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anti-monosの新メディア論 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-09-23

[] ネットはプロフェッショナルを殺す

旅行を手配しようとして、気が付いたことがある。今更言うまでもないほど、当たり前のことではあるのだけど。

それは、旅行代理店の店舗で手配するメリットがひとつもないということ。ネット予約に何も勝っていない。そもそも店舗に行かなくてはいけない。行っても店舗の営業時間が短い。窓口の待ち時間も短くはない。手数料が高い。予約の変更やキャンセルも店の営業時間に縛られる。本当は店だと対面販売ならではの融通がつけられるはずだけど、実際にはかなり杓子定規な対応だし。とにかく、旅行代理店だと店舗になにひとつ長所がない。ネットと店舗の長所と短所を比較とかいうレベルではなく、長所をなにひとつ見つけられないのだ。

リアルな店舗の長所として「プロの店員のアドバイス」なんてことを言う人もいる。けれど、そんな聴くに値する、さすがプロと思わせるアドバイスを聞いたことが人生で何回あるだろうか。旅行代理店でいうと旅先の現地情報やネットで出てこないような情報まで知っている店員なんて、極めて稀。パートみたいな店員が多い。これは旅行代理店に限らず、書店だってあてはまるかもしれない。雑貨や食べ物、洋服のような少量生産で商品の評価がネットに出回っておらず、かつ実物を見ないとわからないようなものくらいしか、店舗販売は難しいのかもしれない。

旅行の手配を通して、こんなダメな販売形態は、スマートフォンタブレットでますますインターネットが普及して使いやすくなったら、完全に駆逐されるだろうなと思った。石炭が石油に取って代わられたように、歴史の必然として消えていくのだろうと。

旅行代理店や書店が消えていくのは、産業の歴史的な循環のひとつ、あるいは企業努力の不足かもしれない。けれど、ここまで連想して、ふと思いついたことがある。インターネットはプロを殺すのではないかと。

旅行代理店でも書店でもほとんどの店員はただの端末のオペレーターかもしれないし、決まりきった営業しかしていないかもしれない。けれど、1000人にひとりくらいは、本当に「プロ」と呼ぶにふさわしい人がいるのだろう。仕事を超えて、自らその世界を学び、プライベートの時間でさえ、その研究に余念のないような本当の「プロ」が。そんなプロに対面販売で接したら、もしかしたらネットより高くても、手間がかかっても、価値があると思えるのかもしれない。

だが、プロが1000人にひとりだとすると、999人は「プロ」と呼ぶに値しない人たちだ。ほとんどのお客さんは店舗で「プロ」以外に出あうことになる。サービス品質に満足できず、どんどんお客さんをネットに取られていくことになる。そして、会社としても、産業としても、衰退していくことになる。

1000人にひとりの「プロ」。だが「プロ」も最初から「プロ」ではない。「プロ」と呼ぶに値しない、半端な仕事を繰り返していくなかで、様々なことを学び「プロ」になる。「プロ」として生まれるのではなく、仕事を通して「プロ」になるのだから。

インターネットが999人の「プロ」ではない素人店員を駆逐する。けれど、999人のなかに次世代の「プロ」が、いわば「プロ」の卵がいるかもしれない。その卵が孵化する土壌も一緒に、インターネットは殺していくのかもしれないと思った。999人を丸ごと殺し、そして次の世代の「プロ」がいなくなる。

旅行会社が自社のサイトに「プロ」ならではの情報を載せるにしても、そんなに多くの「プロ」はいらない。必要最低限の「プロ」にだけ、対価を払えば済む。

旅行でいうと確かに旅行が本業でなくても、「プロ」並みの知識を持ち、ブログなどで発表している人もいるだろう。けれど、本当の意味での「プロ」ではないと思う。それは玄人はだしの「プロ級」の趣味だ。「プロ」とは、その分野での専門性で正当な対価を受け取って、生活をしていることが条件だと思うから。

思えば、旅行代理店や書店に限らず、テレビでも出版でもアニメや映画など、みんなにあてはまるかもしれない。インターネットは会社員というだけで「プロ」の振りをしていた、中途半端な素人的「プロ」を殺す。中間搾取的な産業、中間管理職を無用にする。けれど同時に、将来のプロの卵まで一緒につぶしてしまっているのではないかと。すでになにかの分野で超一流になっている人はネットを駆使して、より活躍の場を広げてることもできるが、将来のプロを生むために本当にインターネットはいいことづくめなのか。少し考えてしまった。

2011-09-19

[][] 「面白い人ほど会社を辞めていく」と言い切ることへの3つの違和感

「面白い人ほど会社を辞めていく」とか、最近ネットではいわゆる人気会社を辞める動機を書くこと、称賛することが流行っているようなので、自分のメモ代わりにとりとめもなく、思うところを書いてみようと思う。エンジニアなどの世界ではなく、自分がわかる「文系」の世界のはなしとして。

ぼく自身は新卒でテレビ局に入り、その後はベンチャーなど、いろんな社風の会社に身を置いた。なので、会社をなにか特別なものとして見る感情はない。どの会社にもいい部分もあれば、悪い部分もある。優秀な人もいれば、ダメな人もいて、相性のいい上司もいれば、逆もいる。どの会社も辞めて得たものもあれば、失ったものもある。会社を移ることも、会社内の部署異動程度という軽い感覚になった。それでも、よくある「無条件の」有名企業の退職礼賛には、なにか違和感がある。

まず、フリーランスへの無邪気なまでの憧れへの違和感。かつて、わたしがいたテレビ製作の世界でフリーのディレクターは多い。けれど、圧倒的に多くは「自分のやりたい仕事をやりたいようにやれる」なんて状態とは程遠い。「フリー」なので、明日の仕事があるかどうかもわからない。仕事の発注をもらうために、会社員以上に管理職にある人間に気を遣う姿を何度も目にしてきた。

究極の「フリーランス」といえる宮崎駿クラスになれば、好きな仕事を好きなようにやれるだろう。けれど、そのポジションを勝ち取れるのは、すでに著書や講演実績もあるような「大先生」クラスなのだ。

企業がフリーランスに依頼する仕事は、基本的には2種類しかない。ひとつは自社にはない高度の専門性を持つ人に知恵を借りるというもの。もうひとつは誰でもできるような退屈な雑用仕事を、社員がやるより安上がりであるとか人手が足りないという理由で、外部に依頼するもの。経験も実績もないフリーに依頼する仕事がどちらなのかは、明らかだろう。

もうひとつの違和感は大企業だと実力が磨かれないというような単純な言説。前者の意味でのフリーランスになるには実績や実力が必要だが、既存の有名企業や大企業にいることが有利な場合が多い。カネも看板もつかえる。玉石混合ながら、社内で優秀な人に出会える機会も多い。会社で得られるものを得られるだけ得たあとで、厳しい環境に身を置く。幸運にして2、30代で大企業にいる人であれば、辞める前にその資産を利用する道を考える方が、「ノマド」だか「フリーランス」になるための近道だと思う。

大企業の問題は、実力は大して違わなかったはずだけど、ちょっとした人事などの巡り合わせで、不遇を囲って暇を持て余している4、50代がかなり多いということ。その世代になって外れてしまうと、実績を出して逆転できる機会もほとんどなく、かといって自力で能力を磨く余地も極めて限られる。ただ給料を持ち運ぶために会社と家を往復する機械になりかねない。

もちろん、スティーブ・ジョブズビル・ゲイツも本田宗一郎も孫正義も大企業での下積み経験があって上り詰めた人々ではない。学生時代から自分の好奇心と能力のままに「爆走」して、結果を出し続けたような人々だ。少なくとも大学時代を何となく過ごして、就職活動なんていう押し付けられたタイミングになって、初めて「どの会社が向いているかな」などと、よくある企業名のなかから人生の進路を考え始めたような人々ではない。

なので、「超人」以外でそれなりの会社に在籍する人にとって最も現実的な自立への戦術は、会社の看板で仕事がやりやすい30代半ばくらいまでに一定の実績をつくり、能力も磨いたうえで、その後の会社を超えた展開を模索していくことではないだろうか。

ソーシャルメディアは、組織にとらわれない個人のさまざまな可能性を切り開くとも思う。だけど、同時に「フォロワーが何千人いる」とかの程度で、自分が組織を飛び出しても何かを生み出せる、それなりの実力者だと勘違いしてしまう人も生み出しそう。社内の先輩や上司すら説得できないような人が、社外の様々な利害関係者の合意を得て、しかもおカネを貰うような仕事ができるのだろうかなどと思ってしまう。

最後の違和感は、「無条件に」礼賛している人への違和感だ。若くて、文字通り何もない人が、無鉄砲に大企業を辞めて、厳しい環境に自ら身を置き、実力を磨く。素晴らしい挑戦だし、高い志だと、ぼくも本当に思う。そういう数々の無茶に思える挑戦のなかから、イノベーションが生まれるのだろうとも思う。ただ、それは無数の精子のうち、だたひとつだけが生命になれるかのような険しい道なので、無関係の他人が無責任に礼賛したり、煽ったりするようなものでもないとも思うのだ。

退職礼賛をみると、どこか腑に落ちないものを感じてしまう。それは株式評論家がそんなに儲かるわけないとわかっているくせに商売上の確信犯として銘柄を煽るのに近いものか。あるいは自分は大企業の管理職といった安全圏にいながら、他人の挑戦だけは無条件に支持して、安全圏にいて自分は挑戦しなかったという言行不一致の後ろめたさを自己弁護しているかのような、いかがわしさとか。

仕事とは現実と向き合い、ときに妥協、ときに説得、ときに確信犯的にぶち破りながら、ボロボロになったとしても、少しでも自分の思う方向に近い形をつくりあげることではないか。組織にいようがいまいが、同じことのはず。まちがっても問題を組織や他人に帰して、居酒屋やネット空間で自分の「正論」をどれだけ声高に叫んだかを競うゲームではない。