そうだ奈良へ行こお。

幸か不幸かケーテャーの具合ぇが悪くなったのを機会に半年あまりを完全に俗縁を離れ私的時間の大部分を奈良仏教の勉強に費やしていました。平安仏教や鎌倉仏教と比べられ完璧に悪い評判ばかりが定着してしまった奈良仏教ですが実際に触ってみれば凄い魅力と威力に満ちた世界でした。奈良仏教に伝わる「観」の修行を通じて自分が後生大事にしている心の大部分が成り行きで出来上がった不要なものだったと思い知りました。あらあら不思議!今のキャラのままで心がけが微妙に変わりはじめた。もしかしたら奈良仏教には禅より凄い世界があるかも知れません。 …そんなワケで所感です… 一般に非現実的な理論の学習に終始しているように思われている奈良仏教たが実は世間のイメージを大きく裏切り意外にも極度に具体的で実践的な世界をもっていた。いやぁ凄い効き目だ! 奈良仏教の勉強をして最初に驚いたのは閑に飽かして哲学してばかりと思っていたら実は奈良仏教では無念無想の禅にも負けない「観」という思考する座禅を伝えていたのだ。実は奈良仏教の理論的思弁は観という実践的な修行と見事に一体化しており厄介な理論の全ては観を通じて確かめられてい
く。観
には様々の

容があるが簡単に整理すれば世界と心の姿と形成プロセスを観じることで要するに世界が心を作り心が世界を作るプロセスを考え抜くということだ。そこでは人間の心をデータの集積過程として見つめる一方で人間が経験する世界の姿を心によって規定された像として分析する。観で心の正体を覗いているうちに成り行き次第で傷ついたり気持ちよくなったりする自分の心も所詮は成り行き任せで形成された条件反射の集まりに他ならないことが解ってくる。少なくとも多くの現代人が後生大事に守ろうとしている「自分の心」というのは後天的に出来上がったもので初めから自らの中に備わっていたものでもないし自らの責任で作り上げたものでもない。そうゆう誰のものかも怪しい感じの心が退場したところに確かに真実の心の姿が現れ始める。何というか…人為的な企みや目論見から自由になりはじめた心からは無用な意地やポーズや狙いが薄らいでいき目の前で次々に展開する状況にも敏感かつ柔軟に反応できるようになる。ところで800年にも亘り禅や念仏の隆盛の影に泣き今やローカルで地味〜な弱小宗派と目されている奈良仏教だが実は新仏教への危機感や密教との接近など
によって鎌倉時代には現実への志向性も強まった。しかも長く南都の学問寺の奥深くに隠されていた「性相学」の伝統は現在では特に新義真言宗各派に受け継がれ広く全国に伝えられている。…さて今日も観の修行に入りますが煩悩している心を見下ろしている自分というのは何者なんだろうねぇ…。