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日々:文音体触 〜compose&contact〜 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2014-12-08

[]午後5時半。年末の机まわり。 17:59 午後5時半。年末の机まわり。を含むブックマーク 午後5時半。年末の机まわり。のブックマークコメント

◇会社にて仕事をたたむ準備。年末というか、退職するので。

土曜日は、息子の腸の検査のために八王子へ。

 先日、大きい研究機関検査をした際に、一番こわい腸回転異常症でないことはわかったのだが、その際に造影検査をしなかった大腸の部分を診る必要があった。結果、特段注意の必要なことはなく、ただS字結腸とよばれる箇所が長いということだった。息子の便秘の原因はおそらくこれらしく、もしかしたら大人になっても1日おきのペースなタイプの人かもしれないらしい。

 インフルエンザの予防接種も先日の検査も泣くことなく、おとなしくしているのを知っていたが、今回、お尻からの造影剤の投与も神妙な顔でこなしていた。妻が手を握っていたが、手のひらにじっとり汗をかいていたらしく、それは幼い息子なりに状況を理解して我慢していたのであり、いつも決して余裕でこなしていたわけではない、ということであった。

 検査結果にひと安心した私たち家族は、生後1年半強暮らしていた八王子の街を満喫して帰宅した。途中、南口のあたりでビッグバンドが『サンタが街にやってくる』を演奏していた。

日曜日ドラッグストアトイザラスに買い物に行ったのだが、そのどちらでも『サンタが街にやってくる』が流れていて、息子がそのことに気づく。演奏のなかから主旋律を聞き分けることができているらしい。

最近の息子は結構複雑な文法を扱えるようになってきているが、それゆえになのか、時制を軽々と超越して怒りを表明したりする。

 どういうことかというと、例えば今朝の話。遊ぶのに夢中な息子をだましだまし、なんとか朝食の席につかせることができた。食事のペースも軌道に乗り、ひと安心したタイミングで妻が「あ、手洗うの忘れちゃったね」と私に言う。すると、耳ざとくそれを聞きつけた息子は、さっき手を洗いたかった!と言って泣いて怒り出す。それならばと、今から手を洗いに行こう、と提案しても息子の怒りが収まることはない。手を洗いたいのではなく、手を洗いたかったさっきを取り戻したいからだ。ひたすら涙ながらに「もどして、もどして」を連呼する息子に、両親は苦笑いをしてやり過ごすしかなかったりする。傍から見れば、世の不条理に直面した子どもに見えるのだが、果たしてそうだろうか。

 文法を身に着けることは、時間対象化することであり、時間もまた、その他のあらゆる名詞代名詞なかのひとつとして数えられるものとなる。「いまここにあるもの」を言葉に変換しはじめた瞬間から、「いまここ」と、それを指し示す言葉に変換された「もの」は分離をはじめ、言葉になった「もの」はそれを語る者の支配下におかれる。記述口述といった語りの運動で描かれうる時空間もまた、語り手に従属する宇宙となる。

 息子はまだ、手を洗いたかったさっきが、自分の作り出した時制であることを知らない。だから両親に、時間を巻き戻してもらうことを望むのだろう。それが自分の支配下に置かれていることに気づくことさえできれば、彼はおそらく、誰にどんな感情情熱をぶつければいいか理解するのではないかと思う。

◇で、クリストファー・ノーランインターステラー』。宇宙とタイムトラベルと親子。

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 ネタバレ前提で書きます。

 『2001年宇宙の旅』との関連から書くと、「人智」の範囲を広げるという『インターステラー』の姿勢は、そのままHALモノリスを合体させた人工知能キャラクターに表われる。かつて表象(≒理解)可能か不可能かという意味において厳格に区別されていたHALモノリスは、『インターステラー』においてはひとつ人工知能、つまり理解の内側の存在にされてしまう。あの異様な手触りを伴う直方体は、「映像不可能」を示す記号としての役割をやめ、おそらく工学デザイン的な意味を担うに留まっているし、『インターステラー』に登場する人工知能たちは、人間予測に反して叛乱を起こすHAL対照的に、どこまでも人間に忠実であり続ける。彼らを放っておいても「裏切り」という未曾有の事態は発生せず、つまり人智を超えることは、ここでは人工知能の発達とは無関係出来事にされている。

 では、限界不可能突破人智拡張はどうやって可能になるのか。言い換えれば、モノリスが担っていた「映像の外側」は、『インターステラー』においては、どこに描かれているのだろうか。

 ひとつ、ここで言う「限界」は「重力制御」のことであり、これの可否によって、人類が他惑星移住できるかどうかが決定する。重力はつまり、光や、音や、そして時間という形を借りて表現されるが、劇中、こういった「重力」を自在にコントロールする人間の姿が描かれる。首を傾けてロケットを眺めるマシュー・マコノヒーは、重力担保された視点を変調させ、宇宙空間地球環境音をかぶせてしまうデヴィッド・オイェロウォは、重力に左右されずに音を持ち運んでいる。その延長線上に置かれた父と娘の交信は、だから唐突なものでもなんでもなく、あり得べきものとなる。なぜなら、私たちはすでに、物語をつむぐことによって、時間重力自在制御しているからだ。

 ところで、『2001年宇宙の旅』が示したもので最も重大なものは、モノリスの手触りだろう。猿の群れのなかに屹立するモノリスも、宇宙空間に浮かぶモノリスも、その周囲と溶け込むようで溶け込まず、異物としての違和感を常に纏っていた。モノリスけが、その他の事物と異なった位相にあり、映画のなかに、ただただそのままとんと置かれてしまった立体である。それを理解の内側に置こうとするかどうかの議論は置いておいて、ひとまずそうした立体を描写してしまうのが『2001年宇宙の旅』である。ここを起点として議論を展開させ、モノリスに触れる道を決断したのが『インターステラー』なのではないかと思う。異なる位相・次元のものに、触れるということ*1

 例えば、モノリスとの「距離」は、映画とそれを観る者の「関係」に置き換えられたのだとも言える。5次元空間のなかに3次元空間が出現することも、23年分のメッセージを一気に受信するまでの流れを目撃することも、折り曲げた紙にペンを貫通させてワームホールを説明することも、全て作品の内側に丁寧に描かれた「外側」である。しかしにも関わらず、ともすれば作品に穴を開けてしまう強靭な「外側」の力に依存することなく、作品それ自体自律性を高めていくことができたからこそ、『インターステラー』は異なる位相にあるはずの内側と外側の接触(の描写)に成功したのではないだろうか。接触を接触足らしめるのは、同一化の欲求ではなく、相互自律しようとする欲望であるはずだからだ。

◇それにしても、23年分のメッセージ再生には嗚咽をこらえ切れなかった…。こういったヒューマンドラマとしての演出こそがこの作品の核であり、上に書いたように、作品の内部と外部をしっかり分け隔て、後の「接触」に必要な要素になっている。

◇KOHH、もしかしたらだけど、ハイカルチャーに接近していくのかもしれない。

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カニエ・ウエストはどうやら元々ハイカルチャーが好きだったぽいけど、しかしどうも、ヒップホップ提示する「ストリート」は、パンク的な「ストリート」とは違っているのは確かだろう。

*1:もしかしたら、その挑戦はモノリスに触れようとして火達磨になった『2010年』以来かもしれない

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