島が極暑だった性でエアコンをがんがんにかけていたのか、祖母が盆に夏風邪を引いた。
その所為で食事も咽に通らなくなり点滴を受ける羽目に陥っていた。しかし私が行った途端なんとなく元気になった。寂しかったんだと思う。母も祖母のことを心配していたものの父が惚けかけというか老人性鬱の性なのか、とにかくなにか困った状態なうえに、母まで夏の暑さで参ってしまい、旅先で調子を崩し今も足下がふらつく。こちらも激しく心配である。なにやら家人に突然役病神が襲ってきたような。私にだけは貧乏神がついてるみたいだけどな。

というわけであっちもこっちも心配だらけであるけど今日はあまりの暑さに自堕落に昼寝なんかしちゃいましたよ。何も出来ないのにただ心配ばかりしてもはじまらんからな。
昨晩蒸し暑くて目が覚めてしまい、読みはじめた『クライマーズ・ハイ』を読破してしまった為に寝ていない。その状態で台所の戸棚の中とか冷蔵庫の中の大掃除なんか汗だくになりながらしていたもんで、眠くなっちまったんだな。また夜中目が冴えちゃうじゃないか。困ったものだ。

しかしカビはすごいなぁ。戸棚の隙間にカビ生えてしまって困りました。抗菌アルコール漬けの刑にしたら酔っぱらいそうになっちゃった。眠かったのはその所為もあるか。

『クライマーズ・ハイ』横山 秀夫

飛行機に乗るんでなにか読む本が欲しかった。pataさんからもらった『中世の身体』を読もうと思っていたが気圧の変化で脳が働かない可能性もあるので軽い読み物はないかと本屋に行った。

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

平積みになっていたこの本が目に入った。「そういやクリスチナさんが書評書いていたな」と思って手に取った。よく考えたら飛行機に乗るのに悪趣味ではあるな。しかし結局寝ちゃったので昨日読んだ。

物語の中心にあるのは500余名の命を奪った「日航機墜落事故御巣鷹山に墜落したアレ。
なにか世間を揺るがすような大きな事件が起きた時、その時なにをしていたのか記憶している人は多いだろう。この事故もそういう「大きな事件」の一つだった。わたくしは当時或るギョーカイ誌に漫画を描く仕事をしていた。まだ学生だったが、その雑誌の編集者に「描いてみなよ」といわれてはじめた仕事だった。何故かファンもぼちぼちといて、そのファンの一人が「コミケに同人誌を出そうよ」といってきたので協力する羽目になった。で、彼女のマンションで缶詰めになりながらその作業を徹夜でやっていた。ふと作業が煮詰まったので深夜のテレビでもやっていないかとつけた画面にいきなりおびただしい名前の羅列が飛び込んできた。延々と呼び上げられる名前。なにが起きたのか判らないが何か尋常じゃないことが起きたのだけは判った。
事故現場に近い北相木村に行った事がある。事件の前か後かは覚えてはいない。ただとにかく山間の過疎化した村で日が落ちるのが異常に早かったのを覚えている。山は苦手だ。あの黒々と迫り来る閉鎖的な空間が恐ろしい。海も恐ろしいが、山のもつ力、土地の力とは、その人間を受け入れるか受け入れないか山の側が決めていくような、そういう怖さである。絶対的なモノを感じる。私のイメージでは山は父で、海は母だ。なんとなく。

クライマーズ・ハイ」とは登山家のギョーカイ用語で興奮が極限状態に達し、恐怖心がマヒするという状態らしい。
この小説の主人公は群馬の地方紙の新聞記者である。未曾有の航空機大事故の地元の新聞記者。彼はデスクを命じられる。だからこの小説の舞台はほとんど新聞社における光景であり、事故そのものの現場、御巣鷹山も、遺体が運び込まれた上野村も出ては来ない。遺族達も出て来ない。登場人物達は新聞社の人間達である。大事故に直面した新聞社の光景である。地方紙の社内のさまざまな政治地図、各人の思惑が描かれていく。事故の物語ではなく新聞社の物語だ。

主人公悠木はなんとなく山に登っている。本格的ではない山岳愛好会みたいなのに参加して山登りを続けている。息子との距離感が掴めずに悩む悠木は自らの父親像をどう置いてよいのか判らずにいた。父と息子の問題という家庭内での悩みを抱えながら友人安西に誘われるまま難所といわれる岩壁の登攀を約束する。
安西は前日なぞめいた言葉を悠木にいう。ナンの為に登るのか?安西はその質問に答える。
「下りるために登るんさ」
その登攀の日の前夜、安西はクモ膜下出血で倒れる。
そして悠木も日航機の事件のデスクに指名されていた。

「山は父である」と書いた。拒絶しながら待ちかまえている。永遠に到達しえない父なる神的な。
そしてこの物語で山はその懐に墜落した飛行機を迎え入れる。無残にも傷ついた山肌の写真は覚えている。現場に向うのは困難を極めたらしいことは当時のニュースでも伝わってきた。山は散りじりになった航空機は受け入れはしたが、しかし人を自ら寄せ付けはしない。ただそこに在る。

そのニュースの現場。あくまでもフィクションではあるがリアルとも思える緊迫感がこれでもかと描かれていく。それは事故そのものへの取材が困難を極めたというのではなく、以前から抱えている社内の力関係の問題によるものである。大事故を扱うというなかでの、駆け引きと、失望、怒り、現実と理想、さまざまな緊張感が悠木を取巻いていく中で次第に彼は「クライマーズ・ハイ」と化していく。彼だけではなく、現場にいち早く足を運んだ若い記者、スクープを目の前にした専門知識のある記者等、それぞれがハイテンションの中で動き回っている。極限に追いつめられていく男達。


私は新聞ってのは毎日朝淡々とやって来る事しか知らない。紙面をどのように使うか一つでこんなにもめるとかそんな舞台裏など知らない。スクープすることの歓びとか達成感とか知らない。でもよく考えたら彼等の現場は毎日締切があるってことだ。1ヶ月に一回の締切ですらひいひい言ったりしてしまうわたくし的には想像もつかない現場だ。毎日が修羅場。そりゃもうハイになる罠。

正直、昨今のマスゴミたぁしょうもねぇ。とか思っているけど、この手の修羅場をくぐり抜けている人々ってのはやっぱりすごいな。この小説を著者が書こうと思った意図は判らないけど、放火しちゃうマスゴミ君とか、捏造記事を書くマスゴミ君とか、マッチポンプマスゴミ君とか、「お馬鹿な読者の啓蒙活動目的よ」なますごみ君とか、そういうのまでいたりする現場。やはり極限の中で生きている尋常じゃない世界なんだろうな〜〜〜とか、寝っ転がりながら考えましたよ。マスゴミ君はいらんけど、気合い入ったマスコミ諸氏は頑張って欲しいなと。

猫殺しと猫ファシスト/続報、犬殺しも?

なんや坂東眞砂子さんの事はあちこちで言及されていて、色々目を通したが感情論が多いなぁ。
猫飼ってる人からすると身内が傷つけられるようなものだから判らんでもないが。しかし猫ネタってのは犬ネタより荒れ易い。猫ファシストって確実にいる気がしてきたんだが。どうだろうか?
まぁ今回の件にかんしては彼女の壊れっぷりがすごいし論理破綻もいいところナノで、批判されても当然だとは思う。わたくしは前日書いた通り手放しで批判は出来ないし同意も出来ないと書いたけど、批判する要素があるのは事実だ。


ただ、この件でなく、常日ごろ感じるのは、一部ではあるのだけど「猫好きな人は怖い」という人間側の問題を感じたりもする。なんというかタマに常は理性的なのに猫の問題となると理性が吹っ飛びまくり感情的になったりする人がいる。これと同じ構造が鯨に関する西洋人の論理破綻っぷりを見た時。「鯨は頭のいい動物だから殺すなんてとんでもないの〜」的なレベルのアレ。もっと理性的な理屈なら「ああそうだよね」と思ったりもするが「賢いからぁ」とかなんだそりゃ?

犬好きはリアルに親馬鹿ってのはすごく多いし、馬鹿っぷりでは変なのもかなり多い。猫好きも同じぐらい親馬鹿が多いが、犬は服着せたり変なアクセサリーつけさせらりと馬鹿度が目立つよな。いやね犬飼って気づいたんだけど、飼い主の事「ママ」って言うわけよ。うぬ?なんだそりゃ激しくきもいんですけど。と思ったのもつかの間、犬社会で慣れてくると知らぬ間に自分までその呼称を使っている。ああ、こうしてお犬様馬鹿が製造されるんだな。
でも犬馬鹿にせよ猫馬鹿にせよ、その気持はなんとなく分らんでもない。猫好きも犬好きも親馬鹿レベルな人々は寧ろ「ああ、わかるわかるわかるよ〜」と思っちゃったりする。飼わなかった時には判らん感覚だなこりゃ。きっと猫飼えばわたしだって猫馬鹿になるだろうは目に見えている。

しかし猫好きが高じてファシストになってしまった人ってのがこれが怖い。猫問題となると日頃穏健な人がいきなり攻撃的になる。犬では今の処そこまで吹っ飛ぶ犬ファシストにはまだ会った事がないが、猫飼い主にはその比率が高いのか数名会った事がある。だから猫飼い主とわかるとなるべく怒らせないように気を使う場合が多い。万が一猫ファシストだった場合、ちょっとした失言で関係性に亀裂が入る可能性が高くなる。

で、猫ファシストな人は理屈が通用しない場合が多く、とんでもない反応が返ってきてドン引きした事がある。猫は好きになって当然で嫌いになる方がおかしい的な。いやね、蛇は大丈夫だけどミミズは嫌い。いや俺は蛇がダメだけどミミズは手でつかめる。とかそういう差違がある事は普通だと思うんだけど、猫に関しては猫ファシストにとって許されないことなようだ。うーむ「猫」という存在はなにか人間の理性をかなぐり捨てさせる何かがあるんだろうか?自分で猫飼ってみるのが一番早いか。


で、今回の件では猫の親馬鹿さん達があれこれ言うのは無理ないと思う。そういうのは気持わかるのではあるんだけど、感情的に「きぃ〜〜〜〜!!!」とかなってきっこのごとく罵詈雑言を吐くとか、「彼女の小説なんか全部捨ててやる。きぃ〜〜〜」とか、挙げ句新聞社やらに突撃する人までいるらしい。あんなモノを掲載すなという言論の抹消行為にでる。
うぁ、出たよ。猫ファシストだ。
流石にこうなってくるとどうなのか?とドン引きしてしまう。

いやまてや。論には論で返せ。
読者投稿しろや。
載せるなとか新聞社にいうなって。
表現の自由が権利として認められている我々には、論で返す自由がある。
馬鹿げた論理の破綻した文書だと思う諸氏は文書で論破すべし。
◆◆
この問題は生命倫理の問題で本日のエントリでuumin3さんがかなりつっこんだ考察を書いておられたので読んで欲しい。
昨日の猫の中絶の問題から発展し人間の中絶という問題に触れておられる。
○uumin3の日記

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060823



ところで正直、私は坂東さんの文書にはあまり嫌悪は感じなかった。
「うわぁ、[これはすごい] 壊れてるなー。この人」
・・・・・とは思ったが。

動物の愛護の問題で嫌悪を感じたというと或るシスターが犬を叩きながら「動物には魂が無いのよ。」と言っていたという話を聞いた時だ。まぁかなり壊れたシスターだったと思うけど、確かに西洋ではデカルトせんせの「動物機械論」な「動物には魂がない」的発想がある。この場合の「魂」ってのは霊的な問題というか、「霊=知性」とする西洋的な発送に基づくモノである。人間だけが唯一霊と肉を持つ。動物は肉のみの存在で彼等を動かすものは機械的な代物だというようなすごい考え。とはいえ中世ではトマス・アクイナスが「動物と人間は知性の多寡の差違がある」と定義つけているように、動物と人間には構造上の差違がない。だから動物機械論は近代の産物なようである。そんな日本人から見るととんでもない考えのデカルト先生すら、飼い犬を可愛がっていたというからなぁ。件のシスターの壊れっぷりはやはり異常行動かも。

西洋に於いて人間は動物達を統べるものである。創世記ん時に神様がそう命じたらしいよ。なもんで動物は人間が管理するものだと発想がある。で、間引くのも、中絶を選ぶのも「管理する」という前提で倫理的に後ろめたくなく行っているかもしれないが、どうなんだろう。西洋のお犬様とかどういう感じなんざんしょね。

で、以前も書いた事がありますが、我々日本人は動物も等しく同じと考える仏教的発想があるから、私なんかやはり「動物に魂がない」「動物は天国に行けない」とかいわれるとむかついちゃうんで、師匠に「キリスト教じゃそういうけど、どうなのよ?」と問うたところ、罪を犯したのは人間のみで動物は犯してない。だから原罪がない。とか申してました。その後よく判んない理屈がだらだらっと続いたけど、とにかくカナやミモザとあの世で会えるらしいのを聞いてほっとした。師匠もあの世を見てきたわけでもないわけでほんとかどうかは知らないけど。そういう事を信じておくとまぁ元気はでるですよ。
◆◆
ところで話は全然変わるが、
「猫」といえば最近大野さんがかような考察を載せておられた。
http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20060819
私って猫系?*ー猫というセルフイメージ

猫系を自称する女ってやだよね。という話。
これは猫飼いとかそういう問題じゃなく「私って動物にたとえるなら猫になると思うの」的なきもい女は嫌だ。という話。
面白くて印象に残っていた。

ちなみに私はヨーダ系。風貌が。
性格は・・・・・・・・・わからん。師匠には忠実なんで犬か?

◆◆
続報 
▼「子猫殺し」女流作家 今度は「子犬殺し」?
http://www.j-cast.com/2006/08/23002663.html

日経新聞のエッセイで「私は子猫を殺している」と述べた直木賞作家・坂東眞砂子さんが子犬も殺しているのではないか、という「疑惑」が浮上している。06年7月18日の日経新聞のコラムで、坂東さんが子犬を「始末した」と述べているからだ。

「子犬殺し」が取り沙汰されているのは、「天の邪鬼タマ」と題したエッセイ。以前ネット上を騒然とさせた「子猫殺し」と同じ日経新聞(夕刊)の「プロムナード」に掲載された。内容は次のとおりだ。

「涙を呑んで、生まれてすぐに始末した」

坂東さんの飼い犬は3頭いて、2頭はジャーマン・シェパードで、雌のミツと雄のクマ。もう一頭はミツの娘のタマ。ミツとタマは発情期が一緒になってしまい、出産も数日違いになるという。

今度は犬殺しも告白しちゃったことでまたまたつっこみ入れられてます。
記事によるときっこがまたしゃしゃり出ているみたいだけど、こちらはスルー。
しかしもしかしたら今まであった事がない犬ファシストに会えるかもしれない。

・・・・・というかよくみたら日付が7月かい。この時はナニも批判がなかったという時点で温度差がやはりある気もする。

因みに新聞社に働きかけようとしていたのはきっこさんのようだ。不買運動しようとか、フランス大使館に連絡しようとか。権力的で嫌だな。こういうのは。こっちのほうが生理的にどうもダメだ。