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休日モード

2010-10-15 留守

太宰治 「ヴィヨンの妻」



あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。




「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」

「女には、幸福も不幸も無いものです」

「そうなの?そう言われると、そんな気もして来るけど、それじゃ、男の人は、どうなの?」

「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」

「わからないわ、私には。でも、いつまでも私、こんな生活をつづけて行きとうございますわ」

「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。それはもう、たしかなんだ。それでいてなかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」

「お仕事が、おありですから」




そうして、その翌る日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられました。

中野のお店の土間で、夫が、酒のはいったコップをテーブルの上に置いて、ひとりで新聞を読んでいました。コップに午前の陽の光が当って、きれいだと思いました。




「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは、当っていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです」

 私は格別うれしくもなく、

人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」

 と言いました。