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anti-monosの新メディア論 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-04-10

[][] 「電子書籍の衝撃」 本とは何かを問う電子書籍という存在

電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)

電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)

この本には3つの意味がある。ひとつは電子書籍という形態で読むという体験、もうひとつはプロモーションの方法、そして最後は当たり前だが、本の内容自体。

  • iPhoneで「本」を読むという行為

電子書籍を扱った本に相応しく、紙の本が発売になる4月15日の直前、14日正午までディスカヴァー21オンラインストアで、110円という紙よりはるかに安い価格で販売している。なので、さっそく購入。初めてiPhoneで本を読んでみた。

多くの人が書いているが、確かに思ったより読みやすい。液晶は輝度が高いので、長時間、文字を読むと普通は目が疲れてしまう。だが、文字の背景色を暗めにし、眼の負担を減らす工夫をしている。また、文字の大きさもiPhoneで読むのに最適な、大きめにしてあるので、拡大や縮小せずに、さっさと読んでいける。このへんは産経新聞iPhoneアプリと全く違うところ。だが、工夫しているとはいえ、液晶の画面。やはり紙の本を読むときより、画面は明るい。明るさからの眼の負担を減らしたいからなのか、字が大きいこともあり、気がつけば紙の本より眼からの距離を離して読んでいた。

だが、良いことばかりでもない。読みすすみながら、以前の記述を読み返したくなったとき。紙の本なら「このへんに書いてあったな」とすぐ戻れるのだけれど、電子書籍だと振り返りにくい。せっかくデジタルなのだから、しおりの機能が欲しい。iPhoneで本を読むというのは、結論としては、普通に「あり」だと思った。

直截的な機能の感想を書いたけれど、それ以外の感覚的な違いもあった。iPhoneには当然ながら、Twitterやゲームなど、いろんなアプリを登録している。本を読むのに飽きたり、疲れたら、他のアプリを立ち上げている自分がいた。他のアプリを立ち上げた瞬間に思ったのが、「電子書籍では本を読むという行為が他のコンテンツのなかで、よりフラット化する」ということ。紙の本であれば、本を読む際には本に集中するという、かるい覚悟のようなものがある。音楽を聞きながら本を読むということはあるけど、本を読むときは、基本的には他のコンテンツとは遮断されている。ところが、多機能なiPhoneで「電子書籍」として本を読む際には、本という存在が音楽、ゲーム、その他のアプリ。あらゆる時間消費の娯楽とボーダレスで並列にある。

並列であるからこそ、つまり本だけに集中しづらい環境にあるからこそ、読み進むハードルを少しでも下げておきたい。「電子書籍の衝撃」の文体が「です・ます」調、まるで話し言葉のように書かれているのは「何となく」ではなく、著者の佐々木俊尚さんの工夫ではないかと、勝手に推測。

  • 出版と音楽は同じ道を歩むのか

次に本題の内容について。本書では電子書籍がもたらす変化の多くを、デジタル配信で遥かに先行する音楽業界との類似性から描いていく。KindleiPadのような、タブレットの広がり。iTunesのような電子書籍販売のプラットフォームをめぐる熾烈な競争。そして、確立されたプラットフォームは過去の作品と現在の作品の境目をなくす。iTunesであれば昔の曲も最新の曲も同じように並列に並ぶ。同じように本もなるというのだ。

同時に新たなプラットフォームは個人による出版も可能にする。もちろん素人が書いたものが、そのまま本として読めるレベルになるわけはない。編集者の手が入り、商品としての本に仕上がっていく。だが個人での出版が可能な世界では、本を作るための、設備産業としての出版社が必要なわけではない。出版社は著者の講演やトークショー、グッズの販売から、PRまでを請け負う「360度契約」になり、それはスモールビジネスになるのだという。

プロモーションも電子書籍の世界ではかわってくる。これまでのような、書店に平積みで置いてもらう、ランキングに入るという売り方から、ソーシャルメディアにおいて、本と個人がマッチングされるように変わっていくという。それは、twitterで感性が合うと思った人が勧める本を自分も読むという、ソーシャルメディアで自分が属する小さな群のなかで、本と出会う世界だ。

本書の内容に、ほとんど異論はないのだけれど、いくつか自分なりのイメージも膨らんだ。本書では「本は統一された世界観を提示するので、音楽のようにマイクロコンテンツ化しにくい」とある。「マイクロコンテンツ化」とは音楽であれば、アルバムごと聴くのではなく、iTunesで一曲だけ聞くということ。確かにその通りだと思う。ただ、それは既存の本という枠組みによる。個人による出版も可能になれば、本という枠組み自体がマイクロ化していくのではないか。今の200ページ近い本はマイクロ化しにくいし、素人だったら読むに耐えるものは100ページ書くのも至難の業。だが、30ページだったらどうだろうか。小さなライフハック。自分が働く業界の舞台裏。書ける話はあるのではないか。200ページはある本という形態が、30ページ程度で100円とマイクロ化する流れも生まれてくると思う。

いずれにせよ、電子書籍がもたらす世界では、出版社という存在は一度解体されるはずだろう。大手のマスメディアのなかで、出版は設備を持つという優位性が特に薄い。テレビであれば電波。新聞であれば輪転機と大人数の記者による取材体制を持つ。出版社にはそういうスケールメリットが少ない。取次など既存の流通網を押さえていることが強みであるなら、電子書籍は既存の流通網を解体していく。であれば、大手出版社が流通網解体の流れと同期して再編成を強いられるのは、自然な流れだ。

  • 電子書籍のプロモーション手法と課金コンテンツの現

紙の本の発売まで110円という、かなりタダに近い値段で配信された本書。最近流行りの「FREE」が描き出した手法に近い。つまり複製コストが電子書籍はほとんどタダ。なので、タダ同然で一定数を「ばらまく」。タダ同然でばらまかれた電子書籍は、Twitterブログ空間で話題を巻き起こす。そのころには、110円での配信は終わっているので、読みたくなった人は電子出版より高い紙の本を買うしかなくなっている。電子書籍が複製無料だから可能になった、ソーシャルメディアに働きかけるプロモーション手法だ。

この手法を仕掛けたのが、ディスカヴァー21という出版社というのも興味深い。佐々木俊尚さんは本書の中で「(出版社が)出版文化を守るといっても、いまやタレント本と自己啓発本ばかりではないか」と挑発する。D21社は自己啓発のカリスマ・勝間和代を世に送り出し、ニーチェすら自己啓発本に仕立ててしまうという自己啓発本の総本山だ。

D21社が「電子書籍の衝撃」を出したことを揶揄しようというのではない。興味深いと書いたのは、「電子書籍の衝撃」が出版界の「近未来」を描こうとした本だとすれば、D21社は既得権を守るという意味ではない、最も出版界の「現在」にゲリラ的に適応(あるいは対抗)しようとしている会社だと思えるからだ。その会社が、電子書籍の近未来、電子書籍の本を出す。

出版にせよ、新聞にせよ、コンテンツでおカネを貰うというハードルがどんどん高くなっている。無料コンテンツで代替できるもの(=新聞)、中途半端なエンタテイメント(=多くの書籍や雑誌)ではネットにあふれる無料コンテンツを前に、おカネをもらえなくなってきているのだ。そこで、おカネを一番貰いやすいのが自己啓発本だ。自己啓発によって、生活が変わる(と思える)。変わった生活、得た知識によって収入が上がる(と思える)。だからこそ、おカネを払ってもいいと思えるのだ。自己啓発本を買う人間にとっては、本を買うということが、もとが取れる投資という感覚だ。もっとも、この期待はほとんどの読者にとって、裏切られるのだが。

また、無成長時代という世相も自己啓発本を後押しする。それでなくても給料は上がる見込みもない。黙って日々を過ごしていて、無事に乗り切れるのか。不透明で困難な社会を生きていくには何かをしないといけないという多くの人の危機感。とはいえ、MBAを取るほどの努力もできないし、能力もない。なので、もっとも手っ取り早い、「駆け込み寺」としての要素も、自己啓発本はあわせもつ。ネットによるコンテンツ無料化と低成長社会という現実。その2つが有料コンテンツとしての自己啓発本に追い風となっているのだ。

D21社は大手でもなければ、老舗でもない。黙っていても売れる、文芸の大先生を抱えているわけではないはず。なので、おカネを頂くという意味を考え抜いた結果、自己啓発に行きついたように見える。それはそのまま、書籍を含む、課金コンテンツの現在を最もよく現わしているように思える。

また、自己啓発本の著者は大抵がビジネスマン。文章を書くことも、企画を考えることも慣れていないはず。編集者のサポートの余地が極めて大きいことも、大先生を抱えていない新興の出版社に適しているのだろう。一人で勝手にやっていける大先生ではなく、書くべき題材は持っていても、書き手としては素人のビジネスマンを発掘して支える。それは、これからの出版社のありようを示しているようにも見える。

  • 電子書籍が突きつける「本とは何か」という命題

電子書籍を読みながら、ふと思った。通常のネットでのサイト閲覧と電子書籍は何が違うのだろうと。電子書籍の複製コストはタダなのだから、無料で配信しようとすればできてしまう。本は有料、ネットは無料というのは、もはや区分けの基準にはならない。iPadのデモでジョブズは動画なども見られる「本」を披露した。リッチな表現は「本」としては新しいが、ネットでは当たり前の世界だ。もし、ふつうのサイトを本のように読めるアプリだかブラウザができたとしたら、電子書籍と普通のサイトをわけるものは何か。本とサイトというカテゴライズはもはや意味を持たないのか。WEBの「本」化なのか、「本」のWEB化なのか。あらゆる情報と並列化されるネットの世界に飛び込んだ「本」は、そのまま「本」であることの意味を突きつけられる。