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日々:文音体触 〜compose&contact〜 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-06-05

[]午前11時。バッタジャンプを追いかける。 16:20 午前11時。バッタのジャンプを追いかける。を含むブックマーク 午前11時。バッタのジャンプを追いかける。のブックマークコメント

◇やっとのことで捕まえて、娘に見せようと手を開いた瞬間、やっぱりバッタは手のひらから逃げてしまった。娘はバッタをハッパと呼び、しばらくその辺を探し回っては別の葉っぱをちぎっていた。

◇こういうとき、娘はあまり物怖じしない。同じ年の頃、息子は大抵、私の後ろに隠れようとしたものだった。そして私も元来、虫や魚を素手でつかむのができない方なのだが、子どもたちと遊ぶうちに、いつのまにか抵抗なくつかめるようになっているのに気付いた。

◇近所の用水路にザリガニが出没し始めた。夜になるとカエル合唱は聞こえるけど、オタマジャクシはまだ見当たらない。そろそろ水遊び気持ちいい季節。

◇多摩川沿いに住んでいるにもかかわらず、これまであまり川で遊んでこなかった。私の住んでいる地域周辺の川は水質が良く、鮎やうなぎを釣って食べている人も結構いるらしい。物好きな人は、オイカワやウグイなどのハヤや、モロコカジカなども食べているようだ。それを知ってから、急激に川釣りがしたくなった。

日曜日、いつも通り京王線途中下車の旅で多摩センターに行った後、私と子どもたちの三人は休む間もなく近所の浅川へ遊びに行った。

 浅川は、八王子から日野へと流れる川で、私の家のすぐ近所で多摩川と落ち合う。数日前に息子とピアノ習い事帰りに発見したちょうどいい浅トロがあったので、そこの近くでプライベートビーチもしくは秘密基地っぽい雰囲気を楽しみながら水遊びをした。ついでに釣り糸を垂らして遊んでいると、小さなオイカワが釣れた。少し遠く、下流の方に目をやると、ぴちぴちライズしている様子が見える。

 いくら浅いトロ場とはいえ、兄妹のそばを離れるわけにはいかないので、残念ながらオイカワのポイントに行くのは見送る。結局釣れたのはその1尾だけで、リリースするか迷っていると、息子が遠慮がちに小さな声で「連れて帰りたいな」と言う。あまりものを欲しがったりすることのない息子だが、どうしてもというときは、たまにこうして“遠慮がち”に“小さな声”で希望を伝えてくる。小さなオイカワを丁寧に連れて帰って、家で留守番している妻に自慢した。あとそれから、食べることにした。

◇私がオイカワを絞めたり内臓を抜いたりしていると、息子は、生きた魚を見るのも、調理して食べるのもはじめてだとしきりに話し、おっかなびっくり見ていた。生きた魚を見るのははじめてではないはずだが、おそらく水族館だとかペットショップだとか生け簀だとかにいる魚と、川から釣ってきた魚というのは、感覚的にかなり違うということなのだろう。

 果たして6センチほどの小さなオイカワは、片栗粉をつけて揚げたためにめちゃくちゃ小さくなり、それをさらに家族4人で分けることになった。ただ、それでも淡白な川魚の味がして、とてもおいしかった。

 ここに住んでからそれなりの時間が経つわけだけれども、この場所に住んでいる実感がようやく沸いてきた。

◇翌日の月曜日。オイカワのポイントをみすみす見送ったのが悔しくて、仕事前に少し釣りに出た。

 鮎の解禁直後だからだろう、平日にもかかわらず釣り人の姿が結構あった。自分は安い万能竿で、1時間弱でオイカワ9尾+小さなカワムツ1尾。なかなかいい感じだった。絞めて、冷凍保存だけしてから仕事に出た。

 仕事も打ち合わせ一本だけ終えたら早々に切り上げ、夕食に間に合うように帰宅した。冷凍庫から取り出して自然解凍したオイカワを調理したが、やっぱり獲れたての方が処理しやすかった。カワムツかと思ったのは実はオイカワだったかもしれないが、正直揚げてしまうと全然わからない。おいしいはおいしいけれど、もう少し調理バリエーションがほしい。いろいろ挑戦してみようと思う。

◇先日、ONE MEKONG MEETING VOL.1というトークイベントに行ってきた。stillichimiyaのYoung-Gがタイを歩きながら発見したアジアのヒップホップを中心に、MMM、空族のふたり、Soi48のふたりを交えてこの辺の現代ダンスミュージックを紹介するというもの。wi-fiが強い環境下では、youtube音源チェックのインフラとして確立して、ミュージシャンたちはライヴで稼ぐという。チャンス・ザ・ラッパー方式がやっぱり健全なんだろうなと思う一方で、とするならば、いわゆる音源制作というものにはビデオ制作という側面が強くなってくるのだろうとも思った。コンサートホール誕生からレコードに至る流れは、雑多な情報のなかから音のみを取り出す情熱によって成り立っていたわけだが、youtube以降は映像と不可分な音楽領域が、再び力を強めている。もちろんゴダールについて考えた方がいい気はするけれど、その前に、なんとなく『家族ゲーム』の方を考えなければならない気がしてきた。

ONE MEKONG MEETINGで知ったやつ。YBg - ให้โอกาส (Official Music Video)。全体的にDRAMのBroccoliにも似てる。かなりイマドキ感があるとともに、sushiboysとの共通点も。

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2018-02-19

[]午後1時。ひげをぶつける。 20:18 午後1時。ひげをぶつける。を含むブックマーク 午後1時。ひげをぶつける。のブックマークコメント

◇お昼寝をしに寝室に行った娘が、なにやらあごをぶつけて泣いている。どこが痛いの?と妻に聞かれて、不機嫌そうな声で「ひげ」と答えていた。

ブログが滞り過ぎ。書き留めなければどんどん忘れてしまう。

◇昨年末辺りからぶらり途中下車な感じで商店街散策に行っている。久々の旅で、今週は桜上水に行ってきた。レギュラーメンバーがひとり欠席して、息子と娘と私の3人チーム。

 息子は店に入るでもなく、ひたすら商店街を歩くのが好きなようで、今回は「八王子ではなく新宿方面で」「しかし笹塚や明大前といった特急・準特急停車駅ではないところで」といったオーダーがあった。前に代田橋に行ったことがあり、そのとき私たち両親はあまり楽しめなかったが、息子は結構楽しかったようだ。今回の桜上水は、代田橋に似て駅から少し出ると国道と高速道路が走っている。そのとき気づいたが、息子は商店街が好きというよりも、駅によって異なる表情を見せる「駅前」が好きらしい。

 私は私で、最近、街中のタグを見つけて写真に集めていて、桜上水は結構よかった。ひとつ、デザインとしてはほとんど凝ったところのない書き文字タグがあって、それを写真に撮っている私を見ながら、これはなんだかほかのやつとはちょっと違う感じがする、と息子が言う。

 ひたすらタグを探して歩く私と、駅前を散歩する息子の後をついて、娘はニコニコと歩いていた。歩きながら、ずーっとしゃべり続けている。散歩をしながらおしゃべりをする姿は、これはもうひとつの完成形なのだろうなあと思う。

キャスリン・ビグローデトロイト』。がっつりビグロー印ではあるんだけど、“ソウルパワー”がはみ出てしまっていて、これまでのビグロー作品とは違った感触が残る。

◇言ってしまえば、ビグローのどこまでも醒めた視点ソウルミュージックの力強さの対決がこの作品の中心的なやり取りになっていて、ここにはビグローの白旗も、ソウルミュージック白旗も同時に描かれていたと思う。

 これまでお仕事人間ばかり描いてきたキャスリン・ビグロー作品らしく、今回もやっぱりお仕事人間としてのソウルシンガーが出てくる。

 いわゆるワークソングから派生したとされるソウルミュージックにとって、コールアンドレスポンスは重要な要素だが、そこに照らして考えるならば、このソウルシンガーは常にコールしかできない。レスポンスを常に待ち続けるソウルシンガーだ。

現実につぶされないための歌声は、ある種の力強さをたたえるけれども、ひっくり返せば無力感をも漂わせてしまう。劇中しょっちゅう鳴り響く「リバーヴのかかりまくったモータウンサウンド」に象徴的だが、つまりソウルパワーの無力を暴くことが、この作品一種の狙いになっている。

 ラストゴスペルシーンにおいては、レスポンスという(神の)声を待つためにこそ、コールとしての歌声を響かせるべき、みたいな結論を提出したようにすら見える。あるいはラストから連なるエンドロールの前半までは、ゴスペルからヒップホップ連続を示すようにTHE ROOTSIt Ain't Fair』がかかるのだが、後半、作品ミュージッククレジットを流す段になると、不協和音ドローンが多用される音楽に変わり、そのままエンドロールも終わっていく。ベタに言いたくはないが、それは「音楽は無力だ」的な指摘に近い。

 音楽は僅かな抵抗としてしか機能できないかもしれないし、かといってそれはもちろん素晴らしく気高い決意でもあるのだけれど、それじゃああまりにもあんまりだと言いたくなるような現実が、この作品ではがっつり描かれている。

過去のビグロー作品を引くならば、例えば『K19』で描かれた「酒を酌み交わすシーン」が、一見デトロイトソウルミュージック対応しているようにも見える。赤ワイン乾杯も、ウォッカ献杯も、どうにもならない現実に「我々は酒を飲むしかない」的な。

 確かにその意味では、それを真っ向からがっつり指摘された時点で、そして、50年前のアルジェ・モーテル事件から現在まで、それがそっくりそのまま、全く変わっていないという時点で、ソウルミュージック白旗が描かれているとは思う。けれど、ソウルミュージックの力強さが、作品から突き抜ける瞬間も、実はちゃんと描かれている。

 ソウルシンガー歌声普通に評価される瞬間が、二回ある。一回目は、女の子をナンパするシーン。もう一回目は、取り調べ中の祈りのシーン。

 いずれも、その歌声なかに「真実」を聴き取る人物が描かれていて、劇中、数少ないコールアンドレスポンスが成立した瞬間になる。それを安易な感動に落とし込むどころか、一種皮肉として配置する演出はさすがだけれど、あれはやっぱり驚異的な瞬間が描かれているのではないか。

 このふたつが対比されながら描かれているだけでも、現実的な抵抗としての音楽可能性が示されていると思う。

The Roots -- It Ain’t Fair (feat. Bilal)

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ECDが亡くなって、FEBBの訃報が届く。個人的にも、つい最近知り合ったばかりの人が亡くなったりするなど、なんだかすべてが早過ぎる。2018年

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2017-10-30

[]午後6時。ごはんどきのしりとり。 21:02 午後6時。ごはんどきのしりとり。を含むブックマーク 午後6時。ごはんどきのしりとり。のブックマークコメント

◇息子が食事よりもしりとりに夢中になっていると、娘も一生懸命ゲームに入ってくる。ルール理解しているわけではないので、とにかく自分が今言いたい単語を羅列しているようだった。あるいはそういうルールだと理解したのかもしれない。

◇娘は頭文字文字だけで会話を成り立たせる。朝の支度がなかなか進まない息子に早くしなさいと急かすと、娘も、「に、は」と言う。兄もそれが「にいにい、はやく」と話しているのだと理解しているから「わかった」とか、あるいはばつが悪くて「しずかにしなさい」と答えたりする。

 どうしても上の子比較してしまうのだが、息子のときはここまで会話が成り立っていなかったと思う。いや、おそらくこちらが話していることも理解しているし、息子が伝えたいことも伝えていたのだが、それは意図の伝達という目的がはっきりと前に出ていた。しかし娘の場合、会話のやり取りそのものを楽しんでいるように見える。娘の要求にこちらが沿えないときに、それを伝えると物分かりよく納得してくれるというのも、つまりそういうことなのだろう。こういうのは「女の子らしい」のか、それとも「下の子らしい」のか。

お気に入りスーパーにいくという話になると、娘は必ずドキンちゃんの赤いポーチと猫の柄の赤いバッグを持ち、ミニーちゃんの尻尾を掴んで玄関に向かう。外出とおめかしをセットで捉えるという感覚がすでにあることに驚く。これはやはり「女の子らしい」のだろうか。

◇兄の方はというと、プラレールを器用につないで回転寿司レーンを作っている。近所の回転寿司店が閉店して以来、クレヨン折り紙セロテープを使って握り寿司を用意し、回転寿司再現に熱中している。入店時にタッチパネル(もちろんこれも自作)の使い方を案内し、こちらの注文に合わせて寿司を流し、割引券やおもちゃガチャガチャが当たるルーレットも回して、忙しそうに立ち回っている。娘と私常連で、いつもあじとつぶ貝ばかり頼み、そしてほとんどいつも当たりくじを引く。

 いつも習い事で進級があるたびに回転寿司に行っていたのだが、次回からどこへ行けばいいだろうと、妻とふたり子供が寝静まってから話した。

◇先週は久々に高熱に悩まされ、今もまだなんとなく胃がすっきりしない。アラザルの締め切りは過ぎている。仕事はまた来週から忙しくなるので、今週中になんとかしなければならない。

PSG現る。

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◇少し前、BADHOPのラジオで出てきた「内なるJ」というフレーズクリティカルで、日本語ラップヘッズたちはかなり楽しんでそのことを話題にした。J-pop的要素の強いラインが出てきてしまったとき、彼らは「内なるJが出ている」と指摘し合って審級するのだそうだ。

 この「J」が彼らの言う通りジャパン「J」であれば、これは日本語ラップが孕む問題に終始する。もちろんそれは大前提なのだが、もうひとつ、この「内なるJ」の「J」というのは、「J-pop」などに表象される「ジャパン」であるだけでなく、「自分」とか「自己」の頭文字なのではないかと思ったりする。彼らが「内なるJが出てる」と言ってダメ出しをするとき、例えば自己陶酔の度合を強くし過ぎてトラックを無視してしまうような、自分という身体への意識を失う状態を避けているのかもしれない。「内なるJ」に支配されてしまう状態

 日本語ラップは、日本と現代美術の間に中黒を打たなければならないという、あの「悪い場所」という問題を必ず扱う。だからもちろん、今回の「内なるJ」を試しに「悪い場所」に置き換えて語ることは可能だろう。ただそれは日本で起こる表現のすべてにつきまとっている問題であり、日本語ラップはそのサンプルとしてよく機能するということに過ぎない。日本語ラップのものを語るためには、やっぱり日本語ラップ」のことも同時に考える必要がある。トラックという外在的な時間をどう自分時間とするのか、というラッパー意識に則して考えることで、ようやくそこに音楽生活問題を見出すことができるだろう。ラッパー倫理時間をどのように意識するか、というところにある。USラップを、影として日本に迫るアメリカとして見るだけではなく、自分身体忘却したいという欲求をあぶりだすための試金石として機能させることもできるはずだ。

トラックが要らないというのなら、それはラップであることをやめるだろう。当たり前だが、ラップをすることだけがラッパーラッパーたらしめる。

◇BADHOPが「内なるJ出てるよ」と言い出したのと同様、かつて「チャックを上げなよ お前がはみ出てるよ」と指摘したのはPUNPEEだった。初のソロ作となる『MODERN TIMES』はまさに、自分自分を取り巻く時間の間にどのような関係を切り結ぶかを考えた作品だと思う。ラッパーにとってのトラック論/トラックメイカーにとってのラップ論である。

 SOULSCREAMが1999年イメージした『2018』を引き合いに出しながら、2017年想像創造する『2057』を考えることで、日本語ラップのものの変化を語ることはできるだろう。しかし、『2018』を語る視点が今から未来を眺めるものであったのに対し、『MODERN TIMES』はそれを聴いている今を過去のものにしようとする、という違いに着目すると、それは日本語ラップ問題からラップミュージック問題へと射程を広げることができる。

◇『MODERN TIMES』は思いっきり「自分がはみ出ている」作品だともいえるし、というか、はみ出る自分をどう扱うか、どういう時間の中に置くか、というのが極めて明瞭な作品だと思う。その意味においては「はみ出ている」という、さも自分では気づいていないような表現は適切ではなく、意図的に「はみ出させている」と言った方がいい。

(いつかつづく)

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2017-09-18

[]午後2時。なかなかブランコの止まらない。 16:12 午後2時。なかなかブランコの止まらない。を含むブックマーク 午後2時。なかなかブランコの止まらない。のブックマークコメント

◇娘がいつのまにかブランコを漕ぐようになっていた。座ったまま足を使わず、揺れるリズムに合わせて、体重移動だけで漕いでいる。メトロノームのように一定リズムだ。

911我が家では息子の誕生日であり、私と妻が親になった日のことである。

◇1歳8カ月を過ぎて、娘はなんだかおしゃれに気を遣う。洋服のコーディネイトや小物はもちろん、おむつの柄にもこだわりがあるようだ。おしゃれは見えないところからということだろうか。

◇先日は私のライヴがあり、そのちょうど一週間前には息子のピアノの発表会があった。

 もともと緊張しまくるはずの私が、14年ぶりのライヴでもそこまで緊張しなかったのは、先週の息子の様子を見ていたせいかもしれない。失敗を嫌がる傾向のあった息子が、なぜだかここ最近、やたらと思い切りがいい。舞台袖まで付き添ったが、リラックスし過ぎていてこちらが心配になるほどだった。出来はまあ、リハのときよりもテンポが遅くなってしまったというのはあったが、本番でも小声で歌いながら演奏していたし、練習とさほど変わりない様子で淡々とこなしていた。

 わからないことがわかるようになる、できないことができるようになるという感覚を覚えてくれているのであれば、これほどうれしいことはないと思う。私がそれを自覚できるようになったのは、本当につい最近の話だ。

◇9月9日は、なんだかアラザルメンバーが活発になる日だそうで。昨年はアラザル山本浩生の個展があり、今年は諸根陽介のライヴと杉森大輔&私のライヴが思いっきり被っていた。来年は何かあるのだろうか。

 というわけで先日のライヴは大変楽しめた。杉森さんが誘ってくれたこのジャズバンドという形式が、おそらくちょうどいい感じにしてくれたんだと思う。流行りに乗らなきゃいけないというヒップホップゲームの外だというのも大きい。ただ、さすがにもう少しはラップうまくなりたい。

個人的には、ゆるふわギャングと唾奇はきれいなコントラストを描いていると思う。ゆるふわギャングが素晴らしいのは疑いようもない事実だが、最近は唾奇とsweet williamコンビに持っていかれている。90年代からの接続を感じているのだと思う。

リアルとフェイクは表裏の関係にあるというよりも、同一線上にある場合も少なくない。ヒップホップにおいては、フェイクはリアルに先行してコンセプトだけを提示している状態でもある。いわばプレ・リアルとしてフェイクがあり、そのあとには必ずリアルな奴らが現れる。

 リアルを「本物」と訳した場合はそういうことになるが、「現実」と訳す場合、対比されるフィクションというのはどういうものなんだろうか。フィクションは、いうまでもなく現実の映し方でしかない。いかなる現実も、フィクションを通さない限り提示できない。こうした理解においては、ドキュメンタリ/ノンフィクションは広義のフィクションに含まれるということになるわけだが、個人的にはそれで問題ないと思っている。

 「本当のこと」はフィクションを通じて描かれる。その意味においては、コンセプト重視のフェイク野郎であっても「本当のこと」を語ることは可能だし、反対に実体験を語るはずのリアルなやつらが「本当のこと」を歪曲してしまうことだって可能である。

◇そして私には、ポスト・トゥルースというのがいまいちよくわからない。

◇今年の日本語ラップは大豊作だけども、これはたまらなくいい。

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2017-08-27

[]午後5時。風の温度。 15:05 午後5時。風の温度。を含むブックマーク 午後5時。風の温度。のブックマークコメント

多摩動物園を歩き回っても、汗がすぐにひく。

◇もうずいぶん暑さも和らいだ。ふだん暑い暑い言ってるくせに、あんまり暑くない日が続くと、もう夏が終わるんじゃないかと焦り始める。今年は8月に入って以降、ずっとそんな感じだった。ほんとにもう、そうこうしているうちに夏が終わる。

◇息子と娘が糸電話で遊んでいた。お互いに紙コップを口に当て、発信するばかり。

◇今年は資金から仕事を詰め込まなければならず、8月は普段よりも忙しい月になってしまった。毎年恒例の諏訪湖の花火大会にも行けずじまいだし、おたまじゃくしを捕まえることもできなかった。

 今年は幼稚園が8月最終週から始まると聞いて、慌ててざりがに釣りをしたり、風呂に迷い込んできたカエルを捕まえて記念撮影をしたりした。幼稚園からもらってきた稲を、妻と息子が育ててくれたりして、大変助かったのだが、問題は遠出だった。大宮の鉄道博物館や四谷の消防博物館、そして本日動物園タイムアップだった。ちょうど校了や締め切りと重なって大変だったが、まだまだやりたいことはたくさんある。

◇娘はあまり不機嫌にならない。というか、不機嫌であったり、気に入らないことがあっても、あまり長引かずに割とすぐ機嫌が直る。ベビーカーに座るのが嫌だといって不平を連ねているときも、トーマスのラムネを持たせてテーマソングを口ずさめば、大体素直にベビーカーに収まってしまう。こういうことは息子のときは考えられなかった。息子はどんなごまかしも効かず、徹底的に自分意見を貫くタイプであった。

 そんなことを動物園からの帰り道、娘のベビーカーを押しながら妻が話すと、息子もニコニコしながら聴いている。「ぜんぜん泣き止まなかったんでしょ?」と上機嫌に話す様子に、心強さとさみしさを覚えて、妻とふたり、感慨にふけってしまった。

◇しかし空手にいくと、最年少らしい間違いをするので、まだまださみしさを感じなくて済む。組み手の相手がなぜか途中で入れ替わってしまうのが不思議だ。

アラザル杉森さんのバンドで、次のライブゲスト枠でラップをする。練習中に段々欲を掻いてきて、手堅いこと意外にチャレンジしたいこともでてきてしまうのだが、手堅いと思っていたことすら全然できていないので、まずはこの課題解決することがチャレンジになってしまう。かちっとしたタイトなラップは、しかしよく考えると一番表情つけるのが難しいやつかもしれない。

◇Ultramagnetic MC's - Poppa Large

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◇ドキュメンタルも第3シーズンだが、今回、山本がものすごく不思議ポジションを築いていて感動してしまう。攻撃や防御といった構造の外に、軽々と出てしまっているのがすごい。もちろん、天然あってのことだろうし、松本解説ツッコミがなければ笑いとしては若干わかりづらかったのだろうけれども。しかし早々と二つペナルティを食らってからここまで残るというのにも、何か底知れなさを感じてしまう。

 次回が最終回だが、とても楽しみ。でもゾンビシステムで全滅なのかな、と予想するけれども。

◇『童貞。をプロデュース』の舞台挨拶で、松江哲明監督出演者童貞1号役で出演した加賀賢三さんが告発をしたらしい。いつ削除されるかもわからないけれど、とりあえず現時点ではyoutubeでその様子が確認できる。

 たしか下北沢のシネアートンだったろうか。加賀さんが出演した第一作の『童貞。をプロデュース』を観て、そのいくらか後に梅沢さんを主人公にした『童貞。をプロデュース2』も観て、それから10年前の池袋シネマロサで現在編集版『童貞。をプロデュース』を2回観たと思う。それから当時、この作品に関するブログ記事結構読んでいたと思う。それだけこの作品は当時の、そして今の、私に重要問題意識を残したということである。

 その辺りは、アラザル1号目『古谷実論』と2号目『童貞論』にまとめてあって、基本的な考え方はそこに詰まっているんじゃないかと思う。再読してないのでわからないが。

 まあそれはいいとして、今回は童貞自意識の話とかよりも、先日の一件によって、ドキュメンタリが提出する現実について思いをはせることになった。というのも、『童貞。をプロデュース』が提出した問題のなかで、当時の私は童貞考察の部分しか考えていなかったのを思い出した。これは必ずしも『童貞。をプロデュース』に限った話ではないが、『あんにょんキムチからずっと、松江監督は確固たるドキュメンタリ論を展開していると考えられるからである。今回の騒動は、まさにその論に基づいた作品づくりの結果でもあるからだ。

 ちなみに、私は舞台挨拶には行くつもりはなかったが、今回の上映期間中に再観賞するつもりではあった。個人的には残念だが、仕方がないことでもあるし、今後の展開に期待する方向で考えたい。

◇『童貞。をプロデュース』、および今回の一件を考えるにあたって、前提として踏まえておかなければならないことがある。森達也ドキュメンタリーは嘘をつく』の主題である。

 松江監督デビュー作である『あんにょんキムチから今まで、この『ドキュ嘘』で語られるようなことを念頭に置きながら、ドキュメンタリ作品をつくり続けていると思う。

 『ドキュ嘘』が否定するのは、「フィクションとは違ってドキュメンタリは、実際に起きている現実をそのまま映すものである。だからそれは真実を映す鏡であるに違いない」という素朴で純情な認識だ。しかしそれを否定するからといって、ドキュメンタリは「嘘である」と言い切るわけでもない。そこに映った事実の一側面を浮かび上がらせるのがドキュメンタリなのであって、だからこの作品タイトルは、「嘘をつく」に留まる。つまり嘘は悪ではない。嘘はどうしても映り込むだろうし、あるいは積極的に嘘を投入していくことで事実を浮かび上がらせることもできるのである。

◇その意味でいえば、ドキュメンタリはフィクションのいちジャンルであると考えることも可能だろう。ただ、ドキュメンタリの場合は、作品構成する素材が現実存在しているものである。私たちが生活を営むこの世界と地続きのものである。まさにそれが、今回のような一件を引き起こしやすくなる要因ではある。

いくらドキュメンタリといえども、作品として、つまり一個の完結した世界を作る以上は、それは作品世界に閉じる。そこで描かれる世界アクセスするためには、観賞という手段しかない。制作者であれ、出演者であれ、ひとつ作品がすでに出来上がった以上は、全ての人間は観賞という形でしか作品世界に接触することはできない。もちろん、ドキュメンタリの場合はその作品に登場する人物も、扱われる事件実在するし、だからそれら作品構成素材自体に直接接触することはできるはずだ。しかし、結果的作品に描かれる世界には、その作品の「鑑賞」なくしては触れることができない。フィクションのいちジャンルであるというのはそういう意味だ。

 だから「観賞」は、当事者としてその作品世界に飛び込む行為となる。観賞という行為を介すことによって、作品に描かれる世界は「現実」となる。作り話である小説に心打たれるのは、それが現実として鑑賞者に迫るからだ。

 基本的に観賞は、安全から他人事のように眺めるということではない。鑑賞者は常に集中力を持って当事者性を持つ努力を強いられるし、あるいは他人事として鑑賞されることを想定して作られる作品は、一般的駄作とされる。

◇『童貞。をプロデュース』は、加賀氏が糾弾するあのシーンも、前編最後の突き刺さるようにまっすぐカメラを見つめる女の子目線も、後編の梅ちゃんスクラップ制作過程も、監督した映像作品も、あらゆる場面に痛みが満ちていた。。鑑賞者はまさに当事者としてこれらの出来事体験することになる。

 作品の力のみによって鑑賞者に当事者性を持たせることができるという意味で、これは優れたドキュメンタリだったと思う。そしてもちろん、それは優れたフィクションであることをも意味している。しかし当然のことながら、観賞という行為を介さない限りアクセスできない現実であり、ビデオカメラなくしては立ち上がらない現実である。だから松江哲明ビデオカメラがないまま、この作品内で起きた出来事を眺めたら、それは『童貞。をプロデュース』に描かれた世界を作らないし、また別種の現実が起きているはずだ。

 松江監督ビデオカメラなしで、同じ出来事を目撃・体験したのが、加賀賢三氏であるのは言うまでもない。

◇今回の舞台挨拶上の告発は、『童貞。をプロデュース』という「作品が提出する現実」と「加賀賢三の現実」が激しく衝突した例となった。

◇ここで重要なのは、これが作品上映後の舞台挨拶という極めてあいまいな場で行われたことだった。その場に居合わせる人はおそらく、作品の延長線上の人物として彼らを捉えることになるだろう。ドキュメンタリはフィクションではあるが、私たちが暮らすこの世界のうえに「別の世界」を作りあげる類のフィクションからだ。しかし、フィクション宿命である「作品提示する世界には、観賞以外にアクセスする手段はない」に則て考えるならば、舞台挨拶の場で起きることは、作品のある位相とはズレた、また別の現実である。上映後の舞台にドキュメンタリの出演者があがるということ自体、こうした極めてあいまいな場を用意する。

 加賀さんとのやり取りのなかで、松江監督が放った「俺は今この場ではそういう話はしない」という発言は、観賞以外の方法で、作品の外から童貞。をプロデュース』の世界に触れることへの拒否だったのだと思う。それは作家としては当然の態度だろう。

◇その視点に則るならば、実際に強要があったか否か、実際に傷ついた人がいるのか否か、というのは確かに作品とは無関係の話になる。ただ、とはいえ松江監督加賀さんの人間関係や社会生活上の問題としては、それは大問題であり、監督としてではなく、人間としてどうこの問題に接するのかという問題は突きつけられて然るべきだろう。

 つまり「加賀賢三の現実」と「童貞。をプロデュース現実」の勝負にはなり得ない。「加賀賢三の現実」が、事実としてどうだったのかを重視するならば、それは「松江哲明現実」と「加賀賢三の現実」の戦いに過ぎない。そちらの方は事実検証なり法廷闘争なりで戦うことになるだろうが、加賀さんがもしも「童貞。をプロデュース現実」と戦うのならば、加賀さんはなんらかの形で作品を作らなければならないのである。

 そしてそう考えると、舞台挨拶上で引き起こされたあの一連の騒動のものが、「加賀さんが作品として提出した現実」なのではないか、と思えてくる。つまり、上映後の余韻が残る状態――童貞1号という役がうっすらまとわりついている状態から、それとはまったく違う現実提示して見せることに、あの場に居合わせた人はまずショックを受けるだろう。ただ、そのショックは、『童貞。をプロデュース』という映像作品の強さの証明でもあることは考えておかなければいけない。

◇ところで、この話と直接関係ないところで個人的に気になるのは、上映後の舞台挨拶というのは作品の延長線上にあるだろうか、ということ。上に述べたように、もちろん原理的には延長でもなんでもなく、別モノではある。そうではなく、感覚的に、延長線上に感じるような実感が、いま、どれだけの人に共有されるだろうか、ということ。

 言い換えれば、これは松江監督があの物語をどこまでリアルガチだと思わせたかったのかという話だし、『童貞。をプロデュース』がなぜドキュメンタリとして制作されなければならなかったのかという話でもある。おそらくは、ドキュメンタリの文法を駆使するのに長けているから、というのが実制作上の理由だろう。その手法を徹底的に駆使することでしか立ち上がらない世界ではある、たしかに。ただ、私が気になるのはむしろ、ドキュメンタリの手法を用いることで、あの作品がこれだけのプロップスを集めたという、その現象が気になるのである。

 そしてこれはなんとなくなのだが、おそらくSNS的な感性無関係ではないと思う。『童貞。をプロデュース制作時期に照らせば、web2.0とか言った方がいいんだろうけれども。

 つまり、当事者意識の話だ。

通りすがり通りすがり 2017/08/31 22:57 私個人的には公の場で不利になる事は言わないと言うような態度に思えましたよ。何言っても水掛け論で、歯切れも悪かったですし。動画を観るとよくわかりますし、私のように考えている方の方が多いのではないかと。

andoh3andoh3 2017/09/11 13:20 通りすがりさん、エントリをお読みいただき、どうもありがとうございます。
おそらくそう思う方も多いんじゃないかなと思いましたし、実際、それも事実である側面もあると思います。ただ同時に、あの松江監督の態度に作家性を読み取ることも可能だと思って、今回のように解釈しました。これもひとつの「どれが本当なのか」ではなく、「どういう本当を語るのか」というドキュメンタリ論ですねw

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2017-05-25

[]午後2時半。連弾兄妹。 11:19 午後2時半。連弾兄妹。を含むブックマーク 午後2時半。連弾兄妹。のブックマークコメント

◇息子のピアノテキストには、鍵盤の上に2本足で立った動物たちのイラストがあしらわれている。それを見た娘が、ピアノを足で弾こうとする。

◇もう少しで1歳半になる娘は、人の真似が楽しくてしょうがない。特に両親よりも年の近い兄の方を真似したがる。息子が鍵盤に触れると、すぐに妹もそこに寄ってきて短い腕を必死に伸ばす。息子はそのことを練習しない理由にしたいのだが、言い方が悪かったために妻に叱られた。泣いて隣室の布団にダイブしにいくと、妹も兄を追いかけ、大喜びで布団にダイブした。

◇娘はもう言葉自体は大分わかっていて、発音はまだできなくても、こちらとのコミュニケーションは大分スムーズ。発音も「うん」という軽い同意程度なら可能だし、このあいだは語尾だけ「ねー」と同調することを覚えていた。

◇5月は『バンコクナイツ』と、そこに至る空族サーガをいくつか観た。ゴーギャンの『私たちはどこからきたのか、何ものなのか、どこへ行くのか』の映画化だと思って問題ないと思う。サウダーヂで田我流が演じた極右ラッパーも、国道20号線に出てくるやつらも、どこにいようとみんな「異邦人」だった。

 しかしそれにしても、バンコクナイツ音楽の良さには参った。エムレコードから出ているLPを思わずいくつか買ってしまった。ミュージカル映画とまでは言わないけれど、音楽と映像が依存し合う関係で結びついている。

アラザル同人の杉森さんに誘われて、スタジオでセッションしてきた。スタジオに入ったのはおそらく10年ぶりくらいだと思う。もちろんジャズセッションの経験もないし、フリースタイルもまだまだ続かない。なので、とりあえずいくらリリックを書いて参加。おっかなびっくりだけれども、基本的セッションフォームも教わりつつ、めちゃくちゃ楽しい時間を過ごした。みんな演奏うまい

是枝裕和『海街ダイアリー』。

 親に捨てられた子供たちの生活を描くという意味では、『誰も知らない』美人姉妹バージョンと考えていい。『誰も知らない』にも植物を育てるという日常の所作によって、兄弟たちの日常を肯定する素晴らしいシーンがあるけれども、『海街ダイアリー』はそれをさらに広げていて、限りなくやさしい映画だった。

 やさしさには、常に覚悟と決意が伴う。覚悟や決意なく人にやさしくすることは甘やかしであり、同時に自分自身への甘えでもある。海街ダイアリーが映すのはまさに甘えとは異なるやさしさで、それはおそらく人に期待することの残酷さも、人に受け入れられることの厳しさも、充分理解した上に表れる態度であるように見えた。

◇WAR『Why Can't We Be Friend?』

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「I seen you walkin' down in Chinatown. I called you but you could not look around. Why can't we be friends?」

ミュージックマガジン6月号『日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100』に参加。同時にgogonyanta氏の『リスナーが選ぶ日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100』にも参加。ともにベスト30を選んで、同じランキングを提出した。

 ミュージックマガジンの方では25位いとうせいこう『MESS/AGE』、38位LowPass『Mirrorz』、47位スチャダラパー『WILD FANCY ALLIANCE』についてのレビューを、gogonyanta氏の企画の方ではベスト100にランクインした作品についてはすべてコメントしてある。

 個人のブログの方では、自分が選んだ30作品とそれに対する全コメントメモしておく。一応、ミュージックマガジンのやつとは別の原稿になってます。


日本のヒップホップアルバムベスト30。2017年:安東三提出バージョン


1.ALPHABETS『なれのはてな

日本語ラップがすごいことになった!」と思ったら、すごいのはアルファベッツで、その後のヒップホップアーティストへの影響がちょっとよくわからない。しかしとはいえ、この路線を突然変異と捉えてしまうのはやっぱりもったいなくて、ここからの枝葉はまだどんどん伸びていく余地があるんじゃないか。そんなことを期待したくなる名盤


2.スチャダラパー『WILD FANCY ALLIANCE』

宮台真治『終わりなき日常を生きろ』は95年だけれども、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件よりも前の段階で「終わりなき日常」を主張したのはこのアルバムだった。というのは後付けだけれども、でも実際そうとしか思えない。そこにはある種の覚悟としての「まったり」があるわけで、『彼方から手紙』にはその決意に至るまでの道程が読み取れる。「川」が何を指しているのかを考えてみれば、彼らの論理と倫理が明確になるだろう。ちなみに、サンプリング元ネタジョージ・ベンソン『ブリージン』は、中原昌也小説『誰が見ても人でなし』にも使用さえていて、そういえばこの短編を収めている書籍タイトルは『ニートピア2010』だったこともメモしておく。


3.GEISHA GIRLS『THE GEISHA GIRLS SHOW 〜炎のおっさんアワー〜』

ゲイシャガールズなんか入れんな!と怒られてもいいからランキングに入れたかった。松本人志ラップをやろうと思った理由とかは色々調べているけれど、いずれにせよ日本のテレビ芸能とヒップホップが早い段階で結びついた例のひとつなのは間違いない。そしてまた、ゲイシャガールズは「逆輸入アーティストとしての日本語ラッパー」を提示していたと思う。逆輸入的な日本「人」ラッパーとしてはShing02からKOJOEまでの系譜があるけれど、やっぱり彼らは英語ラップすることで向こうのプロップスを集めてきたラッパーだったと思う。また同様に、DJやトラックメイカーなどの日本人ヒップホップアーティストアメリカで評価されてきた流れはあった。そう考えると、日本語でなされた日本「語」ラップだけがやっぱり言語の壁を越えられずにいたとも思うのだけれども、これはご存知の通りKOHHがついに突破した。日本のヒップホップの歴史として、フェイクが先行してリアルが追い付くというケースは多いけれど、まさにそれに当てはまる例がGEISHA GIRLSからKOHHという流れだったんじゃないだろうか。


4.NITRO MICROPHONE UNDERGROUND『NITRO MICROPHONE UNDERGROUND』

完成度と革新性を兼ね備え、それでいてフォロワーも生んで新しい潮流を作った最強のアルバムアルバム単体の革新性はもちろんのこと、やっぱりDEF JAM JAPANとかRIKOといった名前も思い出されて、そういうヒップホップディストリビューターまでよく見える「産業としてのヒップホップ」も面白かった。ヒップホップにそれほどのめり込んでるわけでもなかった私でも、町田のTAHARAで大々的にDEF JAM JAPANとニトロのパネルを見たときは感動した(記憶違いだったらすんません)。


5.SEEDA『花と雨』

6位のPSGと本当に迷ったけど、ここはBACHLOGICとSEEDA奇跡的な仕事が刻まれたという意味で、こちらを少し上にランキングした。とはいっても、また選ぶ時期が変わればどっちが上になるかわからない。


6.PSG『DAVID

PUNPEEとBACHLOGICは、日本のヒップホップの流れを一気に変えたプロデューサーだったと思う。『花と雨』がSEEDA文学的な拡がりを与えた作品だったとしたら、『DAVID』はどこまでも映像的な音だったと思う。ちょっと感覚的な言い方だけど、でもghettohollywoodの超名作ビデオの出来を見ても、やっぱりそうなのかなという気がしてくる。


7.BUDDHA BRAND『病める無限ブッダの世界 〜BEST OF THE BEST(金字塔)〜』

まあこれは普通に、どう考えても選ばないわけにはいかない。日本語ラップが目指したひとつの頂点を極めてしまった。スタッテン島のシャオリン使いたちと同じ水準でやってのけたのがブッダブランドだったんだろうなあと思う。


8.LowPass『Mirrorz』

凝ったトラックの上でめちゃくちゃうまいラップが展開するだけでもすごいけれど、そのリリック言葉遊びに終始してることに感動する。言葉遊び系とはいっても、やっぱり日本語ラップ黎明期のそれとは大きく違っていて、一番違うのは支離滅裂な展開の仕方。全体を通してのコンセプトが見えない。これには書き言葉言葉遊び話し言葉言葉遊びの違いというのがあるんじゃないかと思う。


9.ZEN-LA-ROCK『LA PHARAOH MAGIC

いまだにヒップホップ黒歴史的な扱いを受けることさえあるニュージャックスウィングだけれども、このアルバムを聞けば聞くほど、まだこちらの道へと延びていくヒップホップの豊かな可能性に気づかされる。テディーライリーという分岐点から、ファレルにいくのか、ZEN-LA-ROCKにいくのか。まだまだわからない。


10.SCARS『THE ALBUM』

ハスラーの世界を日本語で歌う。その強烈なインパクトもさることながら、マイクリレーの巧みさにも目を見張る。ある意味では実録ニトロだったと言ってもいいかもしれない。


11.いとうせいこう『MESS/AGE』

完全に書き言葉的な、コンセプトと展開がぴったり一致した言葉遊びではある。ラップメッセージをどのように崩すのか。みうらじゅんアイデン&ティティ』よろしく「不幸なことに、ぼくらには不幸なことがなかった」の問題に、日本語ラップとして初めて答えを出したのがこのアルバムだったのではないか。ちなみに、この次にその問題に回答を出した作品はスチャダラパー彼方から手紙』だと思う。


12.キミドリ『キミドリ

インディペンデントカルチャーは雑多な未発達の文化の混交・交流を促すけれど、日本のヒップホップにおいて、その様子が色濃く投影された作品がこれだと思う。ラップスタイルも「ストリートっぽい」と形容すればいいのか、ぶっきらぼうな感じがむちゃくちゃパンク


13.AUDIO SPORTS『Era Of Glittering Gas』

ヒップホップが明確にジャンルとして線引きされる前、可能性としてのヒップホップに挑んだ作品。普通にめちゃくちゃかっこいい。


14.m-flo『ASTROMANTIC』

ヒップホップは成り立ちから見ても、ボトムアップ切磋琢磨するカルチャーだと思われている。でも、これだけ大きな産業には、お金も人もふんだんにリソースを割いて、トップの人たちだけで構成されている側面も当然あるわけで、m-floは確実に日本でそれを担っている。(細野晴臣でなく)坂本龍一ラップさせたこのアルバムは、m-floの路線を確固たるものにした。ように見える。


15.YOU THE ROCK★『THE★GRAFFITI ROCK ‘98』

アルバム一枚でヒップホップの歴史を辿ってみせるという、一種の離れ業だと思う。ユウザロックラップの魅力も全開で「全身でラップする」という表現がぴったり。


16.ECD『The Bridge 明日に架ける橋

正直に白状すると、ラッパーECDを本当にすごいと思ったのはこのアルバムからだった。つい最近です。流行りのビートもしっかり咀嚼したうえで、自分のラップを乗せる真摯な姿に胸を打たれる。あと、これは今後、ラッパー高齢化問題に取り組んだ最初期の作品になるのではないだろうか。


17.SHAKKAZOMBIEHERO THE S.Z.』

実は入口は『カウボーイビバップ』だった。「日本語ラップダサい」という偏見しかなかった中学生が素直に聞き入ってしまった曲が『空を取り戻した日』。まあこれは個人的な経験だけれども、とはいえ、そういうジャンルメディア横断的なことができる拡がりを持った名作なのはひとつ


18.LUNCH TIME SPEAX『B:COMPOSE』

MVでTAD’SがTシャツをパンツインしてラップしてる様子がむちゃくちゃかっこよかった。GOCCIの男ウケ間違いなしのラップがむちゃくちゃかっこよかった。メロコアヒップホップストリートのことを言うけれど、それが同じものを指していることを知ったアルバム


19.SOUL SCREAM『The positive gravity〜案とヒント〜』

はじめて買った日本語ラップアルバムだった。日本語でどのようなフロウを完成させるかが日本語ラッパーの宿命だった時代に、一番魅力的なものを提出したグループだと思っている。


20.THA BLUE HERB『STILLING STILL DREAMING』

東京、対渋谷を打ち出した功績が大きいのはもちろんだが、単純にものすごいスピーチが聴けるという意味で抜群の存在感。演説とラップはつくづく同じものなんだと思う。


21.TWIGYSEVEN DIMENSIONS』

単純に、ツィギーの魅力が一番詰まったアルバムなんじゃないかと思う。多種多様なフロウを緩急自在に使いこなすキレッキレのツィギーが聴ける。あと客演してるマッカチンがむちゃくちゃかっこいい。


22.KAKATO『KARA OK』

フリースタイルがすごすぎるふたりの即興的快楽を、カラオケという密室空間で見事に表現。J-pop的記憶の使い方もさることながら、普通に良質なポップスにしてしまってるのもすさまじい。


23.MACKA-CHIN『CHIN NEAR HERE』

マッカチンは明らかに時代を作ったアーティストだと思う。PSGを初めて聞いたときの衝撃にデジャヴがあったんだけど、絶対この作品を思い浮かべてたと思う。サンプリングの仕方も、ラップの主題の選び方もなんか変。マッカチン自身のものすごくハキハキラップする姿にも惹かれた。ニトロのファーストの後にこうした展開を用意できるところに、音楽的厚みを感じる。


24.THREE ONE LENGTH『THREE ONE LENGTH』

思わず「エバーグリーンな名作」とか言いたくなるくらい、一瞬と永遠が同義であることを認識させられる。いつ聴いても、このアルバムを聴くときは、いつも同じ自分になってしまう。


25.DELI『DELTA EXPRESS LIKE ILLUSION』

ニトロ以後、ニトロ的世界観もっとも展開していったのがDELIだったんじゃないかと思う。なんというか、自身のソロ作品なのに客演ぽいというか、その辺がとても冷静。客演というヒップホップにおける重要な要素を考えるために、これからも何度も聞き返されるべき作品。


26.Dragon AshViva La Revolution

これはやっぱり、ロックミュージシャンアルバムではなくて、ヒップホップとして数えられるべきアルバムだったんじゃないか。日本版『walk this way』だと思ってる。


27.SIMI LAB『Page1:ANATOMY OF INSANE』

ファーストだけれども、OMSBとQNが同時在籍していた時期の最後のアルバム。とか考えてしまう。それはともかくとして。日本語ラップ日本語を分解してまた組み直す作業なわけで、微妙な言い方になるけど、おそらくシミラボは組み直す際の手つきに独特なものを持っている。


28.NORIKIYO『OUTLET BLUES』

孤独であることのなかには、さみしさとは真逆の、一種の円満な、幸福に閉鎖された世界もある。多くのラッパーからそういうことを学ぶけれども、NORIKIYOがリリックで描く街は、そういった幸福な閉塞をもたらす存在のように聞こえることがある。


29.KOHH『YELLOW T△PE』

まるでL.A.かと思うような『we good』のMVを観たとき、日本語ラップが完成したと思った。ミックステープが出るというのですぐさま買って、『僕といっしょ』からのサンプリングや『family』を聴いた。完璧な日本語ラッパーが現れたと思った。


30.Moe and ghosts『幽霊たち』

ゴーストコースト彼岸)というアイデア□□□お化け次元』でも提示されていたけれど、それをガチでやってしまったのは間違いない。ラップ話し言葉に漸近するものであり、そこにラッパー自身が見えてくるのだと思っていた。しかしMoeがやってのけたのは、どこまでも「話し言葉に近づかないままのラップ」であり、要するに歌声のままラップするということ。このコンセプトを突き詰めた先にはテクニック派に向かうしかないようにも見えるけれども、もしもそれとは違う道が見えたら、ラップが、ヒップホップが変わる。

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2017-01-03

[]午前8時。寝間着姿の座布団運び。 00:09 午前8時。寝間着姿の座布団運び。を含むブックマーク 午前8時。寝間着姿の座布団運び。のブックマークコメント

◇唐突に笑点テーマを歌い始めた息子が、我が家座布団をせっせと敷いている。1歳になったばかりの娘が司会席に座らされ、32歳になった私は小遊三師の席に座らされた。5歳児はとにかく山田くんの役を生き生きとこなしていた。

ふいに始まった大喜利だが、歌丸師であるはずの娘はとにかく小遊三師であるはずの私の膝によじ登ってくるし、山田くんであるはずの息子は「1枚増やすこと言って」「減らすこと言って」と、客のヤジのようなことばかり言う。私は慣れないなぞかけをしながらそれらに答えているうちに、朝からへとへとになってしまった。

日記を書かずにいる間に、娘は1歳になり、2017年に入ってしまった。娘は髪を伸ばし、昨年の10月から妻の母と似たような髪型になっている。

◇昨年末12月23日に父方の祖父他界し、今年は喪中である。

 認知症も末期がんも進んでいて、晩年施設に入っていたが、それでもひ孫ふたりを見せることができた。娘は昨年10月に1度会ったきりだが、喪主となってくれた叔父と叔母はそのことをとても喜んでくれた。

通夜告別式我が家からは私だけが出て、私の実家からは父母両方が出席した。これは私には意外だった。というのも母は、父方の実家にはもう30年近く行っていなかったからである。

 母いわく、夫さえしっかりしていれば嫁と義実家関係はうまくいくはずであり、つまり母が父の両親と距離を置くことになったのは、父がそれに失敗したかららしい。たしかに父が、母の基準に照らせば相当に不器用であることはよくわかる。私から見るにそれは、ただのマイペースに過ぎないのだが、しかしそのマイペースこそが、母にとっては耐えられないことであることは、息子の私にはよくわかる。母は、家族自分の思うように動いてくれないことを、自分への無関心と捉える傾向が強い。

 ただ、父以外に誰か母の希望に応えられる人はいるだろうかと考えると、それはやはり相当に難しいのではないかと思ったりもする。

 とはいえ、父もまた相当なもので、毎日のように母の怒りを受け続け、ときにケガをし、ときに家を追い出され、とき職場にまで電話をされ、ときに持ち帰った職場PCを壊されても、ある部分では絶対マイペースを崩さないのである。

 私は小さいころ、父に離婚を勧めたことがある。父のためを思ってである。あまりに理不尽に母の怒りを受ける父を、私は被害者なのだと思っていた。しかし父は曖昧に、いやあ、と言ってにやにや笑うだけであった。寒空の下、父と息子ふたりして家を追い出された日の記憶である。

 2〜3年前、実家に帰った私は、父の話を聞いてぞっとすることになる。なんの拍子だったか忘れたが、父はいきなり、「君にどう映っているかはわからないけど、お父さんは君のお母さんのことがいまでも好きなんだよなあ」と言い放ったのである。

 夫婦というのはやはり、どこか狂気を帯びた関係なのだという確信が、私のなかにはずっとある

◇私は私で別件で母と揉めていたため、母も葬式に参加することを聞いたときは、正直なところあまり気が進まなかった。まあ、母と私が揉めるのはいつものことなのでしょうがいかと思ったが、物持ちで交通機関をあまりつかわない母が居るせいで、宮城まで6時間かけて自動車移動することになった。これは気が重い。そして遅刻が許されない父は、途中渋谷で降りて新幹線に乗っていってしまった。

 案の定、車中で母と再び揉めたが、5時間半というのは揉めるだけでは埋まらない。果たして喜怒哀楽の全てが車中の会話で沸き起こることになった。母の私や父への恨み節は、いつのまにか笑い話にすり替わっていた。

 母はマイペースな――母の言い方で言えば「愛も理解もない夫」との関係に悩み、友人の勧めでいくつか占い師のところへ足を運んだらしいのだが、占い師たちは誰もが口をそろえて、こんなに相性のいい夫婦は見たことがないと話すのだそうだ。私は吹き出しながら、やはりぞっとしていた。

◇昨年は諸事情から辞退させていただいたmiseさんのところの日本語ラップ年間ベスト2016年は参加させていただいた。

◇『2016 BEST act In 日本語ラップ(Selected by 安東三)』→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52253560.html

 “国民的歌手宇多田ヒカルにKOHHがフックアップされた2016年。KOHHをどうにかして言語化しようとする日本語ラップ批評(?)よりも先に、一気にど真ん中に突き抜けてしまった感すらある。KOHHの客演フックアップであるだけでなく、ある種の逆輸入アーティストとしての側面も持ち合わせていて、「KOHHはゲイシャガールズのリアルなやつ」と言い換えてもいい。

 フリースタイルダンジョン成功も含めて、日本のテレビ芸能的な位置づけを考えてみる必要性が一気に高まったのが、2016年日本語ラップシーンだった。

◇『2016 BEST ALBUMs In 日本語ラップ(Selected by 安東三)』→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52253562.html

 2016年は、言ってしまえばKOHH不在の年であり、ポストトラップの年でもある。いや、全然KOHHは居たし、トラップの猛威は相変わらずだったわけだけど。

 長らく、日本語ラップは逡巡をテーマにしていた。人種差別や貧富の差を歌うことの逡巡、ギャングでないことの逡巡、あるいは自意識の逡巡、そしてヒップホップをすることの逡巡。それらは音楽の上で、リリックの上で、はたまたファッション姿勢や立ち居振る舞いの上で、直接的あるいは間接的にヒップホップに反映されていた。

 そういった逡巡が生み出す「アイデンティティの揺らぎ」によって、USヒップホップ内包する「アイデンティティの揺らぎ」と響き合う構造を持っていたようにも思う。

 しかし、もはやそうした二重に捻じれたアイデンティティの揺らぎはもはや必要なくなってきたのが、2000年代以降の日本語ラップが歩んできた道だったのかもしれない。

 KOHHはそうした世代の頂点だったと思うし、それは世界的にも共通した動きだった。よって、ワールドワイドにバズったりもしたのだろう。

 2016年は、逡巡なき日本語ラップがいよいよ極まるなかで、あらためて90年代から日本語ラップとの再接続が試みられるような、そんな動きが見えた気がした。

◇気づけば、今回の10作品は、概ね上位3作品のいずれかの方向に分類されるように選んでいた。

 3位の『田中サウンドトラック』は、一時期までのサンクラ/ディジタルディガー層を一気に取り込むと同時に、単純に「いい音楽ファン」にもリーチし、おそらく今後のコミュニティミュージックの在り方をいち早く提示していた。もちろんそうした一連の動きは田中舞踏会第一から形になっていたわけだけど、音源として1枚に収めたという意味で、そしてそれがどんな方面にも目配せしているという意味で、極めて音楽的にコンセプトを達成したんじゃないかと思う。

 2位のKANDYTOWNは、どう考えても2016年のニューヒーロー90年代信仰のうるさ型ヒップホップヘッズを音楽的にもレトリック的にも黙らせる日本語ラップの「正統派」感も出しつつ、サグなギャングもいいとこの子もUSもJPラップすりゃみんな平等的な価値観で、リアルとかフェイクとかを端から問題にしない。“my house is a your home”のラインのやさしさに泣きそうになってしまったりしながら、「みんなで広げるホーミーの輪」を本気で信じられる気がしていた。草刈正雄浜田雅功の子供たち世代がこういうことを言っているという意味でも、次のフェーズに入った感じがする。

◇ある種のバックラッシュ評価されてる部分はあるかもしれないけど、しかし昨年彼らの登場を目撃できたのは圧倒的に良いことなんじゃないかと思う。

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パブリック娘。を1位に選んだのは2011年以来、2作連続。正直、ひいきのアーティストを1位に、しかも2回連続で選ぶというのは、選者としては結構勇気のいるセレクトだったけど、胸を張って挙げさせていただいた。

 「ぶっきらぼうに見えて器用」なラッパー系譜はキミドリからやけのはらまで連綿と続いているわけだけど、パブリック娘。はそこに貪欲な「非」アーティスト性を盛り込もうとする。ともすれば「ナード系」とか「文化系ヒップホップ」に回収されそうなところをギリギリで避けることができているのは、たぶん「文学性」やら「音楽性」といったアーティストっぽさを上手に回避して、「社交性」を前に出しているからなんじゃないか

 もちろん、だからといってパブリック娘。文学性やら音楽性やらが希薄なグループだと言いたいわけではない。ただ単に、そういった文化系受けしそうな自意識の逡巡をテーマにしていない、ということである。その意味で、2位のKANDYTOWNと非常に近いところでラップをしているようにも見えるし、見えている景色も似ているのかもしれない。

 学生時代リリースした過去からの変化という点では、社会人になってもリリックの巧みさは相変わらずで、そしてなんと、ラップがうまくなっている! しかしうまくなっているにも関わらず初々しさがあるというか、声の出し方がいまだに全然こなれていないというのは、これは絶対に狙ってやっていることだと思う。

D

2016年出張の機会が以前より増えたんだけど、KANDYTOWNとパブリック娘。を交互にかけながら、新幹線の窓から外を見てみたりした。

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