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ダダステーション

2017-03-02

紺屋勝成さんの思い出について

先日、紺屋勝成さんのお別れの会に参加してきました。紺屋さんは昨年末53歳という若さでこの世を旅立ってしまったのだけれど、お別れの会に参加してこのブログに紺屋さんとの思いでを少し書いておこうという気持ちになりました。たいした話じゃありませんがw

紺屋さんがガンで闘病していることは知っていました。奥様が公職を投げて看病に専念されるということだったので相当厳しい状況であることは容易に想像できたのですが、胃がんで摘出手術に成功されて一命をとりとめたのだとばかり思っていました。闘病生活中にも何度かお会いしたのですが、そんな悲壮感を微塵も感じさせず、順調に回復しているものだとばかり思っていました。

昨年の夏過ぎにいよいよ大変な状況になって、厳しい科学療法を選択しなければならなくなったとき、その治療を開始する前日に本人が自ら録画したビデオがお別れの会で流されました。5年5か月前に発見されたガンはすい臓がんで発見されたときは、すでにステージ4のb(他の部位に転移がある)という末期の状態で、そこから家族とごく一部の医療チームとだけ情報を共有して戦ってきたこと、厳しい戦いだったゆえに誰にも病気の状況を伝えずここまでやってきたこと、心配してもらっているにも関わらず、伝えられなかったことを心苦しく思っていて、もし自分に万が一のことがあったらいけないのでこのビデオを撮り感謝を伝えたい、という内容を淡々と語っていました。。紺屋さんらしく、冷静に淡々と。そのビデオの中の紺屋さんのどこか一点を突き刺すようなそれでいてどこかやさしさのある目を見ながら、どれだけの恐怖を乗り越えてきたんだろうとか、限りある時間をどんなふうに使ってきたんだろうとか、いろいろ想像していたら、ぼくも涙をもらわないわけにはいきませんでした。

ぼくが紺屋さんと初めて会ったのは1996年ころだったと思います。もう20年以上も前の話です。ぼくがリムネットというインターネット接続サービスの運営会社の取締役をやっているときに、紺屋さんがマッキンゼーから転職してきました。マッキンゼーといえば、当時すでに大前さん率いる超優良コンサルティングファームでしたから、プロバイダーなどという時代の先端的な事業をやっているとはいえ社員数60名程度のベンチャー企業にそんなすごい会社から30歳前後で仕事がバリバリできる人がやってくるなんて、なんて変わった人だろうと思いっていました。しかも東大卒だというじゃないですか。紺屋さんがインターネットの可能性に並々ならぬ思いを抱いており、いてもたってもいられずにネット業界に飛び込んできたということがこの後だんだんわかるのですがね。(リムネットのオーナー社長が、ものすごくエキセントリックな人でその魅力に引かれてやってきたっていう面もちろんあったと思います)

それから約1年半くらい紺屋さんと一緒に仕事をすることになりました。紺屋さんからはマッキンゼー流のプレゼンの仕方や会議の進め方などいろいろ教えてもらいました。30歳前後で井の中の蛙になりがちなぼくにとってはとてもありがたかったです。しかし、年齢が近いこともあり、ぼくの方が先にネット業界に入っていて俺の方が知っているなどというくだらないプライドがあり、ちょっと距離をとってしまっていたところもあったと思います。今考えればあの時もっとがっつりといろいろ教えてもらえば良かったなと思います。ほんとくだらない自意識


紺屋さんとぼくは取締役という立場で、社長を含め3人で毎週社長室に集まりミーティングをすることにしていたのですが、当時、みんな必死だったと思いますが、インターネット接続サービスにキャリアが次々に参入してくるとか景気があまりよくなく直接、間接金融市場からの資金調達が厳しくなる中で、ほんと激変の時代でしたけれど、会議中に社長と口論になることが頻繁にありました。それはそれは厳しいミーティングでしたw。そんなとき紺屋さんがよく間に入ってくれて、まあまあ二人とも落ち着いてという感じで、常に冷静に話を進めようとしてくれていたことをいまでよく覚えています。ぼくの話もしっかり聞いてくれました。

紺屋さんは時々黒のポルシェ・カレラでオフィスに来ていたんだけど(奥様のかな?)、そのカレラがいつもほこりだらけで、指で落書きされていました。後部座席にゴミがそのままになっていたりして、「ああ、こういうことはほんとあまり気にしない人なんだなあ」と思いました。ぼくも車なんて性能発揮して動けばいいと思っている方なので、これはこれで親近感を持ちました。付き合っているうちにだんだんわかってきたんですが、ほんと、あまりいろいろなことを気にしない人で、みんなが知っていることをよく一人だけ知らない感じで、ある意味天然入っていて、ものごとをロジカルでロボットのように進めるくせに、ドジな面があって人間らしい人だったなあ。と思うようになってきました。

そのカレラで紺屋さんの家まで行って酒をのんだことがありました。あれは1997年だったかなあ。アジア通貨危機があってNY株式市場が急落して、世界中が連鎖して大変だったんだけど、ちょうどその日だったんですよね。そしたら、紺屋さん、自信たっぷりに「この相場はすぐ戻るからチャンスだ、俺は株をたくさん買う」と自信満々に言っていて、さすがだなあ、ビジネスマンだなあって思ったことを覚えていますよ。もちろんそのあと株価はV字で回復して儲かったと思いますよ。

あとこんな逸話もあります。紺屋さんが夜中に胃炎で病院に救急車で運ばれたときのこと。胃が痛くてどうしょうもないので、隣で寝ている奥様を起こしたらしいんですが、まったく起きないので、自分で救急車呼んで病院に行らしいんだけど、翌日、奥様から会社に電話があって「うちの紺屋が朝からいないんですが、出社していますか?」って「何言ってんですか、奥さん、大変ですよ。病院ですよ」って言ったら「えー!」ってことになって、なんとも紺屋さんとその奥様らしい話で、この話も紺屋さんと飲むときよく酒のつまみにしましたw

そうそう、青山墓地にリムネットの社長のキャンピングカーで乗り込んで、夜中にバーベキューやったこともありました。墓の前でさんざ騒いで、確か長谷川さんのお墓だったかなあ。帰り際に、これじゃあバチが当たるかもしれないと二人で手を合わせて声を出して「ごめんなさい」と謝ってきましたw
単なる酔っ払いですねw

そういえば、時々やったマージャンも冷静沈着で強かったなあ。



リムネットが外資企業にM&Aされることになって、ぼくはリムネットをやめることになってしまったんだけど、紺屋さんはその後何年かリムネットに残ってしばらく業務全体を執行していました。ほんと個人的には激動の時代で、ぼくは小さな子供二人抱えて無職になったわけですから、案外泣きそうで、何とか食っていかないといけないということで、仕事くれそうなところ回って、いくつかの雑誌や新聞に原稿書いたり、書籍出してみたり、知り合いの会社を手伝ったりなんてしてなんとか食いつないでいたわけで、その後、忙しさにかまけて紺屋さんともほとんど連絡を取らないようになってしまいました。

リムネットをやめた後の紺屋さんは外資ベンチャーキャピタルにいたり、自分でベンチャーの立ち上げをしたりしていて、風の便りではときどき聞いていたんだけど、ぼくも自分の会社を立ち上げていっぱいいっぱいで、連絡を取らないようになっていました。でも、一度日曜日の午後とかに「いま会議中なんだけど、柳澤さん○○詳しいよね。教えてくれる?」とか電話が突然あって、「ああ相変わらず休みなしで忙しく働いているんだなあ」と思ったことがありました。

次にぼくが時々会うようになったのは、USEN取締役に就任された後です。ギャガUSENの子会社になり、集客にネット広告使えないかと相談があって、そのあたりからまた年に1、2度お酒を飲むようになりました。

ある時、紺屋さんの奥様がTVのバラエティに出演されていて、それは「うち飯は料理せずにネット通販で取り寄せして済ませている」とかいう「えーー!」て感じの衝撃的な内容で、「あれテレビの演出でしょ?」って聞いたら、さらりと「あのとおりだよ」というこれまた紺屋さんとその奥様らしい話で酒の席でだいぶ盛り上がりました。

またある時は、紺屋さんが酔っぱらって何度か財布やケータイ全部どっかに忘れて帰宅したりしていて、奥様がさすがに怒って「禁酒」を言い渡されて、さすがに酒飲めなくなったときがあったんですが、奥様がたまたま海外出張で、鬼のいぬまにということでたらふく飲んで夜中まで大騒ぎしたこともありましたw

いつだったか、たぶんぼくが上場して、そのあとライブドアショックがあって、世の中からネット企業が白い眼で見られていたようなタイミングだったと思いますが、紺屋さんの奥様もネット企業の社長なわけですがやっぱり苦戦していて、酒飲んでいるときに紺屋さんがぽろっと「うちのはアイディアと馬力はあるんだけど経営がいまいちで、柳澤さんは経営がうまいから、うちのやつの会社と一緒になったらきっとうまくいくと思うよ」と言ったことがあって、紺屋さんの奥様が経営が下手とはまったくおもいませんがw、そんな風にぼくのことを見ていてくれたのかと思うとすごくうれしかったことを憶えています。


さて、お別れの会では、紺屋さんをサポートした医療チームの先生が弔辞を読まれていて、その先生が紺屋さんのビデオを見た後に、そのようなビデオが残されていたことに驚き、5年以上、数週間おきに命をつなぐための決断を冷静にしてきた紺屋さんを称えていました。良い結果が出ても悪い結果が出ても、しっかりロジカルに捉えて前に進む紺屋さんらしい話だなあと思いました。奥様もご挨拶の中で「紺屋が関係者の中で一番冷静でした」と言っていました。とにかくそういう人です。

医療チームの先生が、紺屋さんの心配は2つある。一つは奥様のこと。そしてもう一つは自分のことをみんなが忘れてしまうんじゃないかということ。なんていう話もされていました。奥様は大応援団がついているのでまったく心配ないと思いますが、みんなが忘れないように少しでも紺屋さんの思い出をネット上に残しておこうとそのとき思いました。紺屋さんの名前で検索すると、死亡記事ばかりじゃ味気ないですしね。

奥様がご挨拶の中で、NHKの朝の連ドラ「あさが来た」の主題歌が好きだったというお話されました。
ぼくも毎日見ていたんですが、紺屋さんも見ていたのかな?ベンチャースピリット、ファーストペンギンの話ですからね。

主題歌「365日の紙飛行機」のさびの部分の歌詞に次のような言葉が並びます。

人生は紙飛行機
願い乗せて飛んで行くよ
風の中を力の限り
ただ進むだけ
その距離を競うより
どう飛んだか 
どこを飛んだか
それが一番大切なんだ

この「距離を競うより、どう飛んだか、どこを飛んだか、それが一番大切なんだ」の距離を自分の人生になぞらえて共感していたのではないかという奥様のお話しでした。53年は確かに少し距離は短かったけど、紺屋さんのその飛び方と飛んだ場所は素晴らしかったのではないかなあとぼくも思いました。特に闘病生活中の5年5か月の生活は、奥様の懸命の支えもあり辛く苦しくもあったでしょうけど、濃密な時間だったんじゃないかなあと思いました。紺屋さんが闘病中に50歳になったときに誕生パーティーをしたんですけど、その時お会いした紺屋さんと奥さんの照れくさそうな、それでいてすごくうれしそうな仲の良いお二人が忘れられません。
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(写真は50歳のパーティでいただいた、闘病生活中に陶芸を一生懸命習われたという紺屋さんの作の箸置きです。)


お別れの会の会場の祭壇には紺屋さんの笑顔の大きな顔写真があり、ギョロっとした鋭い眼でこっち見ているもんですから、ついつい「紺屋さん、ぼくはこれからどんなふうに生きていけばいいかな」と聞いてみました。

そしたら

「柳澤さんは柳澤らしく、焦らないでやっていけばいいんじゃない」

って言われたような気がしました。

ありがとう。紺屋さん、安らかにお眠りください。


@ankeiy

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