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「利休にたずねよ」は薄っぺらい日韓友好映画なのか?

一部で話題になっている映画『利休にたずねよ』を観てきた。なぜ話題になっているのかといえば、「作中で描写される歴史の捏造がはなはだしい」というものである。こういった批判をまとめると、


・ 作中で韓国の国花である槿(むくげ)がフィーチャーされているが、利休が愛したのは京椿。槿ではない。
・ 日本人が李氏朝鮮の姫を拉致した事実はない。青年利休との心中はフィクション。
李氏朝鮮の姫に利休が唐辛子を買って、料理に使い喜ばせる演出があるがこれも嘘。朝鮮に唐辛子が広まるのは、秀吉の朝鮮出兵で防寒用に持ち込んだ後
・ 作中では日本人の職人(長次郎)が利休の思い描くものを作れなかったことになっていて、高麗物の小壺(香合)を見せているが、緑釉は朝鮮にはなく、そもそも長次郎は交趾焼の工人の父を持つ瓦職人である。
・ 作中に登場する高麗物の緑釉はフィクション。当時の高麗では貴人は景徳鎮に似せた白瓷を追い求めており、白瓷器が主流。
・ 作中で麗しい衣裳としてチマチョゴリが登場するが、チマチョゴリは授乳着であり、乳が丸出しだった。これが現在の形になったのは日韓併合以後。
・ 茶道は朝鮮半島を経由せず支那より直接渡来したが、それは喫茶法であり、点前の式法ではない。式法は中尾真能によって能や弓道、礼法を参考にして、日本 で独自に定められたもの。
・ 当時李氏朝鮮では、日本で持て囃された井戸などは雑器であり、貴人が用いないことが、秀吉が謁見を許した通信使の発言で分かっている。つまり、李氏朝鮮の姫が利休に井戸などの良さを教えることは出来ない。
出典*表千家都流茶道教授 月甫宗地氏のエントリー「利休にたずねよ の嘘を暴く」より


 ということである。正直、私は、上記の指摘がすべて正しいとしても、それは映画の完成度やクオリティとあまり関係がないと思っている。なぜなら、時代を扱った映画やドラマが、その時代に忠実であるかどうか、つまり歴史考証に忠実な作品が良い映画かというとそういうことではなく、また歴史考証がでたらめな映画は駄作なのか、というとそんなことはないのである。

 たとえば、スピルバーグの『シンドラーのリスト』はそもそも舞台がドイツなのに全員英語をしゃべっている時点で時代考証を無視している。リュックベッソンンの『ジャンヌダルク』はジャンヌはフランス人だが「フォロミー」などと平気でいっている。ハリウッドの歴史ものに良くありがちなこの「言語問題」は、しかしその矛盾を補って余りあるほどの映画的完成度を保っているからこそ許される歴史の改ざんである。
 私が大好きなタランティーノの(最高傑作と思っている)、『イングロリアスバスターズ』は、あんなもの全部嘘っぱちだが最高にクールだ。当時の言語を忠実に再現したという『アポカリプト』もたぶん細部には創作と嘘が混じっているだろうが、すばらしい作品である。そして黒澤明の『乱』は架空の大名家の戦いだし、そもそも当時を忠実に再現しようと思えば『暴れん坊将軍』とか『遠山の金さん』とか『水戸黄門』とか、ほとんど全部創作なのであるから、作り変えなければならない。女優がお歯黒を塗っていない、武士が競走馬みたいな背の高い馬に乗っている、ガス灯が開発される以前の江戸の町が妙に明るい、妙に標準語でしゃべる代官とか、時代映画やドラマの「嘘」をあげていけばキリがない。我々は、現代人の感覚でしか歴史を再現することはできないのである。当時を忠実に再現した作品は、たぶん映画的な「エンターテイメント性」とは全く合致しないからだ。だから歴史映画というのは、常に当時の史実を現代風にアレンジした上で、我々の感性との妥協点で作られているし、またそう作るしかないということをまず、押さえておかなければならない。重要なのは、時代考証がしっかりなされているかではなく、映画的な完成度が高いか否か、という部分だ。

 それを踏まえたうえで、私は「利休にたずねよ」の数々の歴史の「嘘」を点検することよりも、この映画の脚本、演出、その他の「映画的」な構成要素をことさら重視して鑑賞に望んだ。正直言って、伊勢谷友介が演じる信長とか、大森南朋豊臣秀吉も、基本的には年末年始とかにやる5、6時間モノの「民間大河」のレベルを出ていない、安直でオーソドックスなものだ。
 しかしこの映画が重視しているのは歴史映画の重厚感ではない。冒頭、満月の夜に信長が各地の茶人を呼んで、茶器を値踏みするシーンがある。おのおのが壮麗な名物を持ち寄る中、利休だけがお盆を持参する。「あのような(粗末な)ものを」と嘲笑される中、利休は盆に水を注ぎ、水面に夜空の満月を映し出す。盆の模様とあいまって、そこには見事な名月が映し出され、周囲は感嘆する…。
 この冒頭のシーンが、利休という人間とこの映画のテーマのすべてを語っているといってよい。つまり、物質、金銭、地位、名誉・・・といった「世俗」的なものと全く違う次元に利休が存在することを示し、「世俗」と「美」を明確に対峙させ、美にこそ生きる人間が利休であり、その利休の世界観に、当時の武士階級のみならず一般庶民までが惹かれていく様子が描写されるのである。

 しかし、この映画の全く残念なことは、途中から高麗(李氏朝鮮)の姫が登場する段である。利休は茶人になる前、全くの遊び人として描かれるが、その姫に「美」の何たるかを学び、「世俗」から足を洗って一人前の茶人へと変身する場面なのであるが、利休が究極の「美」を教わったとされるその高麗姫は、基本的に茶人でもなければ芸術家でもなく、結局のところ単なる色恋沙汰の一種の域を出ないものであり、なぜこの高麗娘が利休に「美」を授けたのか、利休がこの高麗娘から何を学んだのか、全く意味不明で説明不足なのである。
 少し前に『終戦のエンペラー』という映画があった。主人公のボナー・フェラーズという米軍の准将が、戦争中に静岡を爆撃リストからはずすように、と指示していたことが明らかになるシーンがある。なぜかというと、恋仲にあった日本女性が静岡に住んでいるから、という理由。「何だ、結局、こいつが好きなのは日本じゃなく女か」という当時のがっかり感と『利休にたずねよ』のそれは、図らずもシンクロする。

 物質、金銭、地位、名誉といった世俗的なものと、最も遠いところにある美を追求していたはずの利休は、結局「痴情」という最も世俗的なものに縛られていた、という脚本からは、結局千利休という人は単なる俗人だったのか、という風にしか解釈できない。この映画のテーマであるはずの、世俗から超越した「美」というもののテーマが、変に唐突の感がある高麗娘との色恋エピソードが入るものだから、全くもってぼやけているのである。ここに「日韓友好」のイデオロギー的感情が、もし入っているのだとしたら、あまりにも薄っぺらい映画的演出だ。

 失礼を承知でつらつら書いたが、私は本作の原作(山本兼一氏)の小説を読んでいないので、原作はこのあたりがもっと補完されているのであろう。ただ、あくまで映画としてみた場合、この作品は全く凡庸なクオリティしかない。
利休にたずねよ』という本作のタイトルは、「利休さん、結局あなたが好きなのは美なのですか、昔の女だったですか」という皮肉なのか。そう解釈されても仕方ないほど、脚本力も監督力も弱い。映画としての完成度が高ければ、私は日韓友好でも歴史の捏造でも、なんでも喜んで受け入れるが、残念ながら本作は、そもそも映画として全く面白くない。



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「ニート株式会社」の気持ち悪さ

 先日、日本全国のニートからなる「NEETニート)株式会社」というモノが出来、12月10日に設立記者会見を開いたという。正直な処、第一印象でこのニート株式会社に感じるのは「気持ち悪さ」しかない。日本中のニート達が集まってその全員が取締役に就任した、ということらしい。搾取・被搾取の上下関係を造らないためだとか。この「ニートが集まれば文殊の知恵」みたいな起業話って、神山健治監督が『東のエデン』(2009)で既にやっているし、元をたどれば村上龍の『希望の国エクソダス』(1999)とかで、もうさんざん出尽くしたネタだと私個人では思っているから、今更の感はある。

 ともあれ、このニート会社に感じる気持ち悪さというのは、同社の設立理念を謳ったこの部分。

「ぬるくて気だるい、成熟し閉塞した日本の社会を少しでも面白くしていくには、現状に違和感を抱きはみ出してしまったアブノーマルでマニアックな少数派が、新しいビジネスやワークスタイルを実験的に模索していくことが必要」(マイナビニュースより引用)

 彼らの言いたいことは分かる。しかし、彼らが最も勘違いしているのは、”成熟し閉塞した日本の社会”というのが自分たちの外側の、ここではない、どこか遠くに存在するもので、自分たちはその中に包摂されていない存在であるか、若しくはその”成熟し閉塞した日本の社会”の犠牲者こそが自分達である、という隠しきれないニュアンスが含まれていることだ。これこそがニート株式会社が抱える最大の矛盾であり自己欺瞞だ。

 何故なら、”成熟し閉塞した日本の社会”が産み出したものこそが彼らニートであり、”成熟し閉塞した日本の社会”の分身こそが彼らそのものだからである。成熟社会とか閉塞社会と、ニートは不可分ではない。彼らは戦後空間という日本のある種の成熟が産み落とした申し子そのものだからである。戦後レジュームの脱却を、戦後体制その物である自民党が声高に叫ぶのと同じかそれ以上に馬鹿げていて滑稽である。ニートは甘え、などというつもりはない。ただ、自分たちが成熟や閉塞の犠牲者だという考え方はやめてもらいたい。


<全員取締役>雇われたらニートではなくなってしまうので、雇用された従業員は一人もいない。
<全員平等>全員が平等に株主で、搾取する第三者はいない。
<本名を知らない>本名は知らせず、これまでの自分は忘れて、お互いにハンドルネームで呼び合う。
<楽しむ>すぐに儲(もう)かるか分からないことも、楽しければやる。あくまでニートらしく!


上記はニート株式会社の特徴とやららしいが、なんかここまで来ると原始共産制の臭いすらする。どうりで山本太郎三宅洋平に投票する若者が多いわけである。彼らは、自らが成熟した戦後日本の病理の一部であり、そこと癒着していることを自覚するところから始められてはどうか。


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「若者が保守化している」という大嘘〜そして山本太郎の当選〜

・若者が保守化した、という願望

 参議院選挙ですべての議席が出揃った。結果は、やはり従前の予想通り自民党の圧勝。そしてこうも自民党が勝つと、若い世代も愛国心や保守に目覚めて自民党に投票した、とすわ思いたくなる。事実上のネット選挙運動が解禁されて初めての国政選挙で、いわゆる「ネット保守」の訴えや拡散が、若者に広範な支持を得て、自民党が躍進した、とどうしても「保守」は思いたくなる。そういう言説は「保守派」にとって実に耳に心地よい。

 しかし実はこれは「保守」の願望ではないのか。私は今回の選挙で、自民党の圧勝よりも、東京選挙区における山本太郎の当選に衝撃を受けた。
 山本太郎は、大学生や20代を中心とした若年層のボランティアなど、草の根の組織力で(勿論、過激組織も入っているだろうが)当落線上にあるという事前の予想(しかしこれも、当初はトンデモと思われていた)を裏切り、定数5の内、4位で当選した。TBSの調査によると、東京選挙区での出口調査の結果、無党派層の投票行動のトップは山本太郎、次点が共産党吉良佳子である。共産党は15年ぶりに東京で議席を回復した。この両者とも、積極的なインターネットの活用を行なっている。吉良はともかく、山本の支持者は圧倒的に若年者が多い。この衝撃は計り知れない。

 「保守派」は、国政選挙や或いは大型地方選で、保守系の候補が競り勝つたびに、「インターネットの力」「インターネットによって感化された若者が支持した」という説を繰り返す。つまり、若者が保守化・愛国者化しているので、自然と保守系候補(自民)が当選している、という論調に走りやすい。繰り返すように、自民党の圧勝を受ければ、この様に考えてしまうのも当然だが、少なくとも東京選挙区の情勢を見れば、この「若者=保守支持」という構図は全く適当ではない。勿論、いわゆる「ネットの力」で当選効果があった候補者もいるとは思うが、少なくとも大勢には成っていない。

 「保守」が繰り返す「若い人が愛国心や保守に目覚めている」というのは、今回の山本太郎の当選と無党派の動向によって全く瓦解してしまった。若者は保守化しているというのは大嘘どころか、むしろ右も左も分からないような若年層の大学生やギャル(山本や吉良の背後で嬉々としてテレビに映っていた人々)は、どんどんと左傾勢力に取り込まれている、というのが実相である。「若者の保守化」は保守の願望であり事実ではない。


・ネット保守の中核は30代後半

 私は、いわゆる「インターネット保守(批判的な論調ではネット右翼と呼ばれる)」に対し、恐らく我が国で初めて統計調査を試みた。詳細は拙著『ネット右翼の逆襲 嫌韓思想と親保守論』(総和社)に詳しいが、その結果、圧倒的に自民党支持が多い彼らの平均年齢は、38歳程度で、お世辞にも「若者」とは言えないことが判明した。もっとも、政治の世界では30代後半とて若造ではあるが、本当の意味での若年層(20歳前後)とは年齢層が圧倒的に異なっている。

 ここにいつも誤謬が発生する。「保守」のいう「若者」とは、20代のことではなく30代後半がボリュームであること。そしてそれをあたかも20代の、うら若い大学生からの広範な支持であるように誤解してしまっているところだ。確かに、「保守」に10代、20代はゼロとは言わない。3年、5年前と比べれば絶対数が増加しているのは間違いはない。しかし、結句の投票行動が、その多くが保守党ではなく、山本太郎に流れたのは、今回の選挙では紛れも無い事実である。いまだ保守党の票田は、中高年に支えられているのだ。ここは揺らがない。

 じっさい、私が参加する「保守」の集会やデモや講演会に、20代なんてほとんどいやしない。更に10代ともなるとまるで”希少生物”である。繰り返すがその数はゼロではないが、圧倒的にマイノリティなことには変わらない。それをして「若者は政治に無関心」という結論に達するが、本当はそうではない。
 若者は政治に関心がないのではなく、単純に「保守に関心がない」のである。政治に対しそもそも無関心だから若者が来ないのではない。若者は保守ではなく山本太郎の方に魅入られたのだ。ある種オルグられたといっても良い。そうして山本は当選した。若者が保守化しているのなら、山本や吉良が当選するなどあり得ない。
「若者は左傾化・リベラル化していて、保守に興味がない」というのが私の実感に近い。そして、「保守」が想定している若者とは、実際は大学生とかギャルのことではなく、30代中盤から40代前半の有権者のことだ。もちろんこれすらも相対的には若いことは事実だが、いつも、常に、ここに誤解が存在する。


・「保守」はいまだ若者に対しあまりにも無力だ

 右も左もわからない様な大学生やギャルが、リベラルに回収されている。その原因は、俳優としての山本に知名度があるとか、そういうこともあると思うが、実際は違うと思う。右も左もわからない無知な大学生とかに、無理やり教育勅語を覚えさせるような、或いは徹底してまず様式美を求めるような、上からの近代化、或いは権威主義的な姿勢を「保守」が取り続けていたのにも大きな原因があるのかとも思うが、それも全部の理由ではないだろう。
 きっと人間は年齢を重ねると保守化する、というのが正しいのかもしれない。右も左もわからない無知な人間に、日本国のすばらしさを伝えるには、大前提的に受け手が若いことに起因する無教養や経験値の少なさ、という構造的な問題があるような気もする。詳細な分析はこれから更に時間をかけて行わなければならないだろう。

 ともかく、「若者は保守化している」とか「若者は右傾化している」という論調自体がそもそも間違いで、仮に正しかったとしてもそこで定義される「若者」というのは30代後半がボリュームだという事を忘れてはならない。右からの「若者の保守化」は願望に過ぎず、左からの「若者の右傾化」は単なる事実誤認とレッテルである。

 若者の心は、着実に保守から離れたところにある。それを自民党の圧勝で、まるで「若者からも支持を得た」と誤解してはならない。この誤解は慢心を産み、やがて次の選挙に影響するだろう。今回の選挙での影の勝利者とは、山本太郎吉良佳子に象徴される革新リベラル勢力だ。無償でボランティアに集った20代の若者は、5年10年と経たぬ内に、今度は第二の山本や第二の吉良となって、或いは党幹部候補や市民運動家の予備軍となろう。今回の選挙で、左翼勢力は次世代の育成を盤石に行う体制を整えることができたのである。

 一方の「保守」側は、大都市部の、無党派の、若者(20代の…)がインターネットを駆使して保守派の勝利に貢献したと本気で信じている部分がある。繰り返し繰り返し言うが、保守が想定する「保守的な若者」の実際は30代後半であり、本当の意味での若者ではない。

 山本に代表される選挙結果は、「保守」の訴えや浸潤が、本当の意味での「若者」に対し、あまりにも空振りであったことを象徴するものとして象徴的だ。スマホを使いこなし、クラブで遊んで、なんだかよくわからないけど地球環境とか大事だよね〜という、本当の意味の若者に対し、「保守」の訴えは全く無力である事を知らなければならない。まだまだ前途は多難である。「勝利の美酒」などにとても酔えるものではない。

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「風立ちぬ」批評〜宮崎駿が描いた美しい日本/宮崎駿は左翼ではない〜

※当記事に基本ネタバレはありませんのでご安心を(笑

・光と闇の戦前日本こそ美しい

風立ちぬ」を公開初日に観た。この作品の中で、宮崎駿は戦前の日本を実に美しく描いた。それは、青々とした水田であったり、日本家屋で統一された町並みであったり、レンガの橋梁や或いはまだ戦災で焼ける前の帝都東京の姿であった。
 しかし、宮崎は本作の中で、戦前の日本の暗部をも見事に描き出している。美しい田園のすぐ傍らに存在する都市貧民や失業者。関東大震災での破壊と、金融恐慌の只中で不安に揺れ動く大衆達。「どうしてこの国はこんなに貧しいのだろう」という主人公の台詞の通り、「風立ちぬ」の中には、眩しく光る戦前の日本と、陰惨な闇の戦前が見事に同居している。

 宮崎駿の一貫したテーマは、『風の谷のナウシカ』の時から普遍である。特に漫画版ナウシカがそうであるように、「人間や文明は美しくなければならない」という設計主義的な考えを全否定し、善と悪、光と闇、明と暗が混濁(カオス)する存在こそ、実は最も人間的であり、だからこそ人間は美しいのだ、と。だからこそナウシカは、設計主義的なものの象徴であるシュワの墓所を破壊し、カオスの中で生きる道を選択して物語は終劇する。

 本作「風立ちぬ」にも、宮崎駿が一貫して持つこの哲学が踏襲されている。戦前を光と影の両面で描いた。そして主人公・二郎と奈緒子のつかの間の逢瀬の中には、一見美しさの中に常に死の影が忍び寄っている。本作の中で、イタリアの設計士・カプローニは繰り返し「空を飛ぶ夢は美しいが、同時に魔性でもある」というニュアンスの台詞を繰り返す。
 光と影、明と暗、そして生と死…。いくつもの軸で語られるこの「二面性の同居」の象徴的な存在こそ零戦であった。零戦は、世界一美しい航空機としてかつて大空を舞った。しかしその一方、圧倒的なアメリカの物量の前にやがて敗北していった、悲劇の戦闘機としての側面を持つ。

 宮崎駿は、この零戦という航空機が持つ栄光と悲劇の二面性を、堀越二郎という若き設計家の夢の延長の中に同居していることを描く。美しい飛行機が空を舞う一方で、そのエンジン音は人間の声でアテレコされた不気味な効果音があてがわれている。本作では、関東大震災の地響きと、飛行機のエンジン音が、同じ人間の発声によるおどろおどろしい効果音による演出がなされているのだ。
 それは、航空機の中に、魔物のような暗部が同居していることを表現しているに他ならない。低く唸る人間の地鳴りの声と、夢を載せた人類最先端の科学の結晶であるはずの航空機のエンジン音には、実は同じ破壊という魔物が住み着いているのである。

 宮崎駿は、戦前の日本と零戦を実に美しく描いた。それも、涙がでるほどに、である。しかしそれは、単に繊細な美しさを評価したものではなく、そこに光と影の二面性が存在するからこそ、宮崎はそれをもっとも美しいものとしてアニメーションで再現したのである。希望の塊のような光と、そのすぐ裏側に存在する魔性の暗部が同居する世界こそ、宮崎は最も魅力的に、最も美しい世界として描いたのである。

宮崎駿は左翼ではない

 宮崎駿が「憲法9条」を守る旨(そして慰安婦問題に関する)の寄稿をしたとかで一部が盛り上がっている。イデオロギー的に宮崎は左翼であるからけしからん!という人がいる。私にとって、そんなことは実にどうでも良い問題だ。彼のイデオロギーが左傾的なのは疑わないとしても、少なくとも宮崎駿という存在はイデオロギーの中で語るには大きすぎるし、また当然のことながら彼の作品を見てもその文脈はそぐわない。

 「右」は戦前の光の部分のみを捕まえて、「戦前は良かった」「戦前には失われた日本の心や道徳があった」などと形容する。一方で「左」は、戦前の闇の部分のみを捉えて、「戦前は悪かった」「戦前は軍国主義で閉鎖的で悲惨だった」と形容する。どちらも正しくはない。そしてどちらも正しいのである。真相は、その両者が混在しているからこそ、この国は美しかったのだ。希望の光と魔性の悪とか同居しているからこそ、そこに限りない、人を引きつけてやまない美が生み出されたのである。

 宮崎駿反戦平和主義者なのに軍事オタクである−。という一見矛盾した批判がある。なるほど矛盾に違いないと思うが、実は宮崎駿が魅せられた航空機や戦車や兵器の数々は、金属としての美しさとその裏側にある戦争の悲劇としての魔性の二面性を兼ね備えている存在であるから、彼が愛してやまなかったのだろうと、この作品を見て改めて納得した。宮崎は、ナウシカの時から一貫して、人間や兵器の悪を、ことさらに憎悪し、そしてことさらに愛していたのである。なぜなら繰り返すように、その二面性こそが美だからである。

 「風立ちぬ」をイデオロギーで見ることほど愚かなことはない。本作にはイデオロギーは存在していない。戦闘シーンもなければ、直接的な戦争の描写もない。「プロジェクトX」を思わせる技術者達の奮闘と、その傍らにあった絶望の時代と希望の時代を交互に描き出す。

 これこそが美しい日本だったのだと、私は「風立ちぬ」で落涙した。我々はつい、この国の歴史の中に光の部分を見つけては喝采を送り、闇の部分を見つけては隠蔽・あるいは封印するか逆に糾弾しようとしてきた。美しい日本とは、様式美に満ち溢れた、歴史に裏付けられた、完璧な光の部分であると信じてずっとそれを探し求めていた。
 しかしそれは違っていた。美しい日本とは「甘くて残酷な」日本の姿そのものであった。宮崎が一貫して描き続けた、カオスの中の一縷の光こそ、本作では最も偉大な美であるとして締めくくっている。そしてそれは、日本自身に他ならない。

 青い水田の上を、まるでトビウオのように零戦が飛ぶ。栄光と悲劇の二つを有した零戦こそ、もっとも美しい航空機であると宮崎駿ははっきりと明言した。日本や人に対する愛が無ければこのような描写は出来ない。日本の闇のみを捉える自虐史観論者にもこんな描写は出来ない。鈴木敏夫は本作を「宮崎駿の遺言」といったが、その真偽はともかく、「風立ちぬ」から私は宮崎のこの国に対する愛を、ほとばしる愛を感じずにいられなかった。

 大震災と経済不況。はな現代日本にも重なる時代を、おそらく意図的に選択したであろう宮崎には、現代日本のカオスの中にも、果てしなき美を見出しているのか。歴史は虹である、とよく言われる。虹は近くにいると気が付かないが、遠ざかってみると初めてその存在に気がつく。歴史もそれに似ているという。本作にも虹が登場する。はな「風立ちぬ」にシンクロする現在、遠ざかるとそれが美しい時代であった、と回顧することができるのだろうか。だからこそ「生きねば」の台詞が胸に深く深く、突き刺さる。宮崎駿の新しい代表作、いや日本アニメ史に残る不朽の大傑作がここに現出した。

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渡邉美樹はなぜ参院選に出馬してはならないのか。

デフレ居酒屋の代表格である「ワタミ」会長の渡邉美樹が、今度は懲りずに7月の参院選に正式に自民党から出馬が決定したという。私は、繰り返しTwitterなどでこの渡邉出馬について絶対反対の意思を示してきたが、いよいよ正式決定とのニュースを前に腸が再度煮えくり返っている。

居酒屋チェーンワタミは、299円や169円などの激安メニューでデフレ下の日本の繁華街や街頭に急速に浸潤したが、一方従業員の過労死で民事訴訟を提起されたり、労働基準監督署から賃金未払い事件を指摘されたり、複数の食中毒事件を起こしたり、また系列の介護サービスではネグレクトを匂わせる入居者の死亡事例が複数発生していたりする(その他不祥事多数)、いわくつきの企業である。2012年にはぶっちぎりで、ブラック企業No.1に選ばれている。

この会長である渡邉美樹は、過去に東京都知事選に出馬した経験(落選)などがあり、ここ2,3年の間、急速に政界への野心を隠さないで居た。と、ここにきて参院全国比例で自民党からの出馬決定で、渡邉の政界進出への野望はついに結実するかに見える。

私は、渡邉美樹が最も許せないのは、「人が働くのはお金を儲けるためでなく人間性を高めるため」などという数々の嘘・虚言を堂々と放言し、今回の参院選では「満ち足りた生活で希望を失った日本の若者に、再び希望を持たせたい」などというニュアンスの持論を展開して政界進出の野欲を剥き出しに隠さない点である。

勿論その根底には、ワタミとその関連会社周辺の数々の不主事と、渡邉美樹自信がことあるごとに語っている「美辞麗句」があまりにもかけ離れているから、ということもある。しかし私が渡邉に激怒する本質は「実態と建前が乖離しているから」という性質のものとは少し違っている。

渡邉美樹は、ワタミという会社の実態と、自らがテレビや雑誌で放つ様々な美辞麗句の「乖離」に些かのためらいも感じていないように思える。その証拠に幹部社員に「窓から飛び降りろ」などという脅迫を言うことが、さも「ビジネス上の成功の秘訣」とでもいいたそうに、何のためらいも恥じらいもなく雑誌や取材で応えるのである。

つまり、渡邉美樹の「人が働くのはお金を儲けるためでなく人間性を高めるため」に代表される建前は、最早建前ですら無く渡邉のなかで真実性を持って存在している強固な思想である、という点だ。本来であれば実態と建前の乖離を自覚した上で、幾ばくかの遠慮やためらいが存在する。例えばブラック企業の経営者であっても、実態を隠して「お客様の笑顔が唯一の喜び」という歯の浮くようなセリフをいおうとも、内心ではそれが美辞麗句に過ぎないことぐらいは当の本人がわかっている。しかし、渡邉美樹の言葉からはそれを伺うことはできない。「社会貢献」「若者に希望を」「仕事は金ではない」という、笑ってしまいそうな建前を、何のためらいもなく堂々と、まっすぐな目で公言することが出来るこの渡邉美樹という男の中には躊躇を感じない。他人からすれば「偽善者」と名指しされる渡邉は、実際は「善を装うことすらせず」心の赴くまま、自分の世界に忠実な弾丸としていま、政界に進出しようとしているのである。

もうお分かりだろうが、こういったある種の信仰心を持った人間が政治家になることは最も危険なことだ。「若者に希望を」などという馬鹿の一つ覚えの台詞を本気で信じている渡邉だからこそ、いくら自分がこきつかって過労死している人間であっても、何ら良心の呵責を感じることはないのである。良心の呵責を感じないからこそ、「偽善」と錯覚するような「本心」を常に堂々と垂直に放ち続けるのである。

私は、なにも資本家が悪いとか企業経営者が悪であるとかそういった下らない話をしているのではない。最も重要な本質は、ワタミに代表されるブラック企業は、結果としてブラック企業になったのではない、という点である。つまり会社の業績が苦しく社員に賃金未払いや過剰労働が発生している、という訳ではない。そういう会社は単なる赤字会社であってブラック業とは異なる。ブラック企業が社会的に糾弾されなければならないのは、ブラック企業は仕方がなくブラック経営に陥っているのではなくて、最初から従業員を使い捨てにして踏み台にすることで高収益をあげている、というシステムを前提としているからだ。つまり、ブラック経営であることが成長の源泉であり、発展の前提なのである。

繰り返すが普通、こういった会社は巧妙に本音と建前を使い分けている。社員を奴隷のように扱う一方で、外部には「夢のある職場」などと喧伝する。しかし、本音と建前を使い分けるということは、それを使う側に一分の罪悪感が存在するということだ。しかし渡邉美樹はもはやそれすら通りすぎている。渡邉はそういった意味で表裏のない人間なのかもしれない。うら若い未来ある従業員が寝る日まもなく働き、やがて過労で血反吐を吐き死んでいくことこそが、「社会人としてほんとうに正しい」と心の底から感じているからこそ、だれがどう考えても反感を買いそうな言葉を、平然とのたまう事ができるのである。損得を考える狡猾な経営者は、あからさまに反感を買うような言動を決して取らない。その計算すらしない渡邉美樹は、本当に自らの世界観を信じ切った信仰心の塊という他無い。だからこそ怖いのである。

この手の人間を政治家にしたが最後、「社会貢献」「若者に希望を」「仕事は金ではない」などを引用して自らの信仰心と世界観に忠実なトンデモ提言とやらをどんどん提唱しだして手が付けられなくなる。その中には当然、若者による無償労働が含まれている。軍事的には何の意味もない徴兵制を支持する佐川急便出身の人間が共通して持つ価値観なのだろう。しかもそれらは、彼が裏表なく本心で本当にそう思っていることなので手のつけようがない。この手の信者は、喫茶店でコーヒーを飲むのと同じ感覚で、人を死に追いやったり人生を台無しにしたりすることに何の呵責も感じないであろう。それどころか、「自分は良いことをしてやったのだ」と喜びや充実感さえ感じているのである。繰り返すが、渡邉美樹は「偽善者」ですらない。本当にそれが良かれと心の底から思っているからこそ彼は何の躊躇もなく政治家になろうと思っているのである。過労死等々で死んでいった社員に何の罪悪感もないからこそ、未だに渡邉は美辞麗句をこれほど堂々と言い続けることが出来るのである。普通の精神ではこんなことはできない。渡邉には何の計算も思惑もない。心の底から本当にそれが善だと信じている。心の底から本当に。

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「伏 鉄砲娘の捕物帳」評

文藝春秋万歳!ということで、「伏 鉄砲娘の捕物帳」評である。本作は2012年10月公開であるが、劇場で見ようと思っていて逃したのでつい最近リリースされたばかりのDVDで鑑賞した。

本作は非常に不幸な作品である。同年の7月には細田守の「おおかみこどもの雨と雪」が公開されたばかりで、犬獣+少女という図式で、「おおかみ〜」の追従作品乃至二番煎じと捉えられかねなかったためだ。

「おおかみ〜」旋風も過ぎたこの時期だからこそ、この作品を冷静に見ることができたのかもしれない。さて私は原作を読んだことはないのだが、なんというかその、つくづく文化庁が好きそうな作品(第16回文化庁メディア芸術祭審査員特別推薦作品)である。「伏」という獣人に恋した少女の浜路が、キスをするわけでもなく最終的には「文通から始める」というなんというかこのストイックさが堪らない。官も納得の安定感という訳だ。

無論、意図的に脚本を抑えているわけではない。本作の最大の白眉は、時代考証を意図的に無視しまくった世界観の構築である。本作を見て「何故江戸時代なのに現代語で手紙を書いているんだ!」とか真っ赤になるのはもう本当に野暮なツッコミとしか言い用がない。本作なりの江戸時代の再構築を見事に完成させている点は秀逸だ。

が、やはりなにか足りない。徳川家をまるで悪辣な支配層と捉えるニュアンスの部分は、あたかも階級闘争史観が紛れ込んでいると言え無くもないが、そんな事は置いておくとしてもともかく、官納得の安定感からか、映画的な一応の見せ場はあるものの、どれも優等生的でこれといったカタルシスに欠ける。大友克洋の「大砲の街」的な色彩の世界観はたしかに美麗だが、「ああ綺麗だね」という感想に終始する。

やはり脚本がいけなかったのか。あそこまで接近したのに何故文通から始めるのかが納得できない。いっそのこと省略法で1年後に、浜路の腹が大きくなっていて「伏」の血脈が脈々と続いていくことを暗示させたほうが、筋的にも良かったのではないか。

悪い作品では決して無いし、たまたま設定が似通っただけで「おおかみ〜」の追従作品というわけでも無い。充分に良作だが、なにぶん心が擦れてしまった齢30歳の私からすれば、優等生が創った手頃な完成キットを観たような気がして少し消化不良である。

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