日蓮教学理解のツボ

端的に言うなら日蓮教学の本質は結果を出す仏教という一言に収まる。結果というのは他でもない仏説の実行の結果や仏説そのものの実現を意味している。それは日蓮教学の歴史を貫いているだけでなく壮大な教学体系の大黒柱となっている。そもそも日蓮の探求活動は膨大な仏説に示された様々な結果を体系的に整理することに始まり仏教が求めるべき最も重要な結果を割りだした上で結果の実現に直結する三大秘法を発掘したことで完成したとさえ理解できる。日蓮教学の根幹をなす事の一念三千の世界観と五重相対の理論も結果を出す仏教というキーワードで読み直すと驚くほどシンプルな世界になる。まず一念三千は人間の境地が当人の境遇や運命という結果にリアルに現れる原理の説明だ。事(現実)の世界という具体的な世界では結果が十界互具の原理に従い十如是と三世間という局面に現れるというのが一念三千だ。これで人間の苦しみの原因から救いの道まで一挙に説明できる。また五段相対もしくは五重相対も最も重要な結果という基準を中心に全ての仏摂を簡潔にランク付けしたものだ。それなら天台の五時教判も日蓮的に読めば単なる説法の歴史的な前後関
係には終わらず様々な教説と最重要の結果との関係を把握する手がかりに変わる。

誰が泣いているのか。人間不在の正義

体操の宮川選手はコーチのパワハラそのものを否定しているだけでなくコーチへの処分も望まないという気持ちなんだそうな。ハラスメントの有無は今や受けた当人の意思ではなく一部のジャーナリストや弁護士や特定の価値観をもった第三者が判断するもののようだ。確かに刑法には当事者の意思とは無関係に人の犯罪が認定されるケースが規定されているけど微妙な人間関係に関する法や内部規定の異様な拡大は軍国化に負けないくらい脅威だ。やだねえ。例えば内部告発といえば聞こえはいいが要するにに密告だし仮に不正を防ぐためという正義の動機があるにせよ行為としては単なる密告に変わりはない。動機が正しければ卑しい行為も許されるという考え方は見えにくい悪を防ぐたための緊急避難的な行為に正統性を与えるが私刑の禁止を基本とする法の体系は最終的に内部矛盾に陥り法の存在意義も失うことになるかも。