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おさかななのに猫が好き

2013-01-28 自民党の憲法改正草案を考えてみる?

昨年の4月にまとめられた、自民党日本国憲法改正草案、ごらんになりましたでしょうか?

けっこう、やばいですね; というか、かなりやばいです。9条を改悪し、国防軍として、戦闘行為が可能になることはもちろんですが、国民の人権も抑圧・制限しているように思います。

いっぺんに憲法改正草案全体をまとめて批判するほどの時間も能力もないので、順次、時間ができたときにアップしていきたいと思います(くわえて、勉強もしないと…)。

さて、今日ちょっと除いてみたのは、日本国憲法の前文です。

前文は、全文書き換えです(だじゃれじゃないです、ホントです)。

■現在の日本国憲法の前文■

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

■続いて、自民党憲法改正草案の前文■

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法行政及び司法三権分立に基づいて統治される。

我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

<1>戦争の惨禍は、起こってもかまわない?

 現行憲法の「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」が消えています。戦争の惨禍を我が国にもたらしたいと自民党のみなさんがわざわざ思っているとは思えませんが、戦争はやって当たり前と思っているからこそ、この部分は消されたのでしょう。

 20世紀は戦争の世紀とよばれ、日本もふくめて、侵略戦争を起こしました。そうしたなかで、世界的に侵略戦争はよくない、また、戦争ではあってもしていいことと、してはならないことがあるということで、戦時国際法なども形作られていきました。こうした流れを否定している、少なくともかつての侵略戦争をほとんど反省しておらず、戦争はやって当然なんだと考えているようにも思えます。

<2>ファシズム到来、人権弾圧もやむなし?

 現行憲法の「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」を削っていますので、「専制と隷従、圧迫と偏狭」など、ファシズム人権の抑圧もOK、と考えているように見えます。少なくとも専制政治などをこの世界から排除する必要はないと考えているように見えます。まあ、日本国憲法を変えて、天皇を元首にしようなんて掲げているんだから当然ですかね。

<3>平和的生存権は全世界の国民に保障されたものではない?

 現行憲法の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」もなくなっています。ということは、国際社会において重要な地位を占めている、などと自民党改憲草案は言っているわけですが、こうした世界の国民の平和的生存権には注意を払わない、ということになってしまうように思います。

<4>天皇の権限強化

 自民党の草案では「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」などとかかれています。国民主権などとその後にかかれていますが、それはお飾りでしょう。なぜなら、「天皇を戴く」となっているからで、天皇の権限強化をねらっているのは明らかです。後日ふれますが、天皇を元首にする、という条文につながる部分ですね。

 しかもこの前文を見ると、長い歴史の間、ずっと天皇は国民の象徴として天皇が国民の上にいるように見えますが、実際には現在も天皇は象徴にすぎず、国民よりも地位が上に「戴く」ようなものではないし、少なくとも過去の戦国時代に権力を持っていたのは征夷大将軍だったような・・・天皇がいつも国民よりも上に戴かれていた、という事実はないように思うのですが。

<5>「和を尊び」で国家への隷従を正当化?+社会保障削減・自己責任論も正当化

 自民党草案では、「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」などとなっています。ここでいう「和を尊び」などというのは、これも後日述べますが、「公の秩序を乱す場合は、結社の自由、表現の自由は認めないぞ」というとなっていますので(21条)、おそらくそうした部分にもかかっているのではないかな、と思います。つまり、和を大事にしろ、和を乱す行為はゆるさないぞ、という…。

 同時に、大きなのは、家族や社会全体で助け合って、とわざわざ書いてある部分です。これも後日述べますが、生活で困っても、家族で何とかしろ。家族で何とかできなくても社会全体で何とかしろ、と言っているように見えます。社会全体というと、聞こえがいいように思いますが、現在の政治の流れからして、国として国民の権利を保障するということではなく、ボランティア民生委員など、地域の住民による善意、ということになると思います。

 また、そもそも家族が国家の基礎単位のようにかかれているのも奇異です。基礎単位は世帯であって、個人の場合もあれば、家族(複数人)のこともあると思いますが、未成年の子どもを親が見るばあいをのぞき、成人した場合は、本来は成人した人自身が独立した個とみなされるのが当然であって、そうした成人だけど生活がなりたたない(就職先がない、障害で働けないなど)場合も、家族で面倒見ろよ、と言っているのかな、と思います。

 残りは気が向いたら書きます。いつになるやら。。。

 

 

2013-01-27 2年ぶり?に復活

2年ぶりに復活しました。おさかなです。

歴史修正主義というよりも、現在の政治のことに対する記事が多くなるかなーと思いますが、お手柔らかに。

よろしくお願いいたします。

あ! ココログで開いていた「おさかな日記」は閉鎖しています。

現在は

http://blogs.yahoo.co.jp/tamanekoosakana

でとりあえずエントリ書き始めました。はてなにするか、このままyahooで行くか、悩み中w

しばらく重複エントリが多くなると思いますが、よろしくです;

2008-04-05 逃れられない批判と問い

「国民の物語」への批判は、それが具体的にどんな物語であり、何を排除し、隠蔽し、沈黙させているのかを明らかにすること、そしてそれに対して、具体的な「倫理的」「政治的」判断を加えることなしには、実質的批判とはなりえない。また「歴史の物語り論」も、メタ物語として、その語りの「政治性」や「倫理性」についての批判をまぬかれることはできないし、その語りが語ること、あるいは語らないことによって、何かを排除し、隠蔽し、沈黙させているのではないか、という問いを免れることはできないのである(「歴史の物語り論」についてのこの【※管理人注=「この」に傍点】言説の語りも、当然、同じ批判と問いとに開かれている)。

(『歴史/修正主義』62ページ、高橋哲哉岩波書店2001)

2008-04-04 国家に「戦後責任」を取らせることで・・・

侵略や戦争犯罪の「罪」を負う人が「歴史修正主義者」になるのは、自分の「罪」から逃れたいためだろう。だが、侵略や戦争犯罪に参加したことのない戦後世代の人が「歴史修正主義者」になるとき、彼らは、「本質主義的」(「実体論的」)国民観、民族観に立つあまり、直接の戦争責任あるいは「罪」と「戦後責任」とを混同していることが多い。彼らは「ドイツ人」や「日本人」の同一性あるいは連続性をあまりに強固に考えているので、直接の責任あるいは「罪」を負った先行世代から適切に距離をとることができず、先行世代の「罪」と自らの「戦後責任」とを区別することができない。ドイツ第三帝国」や大日本帝国から距離をとることができず、あまりに強く自分をそれらの国家に「同一化」(※管理人注=「アイデンティファイ」とルビ)しているので、それらの国家の犯罪がただちに自分の犯罪であり、「子々孫々」にまでわたる「ドイツ人」や「日本人」の犯罪であると思ってしまう。この前提に立つかぎり、自分が無罪であると言えるためには、「第三帝国」や大日本帝国が無罪であったのでなければならなくなるだろう。

 彼らが知らないのは、自分が所属する国家がかつて犯した過ちを批判し、国家に「戦後責任」を取らせることによって自らの「戦後責任」を果たすことが、かつての国家の過ちと自分の連続性を断つゆえんだ、ということである。

(中略)

歴史修正主義者」の誤解に反して、自分の所属する国家の戦争責任を認めることは、「子々孫々」に至るまで「罪人の子孫」扱いを甘受することではなく、まったく逆に、自分とかつての国家との連続性を断つことによって他社の信頼を回復していくポジティヴな行為、肯定的・積極的な行為なのだ。

(『歴史/修正主義』12-13ページ、高橋哲哉岩波書店2001)

2008-04-03 「修正主義」は、蛮行を隠蔽する際にも使われている用語

「修正主義」というと、日本では「歴史修正主義」という言葉がさかんに使われ、それは主としていわゆる「自由主義史観」の主張として登場している。その核心は、戦後日本の歴史教育は「東京裁判史観」「コミンテルン史観」「暗黒史観」「自虐史観」「反日史観」に毒されてきたもので、それを正すには「自国の生存権国益追求の権利」をはっきりと認め、「自国の歴史に誇り」をもつ歴史教育をめざさなければならないというものである。つまり日本のそれは、排他的な日本ナショナリズムと不可分に結びつくと同時に、民族差別性差別の傾向を強くもち、それが教育の現場が争点となるほどに一定の「国民的」広がりをもったものとして使われている。しかもその「修正主義」という用語はフランスなど西欧諸国における歴史の改竄、つまりナチスユダヤ人虐殺等の蛮行を隠蔽する目的で用いられている。その意味では、韓国で「修正主義」という言葉を用いるときには細心の注意が必要となる。そこからも、ヨーロッパや日本における「歴史修正主義」とか「修正主義」という用語の使い方は不適当であり、むしろ「ネオナチ的な歴史の見直し」とか、「日本版歴史の見直し」と呼ぶべきだということにもなろう。(「歴史における『修正主義』」歴史学研究会編2000、「韓国に『修正主義』はあるのか」尹健次 30-31ページ)