。

 子供がひとりのときは、話題ひとつであった。そしてひとりっこで育った私は、3人兄弟の妻の実家で、食事中、話題同時多発する様子に、昔はついていけなかったことを思い出した。

◇4月末に仕事を辞め、6月にフリーとして開業届けを出してから、なんとなく仕事をポツポツ受け始めている。とはいえすぐに現金になるものがないので、何かしなければならない。

◇今のKOHHからは、これまで日本語ラップシーンにはなかったプロップスを感じる。英語圏日本語のままラップをして評価を勝ち取り、そのことがまたさらに日本での評価につながるという。

 もちろん、これまでもShing02やkojoe、DJKrush、nujabes……挙げればキリはないけれども、海外評価を勝ち取ってきたアーティストは居た。けれど、それらは英語ラップトラックメイクだったりと、やっぱり言語の違いはオーソドックスな形で乗り越えようとしていた。いわゆる逆輸入アーティスト評価はありつつも日本では「洋楽」的な評価になったし、日本語ラップシーンでの彼らの評価は、やっぱり日本語ラップシーン内の活動において評価されていたと思う。

 KOHHのラップは、私は『we good』で初めて知ったけれども、なんというかビデオの撮り方まで含めて、ダイレクトに向こうと繋がってる印象を受けた。無理に詰め込み過ぎない符割で、自然ビートを乗りこなす様子はやはり独特だった。耳が慣れないとラップは聴き取りづらいものなのだろうと思うけれど、KOHHとMONY HORSEのラップは初めて聴いた人でも充分に聴き取れるんじゃないかと思う。

 とはいえ、このラップ系譜は、例えばSCARSのA-thugとかSTICKYとか、主にハスラーラップをやってた人たちに起源を求めることもできるんだろうけれど、もう少しKOHH達は乗り方が英語っぽかった。それはラ行をRで発音するとかそういうことではなくて、アクセントがかなり効いているという意味で。

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 もっと言ってしまえば、「〜じゃありませんか」を「〜ジャ、アーリマセンカ」と、「ありませんか」の「あ」に強迫を置くようなものに近く、トニー谷よろしく、日本語を話す外人のフロウのようにも聞こえる。

 つまりこれは、日本語日本語のまま、しかし非日本語話者=「外人」にも音として親しめるように翻訳しているのでもあり、そういった作業をわかりやすく示したのが『It G ma』だった。この頃はもう、アクセント自由自在に操っている。

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 KOHHや318がどの辺りから非日本語話者を明確にターゲットにしたのかはわからない。ただ、この時期、KOHHの持っていた特徴が、色々な形で先鋭化していく。

 アクセント操作以外にも、テーマ普遍化/極大化、押韻というよりもフレーズの繰り返しといったテクニックが次々と生み出されている。テーマの極大化は、おそらく翻訳されることを前提としたことによって起きた現象で、言語的なコンテクストを外しても伝わるための工夫だろうし、フレーズの繰り返しはコール&レスポンス対応だったり異国語を聴き取らせるための工夫だろう。

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 KOHHのこうした一連のラップは、日本語を駆使しながらも、非日本語話者に通じるラップとして磨き上げられたものなのだと思う。元々日本語ラップなかにあった要素をグローバライズすることで成り立っていて、それは当然、KOHHというキャラクターマネジメント能力が優れているだけではなくて、何よりもまずKOHH自身身体能力に依るところが大きい。

 仮に、日本語話者に向けた日本語ラップを「日本語ラップ」とするならば、非日本語話者に向けた日本語ラップを「非日本語ラップ」と呼ぶこともできる。もちろん、日本語でなされたラップは全て日本語ラップなので、これは一時的な分類だけれども、例えばこういう風に分けると、非日本語ラップ系譜で見えて来るものもあるんじゃないだろうか。

◇と、非日本語ラップという系譜を無理矢理作ってしまうならば、オリジネイターとして浮かべたいのがGEISHA GIRLSだったりするのだけれども、その話はまた別の機会にするつもり。

ちょっと個人的に、webメディアを作りたいと思っている。あんまりおっきいものじゃなくて。あと自宅から徒歩1分のところに事務所を構えられるだけの収入を得ようと思っている。家賃2万円で事務所利用可能物件があった。

 

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2016-06-12

[]午後2時半。自転車の往復。 22:07 午後2時半。自転車の往復。を含むブックマーク 午後2時半。自転車の往復。のブックマークコメント

◇娘を抱えながら、息子の自転車が行ったり来たりするのを眺めていた。

一家全員風邪気味である。

 水曜日から幼稚園を休んでいる息子は、比較的元気ではあるものの、咳と鼻水が長引いている。今日微熱ちょっと出ていたため、自宅静養を選択。でもどうしても自転車に乗りたいということで、自宅前で30分だけ楽しんだ。他の家族は全員でそれを見守る。時折自転車を停めて見学をしている私達にタッチをしてくるのだが、妻が出した左手に絆創膏を認めると、反対の手を出せという。タッチをするときに痛くなってしまわないようにとのこと。最近はそういう行動が増えてきた。

 見学中、私は蚊に刺された。

◇兄が自転車を乗りこなす様子に触発されたのか、妹の方は黙々と寝返りに挑戦している。息子が鼻歌まじりに自転車を漕ぐ代わりに、娘はたくましいかけ声とともに体を返す。基本的な体の動きが全て直線的というか、グリッドが粗いので、ふと電池が入っているのではないかと思うことがある。そして寝返り成功するたびに、またかけ声に似た声をあげて笑う。

音楽それ自体自律しているという考え方はコンサートホールという集中的に音の美を享受する空間を用意したりもするわけだけれども、それはやっぱり記譜を経た音楽だからだろう。

 ヒップホップのような音楽は、便宜上リリックを書き留めたりもするわけだが、基本的にその通り発声することはなく、50音に明確に区分されない曖昧な音を使ってラップする。そのとき文字上では異なる母音を持った単語同士であっても、無理矢理押韻してしまったりする。アメリカ場合もっとそれが激しく、名詞の末尾に「~ly」をくっつけて他の副詞形容詞と踏むことすらあって、ようするにヒップホップは記譜と限りなく無縁な音楽といえる。

 ヒップホップは、音楽的な評価とは別の評価軸を常に用意していて、同じ音楽でも鳴らされる場所や状況によって全く異なる価値を生む。もちろん音楽的な——普遍的評価をそこに与えることも可能だろうが、その一方で極めて即時的な評価も下され続ける。これはおそらく、鳴らされたそばからすぐに消えていく音声、物質としての音であり、本来消えていく筈の音が記録されてしまう、ということの二重性みたいなものなのかもしれない。

文字の記録がもたらす近代化と、音声の記録がもたらす近代化比較するにあたって、「エクリチュール」と「存在の声」を咀嚼することが必要になってくるのだろうなと思っている。だから東浩紀を読む。

クラフトワーク好きの息子が、iPod操作して居間を盛り上げている。

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父と母と妹を呼び寄せ、自らもステップを踏むなど大変盛り上がっているわけだけれども、全然静養にならない。

 案の定、夕方疲れてからはささいなことで泣き出し、妹に助けを求めていた。娘はとにかく嬉しそうに笑顔を返すだけである。

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2016-05-30

[]午後5時。寝起きの娘と妻の会話。 01:06 午後5時。寝起きの娘と妻の会話。を含むブックマーク 午後5時。寝起きの娘と妻の会話。のブックマークコメント

◇声がほとんど一緒。

◇朝7時、息子は従兄弟運動会を観るために、祖父母に連れられて出掛けていった。妻と5ヶ月になる娘と、3人で過ごす土曜日はとても穏やかで、あまり週末のような気がしなかった。

◇今年の春から幼稚園の年中になった息子は、集団生活のなかで、自分を相対化することを覚えた様子。相変わらず幼稚園が楽しくて仕方がないというのは変わらないようなのだが、しかし最近給食を食べるのが遅いとか、あいうえおが読めないとか、そういったことがストレスになっているようである。

 本人が一体どのような気分で言ったのかは不明だが、あるとき別のことで叱られている最中、突然「なんにもできないんだよう」と言って泣きだしたことがあった。これには妻も私も少なからずショックで、こんなに幼いうちから劣等感のようなものを感じてしまうのかと、いたたまれない気持ちになった。しかしよくよく考えてみれば、これは「できないこと」が自覚できているという意味でもある。その意味で、実はわかりやすくチャンスにもなり得るものかもしれない。

 本人に周囲がしてやれることは、具体的な体験までの誘導だけである。「できないこと」が「できること」に変化する瞬間に訪れる喜びそのものは、本人が自力発見するしかないのである。息子はすでにそのコードまでは発見しているので、その意味で私達のやるべきことは明確であった。そして息子は、「できないこと」に戸惑いながらも、別にそれを遠ざけようとしているわけでもないのである。

 私達夫婦は、ちょうど今、息子が嬉々としてチャレンジしている自転車のことを思い浮かべた。自転車はそうした知的な喜びに満ちた乗り物なのである。自転車の補助輪を早い段階で外した息子は、そのことが大きな自信になったようで、今日も眠りに落ちる直前まで自転車のことばかり話していた。

現在0歳児である娘は、知らない人に話しかけられても堂々と笑顔を返し、あまり泣いたり怒ったりということもない。常に抱っこをしていなければ怒って泣き出していた同じ頃の兄とはまるで違っている。時折姿勢を変えたいときに不満の声をあげるくらいで、いつも基本的に機嫌よく過ごしている。両親や兄のちょっかいにも余裕の笑顔で応え、立派な体格でどっしりと構える娘を見ていると、0歳児を一括りにすることの難しさを実感する。

 自分の子供をみているくらいで「一般的子育て」を想像することなど不可能だし、ひいてはそれは「一般的な家庭」など想定できないことに連なっていくのだろう。

古谷実の新連載『ゲレクシス』は、ここに来てようやく様子が見えてきたというか、古谷実流のファンタジーor冒険譚になっていく気配が濃厚に。

◇しかしまずいのは、『サルチネス』は『僕といっしょ』の続編だっていう話と、それがどうやって帰結したのかをまとめる前に、『ヒメアノ〜ル』の映画化があって、ここに来て新連載……。古谷実論を進めなければ。

コーエン兄弟『バートンフィンク』。音とその聴取という問題を考えるうえでも良い材料になるような。

 これがコーエン兄弟リメイクした『シャイニング』だというのは以前ここにも書いた記憶があるけれど、音に対するアプローチも同様だと思う。劇中鳴っている音が、ストーリー上で実際に鳴っている「客観的な音」なのか、主人公にしか聞こえていない「主観的な音」なのか、不明瞭になっているという部分も共通している。『バートンフィンク』の場合はおそらく、両者の区別曖昧さそのものをかなり誇張/強調していて、それは心理的効果を狙うというよりはむしろ、明確にテーマとして前に出してしまったような気がする。

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 主人公があのホテルで聞いている音は、すべてがどちらともつかない。隣室からは笑っているのか泣いているのかわからない声がする。反対側の隣室からはアベックの営みが聞こえる。仲良くなった客との会話ではつい興奮してしまい、相手の話を遮って自分の声を張り上げてしまったりもする。主人公がある女性と一夜をともにするとき、その声は部屋の排水溝から下水道へと落ち、ホテル生活音の一部として回収されていく。その直後、主人公は決定的におかし事態に巻き込まれる。

 私達は日常ノイズを含んだ音のなかから、なんらかの意味役割を付け加えられる音にのみ注目し、それを声として扱っている。その意味ではフロントベルの音も広義の声(「誰かいませんか」という言葉を持っている)であるし、アベックの営みは間違いなく声であるだろう。しかしそのように声と明確に位置づけられない音が、印象的に描かれる。ひとつは、隣りの客の「泣いているのか笑っているのかわからない声」であり、もうひとつが「下水道にこだまする主人公行為中の声」である。これらは明確な意味役割を担った声としては機能せず、単なる音でしかない。主人公は最終的に「because you didn't listen」と指摘されるが、そのとき彼は、音を自分勝手に都合のいい声に変換してきたことに気がつくのである。

 彼はそうして、部屋に飾られた風景なかに閉じ込められてしまう。音のない絵のなかで、永遠に続く波の音を聴き続ける。

◇昨日シャワーを浴びていると、トイレである筈の隣室から4歳児の声が聞こえてきた。

音楽の外側から音楽アプローチする方法論として、ヒップホップ有効なのだろう。ダウンタウンGEISHA GIRLSヒップホップ様式を借りたことにも納得がいく。

 GEISHA GIRLSとほぼ同時期にスタートした「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」もまたその実践だったのだろうけど、それのひとつの完成型が、20周年特別番組内で披露された『Wow War Tonight 〜時には起こせよムーブメント〜』だったんじゃないか。

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 この番組は、非音楽番組としての「トーク」パートと、音楽番組としての「演奏パートを厳格に区別してきたが、それが融解してしまった瞬間だったのかもしれない。ただのカラオケ大会だが、テレビ芸能史、もしくはJ-POP史として観ると、強度を持ってしまう。

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2015-11-21

[]午前9時。二度寝の妻。 09:34 午前9時。二度寝の妻。を含むブックマーク 午前9時。二度寝の妻。のブックマークコメント

◇息子は小学生の従兄弟の学芸会を観に、祖母と電車の旅に出た。妻は朝早くに息子を実家に連れて行き、帰宅するなりすぐに布団に潜り込んだ。入れ替わりに遅く起きた私は、久しぶりに妻の朝の寝顔を観た。

更新していないうちに、気付いたら息子は4歳になり、近いうちに娘も生まれそうになっている。

◇ここまでしっかりハマる理由がやっとわかった。

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 加山雄三ヒップホップをつなぐレコード。この一曲が示すのは、単純に共通するメディアを持つという意味だけではなく、「もしもロック(ユースカルチャー)がなかったら」という仮定を可能にする。ロックの目指すところは、やがてハイファイなCDというメディアに結実し、そしてここ日本においてCDと蜜月を過ごしたのはJ-popであった。

 北斎漫画今日マンガの間に戦争が挟まるのと同じように、日本の歌謡曲ヒップホップの間にJ-popを挟まずに語ることは不可能である。このpunpeeのリリックにB'zの引用が含まれているのは、けして偶然ではない。

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2015-07-04

[]午前7時。豆腐の多いパンケーキ23:23 午前7時。豆腐の多いパンケーキ。を含むブックマーク 午前7時。豆腐の多いパンケーキ。のブックマークコメント

◇うちのパンケーキには豆腐レーズンを入れる。今朝は期限の近い豆腐を使い切る必要があって、いつもよりひとサイズ大きいものを使った。これはこれでおいしかったが、ちょっと重たかった。

 レーズンを入れる係の息子は、いつも通りたっぷりレーズンを入れ、結局あまり食べずにごちそうさまをした。

◇息子は月曜からずっと体調が悪く、結果的金曜日まで、幼稚園を一週間お休みすることとなった。症状としてはマイコプラズマを思わせるのだが、検査の結果は陰性。しかし検査のタイミング等で結果も変るらしく、陰性だからといって即マイコプラズマを否定できるものでもないらしい。でも結局抗生物質をもらうことはなく、対症療法のみに留まり、咳と熱の薬をもらった。自然治癒もある、とのこと。

 私は転職してまだ間もないこともあり、新しい職場休みが取れず、息子の看病は全て妻に任せてしまっていた。妻によると、息子の食欲はないものの、しかし機嫌が大変よいらしく、それがせめてもの救いである。とはいえ妻も疲れていることに変わりはなく、この一週間はほとんど、私が帰宅した頃には既に寝てしまっていた。

◇金曜の夜に熱が下がり、土曜の朝は雨の降らないうちに近くの公園で遊んだ。雨でぬかるんだ地面の上を滑り、尻を泥まみれにして楽しんでいた。私はその公園の向かい、曇天田んぼに伸びる稲を見ていた。息子といっしょに幼稚園に行かなくなって3週間ほど、稲がどんどん伸びて青さを増していることに気付いた。私は通勤時も同じ道を通るのだが、ひとりで歩くときほとんどこの田んぼを見ていないのであった。

◇大変ありがたいことに、お声かけいただき、人前でお話をする機会をいただきました。

http://www.nadiff.com/gallery/thecopytravelers.html#event

美術に関しては全くの門外漢ヒップホップに関しても確実に外側から観察している身分ですが、自分なりに参加させていただけたらと思います。

ヒップホップの4要素に共通するポイントを乱暴にいうと、「上塗りする」「重ねる」「乗せる」といったようなことなのだが、その塗られ方、重ねられ方は、グラフィティ、ブレイキングDJイング、MCイングのそれぞれにおいて、微妙に異なってくる。

 二つ以上のものひとつメディアの上にパッケージされるとき、それらはミックスされるのか、単に並列されるのか。おそらく両方だが、ミックスか並列かの度合いは、キャンバスとなるメディアが持っている特徴に左右される場合もあるし、あるいは作家性に依る場合もあるだろう。要するにミックスされるというのは作品化する、それ自体ひとつ文脈を持ち得るという意味で、当然、完結性という点では、きちんとミックスされていた方が高められるのは事実だろう。作品に向かい合うとき、彼は表現者ではなく鑑賞者となるが、それは作品が完成していればいるほど、その役割分担は強固なものとなる。しかしヒップホップにおいては、この表現者/鑑賞者の境界曖昧な状態が非常に多く、そしてそれが致命的な欠点になるとはほとんどの場面で思われていない。完結性の低い作品であっても、そのなかにフレッシュな切り口があれば、それは新たに次のプレイヤーによって育まれていくことになる。その意味では、メディアのうえに乗ったものが、充分にミックス、洗練されていないことも多いのである。

Summer City - パブリック娘。

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2015-06-05

[]午前9時。胡瓜の花と葱坊主22:18 午前9時。胡瓜の花と葱坊主。を含むブックマーク 午前9時。胡瓜の花と葱坊主。のブックマークコメント

◇登園中は、専ら通園路の微細な変化を話題にしている。道すがら出会動植物の様子と、踏切を通る電車の車型と、近所で行われている工事の進み具合である。主題はほとんど変らないが、対象が日々変化していくので、話す内容もそれに合わせて変化していく。

 いつも水を張っていた田んぼからカルガモつがいが姿を消していた。カルガモ夫婦はどこへ行ったのだろう、おそらく近所の公園に移っただけだろう。そう話しながら幼稚園に着いた息子は、同じくらいの園児達の列に並び、元気に登園していった。帰り道、カルガモの居なくなった水田を見れば、田植えが始まっている。まだほとんど黄色に近い、小さな稲が整然と並んでいく。

◇5月の末に退職を申し出ると、そのままほぼその日中に退職となってしまった。転職先は決まっていたが、入社時期はこれから詰めるという段階であった。退職の一月前の申請が義務づけられていたが、会社も相当苦しいのだろう、私はその条件を呑むかわりに、私が仕事を依頼したスタッフさんへの支払いが遅れないよう、一筆書いてもらった。それにしても、収入の面もそうなのだが、それ以上に健康保険が心配である。調べると、20日以内に申請すれば、退職後も現在の健康保険組合を任意継続できるらしい。つまり、20日以内に新しい職場に入れるのか、交渉してみる必要がある。

 果たして本日先ほど、6月の半ばに入社が決定し、胸を撫で下ろした。今回の転職は、万事こんな調子で、全て唐突に始まり、全てギリギリのタイミングで決まっていった。

 ところで、30歳の妻子持ちというカードは、転職市場においてはなかなか引きがあるんじゃないだろうか。つまり、後がなく、踏ん張ることが見込まれ仕事上はまだ伸びしろを期待される年齢、ということである。そしてそれはそのまま、おそらく私に注がれる世間の目という奴になっている。

◇5月6月は小学校時代からの腐れ縁達が、立て続けに結婚式を挙げた。4人のなかで最も早かったのは私だが、結局30歳で全員結婚していた。バンドを組んでいた私達は、かつて熱狂した音楽達が披露宴のところどころにBGMとして使われているのに気付くと、目を合わせてにやりとしながら、しかし同時に寂しいような気分にもなった。ただそんななかでも、なんとなく、この曲だけは結婚式には使用しない、という曲がある。

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『How Many Times』は、ボブ・マーリーがスカを演奏していたstudio1時代には既にあった曲だが、後年、ドゥーワップ調のレゲエとして歌い直されてもいる。おそらくそちらの方が有名だろう。失恋の痛みを甘く軽やかに歌い上げていて、レゲエバージョンでは甘みが増している。ただ、私が初めてこの曲を聴いたのはこのスカのバージョンで、繰り返されるサックスフレーズに顕著だが、全体的な軽やかさがとても好きだった。

 失恋の曲だから結婚式にそぐわないのは当然だが、しかし私達のうち二人はこの曲の歌詞を全く理解していなかった。だからきっと、この曲をかけない理由は、リリックだけではないのだと思っている。

ヒップホップのいうリアルは、常にハスリングとともにある。ものすごく単純な言い方をしてしまえば、彼がリアルであるかどうかを問われるときハスラーとしてサバイブしているかどうかが問われているのである。そのヒリヒリした切実さを喪えば、彼はきっとセルアウトしてしまう。商業主義に陥ること自体が悪いのではない。それによって自分自身の切実さから目を逸らすことが問題なのだ

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