観念の重ね塗り

普通に行なうだけでも複雑な作法。気づくと何かの所作を飛ばしそうになったり間違えそうになったりする。それなのに事前に浄土の景色や仏様との一体感のイメージや身体感覚に注意したりするなんて話が余計に複雑化して困る。これぢゃ初めから嫌気が出てきそうだ。しかし現実には始めにイメージや体感を作っておいた方が結果的に修法が楽チンになるようだ。実際に真言宗で行なう修法は多種多様で統一性のない観想の羅列というよりは似たようなイメージの繰り返しや重ね塗りで構成されているようで実は基本となるイメージは意外に少ない感じがする。それらが繰り返されるからこそ間違えたり忘れたりしやすいとも言える。逆に修法を類似したイメージの繰り返しだと思えば作法の意味や配置の把握も楽チンになりそうだ。基本になる十八道を見ても護身が終わった後にも浄地や浄身があり結界や辟除や結護があるように何度も似たような観念が重ねてある。修行を初めたころは同じような防御体勢を丁寧に何重にも固めるのは少し異常で被害妄想的すぎるぢゃないかなんて思ったりしたくらいだ。しかしイメージを繰り返し重ね塗りすることこそが実は大切なツボだという当
たり前な感じのことが判ってきたのは最近の話だ。考え方のツボは同じイメージを様々な作法によって強化していく方が結果的に効果も高くなるという感じか。しかも重ね塗りによって現実の道場を次第にバーチャルな空間へと変容し拡大してゆき最後に完全にバーチャルな仏様の浄土をリアルに出現させるというように場面設定を深めてゆける構成はホントに見事だ。つまり繰り返しは各段階で新たに行なわれると思えば解りやすくなるか。例えば供養のみを考えても加持供物→大虚空庫と小金剛輪→五供養みたいに場面ごとの展開が見られるみたいな。こうなると事前の観念の予行演習もくりかえしの一種になるという意味からすると完全なる邪道とまでは行かない気がする。各段階での作法を観念の重ね塗りと考えて再編してみると基本は道場作り(および行者作り)と関係作りと対面とに集約できそうだ。(1)道場作り:防御→荘厳→供養。(2)関係作り:語りかけ=表白/祈願というセットができる。これらの繰り返しの合間に(3)の対面:勧請→出現=観仏/金剛起/道場観/本尊観/のセットが挟みこまれる。類似
のイメージを何度も重ね塗りすることで高まる修行の盛り上がり感で初めのころこに抱いていた違和感や苛立ちも一挙に薄らぐ。ちゃんと勧請すんのに金剛起やら観仏やら道場観やらメンドくさという当初の気持ちも今やクライマックスに向かう期待観に変わるだろう。実際には各セットの配置は思っ
たより掴みにくくて行人泣かせだ。それはそれで素直に勉強を繰り返すしかないか。こうして前もって作っておいたイメージを重ね塗りして雰囲気を盛り上げるのが密教の知恵の一面だとするなら別の意味での重ね塗りもある。それは部分と全体の一致。これも密教の知恵として積極的に受け止めたい。密教の修法全体は道場作り→関係作り→対面という構成になっているが各段階にも小規模な全体構成が現れる。このフラクタルというかホノグラフィックな関係性は何だか華厳の世界観を思わせてくれて気持ちいい。つまり密教の修法は知らず知らずのうちにミクロからマクロへの移行を体験できるよう仕組みが仕掛けられているのだった。当方なんざぁ修法どころか普通の話でも重ね塗りされないと簡単に忘れてしまう。だからら色んな人に何度も同じこと言わせるなぁとか怒られていた。