大衆文化

昨日、現代のアートの話で「ギャラリーフェイク」という漫画において、オタク文化がアートに組み込まれていくことへの皮肉が語られていたことをちらっと書いた。秋葉系のオタク文化については「コスプレ」とか「フィギア」とかなんだか実は良く判らないがとにかく人気があるのは知っているが、確かにあのエネルギーがアカデミズムに組み込まれるとつまらなくなるだろうなぁ。という気はします。萌えな世界に置かれてなんぼなものだろう。切り取られ、美術館に入った時点でそれは死ぬ。やはりお兄さん方の妄想やら萌えに晒されてないと生命を持たないと思う。
これとまったく同じことが宗教美術にいえるなぁ。とよく思う。カトリック教会には御像というフィギアがあり、ミケランジェロの彫刻から土産物屋で売られている二束三文のマリア像や聖人像まで、ピンからキリ。これらは長い間親しまれてきたカトリック聖人フィギアである。また「御絵」という聖人の絵の描かれたいわば印刷イコンもある。これなどはまるでトレーディングカードだ。子供の頃はこの綺麗な聖人の絵を集めたものだった。拡大解釈すればルーブルやウフィツィにある巨匠の絵画もその範疇にはいるかもしれない。ミサでは一年の間に典礼歴というものがあり司祭がそれにふさわしい色彩の祭服を着て現れる。身分によっても召すものが違う。ファンタジー系のコスプレネタによく起用されている。聖劇などでは天使やマリアやヨセフのコスで子供たちが楽しんでいたりする。これらはやはりそこで使われているからこそ意味を為すアイテム達だ。
カトリック教会はこうした視覚装置を多数利用してきた歴史がある。そして大衆を教化する為に「教条的な娯楽」(単なる娯楽ではない紐付き娯楽)を教会が提示してきたともいえるのだ。中世には聖劇は盛んでルネッサンス期に到ってはかなり派手だったらしい。また、ヒーローとして、アイドルとしての聖人の荒唐無稽な話が好まれ、またそういう話を吟遊詩人が街中で披露していただろう。教会に行けば絢爛豪華な美術品がタダで鑑賞出来る。巡礼と称した観光旅行も盛んだった。はては聖書物語のテーマパークまで造った町もある。こうした娯楽を権威ある存在が提供するというのはおそらくローマからの遺産であろう。
聖書に立ち返れとするプロテスタントはこういう大衆が好んで来た文化を異教的、偶像崇拝と批判している。たしかに十戒には「像を刻んではならない」とある。聖書に立ち返り、無駄な要素から今一度原点に返る。こうした思想では歴史の中で複雑化したものをそぎ落とし、シンプルなものへと向かおうとする。修道院改革を行ったシトー会の聖ベルナールもまさにその発想でストイックなシトー会建築を作り上げたし、有名なシンプルの極みの安藤忠雄の作品はプロテスタントの教会だ。日本の、或いは昨今の外国のも含め、現代のカトリック教会にもこうした傾向が現れつつある。
俗なる領域である大衆文化的要素は教会の外へと移行し最終的にはディズニーやハリウッド映画のようなものを生み出したと言ってもいいかもしれない。教会の縛りの無くなった文化はそのように発展し、教会には聖域の文化のみが残される。なかには清教徒のような全ての信徒が修道僧のような暮らしを求められるような極端な発想まで登場する。ちなみに倫理的にもっとも厳しくなったのが近代だといわれている。ビクトリア朝など参照のこと。
キリスト教世界に限っていえば、教会史の中で「腐っている」などといわれているルネッサンス期やそれ以前の実は案外と自由であった中世のほうがわたくし的には面白かっただろうと思うよ。(あくまで教会の中の話で)近代ってなんとなく全体主義的だもん。(だからストイックな構成主義ファシズムって・・・以下略)

ん?

そういえば、カトリックの要素ってゴスロリさん達ご用達になっているなぁ。「ヘルシング」も人気あるし。アンデルセン神父みたいな神父がいたら教勢がもっと延びるか?(・・んなわけないな。)