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2012-03-08

[] 「24時間テレビ」と化したアマゾン1位の「民間事故調報告書」

福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書

福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書

多くのニュースで取り上げられた「福島原発事故独立検証委員会」(民間事故調)の報告書が、震災から1年たった3月11日に発売される。関心も高いようで、アマゾンでは1位を取り、1位でないときでも常にランキング上位。予約の段階で1位なので、実際に発売になれば、ネットや新聞雑誌に書評が溢れ、さらに売れることになる。今年を代表するベストセラーになるのは確実だ。

今回の「民間事故調報告書」の発売に、わたしはなにか嫌なものを感じてしまう。本音と建前の使い分け、「公共」の美味しいとこ取りという、新聞を代表とする既存メディア手法、在り様そのもののような、とでもいうか。

報告書の販売自体を悪いとは思わない。無料配布しかダメとも思わない。報道で儲けてはいけないとも思わない。本当に手間のかかった、取材費もかかった取材で、素晴らしい内容のノンフィクションは、バンバン売れてほしいと思っている。経済的に報われるという意味でのジャーナリストの最高峰が、朝日や日経、フジテレビの「社員」になることというのでは、さびしすぎる。が、今回の「民間事故調」の報告書については内容以前に、その販売手法に違和感を持ってしまう。

その販売手法は、結構あざとい。「メディアビジネスの王道」ともいえる「事件をつくり、流れに乗る」という方法だ。新聞、テレビ、雑誌が一斉に報道する状況を作り出し、注目を集め、売る。最近だと「オセロ中島」騒動(いずれ本人の告白本が出ると思っているので)。あるいは、水嶋ヒロの「KAGEROU」。古くは郷ひろみの「ダディ」だ。断片情報が新聞、テレビ、雑誌で集中的に取り上げられ、「肝心の全ての内容は本を買ってね」という売り方だ。その手法は「災害から1年」報道が集中する「3月11日」に発売日を設定していることだけではない。

日刊ゲンダイによると、会見では記者に報告書が行き渡らなかったという。この手の発表会見では、極めて珍しい。活動内容を知らしめるための会見なのだから、普通は十分すぎるほどの部数を刷る。会場のキャパシティや事前の参加申込数から、大よその数は事前に把握できるはず。

その一方で朝日やNHKなど影響力の強い大メディアの記者には、会見の前に個別に報告書の「事前レク」が行われたようだ。会見当日にNHKの「クローズアップ現代」で取り上げていることからみて、間違いない。「有力メディアには事前に配って説明しているから、たくさん刷らなくてもいい」と思っていたのではないか。

大手メディアはきっちり抑えて、記者会見の日には報道集中状態を作る。そして、一般の人たちは情報にはそれ以上は接することができないようにして、「すべて知りたい人は本を買ってね」という、実に明確な姿勢を感じる。

報告書をまとめた「日本再建イニシアチブ」という大仰な名前の財団のサイトには、今回の書籍化について、こう説明している。

記者会見後、多くの方々から入手方法についてお問い合わせをいただきました。当初は、非売品として部数を限定して作成しておりましたが、できるだけ多くの方に読んでいただけるよう株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワンから書籍・電子書籍として実費にて緊急出版させていただくことにいたしました。

「おいおい」と突っ込みたくなった。「多くの方々から入手方法についてお問い合わせをいただき」、「できるだけ多くの方に読んでいただけるよう」、「実費にて緊急」など、深夜の通販番組のような売り文句が並んでいるから、というわけではない。

この記述、3つの点で実にウソ臭い。ひとつは「多くの方々から入手方法についてお問い合わせをいただき」、「緊急」出版を決めたとしている点。情報の出し方から見て、当初から本を売ることを意識していたはず、というのはすでに散々書いた。さらに、報告書作成に携わった方のブログにはこのように書いてある。

報告書が2月28日に公表された段階では、私の知る限り、公表の方法についての最終的な判断はなされていなかった。その前から市販するということは交渉していたようであるが、条件が合わず、交渉は成立しなかったらしい。

最初から本を出すことは決まっていたのだ。蛇足だが「条件が合わず」という表現にも、何かひっかかった。「条件」闘争とは、普通は経済条件、儲けの配分についてを指す。財団、出版社、あるいは双方が自らの利益を主張したのだろうか…。

2つ目は「できるだけ多くの方に読んでいただけるよう」出版を決めたという点。財団のサイトには、報告書の内容は一切上がっていない。「報告書」の類は、発表した団体がPDFなどを掲載して、広く周知しようとするのが一般的。ところが、この財団は「できるだけ多くの方に読んでいただけるよう」に、本を売ること以外の努力をしている形跡がない。世の中、PCやスマホを自由に使いこなす人ばかりではないので紙として「も」、出版するというのならわかる。が、最初から紙の本を買うしかないようになっているのだ。本にすれば「できるだけ多くの方に読んでいただける」のは間違いない。だが、「できるだけ多くの方に読んでいただける」ことを最重視して動いたようにはみえないのだ。

最後は、財団のサイトで「実費にて」出版としているところ。実費とは何か、2通りの考え方ができる。ひとつは、紙や印刷、製本代といった材料費と交通費などの最低限の取材経費。もうひとつは、プロが集まって調査したのだから、各々に報酬が支払われるべきで、紙代などに加え、専門家ジャーナリストへのギャラも含まれるという考え方。ここでは、前者を経費として考えることにする。先ほど引用した調査にあたった方のブログで「我々の生業は別なところにあり、財団(やそのスポンサー)に依存していないからである。実際、調査にかかる費用(に加えて私の場合は北海道からの旅費)は出たが、それで生活できるわけがなく」と書かれているからだ。

紙の書籍は1,575円。電子版で1,000円。この価格を上の定義での「実費」として、どう見るか。わたしは紙の書籍に明るいわけではないので、正確な原価計算はできない。が、類推してみることはできるはずだ。報告書は400ページに上るという。わたしの本棚で400ページの本というと、最近のものだとスティーブジョブズの伝記があった。ちょうど1900円(税別)。これを400ページの相場と考えてみる。1,575円という価格は、ジョブズ本にみる相場より2割ちょっと安い設定だ。報告書には、ジョブズ本にはない、単価の高いカラ―のページもあるということらしいので、実質的には大目にとって、ジョブズ本より3割安い設定だと仮定してみる。

報告書を出版するのは、ディスカバー21社。勝間和代氏を最初に売り出したり、ニーチェブッダまで自己啓発本に仕立てあげてしまうなど凄腕の出版社だ。ディスカバー21は、トーハンや日版といった取次を使わない出版社だ。書店へ直接卸す。書店は売り場に並べる分を買い取る。再販制に守られた売り方をしていない出版社なのだ。書店も売れなかった分は自分たちが被ることになるので、仕入れには勇気がいる(普通の小売りでは当たり前のことなのだが)。つまり、出版社として「絶対に売れるものをつくる」という強い意志を感じされる出版社なのだ。コンテンツ企画者として実に潔い姿勢だと、皮肉抜きでそう思っている。

取次を通さない。書店の買い取り。この2つは、何を意味しているか。それは、ディスカバー21社の収益性が他の出版社よりも高いということだ。取次の取り分は約1割。本の相場価格との比較で言うと、取次分を除けば、相場より実質的には2割安いという計算になる。そして書店買い取りなので、「刷ったけど売れない」という出版社側の在庫リスクは極めて低い。ここまで見てきて、相場より2割安いという価格設定を、紙代、印刷代、製本代という最低限の「実費」分として考えることができるのか。どうも怪しい気がする。

もちろん出版社の人件費という「実費」も存在しているのかもしれない。が、今回は「緊急」出版だ。既に存在している報告書を本に仕立てたということなので、担当の編集者がついて小見出しやタイトルを考えたわけではない。編集者の人件費はいらないか、ゼロに近いはず。他に人件費として考えられるのは、営業マンくらいか。だが、営業マンは報告書出版の有無に関わらず、日常的に書店営業しているだろうから、営業の社員分はほぼ埋没コストと考えていいはずだ。出版社側の人件費として、今回の報告書出版のために必要になった分は、ほぼないと言っていいのではないか。

しつこいようだが、電子版の1,000円という価格にも一応、突っ込んでおく。電子書籍の「実費」とは何か。一般的には、データ作成や、その確認。そして、電子版を出すための権利処理や契約締結が含まれる。今回の報告書の場合は、アーティストの写真や絵をつかっているわけではないので、権利処理の手間はほとんどないはずだ。報道写真の引用はあるのだろうが、報道関係の素材の権利処理はかなり楽なので、手間としてはほぼないというレベルだ。契約関連も問題ないはずなので、データ作成費くらいなのだ。で、「1,000円が実費なのでしょうか」と思うわけです。

紙の価格は相場より2割安いという価格設定。電子版価格は紙より3割程度安いというのが一般的なので、1,000円という電子版価格はまさに標準的。「実費」での出版というよりも、出版ビジネスの常道にしか見えないのですが…。

情報をうまくコントロールして、書籍への注目度を上げる。価格も相場とほぼ同じレベルで、しっかり取る。その一方、報告書を出した財団のサイトには「非営利」、「独立」といった公共中立を謳う言葉が並ぶ。報告書自体が「福島原発事故独立検証委員会」と称している人々によって書かれていることになっていて、かなりの公共性を打ち出している。書籍化自体も「問い合わせがあったから」、「実費」など公共性を強調している。

そして財団のサイトをみると、主催者は錚々たる面々。理事長は船橋洋一元朝日新聞主筆主筆というのは新聞社の論説を決める責任者という役職。読売主筆はいまだにナベツネ氏なので、いかにエライ地位なのかわかるはず)。その他、ローソンのCEOや住生活グループ会長の名前がある。他の方々の経歴もまばゆいばかり。「日本のエスタブリッシュメント」、そう呼ぶにふさわしい面々なのだ。

ここまで見てきて、ひとつのことが思い浮かんできた。同時に、自分のなかでの報告書の書籍化への違和感の正体もわかってきた気がした。何を連想したかというと、「24時間テレビ」。あのチャリティーを謳って、芸能人のマラソンを長時間に渡って実況中継する人気番組だ。

子どもや老人が、ペットボトルいっぱいに貯めた小銭を持って駆け付ける、おなじみの光景。が、番組を放送しているテレビ局自体は広告料収入をきっちりと頂き、その大部分を寄付するようなことはない。番組を作っているのは、超高給のテレビ局社員と高額ギャラの芸能人。偽善と言われようがバラエティだろうが、何もやらないで批判するよりチャリティーはやった方が良いに決まっている。が、その構図にどうもすっきりしない感情は残ってしまう。

今回の報告書書籍化もなにか同じものを感じてしまった。報告書作成の実務にあたった方々は先述のブログをみる限り、実直に取り組み、報酬も受け取っていないのだろう。錚々たるメンバーと超一等地である赤坂のアークヒルズにオフィスを構えていることをみても、財団が印税目当てでもないのだろうし、事故の真相を掘り起こす作業は、貴重だろう。

が、違和感を抱いてしまうのは、本の販売につなげる全体像ともに、妙に公共性を打ち出す姿勢だ。儲け主義ではないにしても、取るものは取る。取るものは出版社にとってはカネだったのかもしれないし、財団にとっては「ベストセラーを生んだ、あの注目の財団」という名誉もあったのかもしれない。その一方で、過度に公共性を打ち出す。印税分の使い道も、財団サイトによると「国際シンポジウムの開催や外国語での報告書出版ほか、福島原発事故の調査・検証結果を日本と世界の未来のために生かす活動」なのだという。無理やり公共性を出したかのようで回りくどい書き方だが、要は財団の活動資金に充てるということ。本当に印税分を財団として当てにしていないなら「必要経費を除いて、赤十字に寄付します」とでも書けばいいハナシだ。

今回の報告書は「本を売る」商売として見た場合、公共性の美味しいとこ取りをしているようにも見えてしまう。もしここまで公共性を謳わずに、フリージャーナリスト集団として真相に迫りたいと取材した場合。はたして、取材対象は報告書ほどに協力しただろうか。内容を発表する記者会見を開いても、多くの記者が集まっただろうか。そして、多くの媒体で内容を紹介してもらえたのだろうか。

公共性を打ち出す裏側で、しっかり自分自身は取るものを取るというのは、実はマスコミ産業の伝統芸だ。チャリティを打ち出しながら、きっちり商売はする「24時間テレビ」。ホリエモンによる買収に抵抗した際のフジテレビの理由付けも「放送の公共性を守る」だった(経営主体が変わることが即、公共性を損なうことにつながるわけではない。損なう放送が実際に会ったときに、法的な措置があればいいだけのハナシ)。「報道を守るため」という新聞の再販制度特例扱い(再販制のないアメリカには報道はないのかと言いたくなるが)。

最初から正々堂々と謳えばいいのに、と思う。「非営利」だの「独立」とかいう「財団」を掲げず、有志のジャーナリスト専門家集団が事故の真相を掘り起こす。政府の情報公開はボロボロだからやります。公共性の高い仕事です。取材費を賄うためにも、次の仕事につなげるためにも、いい仕事をした人間が経済的にも報われるためにも、売上はしっかり必要ですと。そして、「実費」で販売などと言わず、売れそうな上限額、例えば1冊3,000円くらいで売ればいいのだ。

本の収益構造などに詳しくないだけに、わたしの事実誤認もあるのかもしれない。報告書の内容や携わった人々の想いは真摯なのだろう。

けれど、今回の報告書の売り出し方には、何か、既存メディアの伝統芸である、情報コントロールをして売り出す手法と、嫌な公共性の打ち出し方を見せられた気がして、どうもすっきりしないのだ。

2011-09-23

[] ネットはプロフェッショナルを殺す

旅行を手配しようとして、気が付いたことがある。今更言うまでもないほど、当たり前のことではあるのだけど。

それは、旅行代理店の店舗で手配するメリットがひとつもないということ。ネット予約に何も勝っていない。そもそも店舗に行かなくてはいけない。行っても店舗の営業時間が短い。窓口の待ち時間も短くはない。手数料が高い。予約の変更やキャンセルも店の営業時間に縛られる。本当は店だと対面販売ならではの融通がつけられるはずだけど、実際にはかなり杓子定規な対応だし。とにかく、旅行代理店だと店舗になにひとつ長所がない。ネットと店舗の長所と短所を比較とかいうレベルではなく、長所をなにひとつ見つけられないのだ。

リアルな店舗の長所として「プロの店員のアドバイス」なんてことを言う人もいる。けれど、そんな聴くに値する、さすがプロと思わせるアドバイスを聞いたことが人生で何回あるだろうか。旅行代理店でいうと旅先の現地情報やネットで出てこないような情報まで知っている店員なんて、極めて稀。パートみたいな店員が多い。これは旅行代理店に限らず、書店だってあてはまるかもしれない。雑貨や食べ物、洋服のような少量生産で商品の評価がネットに出回っておらず、かつ実物を見ないとわからないようなものくらいしか、店舗販売は難しいのかもしれない。

旅行の手配を通して、こんなダメな販売形態は、スマートフォンタブレットでますますインターネットが普及して使いやすくなったら、完全に駆逐されるだろうなと思った。石炭が石油に取って代わられたように、歴史の必然として消えていくのだろうと。

旅行代理店や書店が消えていくのは、産業の歴史的な循環のひとつ、あるいは企業努力の不足かもしれない。けれど、ここまで連想して、ふと思いついたことがある。インターネットはプロを殺すのではないかと。

旅行代理店でも書店でもほとんどの店員はただの端末のオペレーターかもしれないし、決まりきった営業しかしていないかもしれない。けれど、1000人にひとりくらいは、本当に「プロ」と呼ぶにふさわしい人がいるのだろう。仕事を超えて、自らその世界を学び、プライベートの時間でさえ、その研究に余念のないような本当の「プロ」が。そんなプロに対面販売で接したら、もしかしたらネットより高くても、手間がかかっても、価値があると思えるのかもしれない。

だが、プロが1000人にひとりだとすると、999人は「プロ」と呼ぶに値しない人たちだ。ほとんどのお客さんは店舗で「プロ」以外に出あうことになる。サービス品質に満足できず、どんどんお客さんをネットに取られていくことになる。そして、会社としても、産業としても、衰退していくことになる。

1000人にひとりの「プロ」。だが「プロ」も最初から「プロ」ではない。「プロ」と呼ぶに値しない、半端な仕事を繰り返していくなかで、様々なことを学び「プロ」になる。「プロ」として生まれるのではなく、仕事を通して「プロ」になるのだから。

インターネットが999人の「プロ」ではない素人店員を駆逐する。けれど、999人のなかに次世代の「プロ」が、いわば「プロ」の卵がいるかもしれない。その卵が孵化する土壌も一緒に、インターネットは殺していくのかもしれないと思った。999人を丸ごと殺し、そして次の世代の「プロ」がいなくなる。

旅行会社が自社のサイトに「プロ」ならではの情報を載せるにしても、そんなに多くの「プロ」はいらない。必要最低限の「プロ」にだけ、対価を払えば済む。

旅行でいうと確かに旅行が本業でなくても、「プロ」並みの知識を持ち、ブログなどで発表している人もいるだろう。けれど、本当の意味での「プロ」ではないと思う。それは玄人はだしの「プロ級」の趣味だ。「プロ」とは、その分野での専門性で正当な対価を受け取って、生活をしていることが条件だと思うから。

思えば、旅行代理店や書店に限らず、テレビでも出版でもアニメや映画など、みんなにあてはまるかもしれない。インターネットは会社員というだけで「プロ」の振りをしていた、中途半端な素人的「プロ」を殺す。中間搾取的な産業、中間管理職を無用にする。けれど同時に、将来のプロの卵まで一緒につぶしてしまっているのではないかと。すでになにかの分野で超一流になっている人はネットを駆使して、より活躍の場を広げてることもできるが、将来のプロを生むために本当にインターネットはいいことづくめなのか。少し考えてしまった。