ナショナリズム

眠れなくなっちゃった。徹夜状態だぉ。なもんでぼけた頭で、軍師諸葛先生(萌え)に「炎上も覚悟の上ですか?」などと言われそうなこのネタでも。
ナショナリズム
わたくしは「国家」というのは国民の総体を指す代物だとおもっちょりまして、「国」という時は、日本国に住む、日本のパスポートとか持ってる、或いは日本語がネイティブな数多の住民一人ひとりを思い浮かべるので、「愛国」とかいう時はその隣人すべてを愛するみたいなそんなもんだと思っておりましたんですが。それについては国家というものの誕生が、王権やらと対立して生じたと、まぁそうした時に出てきた第三身分すなわち市民の幻想の共同体であるという認識がどっかにあるからで、これについてはuumin3さんが次のようなエントリを。
○uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060419#p1
■[ナショナリズム] 革命のナショナリズム
→ハプスブルグ以前だと、ヨーロッパという土地は古くは領主、地方都市、などという単位があり、その集団の単位がどの権力(教会か。皇帝か?王様か?)と契約を結ぶのかという発想で、あれこれうにょうにょとやっていたわけですね。で、ヨーロッパというところは未だにそういった小さい単位での発想は根強かったりする。大阪人と東京人は実は違うんだ。あいつらとは国際的に定められた国は一緒だがほんとは違う。みたいな。なんとなく仲も悪かったり。だからサッカーなんか熱くなりすぎるほどに熱くなるんだけどね。
けれど、契約者としての権力(王の権力、教会権力)というものを取っ払って、市民自体が権威者となったというのが「国家」であり、それゆえに特にフランスなんかその自負心が異常に強い。左派的ナショナリズムは相当かもしれない。だから「ナショナリズム」というものを民族主義的に捉えるっていう発想といささかずれが生じたりしますね。しかし通常、日本においては「ナショナリズム」を語る時はどちらかというと民族主義的に考える人も多いようです。
で、その民族主義的な定義なんだか権益集団なんだかで判らないナショナリズムを語っている人を発見。
内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/archives/001692.php
ナショナリズムと集団性
→一瞬、そうさねぇ。と、例えばフランスの農民がマクドナルドに攻撃する辺りの光景とかは、対外的な存在を排斥し既得権益を守るみたいなそんな風に映るかもしれない。ヨーロッパのEU統合で、なんとなく再び民族主義的な動きがあったり、移民排斥のネオナチみたいなものまで、グローバリズムに抵抗する保守の光景は結局自分のおまんまの心配から生じているだろう。もとより王権から勝ち取った自分達のナショナリズムの範囲は他者から侵害されない範囲で考えられる大きさだということなんでしょう。
しかし、日本の「ナショナリズム」というのは、内田さんのいうような利益機会が本当に目的なんだろうか?という疑問はあります。若い人に多くみられる「ウヨク」的ナショナリズムというのはそうした経済活動以外の、もっと精神的なものに起因するんじゃないか?若い人たちの経済不安が原因だとするなら、確かに異常な援助額、しかも感謝されない援助、そして永遠に払い続けることになりそうな賠償金的な、そういうものに払う金があるなら俺によこせ。みたいなそういう利益機会の発想が根底にあるかというと、そうではなく、いいかげん頭を踏みつけられ、カツ挙げされ続けるような「敗戦」から自立したい。といったいじめ特性からの脱却。というプライドの問題のほうが強い気がするんですね。
しかし、こうした傾向は隣の国のナショナリズム民族主義)の高まりと共に呼応して生じてきたともいえ、隣の国々の「ナショナリズム」というのは内政不安の解消の為の「ナショナリズム民族主義)」という様相ですし。
ただ、まぁ、社会不安が或る種のグローバリズムから生じていることへの対抗としてのそれよりも小さい単位での「民族国家」という観点なら、等身大の大きさに収まりたい欲求が生じはじめているとは言えますが。

なんか民族主義的なものと、グローバリズム的な経済の問題と、色んなものが一緒くたになって論じられているんで今一つ腑に落ちないところは多いです。でも、戦前の価値への解体とか、等身大の集団という話はかなり面白い。身の丈のあった集団への回帰ねぇ。
そういえば、カトリック教会史をひも解くならば、あのでかい組織にたびたび修道会や信心会といったもののムーブメントや要求が生じて、新たな修道会や信心会が作られていく、少数単位の集団がでかい単位の中に数多存在していくといった光景は無意識にそういう有利な「オプティマル・サイズ」を構築していったとは言えるかも。

で、懐かしい方を発見。
○Letter from Yochomachi
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C478131471/E20060426172926/index.html
→散人先生が困っておられる。
なんせ、「これでは「ナショナリスト=ヒャクショウ」という散人の仮説が支持されないのだ。」ということになってしまうからで。
まぁこれも、若者のナショナリズムと経済活動から生じたナショナリズムという色んな価値があるんで、農村の既得権というのはたしかに既存の国家体制による経済の保守性であるけれど、若者のナショナリズムは経済活動という発想から生じたんじゃないと思うんで。散人先生ともあろうお方が動揺してどうする???でもまぁ、おっしゃる通り「古いナショナリスト」ということですね。それは小泉改革で緩慢に解体されつつあるかも。そして若いナショナリスト達がそれらの古いナショナリストにはNO!を主張したのが911の選挙だったと思いますよ。
ただ、解体された先は、農村部の更なる過疎化というのが待っていそうです。みんな都市に出る?
〔散人先生はトラバ嫌いかもしれないので打ちません)