タダイマトビラ

タダイマトビラ

タダイマトビラ


この家で、私たちは無理に愛し合わなくてよかった。それが私たちを追い詰めてもいたし、同時に、どこかで救ってもいた。

人間が「家族」というシステムの構成員として組み込まれる時、自然発生的にしか生まれ得ないはずの「愛」が必要十分条件として要請される。
それを意識しなくても、血を分け、ひとつ屋根の下で暮らす人間同士の間に愛情が生まれれば、人は「家族」とそこに流れる「愛」を享受し、やがておなじシステムを再生産することに疑問を持つことはないだろう。
では、それが叶わなかったら? 
「愛」が決定的に欠けている家庭で育った子供が「家族」というシステムを求める時、それを困難にする瑕疵。
そのエラーはいったいどこに由来するのか。


物語は、主人公の恵奈の小学生時代から始まる。
恵奈の母親は、子供を愛することができない。
母親として愛情の薄さを父に詰られた際の「私は、二人がもっと大人になるまでは、気が合う人なのかどうかもわかんないよ」という発言からは、母性による「無条件の深い愛情」を感じることができない。
「世界を突き飛ばしたいとき」響き渡る母の笑い声が寒々しく響き渡る家で、恵奈は成長していく。
素直に「愛情不足の子供の行動」の常道をゆく弟を尻目に、恵奈は一風変わった「工夫」で愛情の欠落を埋めようとする。
「カゾクヨナニー」と自身で名付けた、自室のカーテンを人間に見立て、それに抱きしめてもらい家族愛を自己処理する行為で自分を慰めつつ、
自分の家を「仮の家」、そこに住まう家族を「ルームメイト」とみなし、早く「本当の家」、帰るべきドアを作ろうと恋愛小説を読み耽る。
成長した恵奈は、年上の彼氏との「同棲ごっこ」を経て、年上の友人・渚さんの飼うアリの「アリス」を鍵に、ついに「本当の家」を見つける。


この作品が小説として巧みであり、また(おもに女性における)家族愛の問題の核を正確に射抜いているのは、物語の軸となるモチーフに「ドア」を用いているところだろう。
「ただいま」と「おかえり」が生まれる場所、外から家に帰る時に開け、帰ってきたものを迎え入れる時に開けるもの。
愛もまた、「愛する」ことと「愛される」こと両方を含んでいる。
愛される存在であったおぼえのないまま、何かを愛する存在になることは可能なのか。
恵奈の「工夫」は、いつか「本当の家」を見つけ、その「ドア」を開ける日まで生き延びるための戦略である。
だから月経についての授業を受け自分も「ドア」になる可能性があること、そして恋人が自分の存在で「カゾクヨナニー」をしていること、に気づいた瞬間、恵奈は激しく動揺する。
ドアを挟んで自分の存在がひっくり返り、未知であるドアの内側、自分がその中に閉じ込められてしまう、アイデンティティの危機。
それは、家族のシステムの内部で、それまでのように「脳を騙」しながら、「本当の家」を求めてあがいてきた恵奈には、とても受け入れることができない恐怖なのだ。

そう考えた時、最後の言葉が「ただいま」ではなく「おかえりなさい」である意味が、悲しくもこれ以上の正解がないような幸福なものとして浮かび上がってくる。
ドアから中に入り、受け入れられることだけを希求していた恵奈は、ドアを挟んで、家のなかと外がひっくり返り、「人類が真実の世界に帰っていく」とき、ようやく深い愛情を持って「おかえりなさい」と言うことができる。
それは、人類の営みを「繋がる命の粒」として、ドアで隔てられない、ひとつの命の波として融け合う存在として認識できた恵奈にとって最後の「おかえりなさい」なのだ。


この物語では、「ドア」は帰るべき家の比喩でありながら、母の足のつけ根にある子宮口にも重ね合わされる。
その象徴性を媒介に、恵奈の「本当の家」に帰りたいと思う欲望が、「生まれ直す」ような人類の変態へ転化して成就される結末は、本当に小説の、想像力の勝利であるが、
同時に、受け入れられてこなかった人間が、愛情を持って他人を迎え入れるためには、ここまで一人の人間を、あるいは世界そのものを破壊しなければいけないのか…と、フィクションにしか表現できなかった方法によって、深く思い知らされた。



ひもづけて思い出された2冊。


素粒子 (ちくま文庫)

素粒子 (ちくま文庫)

これもまた、レイヤーが壮大なだけで、徹底的に不条理で割に合わない人間の存在に対しての誠実な回答であるように思える。


母がしんどい

母がしんどい

こちらはノンフィクション。
歪んだ両親と戦う一方で、成長して家を出た娘は、自分の中の母親や「親を大切にしないといけない」という世間の理想など、様々なものと戦っていかなければいけない。
漫画は、どこを言葉で詳述して、どこを読者に委ねるか、もちろんすべて作家の裁量にまかされているのだけど、
一コマ一コマ、線のいっぽん一本まで、すべてのページに沈み込んだ濃密な記憶と情念が、ファンシーで丸っこい絵柄から、たちのぼって来て、すごい読み応え。
ブログも洞察力と表現力のコンボ名言連発で素晴らしいです。
むだにびっくり
女印良品

あかりの湖畔

あかりの湖畔

あかりの湖畔

読みながら、思わず目を眇めてしまうほど、湖畔に落ちる木漏れ日や陽を透かす緑がまぶしく、
だが豊かな描写のなかに溺れつつも、照りつける日差しやむせかえるような草いきれに息苦しくなることがなかったのは、舞台が湖畔だったから、だけではない気がした。

温泉街を見下ろす山奥の、湖畔のほとりにあるさびれた土産物屋兼食堂の「お休み処・風弓亭」。
父にかわり風弓亭を切り盛りする長女の灯子、山を降りた洋食屋でアルバイトをしながら、女優にあこがれ東京へ上京する予定の次女の悠、末っ子で高校生の花映。
風弓亭の三姉妹と、その周りの人々が、風弓亭に訪れる季節の移り変わりとともに描かれる。

主人公の灯子に寄り添い、その時々の心情を直接的に語らせながらも、時折画面を引いて灯子に見えないものを描く描写は、
一枚薄い膜をへだてたかのように、描かれるものとの距離を感じさせる。
青山七恵の特徴であるその微温的な語りの手つきによって、能動的で情感豊かな風景描写が、軽やかに読み進められた。
この風景が毎朝届けられるのを楽しみにしていた読者も多いだろう。

作中人物と絶妙に距離を取る語りは、描写というものがまず何かを見る/見ないから成り立つことを思い起こさせる。
やがて、その描写と同じように、物語も見ること、見たことにフォーカスされていく。
風弓亭まわりの人間が、温泉街の人間から「天上」と揶揄されるほどの快適な湖畔での生活のなかで隠し育んできた「秘密」が明かされていくのだ。

「見る」ことに特化した文体が、偏執的なまでに隅々まで細部を描写する語り方になってしまうのはよくあることだが、
青山七恵の作品の多くには、非対称的な「見る」の関係が描かれているにもかかわらず、そのように対象のアウトラインを露骨に舐めまわすような描写が見られない。
そこでは、なにかを見ることで、またそれを描写することで、見られる対象に近づこうとする欲望よりも、
見るものの身体、あるいは見るものと見られる対象のあいだに結ばれる関係こそが描かれている。

この作品の主人公として多くのものを見る灯子の周辺にも、ゆるやかに、しかし確実に変化は訪れていく。
それを先取りする形で受け入れるかのような物語の結びは清々しく、凛としてうつくしい。



それから、2012年1月号の『文學界』に掲載された「すみれ」もそうだったが、この人の描く少女が、とても面白い。
15、6歳の少女の不安定さが、早熟なコケティッシュさや甘いノスタルジーにひたることなく、均整の取れていない姿そのままで描かれる。
「すみれ」の主人公・藍子はデザイナーと編集者の両親のもとに生まれ、なに不自由なく育ち、高校受験を控え模試や推薦入試の結果に一喜一憂しながらも、
両親の友人で藍子の家に居候している、エキセントリックで、およそ大人らしくない大人の友人レミちゃんに「あたし、当たり前の幸せなんか、いやだ……」とつぶやく。
その雑な一般化や、「当たり前の幸せ」を享受する人のなかに藍子の両親が含まれていることに、恵まれた少女らしい視野狭窄を見て取ることもできるのだが、
同時に伝わる恥ずかしさや心細さに、「ほんとうの愛らしさ」のようなものを感じてしまった。
『あかりの湖畔』では、三姉妹のうちもっとも早くその秘密が明かされる花映だが、前触れのほとんどない中で唐突に、歳のわりに朴訥として、天使のような印象の少女が隠していた事柄とふるまいに、驚きと、生身の16歳の花映という存在がやっとあらわれたようなリアリティが迫ってきた。
自意識に基づいた圧縮された女性性を投影することも、逆に若さという絶対的他者による脅威として描くこともなく、
いびつな不完全さをそれそのものとして描くことで、アンバランスながら読むものに生身を感じさせるひとりの人間として存在させる。
青山七恵の物語の少女たちは、彼女の作品の根底に流れる姿勢を象徴した姿で描かれているのかもしれない。

カメラ・オブスクーラ

カメラ・オブスクーラ (光文社古典新訳文庫 Aナ 1-1)

カメラ・オブスクーラ (光文社古典新訳文庫 Aナ 1-1)

『カメラ・オブスクーラ』粘菌的に緊密で奇怪な言葉の織り模様に、毒の胞子でうっとりするような読書体験。訳者解説が作品の面白さを何倍にも引き出してくれました。ひいき目(というのもおこがましい)でなくマジで。(twitter,10月12日)

↑作品と解説にとても影響されてますね。


どれほど言葉を尽くしても、いっぺんでも「本当」を現すことはできない。
新しく小説を読みはじめたその瞬間からいつも忘れてしまうそのことを、
とても軽やかに楽しげに暴いてみせて、その虚構のうえで遊びに遊ぶ。
たとえばクレッチマーの妻子の留守を狙って押しかけたマグダが屋敷で姿を消した時、
クレッチマーがクローゼットを開けるその瞬間まで、彼女はスカートの裾をはみ出したままでその中に隠れていたはずだが、開けた瞬間に彼女は赤い座布団に変わってしまう。
魔女のひとりも出てこないこの俗悪で残酷な小説のなかでも、そういう超現実的な魔法を使うことができる。
盲人に嘘の風景を教え、彼の風景(!)から存在を消しつつもすぐそばにいる、悪魔のような登場人物と、
ナボコフの手つきが重なる。それすら詐術か。
おおむかし、シリアスに涙した『ロリータ』を、新訳で大笑いして読みたいものだ。


以上、思いついたまま。

灯台守の話

灯台守の話 (白水Uブックス175)

灯台守の話 (白水Uブックス175)


灯台守の話』整理されきらない生の言葉たちのなかに、物語が灯台の光のように明滅して、そこに向かって進んでいく、本当に美しい話。読んでよかった。人が書き始める、あるいは語り始める、その瞬間に、ずっと惹かれ続けている。(twitter,10月4日)

付け加えるとすれば、
自分の身体的感覚を保持したままで、個人史、個人の物語を、歴史、大きな物語に接続しようとする、
その勇気、感覚に、心からしびれた。
こういう物語が成立しうることが、文学の希望のひとつだとすら思ったよ。
精緻に読みなおしたい。

25時のバカンス

少しくの断絶。
MCバトルにはまったり、漫画読んだりしてました。
群像最新号早く読みたい。群像


25時のバカンス 市川春子作品集(2) (アフタヌーンKC)

25時のバカンス 市川春子作品集(2) (アフタヌーンKC)

昼は白く、夜は黒い。
塗りつぶされた夜や宇宙が、それでもどこまでも透き通って見えること、
あるいは白く塗り残された昼ひなかの光に舞う粒子が目に見えるような、
圧倒的なセンスの良さ。
どれも面白く読んだが、ちょっと、ちょっとだけ、
ページをめくるとものすごい恐ろしい怪物が急にあらわれる日野日出志の漫画を思い出した。

すべて真夜中の恋人たち/川上未映子

群像 2011年 09月号 [雑誌]

群像 2011年 09月号 [雑誌]

巻頭掲載『すべて真夜中の恋人たち』

読み終えて、川上未映子が次になにを書くか、さっそくとても楽しみになった一編だった。
だがそれは、この作品が自分好みのお気に入りだったからではないし、抜群の完成度を持つ傑作だと思ったからでもない。
ただ、多くの作家の処女作が持っている、整理されきらない、不定形であやういものを、
デビュー2作目で芥川賞を受賞し、間違いなく、現代文学の書き手の中でも知名度・人気ともに高い作家の最新作に見たからであり、
さらに、その不定形なものの正体は、今まで見たことのない、体験したことのない文学世界なのかもしれなくて、
その片鱗をこの作品に見た気がしたからなのだった。


そこに並べられている文字列が、どんな物語で、いったい読者に何を喚起させるか、ということにおかまいなしに、その文章に誤りがないか、文章から意味を剥ぎとりひたすら精査していく校正という職業から想像されるほとんどその通り、「わたし」という一人称で語られる主人公・冬子の生活はつつましく、娯楽もない、何か欲望に振り回されることのない静かな生活を送っている。
冬子は所属していた出版社から独立し、フリーの校閲者になる。そのきっかけをくれた同年代の同業者・聖は、冬子と対照的に、美しい容貌と明晰な頭脳で、ふんだんに生を謳歌している。
あまりに対照的な二人だが、聖は冬子の確かな仕事ぶりを気に入り、冬子も聖を拒絶せず、奇妙な友情が成立する。
聖の圧倒的なエネルギーに出会い、自らの人生を浮き彫りにされたかのように、ある休日の街中で「哀れという言葉がいちばんぴったりとしている」自分の姿を見つけた冬子は、次第にアルコールに溺れるようになる。
酩酊のなか、薄い興味がわいて参加してみようと思ったカルチャーセンターで、冬子は三束という男と出会い、二人の奇妙な関係がはじまる。

著者初の長編小説『ヘヴン』で、川上未映子はそれまでの作品に共通していた、関西弁を用いた特徴的な文体を使わず、フラットな、多少ぎこちなささえ感じさせる透明な文体を使用した。
今作も、『ヘヴン』同様「わたし」という一人称形式を用いながらも、語り手の冬子の性格を表しているかのように、淡白で落ち着いた語り口で物語が紡がれていく。

冬子の三束への恋慕が物語の中心になっている点では、タイトルから連想される通り、この作品を恋愛小説だと言っても良いのかもしれない。
また、恋愛だけではなく、女性が社会で生きていくことについて、異なるタイプの同年代の女性を複数登場させ、彼女たちの価値観を語らせていることから、
女性による女性の心理をこまやかに描いた小説といっても、間違いはないだろう。
とくに聖という女が、女性が社会で生きていく時の身振りについて、当の女性がそれを認知し、どう女性性を引き受けていくか、怒りを以て酒場で語るその内容には、著者の人間観察の冷静さとフェアネスを感じるし、
その強者の理論の強度と痛快さもさることながら、それをメタ化せず、聖を否定する恭子さんという別の強者を対置させ、いっぽうでそれが弁証法に陥らないよう「同じ香水」というモチーフを使い天秤を中吊りにする操作には、物語の奥行きを深める以上に、著者の倫理観の誠実さが現れているように感じられた。

だが、そうした要素を感じてもなお、この作品を読んで、川上未映子の作品の本質は、その高度な「倫理観じゃんけん」の才能にあるのではなく、彼女の作品が持ち続けてある態度にある、と思わされた。
そのきっかけは、この作品のまさしくその人物造形の「貧しさ」に依る。



たとえばリディア・デイヴィス『話の終わり』

話の終わり

話の終わり

では、恋人を失った主人公の苦しみが、実際には書かれた時間と書いた時間には大きな隔たりがあるにもかかわらず、たった今生起しているような、あるいはきわめて近い過去に起こったような鮮烈さでもって描かれ、苦痛に酩酊し時間間隔が麻痺するような感覚がもたらされたが(常の酩酊時なら、空間認識や感覚が麻痺するところ、やはり異様な作品だろう)、
この作品は、『話の終わり』と同様に「わたし」という一人称を持ちながらも、すべてが終わった後に、終わった時点から他人となった自分を観察するような冷静さと、感情のめまぐるしい動きがある程度整理されてしまった印象を受けるのは、整理されきったフラットな文体や、本編のほとんどが回想形式で語られる、という構造のせいだけではないだろう。
自分の存在をまるごと承認してくれる人間を見つけ、それい自分の思いのすべてを捧げるも、やはりそれは幻想であって、思い破れ、傷ついたけどたしかに得たものもあった…という女性の行き方を描いた作品というのはこれまでにいくつもあって、まあそれは確かに現実世界でリアリティのある設定で多くの人が共通の経験を持つからそうした物語がいくつも作られるのだが、
この作品をそうした「女性の人生のある一地点」をある感情ーー共感でも、反発でも良いのだが、心の動きみたいなものーーをもって描いたものだと考えると、まったく不完全で面白いものとは思えなくなる。

というのも、そうして見た場合、冬子という人物はあまりにもその生活の淡白さ、自発的な意志の薄さ、初体験の悲惨さにいたるまで、すべてが典型的すぎる。
冬子だけではない、聖の攻撃性と魅力、恭子さんのしたたかさ、三束の冬子の発言を受け止めあるいは流すその手つき、野暮ったさ、すべてが、
(これは倒錯した表現になるが)まるで物語の登場人物のよう、すべてに存在する意味があってしまうのだ。
人間の心理を描いた近代小説が、ある程度のノイズをまみえて人物を描写することで、そのノイズが透明になった瞬間普遍的な(もちろん普遍にも賞味期限はあるだろうけど)人間らしさが見えるような手法を用い、それによって様々な感動的な物語が生まれてきたが、
そうした作品たちとともに考えてみると、『すべて真夜中の〜』に登場する人物は、あまりにも還元するノイズが極端に少なく、パラメータに忠実すぎるように感じてしまう。
あるいはこれが脚本であれば、演者の身体、あるいは個々のキャラクターを縁取る描線が非本質的なノイズを担保するが、言葉のみで構成された小説においては、それが描きたいことであるならば、すべてが構造に回収されるような設定は貧しいと思わざるを得ない。

では、一見独身女性の生活と精神の成長を一人称で描いたように思えるこの作品が、本当はなにを書いているのか。

三束の誕生日、理想的な恋人同士のようなシチュエーションで食事をし、自らの孤独を三束に打ち明け、三束に触れたその夜、
聖の、ある種下世話で身も蓋もない、寝る/寝ないの二項対立の価値観によって、冬子の恋愛は全否定される。
冬子の思いを知っている読者からすれば、粒子のふれる/ふれないこそが冬子の恋愛のすべてであり、そこには瞬間と不在しかないのだから、
聖の苛烈な口撃は取るに足らない言いがかりであるはずなのだが、まさしくその、いまこの瞬間しかない恋愛というものの残酷さのすべてを冬子は感じ、慟哭する。
冬子は、三束との関係ではなく、聖の論理に打ちのめされたのでもなく、冬子自身の論理に気づき、恋愛が始まる前にその終わり/不在を自覚してしまうのだ。
この一連の流れは間違いなくこの物語のクライマックスであり、鮮烈で美しいモノローグが展開されるシーンではあるが、
触れられないものの存在に気づいてしまう冬子の慟哭は、恋愛感情というよりも、時間や記憶、粒子、すべての「それ自体」の存在への思慕の念だったのではないだろうか。

そう考えた時、とくに人物造形が典型的なことについて、この作品はそれを現実らしく、本物と錯覚するように描く作品なのではなく、
正真正銘ほんものの、文字の間にはあらわれない「それ自体」の存在にアプローチするという、不可能な目的のための、機能としての人物、人間関係なのではないかと合点が行った。

そして、物語の最後にあらわれる「目的のない、なんのためでもない」と冬子が思う「すべて真夜中の恋人たち」という言葉は、その「不可能なもの」の影だったのではないだろうか。
言葉を用い、物語を操作し、人物を駆使しながら、小説のラストで、言葉で書き表せない、何にも置き換えられないものそれ自体につかの間触れる瞬間を描く。
すべてが、この「不可能なもの」あるいは「それ自体」に触れるための道のりなのだとしたら。言葉でもって、言葉の届かない美しさ、あるいは言葉それ自体に、ようやく、触れる。そういう試みがなされていて、物語がまるごとそのために使役されているのだとしたら。
ひかりや、何百年も前に書かれた音楽。物語のなかで、それ以上言葉で代替できないような道しるべを置きながら、主人公の冬子ではなく、作品そのものがある絶対的なものへ近づこうとするその運動の、軌跡としてではなく現前として作品があるような不思議な感触をおぼえた。
背の高い電球に、椅子、お菓子の空き箱、掃除機、百科事典、大きなかばん、なんでも積み重ね、つま先立ちをして、触れようとしているような。


そしてまた繰り返しになるが、この作品は傑作ではないと思っている。
すべてが典型的に思えたとしても、冬子の、あるいは聖の思考や言動にリアリティがあり、同年代の女性として素朴に「わかるわ」と思えるところがある以上、きっともっと自然なーーノイズ混じりの「いかにも自然らしい」ーー人物造形が可能であると考えられるし、それが不定形なものを保持し続けることの妨げにはならないと思うからだ。
ごく自然な詐術である近代文学的リアリティと、読んでいる間にだけ起こる、まぎれもない実践そのものの、分かちがたい混淆。
それが、いつか川上未映子の書いたものの上で成り立つかもしれない。
今まで誰も読んだことのない小説として。

進化でもなく、変化と呼べるのかもわからず、だが確実にこれまで書いたものと軌を一にする、だけど作品のたびに太くなっていくと、
そう信じて川上未映子の作品を楽しみに待てるのかもしれないと思った。

私のいない高校

私のいない高校

私のいない高校

これが「藤村先生」第一号、担任に向けた初の宛名書きだった。

私たちは小説を読むとき、どんな小さな物語でも見過ごすことはない。
すれ違いひとつ、目配せひとつ、因果の結べそうな2つの点が見つかるや否や、それを線でつないで物語を作ってしまう。
むしろそれが小さければ小さいほど、反比例するように存分に物語を味わうのではないか。
想いの発露はセックスよりも手をつなぐことで、ありったけの愛の言葉で告白するよりも沈黙で、より普遍的な価値を帯びる。
最小が最小であるがゆえに最大であるような価値観は、具体的な表現作品を挙げることなく自明に存在しているだろう。

読む者を物語に没入させる依代は、そこで描かれる人間、あるいは人間的なものがほとんどである。
砂漠のように、読者を描かれている世界へワープさせる潤いー適度にドラマティックなで、適度に普遍的な物語ーがほとんど枯れた『私のいない高校』を読むとき、それでも私たちはわずかな水分を啜ろうともがく。

『私のいない高校』では、カナダからの留学生を迎え入れた千葉県の高校の、春から夏までを中心に描いたものだ。
読みはじめてしばらく過ぎたところで、おそらく読者はじわじわと違和感をおぼえ、
そしてページを繰るごとに、その違和感は強まっていくだろう。
やがて明かされ「そう」な謎めいたモノローグや意味深な行動、あるいは人物の細かい心の襞、かけ離れたもの同士の抽象的な相似あるいは対称、
そういったものを欠いた物語が、まったく適切で、バランスの取れた、透明というにはいささか俗のほうに舵を切った平板な文体で描かれ続けることに、止まっているエスカレーターに、それと気づかず乗ってしまったような、自重でバランスを崩す時の感覚をおぼえるだろう。

そしてまた、私たちは物語のそこかしこに、自分の実存的な経験を代入しようとする。
近代文学私小説と言われるジャンルが、いかに著者=語り手=主人公の錯覚でリアリティを反復強化してきたか…と歴史に接続しなくとも、
素朴な実感として、そこで描かれるものに感情移入し、「私」を重ねあわせることは、作品受容のもっともプリミティブな方法のひとつであることは、誰しも覚えがあるだろう。
この作品ではどうか。雑な言い方をすれば、この国の少年少女は、たいてい高校に進学する。
物語のそこかしこで、受け止められたかすら不明な、だれもいない校舎に響くような声や、喧騒の具合は、いつか私がいた高校の、言葉で表すよりもっと現前に近い存在まるごとを思い起こさせる。
そういえば、劇的なことなど何一つ起きなかった、だけど確かに過ぎていった日々は、こんな風じゃなかったかー
と、この書き方、極度の物語性の低さに、逆説的にリアリティを感じることもあるかもしれない。

つまり、物語を嗅ぎつける習性を縦糸に、物語を「これを読んでいる私」へひきつけていく習性を横糸に、読者は『私のいない高校』を読み進めていくしかない。そうでなければ、見知った小説のフォーマットをはずれたこの作品をそのまま受け止め読み続けるのは難しい。


小説冒頭のエピグラフで引用された【ブラジルの碑、平和へのメッセージ】の一場面は、
この小説のなかでも、最もドラマティックなやりとりだろう。
修学旅行で訪れた長崎平和公園で、自身の生まれた国であるブラジルの石碑の写真を撮るため、カメラを取りにバスに戻りたいというナタリーと、時間がないとそれを却下する担任・藤村。(しかし、この場面ひとつを要約しても、なんと煩雑な文脈のあることだろう。)
物語性の極度に薄い文章を読まされてきた読者にとって、見知った物語構造の現れるこの場面は、物語の欠落という不可解さを味わってきたこれまでの時間を保証するかのような濃密さで、読者に迫ってくるだろう。
帰りの車中、「背中で拒絶する」ように「一度も振り向かな」い担任の姿は、まるで感情を殺し崇高な職務をまっとうする、ハードボイルド小説の主人公のそれである。
だから、物語終盤、ナタリー・サンバートンから担任藤村に、宛名入りの手紙が送られた時、はるか時空を超えて恋人から手紙が届いたような、あるいは登場人物たちを恐怖に陥れた殺人鬼の正体が名探偵によって明らかにされたようなカタルシスが得られたのではないか。
あの長崎での亀裂は、この手紙のためにあったのではないかと、点を結びたくなってしまう。

だがこの小説は、そうした「引き算の美学」の物語を見せるものではまったくない。
小さく濃密な有為な意味のために、文字を費やし無為で茫洋な時間を設定したのではない。
あるいは、読者の大半が持つ固有の(その内のたいていは16〜18歳に限定された)記憶を共振させるための装置ではない。


この小説が真に面白く、また親切であり、誠実であり、コンセプチュアルであり、それまでの文章の意味を変える意味を持つのが、
物語の終わったあとに付される【人名、登場順】と題された登場人物一覧である。
そこでは、ナタリー・サンバートンや藤村雄幸はもちろん、小野伸二宮沢賢治坂本龍馬華原朋美など、
この小説とは違った意味でフィクショナルな存在、またナタリーの日本語表記「名取山鳩」「名取山波堂」まで、出てきた時期に沿って列挙される。
ちょうどこのはてなの日記の末尾の「カテゴリ」のように、暴力的なまでのレイヤーの一括統合。

そう、いつか「私」がいた高校のように思え、「私」も一員であるかのように思えたこの高校に、「私」はいない。
なぜならこの高校は、紙に印刷された言葉で紡がれた虚構の存在だから。
日本史の教科書や、いつかテレビの中で観た、あの存在と同じ、まったきの虚構であるのだ。

もしもこの小説を電子書籍になった暁には、最後の人物一覧をカテゴリとして、登場する文中にジャンプできるようにして欲しい。
その時、この作品は一字一句も変えることなく、今見えているものとはまったく違った相貌を見せるだろう。