不連続的差異論を再検討する:特異的差異と連続的差異:二つのイデア

前の検討を続ける。イデア界には、特異性の差異が存しているのであり、それが、メディア界を通して、連続的差異=原型になり、前者を特異性差異イデア、後者を原型イデアと呼ぶことができる。しかし、このようにイデアという術語を使用すると混乱する恐れがある。とまれ、考察を続けると、特異性差異とは普遍である。特異的普遍である。だから、不連続的差異=特異的普遍である。イデアという術語をもちいるならば、特異性イデアである。そして、連続的差異が原型イデアである。差異イデアというと両方指すことになる。ここではっきり区別するため、特異的差異と連続的差異ないし特異的イデアないし連続的イデアと呼ぼう。簡略して、

1.特異的差異・イデア
2.連続的差異・イデア

となる。特異的差異・イデアとは、普遍性であり、連続的差異・イデアとは、一般性(一般形式)である。中世の唯名論実念論の論争をここで考えると、実念論は、2とほぼ一致するだろう。そして、唯名論は、1と関係するが、1そのものとはならないだろう。なぜなら、個物とは、2の一般形式の容れ物に入った1であるからだ。連続的同一化された形式に入った特異的差異であるからだ。だから、唯名論と1は一致しない。1はもっとラディカルなもの、根源的なものである。
 ということで、不連続的差異論は、以上のような区別をもつと言える。ここで図化すれば、

イデア界・不連続的差異(特異的差異・虚度)
_____________________(コーラ)
メディア界・不連続性/連続性(強度)
___________________(連続的差異)
現象界・連続的同一性(一般形式・力度)

ただし、現象界においても、特異的差異性は存しているのである。それは、コギトにおける精神/身体性においてである。それは、メディア界的ゆらぎをもつ特異性ではないだろうか。おそらく、イデア界の不連続的差異は感覚はできない。しかし、メディア界のゆらぎのもつ特異性は感知できるだろう。だから、現象界における特異的差異性とは、メディア界的ゆらぎの特異性と見るべきだろう。
 さて、次に、プラトンイデアを考えよう。それは、連続的差異としてのイデアがいちばん明瞭である。馬のイデア。花のイデア。そして、プラトンが善のイデアと呼んだイデアイデアとは、不連続的差異論のイデア界を示唆しているように思える。ただし、プラトンは特異的差異を見ていないと思う。ここで、ニーチェ哲学が意味をもつのである。
 では、先の考察で検討した人間個体の差異とはどうなるだろうか。おそらく、イデア界に特異的差異の虚度の連結があり、それが、人間個体の特異的差異である。複数の特異的差異の連結が、メディア界化して、連続的差異化する。これが、一般的な個体である。二つの目があり、一つの頭があり、四肢があり、等々の人間個体である。しかるに、その一般的個体には、特異的個体の差異/強度が内包・内在されている。それは、メディア界を介しているのである。だから、生とは、一般的個体に宿した特異的個体の強度と一般的個体の力度とのパラドクシカルな活動である。
 ならば、死期において個体はどうなるのか。当然、一般的個体性は消滅する。しかし、特異的個体性すなわち特異的差異性はイデア界に帰還・回帰するだろう。すなわち、複数の特異的差異の連結(虚連結)へと再帰するのだ。特異的差異連結という前個体性がそこに前存在していると言えよう。すると、特異的差異連結とは、単位ではなくて、複数、多数あることになるだろう。少なくとも多数の特異的差異連結があるのだろう。

特異的差異連結1/特異的差異連結2/・・・/特異的差異連結n

となろう。これがイデア界における前人間の特異的差異性である。すると、輪廻転生が成立することとなろう。すなわち、特異的差異連結組織が永遠回帰するということになろう。つまり、これも虚度の回転によって、生死を反復すると考えられる。

以上は、試論である。また考えたい。とまれ、ここで、ひとまず、ブログを休みたい。