2009-10-10
崖上的波妞を見た。
要するにポニョ。本物らしいパッケージで売ってたから、もう出たのかと思って買ってみると、いつも通り海賊版だった。
絵は奇麗だった
BGMがめちゃめちゃ、感情表現が刹那的。
それが印象。
嬉しいときは文脈に関係なく嬉しい。 忙しいときは誰に話してるかおかまいなく忙しい。だから親子の愛だとかやりたくないけど地球を救うためにしかたなくやってるというかそういうストーリーが全然見えてこない。
BGMも何故か改変されてた。 嬉しいときは嬉しい音楽、走ってるときはスリリングな音楽。 どれもポニョのサウンドトラックから撮られてるんだけど、やっぱり「ポニョ嬉しいの図」「宗佑焦るの図」という程度の感情表現しか感じられなかった。 やさしさだとか、眠気だとかは全く無視。
船団マーチをここかしこで流さないでほしい。雰囲気つぶれるから。
脈略のなさ
音楽を再編集した人も、声を当てた人にも共通して見受けられる特徴。
感情表現にあまり脈略を持ってないこと。
なんで今嬉しさの中にためらいがあったのか・・とか。どうしてこんなに必死になってパニックに陥ってるのか、とか。 そういう脈略は見捨てて、アニメーションから読み取れる感情表現だけを拾ってる。
見る人は自分で登場人物の感情の推移をトラッキングしてないんだろう。
というより、人の感情はその人が自分で表現しなければ基本存在しないものと見なすのが前提だから、多分、人の感情の推移を仔細に捉えても良いことがないんだろう。
発展途上国からの人はそういう人が多い。
集団「退行」現象(先進国基準)
彼らは(相対的に)しょっちゅう感情記憶をリセットする。たぶんそれは、覚えててもむしろ不快になる生活レベルに適応してのことなんだろう。 楽しめるときに精一杯楽しめるようになるには、嫌なことはすぐに忘れておいた方が良いし、日常では馴れてるけどどっちかというと嫌なことがほとんどなんだろう。
発展途上国でも、やっぱり心地いいと感じる生活レベルは先進国水準のものなんだとおもう。
「おちつき」を手放すことで、過酷な環境にも情緒的に適応できるようになる。ストレスに対する防衛機構の一つ「退行」の一種なんだと思う。
民度の低さによる長所は「退行によるストレス耐性」、短所は「幼児化して感情表現が刹那的になっていることで落ち着きを失って思慮が浅くなったり振る舞いが無様になったりする」こと。何より他人から「こいつは民度が低い」と見なされることは、見放されたり軽視されたりする手堅い口実になる。
そのうち続きを書く。
2009-09-27
breeze
どの国にも保守とリベラルがいる。
アメリカは、オバマが"CHANGE"をひっさげて、保守派に引導を渡した。
日本もたぶん、最近の政権交代でそうなった。
正解が一つの国
生活の感覚でいうと、日本はかなり保守的のように感じる。
というより、「正解」以外はみんな間違えと見なす傾向が強いお国柄では、
リベラルはみんな間違えということになる。
そうやってできた国は、すごくお行儀がいい。
みんなオトナだ。
正解がたくさんある国
民族がいろいろまじると、「正解以外は間違い」が通用するのはアカデミアの中だけになってくる。
あとは、各個が自己責任で、自分の意見を擁護する。
日本でそれをやるとエキセントリックだけど、たとえばカナダではそれが普通だった。
保守的な人もリベラルな人もどっちもいたけど、両者はどっちとも対等だったように思う。
・・・・まあ、派閥争いが面倒なんだけど。
NEXT
今の与党がどれだけよくてどれだけカスかなんてどうでも良いけど、
日本はやっぱり保守的な見方がかなり強いように思う。
それが正解なのかは、彼ら自身が決めれば良いんだけど、
これから日本人の国民性って変わるのか、けっこう関心がある。
政権がかわれば国のキャラも変わるものなのかな・・・?
属さない
なつかしいことを思いだした。 当たり前にしすぎて、もう意識を向けなくなったような事。
「その国らしさ」
イタリア人の特徴といっても、イタリア人はピンからキリまでいる。 ひとくくりにはできない。
・・・・・・それでも。
ロシア人、アメリカ人、カナダ人、中国人、日本人の集団と並べると、やっぱり、イタリアにはイタリア人全員が(無自覚的に)共有している考え方のクセがある。
それぞれ、その国の人は多分自覚してないんだろうけど、自国の文化に染まってる。
というより、考え方の傾向は、ある傾向を継承している事を自分で意識しないことこそ、文化たりえる、という説もあるし、普通は気付かないんだろう。
・・・・っていう人間観察をしばらくやってた。
先進国でくくると、後進発展国と、発展途上国などと比べられるようになる。
勝戦国・敗戦国でくくるのも面白い。
その特色は、だいたい、彼らが得意とすること、苦手としてること、(そして自覚がないけど苦手としていること)の3つに分けられた。
だいたい、どこの国でも、得意な事を列挙するのには入念だ。
でも苦手な事のうちあまり大事でない事は、何か他の得意な事とひっくるめて「その国のアイデンティティ」としてしまうことがほとんどだ。
味がある、だとか。そういうの。
それより悪いこともある。
「自覚がないけど苦手としていること」は、確実に、それを抱えてる人が知らないうちに、その人の負担になってる。
たとえば。
なにか精一杯頑張って、失敗したとする。なにか原因なのか当人にはわからない。
・・・でも傍目からみてると、「自覚がないけど苦手としていること」が失敗に少なからず貢献しているように思えることが多い。
失敗を失敗とみなさないという変化球すらある。
こうしてみると、
「どこかに属すこと」は「帰属することによって得られるとてつもない安心感」と「気にしなくては行けない事が大幅に狭まる効率性」と「イベントの時に振る旗を持てる」という特権を、「無自覚のうちに得意不得意を決定される」「無自覚のうちに特定の事柄が全く認識できなくなる」(つまり、自分の属する団体の、"気付かれてない弱点"なんだけど)という価格を払って買い付けるということだという風に感じてくる。
・・・・宗教と同じ、とも言える。
宗教の信仰を受け入れて、内面化した人は、その色眼鏡を通してしか世界を観られなくなる。 それと同じこと ・・・ 重大さが違うけど。
・・・・・さて。
嫌疑
ひとしきり、東京タワーの上から道を行き交う人を眺めた気分を味わったところで、自分の立ってるガラスが割れたような感覚になった。
俺はどこに染まってるんだ?
俺はどこの時限爆弾を知らないうちに抱えてるんだ・・?
そこでしばらくは、自分が受け入れてた「文化」を徹底的に洗い出すことにした。 目指せニュートラル。
これは結構疲れた。
「安心感」をどんどん減らしていって、「効率」をどんどん悪化させることだったから。
それでもとりあえず続けた。 限界まで続けてみた。
多分、「俺らしい合理性」を軸に、贅肉をそぎ落とす作業になったんだとおもう。
その時すでに手放せなくなっていた文化は残して、手放せる部分は全て手放す。
そんなやや不公平な作業だった。 でも意味はあった。
すごく疲れた。寝込んだ。
完全ハンドメイドの「文化」が出来上がった。
他の人は、親や学校や国からそのまま受け継いでる物をできる範囲で拒否して、
自分で調べて試行錯誤して、自分で作った。
制約もクセも特徴も全部知ってる。
ちょっと誇りに思った(アメリカ的な意味で。
ステップバック
そしてとりあえず、ある程度はクリーンになった。
・・・・べつに、「その国らしさ」が汚れてるというわけではなかった。
チキンスープもブイヨンもみそ汁もそれぞれ、いい味がある。
でも透明無味無色の「水」がどこもなかった。 それがすごくいやだっただけ。
俺の知らないうちに、よくわからない制約を引き受けさせられてるっていうのがすごくいやだった。
最近痛いめにあったのがそのせいなような気がしてならなかったから、自分が使ってる浴槽を透明な水にする作業はすごく気合いが入った。
「水」を確保できれば、あとは必要に応じてどこかの国の色や味に染まってみれば良い。 そう思ってた。
「その国らしさ」はあくまでも嗜好品。 もの。 俺じゃない。
・・・・・ということにしておいた。
選ばされてるんじゃなくて、自分の選択によって選んだものだ。
・・・ということを確認することがすごく大事だとおもった。
自分の意志をもっているか、もっていないかの問題にみえた。 たぶん中2病だった(笑)
数年後
今。
今でも「どこにも属さない」というポリシーは続けてると思う。 というか、当たり前になった。
「つよい帰属」を感じる物を好まなくなった。
結果的に社会的に生活できないレベルまで足りなくなった「安心感」と「効率」は、がむしゃらに走ってとりあえず取り付けた。
いまでも足りない気がするけど、とりあえず一日は過ごせる。
・・・・どこの国でも同じことをもっと見つけて、それに伴うクセを「人間だったら仕方がないこと」として「ニュートラル」と見なすようにした。
恋愛だったり。「できない事はしょうがない」だったり。「努力したら報われたいと感じるものだ」っていう心理傾向だったり。
メタ視点をもってもあまり他に選択肢がないことのうちから、順番に自分の選択でその色眼鏡をかけることにした。
いろんな人にあって、「その国らしさ」も悪くないなと思うようにもなった。
でもやはり一度「他者」だとか「もの」だとかと見なしたものとは、同一化できないとはおもった。
単にそういう風に育っただけだと思う。
これからも、カナダや日本をレッテル付けして、それをクセとみなして、それらを参考にして自分なりのニュートラルを計算して、計算結果を採ることを続けると思う。
それでもやっぱり、こういうことを考えずに、(与えられた物ではあるけど)その人にとって「自分なりの」成功や幸せで満ち足りることができる人はうらやましいとおもう。満ち足りる為に必要なコストが低いってのは大事なことだ。
You guys are all wrong.
・・・いろんな国のエスノセントリズムに辟易した末にできたのがこれなんだと思う。
「俺らのやり方を絶対の物として受け入れろ」なんてのに3,4回つきあってると、「正しい」なんてものがかなり相対化されてくる。あとイライラもたまる。
香港も、カナダも、日本も。
全部、正しい。
全部、間違ってる。
全員、大間違い。
もうそれで良い気がする。
その一線を超えても周りが見えてない振る舞いをされたとしても、今のところは「しかたがない」ですませるしかないけど、将来は力をつけて、こっちが「教育」する側になってやろうと思う。
みとけよ。
・・・って、これが受験の理由ってなかなか言えないよなあ。
2009-09-07
妥協
「異質な人たち」がいるのが当たり前の国を読んだ。
たしか、日本に来た外国人も、ずっと日本に居る日本人も、自分の経験をほめるときもけなすときは「日本は島国でみんな同じような考えをする」って表現をどこかで使うのをよく見るし、その対局としてアメリカとか西洋文化があげられるのがお決まりだったと思う。このブログはだいたい「日本はお互い理解できるのが当たり前で、アメリカは理解できない異次元の人がお互い理解できる人との関わりを大事にする」ってことをいってる。
アメリカの肩を持つなら、日本は「べたべたして気持ち悪い、そんなに理解されないのが怖いのか」ということになる。
日本の肩をもつなら、「相互理解が高い水準で保たれて、あうんの仲で通じた方がコミュニケーションの密度や効率が高い」ということになる。
アメリカの人付き合いは「関わりにくい人も、そんなに関わりたくもない人も、うまく処理できる」ようになってる。流動性は高い。ただし、「本音で話したらすごく気が合う」人がいてもなかなかそれに気付かないかもしれない。 いつまでたっても腹を割れない世界では「お金」とかの価値が相対的にあがる。 とりあえず信頼を作れるから。
日本の人の付き合いは、「前提をクリアする人だけと関わって、そうじゃない人は排斥対象に置いておくことで、すごく密度が高いコミュニケーションを量産できる」ようなものだとおもう。「理解してもらう」ことがいろんなことの目的。「理解してもらえない」ってのはほぼ「排斥」と同じ。
ステレオタイプを体現したアメリカ圏の人と日本圏の人が、お互いの流儀を全く知らない状態で、自分のやりかたで関わりを持とうとすると・・・
日本はアメリカ人を「白々しい人」「形式張ってる人」「いい人なんだろうけど・・・」
アメリカは日本人を「かまってほしい子供みたいだ」「馴れ馴れしい・・」「いい人なんだろうけど・・・」
とみなすことになるんじゃないかな。
「理解されないと即排斥の対象」の日本では「こちらが歩み寄る」以外に選択肢がないのが基本だし、まあもともとそういうものだけど、すれ違いが相手にとって許容できるならすれ違ってたままほうが楽だな、と思った。
P.S.
2009-09-05
ローマには
聞いた話。
何か問題がおこりました。
日本人の弁護士は「正しいことがまずありきで、それを間違った人が『悪い』」 と考える。
アメリカ人の弁護士は 「両方正しい。どこで折り合いを付けるか」 と考える。
「正しいこと」が一つに集約されている国、沢山ある国の違い。
「みんなそれぞれに正しいんだ」 とわかるようになるのが、弁護士のように考えること。
そして、その思考訓練を受けるのがロースクールです。
まあこのステレオタイプの日本人には煩わしいだろうなあ、このステレオタイプなアメリカは・・・。「答え」がないから、自分で用意しておかないと行けないし、それも常に更新し続けないといけない。
ステレオタイプの日本的に考えると、「どっちが正しいか」で覇権争いをすることになる。
ステレオタイプのアメリカ的に考えると、「折り合いを付けれるところで共存しておこう」ということになるのかな。
2009-08-17
やり過ぎ?
アクリルのクールな花瓶を買った。
2日で水漏れした。
「交換の案内をお願いしたいのですが・・」
とよこすと
「なにもして頂かなくて結構でございます。水漏れします製品はandrewanderson様で処分していただけませんでしょうか、申し訳御座いません。」
と俊速で答えが返ってきた。
そしてもう到着。
・・・・なんとか壊れた方を修理して使いたい気分になってきた。