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あんとに庵◆備忘録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-08-23

[]再び信仰について 12:34 再び信仰についてを含むブックマーク 再び信仰についてのブックマークコメント

世間ではよく宗教の事を「宗教をする」「宗教をやる」などという。

これってずっと違和感を抱いてきた。宗教ってやるもんなんだろうか?

わたくし自身はカトリックの信者であり、成人洗礼である。幼い頃からキリスト教環境で生きては来たが、まぁ日本人的な曖昧さから洗礼は受けずになんとなく来た。ある時をきっかけに「ああ、わたしゃどう考えても、思考から世界認識まで耶蘇だなぁ」と自覚したのでカムアウトした。それが洗礼を受けるきっかけになったんだが、とにかく「入信する」というよりソーシャルに自己確認をしたに過ぎない。

つまり私にとって宗教とは別に能動的に「やる」ものではなく、単なるアイディンティティの根源にあるものに過ぎない。だから別に洗礼を受けたからといって何が変わるわけでもなく、普通に産まれた時から仏教とか神道とか家の宗教がある人とたいして変わりない。世の中の人が家の宗教が仏教であるに関わらず坊主の悪口を言うように、普通に耶蘇坊主の悪口だっていうし、教皇ネタジョークもいう。バチカン辺りのナイーヴな聖職者が目くじら立てそうな代物も普通に愉しむ。

ここ数日、eireneさんが興味深いエントリを書いておられる。

○A Prisoner in the Cave

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070818/p3

■[思想]信仰について

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070819/p2

■[思想]オウム事件について

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070822/p1

■[思想]「神」の存在

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070822/p3

■[思想]若者の居場所について

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070823/p1

■[思想]信仰と伝統

「信仰について」においてeireneさんは森岡正博氏の書評として、「信仰者は疑わない」という森岡のつまり

「信仰と(本気の)疑いは両立しえない」と森岡さんは考える。「信仰」は懐疑の停止からはじまる。だから、懐疑を止められない人間(=森岡さん)は、宗教を信仰できないという。

という考えに対し、以下のように反論する。

ただ、この点については、別様の考え方もできるのではないかとも思う。私の実感に即して言うと、信仰と懐疑は「あちら立てれば、こちら立たず」という意味で相反するものではない。信仰は懐疑という「不純物」をいささかも含まないものではない。

 信じることは、信じている内容の真偽を問い直すこと、信じている内容の正しさをラディカルに疑うことを通して、より本物に近づいていくのではないか。あるいは、信じるという行為は懐疑を通して深まっていくプロセスとみることもできるのではないか。

またここでのコメント欄において「神の存在」についての懐疑がkanjinaiさんから提示され、それをうけてのエントリが「『神』の存在」である。こちらは西洋哲学お約束「神の存在証明」のお話。

また、森岡氏の書のオウム問題としてeireneさんの体験から、何故オウムのごとき宗教に対する免疫があったのかという体験的な話が「オウム事件について」で為され、それは「若者の居場所について」のエントリへと考察が続く。

また、

では、キリスト教は、自分にとって何なのかといえば、それは自分が物事を考えて生きていく上で参照し、かなり大切にしている一つの「知的伝統」である。「キリスト教=伝統」という見方がいちばんしっくりくる。その伝統のなかに、いろいろ優れた人や、面白い人、とんでもない人、悪人がいる。かれらとの交流を通して、いろんなことを学び、自分が養われている感じはする。

というeireneさんの「信仰について」の最後の一文を受け、sumita-mさんが

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070822/1187751553

■信じること、そして伝統を巡って

・・・と考察を出しておられる。

これに対する応答が、「信仰と伝統」である。

大ざっぱにまぁ上記の流れであり、そこには幾つもの命題が存在する。

1・信仰と懐疑

2・神の存在の問題

3・伝統(聖伝承)への信

4・オウム真理教をはじめとする、若い者達の受け皿としての宗教とは

●1・信仰と懐疑

これについては既に引用したeireneさんの言葉に同意する。

まずもって「信仰」とはなにか?といった時、冒頭にも描いたように、わたくしにとっては考察する(信じるとか、懐疑するとか)という以前の、自分以外の外部者を自分自身が常に持っていたというか、何時持ったのかすら判らぬ「神」或いは超越者を、意識しながら生きてきた、それ自体を疑ったことがない。それは日本の伝統にもあるような、なにか聖域のタブーとか「あそこは幽霊が出るよ」などと言われて畏れるとか、物理的じゃない、実証的でない事柄に、不可思議な意味を持たせて、畏れたり安心したりするレベルであり、一神教だからと言って感覚的に代わりはない。

一神教の場合、聖典が有り、教義があり、ロゴス化されたものがあるがゆえに、戒律的に映るのかもしれないが、eireneさんもおっしゃるように「キリスト教」つまり「教え」に於いては、結構、懐疑したりします。「永遠の命」「身体の復活」などと言われて、「なにそれ?」と思うのがまぁ現代人であるし、わたくしも同じく「なにそれ?」と思いましたよ。なんで神父に素直に言いましたら「それはわたしも判らないことです」などと返答が帰ってきた。一生、考えてみなさいよ的なもののようだ。

教えはガイドラインであり、そこを軸に懐疑したり納得したり考察したりする手がかりのようなもので、神学者達ですら解釈に180度違う答えを出して論争しまくっているわけで、まぁ「哲学的命題、ここに置いときますよ」みたいなもんだろうなどとは理解してます。

それらは信仰に於けるプロセスではあるが、信仰そのものではない。ゆえに「キリスト教」は「信じる必要はない」というeireneさんの言葉に同意する。

 私自身は「キリスト教」を信じる必要はないと思っている。もちろん信じてもよいが、信じることよりも、キリスト教の伝統につらなる人々が、人間や社会のあり方について、どういう問いかけをしてきたのか。どういう点が優れており、どういう点で間違いを犯してきたか。そのことを単にキリスト教・キリスト教徒に固有の問題ではなく、人間共通の課題として考えて話し合うことの方が大事だと思っている。

「キリスト教」はプロセスである。しかし、それは最終的に教会論の話になる。

●2・神の存在証明

こちらはまぁ偉い哲学者が延々やらかしているんで、哲学史の知識もない私なんぞは別に今更いう事も無いんだが、kanjinaiさんのコメント

kanjinai 『>eireneさん マザーテレサのような場合は、「神の存在を直感知で感じて、それを信じて生き抜いた」ことはあとから証明され得ますが、だからといって「神が存在する」という知が正しいとは限らない、というのが哲学の立場でしょうねきっと。

それと、一神教を信仰していたが、その後、信仰をやめてしまった、あるいは仏教とかに寝返ってしまったという例もたくさんあります。そのような人たちの場合、最初の「直感知」はどうなっていったのだろう、ということを素朴に思ったりします。』 (2007/08/23 00:23)

・・・というのは、やはり信仰的な要素を抜いた、哲学者の見地だなと思います。

人間世界からの視点でいうならまさにその通りであるのですが、やっかいなのは耶蘇なシューキョーな人というのは神という外部者を持ち、その恩寵などということを考えるために、上記のような思考をしないトコはある。神と自分との関係性と言うのは、正直かなり私的で、尚且つ主観的なので、哲学的な相対化した視点で語る事が出来ないなと、常々感じることはある。

この違和感は、例えば、沖縄貴方が旅をした時、「ここは拝所で神聖な場ゆえに、入る事はまかりならん」などと言われた時すごすごと納得して引き下がる、あるいは宗教的タブーを犯した時「罰が当たるかもしれない」などとおののくとか、風水が悪いなどと言われて信じてもいないのに居心地悪いとか、幽霊が出る物件は買い手がつきづらいとか、そういうのに通じるんだが、これ、ちゃんと哲学的に証明出来ますか?ってぇと、証明出来ないでしょう。幽霊の存在証明も、拝所の霊的証明も。貴方はなんで納得してるんですか?って事も。

だから、哲学的なアプローチを果敢にもしている西洋哲学者ってのは偉いなぁと思いつつ、わたくしなどはその証明をするなんてのは面倒くさくてしないよ。迷信レベルと言われてもそれでいいよ。みたいにハナからそこから降りてしまいます。すみません。

仏教に改宗しようが、やめようが、それも個と神の問題なんで、他者な私にはわからんのですわ。

●3・伝統(聖伝承)への信

さて1に於いて最終的に「教会論」の話になると書いたんですが、キリスト教の歴史を見るととにかく酷い。いいこともあるけど悪い事もある。日本ではなぜかこの悪い事が強調して書かれるんで、キリスト教ってマジ鬼畜。と思われているところもある。

しかし、「キリスト教」というのは永らく数多のそれに関わった人々の物語であり、人間の営みの集合体でもあるわけで、それは人類史そのものでもある。自分もそうだが間違いを犯さぬ人などいない。聖書に書かれている弟子達の間違いっぷりたるや情けないほどである。

つまり我々はその間違いをおかした弟子達の伝統を正しく受け継いで間違いを犯す。しかし同時に間違いを犯す人間が必死に「よく生きよう」とあがいてきた軌跡でもある。現代の聖女でもあるマザー・テレサだって間違いはおかしただろう。腹を立てたり機嫌が悪かったりしたことだってあったかもしれない。

以前の「信仰について」のエントリでも書いたが、光のみでは信仰は成立しえないと書いた。

http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070813/1187012381

■信仰について

このエントリについてはsumita-mさんがトラバをくださった。

○Living, Loving, Thinking

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070820/1187591132

■「ラテン霊性」或いは宇宙(世界)への配慮の問題

「近代以降の霊性」の場合、「ラテンの霊性」*7と較べて、「世界への配慮」が徹底的に後退して、〈神への配慮〉に集中し、さらにはそれが蒸発して、〈自己への配慮〉が残されたということになるか

世界への配慮と神への配慮という事に関しては、sumita-mさんのエントリとそれにリンクされたエントリを読んでいただきたいが、ローマ・カトリック、或いは正教というような宗教改革以前の、ヒエラルキアを構成する教会は「伝承」というものを「聖書」と同列に扱う。ここでいう「伝承」は「教会が伝えてきたものすべて」であり、聖書以外の伝統化したもの、習俗化してしまったものなども含めたものや、あるいは教会史そのものでもあり、それはすなわち過去に生きて来た人々全ての軌跡でもある。それらを負の要素も含め、知ることによって、なにか情けないが一生懸命生きようとする、人間存在を信じたい(或いは「信じる」と言う言葉がいささかも疑わないという意味なら違ってくるんで)人間存在をいとおしく思う、ということが「聖伝承を信じる」ということに繋がるとは思う。

つまり人間性そのものを否定しない、祝祭的な、そのような視点がそこに在るとは思う。「世界への配慮」というのは言い得て妙かもしれないなどと思う。

例えば、いささか特異的な存在である佐藤亜紀小説には、そんな善悪を越えた、つまり大上段に構えたこざかしい倫理に振り回されない、目の前に或ることにリアルに反応していこうとする人間が蠢く世界があるのだが、あのような視点はやはりそんな観点からでてきたんではないか?などと思ったりします。

(ちょっと休みます・・・続く)

kanjinaikanjinai 2007/08/23 15:23 詳細な文章で、分かりやすかったです。たぶん私は、antonianさんがこだわらない点に、いちいち全部ひかかっちゃうタイプの人間なんでしょうね・・。だから私は宗教(信仰)にも乗れないし、いまの自分にも乗れない(笑)。たぶん私は根っからの哲学者で、気がついたらそうだったっていうことかも。哲学的には幽霊「それ自体」の存在証明も非存在証明もできません。私はUFO番組が大好きです。

eireneeirene 2007/08/23 17:02 長文のレスポンスありがとうございます。「続く」を、ちょっとだけ楽しみにしています。

匿名の僧匿名の僧 2007/08/23 17:44 事情があって「匿名の僧」なんていうことになってしまったのですが、しばらくこのままで行きます。生来、顕示欲と誇大妄想があり、更に大聴衆の前で話すのが大好きなので普段は実名バッチシなのですが。

以下は詳細な文章でないのでわかりにくいかもしれませんが、私はアホですから aphorism 的に短く申し上げます。

Antonian さんは、kanjinai さんなら一々引っかかるかもしれないところに、こだわっていない点があるかもしれません。しかし、それは antonian さんが、私のようにアホだから、何も考えないということではありません。どうやら kanjinai さんがこだわることの多くは、アホの私の独断と偏見からですが(だいたい、このところ日本語の本など見る機会もないので kannjinai さんの本そのものは知らず、今回の議論だけがデータです)いわゆる false questions なのです。

キリスト教(といっても、いっぱい沢山ぎょうさん山ほどあるのだが、こだわらないでくださいね、ローマカトリック、東方正教、プロテスタントメインラインに共通とでも言っておきましょうか)の信仰の中で、例えば「神の存在証明」が主要なテーマの一つであった(←ことさら過去形を強調しておきましょう)のはほんの一時期ですし、そのときでさえほんの一部だったのです。トマスの段階でお仕舞いと言ってもいいくらいです。

>神の存在を直感知で感じて

というのも、もしそのように言ったとしたら、回心の瞬間をそのように表現したということにすぎない(だろう)。

>「神が存在する」という知が正しいとは限らない、というのが哲学の立場

ごめん。だから、これは「知」ではないし、ましてや哲学じゃないのよ。もし、これを学問にするつもりなら、キリスト教哲学(Christian Philosophy)という分野が確かにあります。しかし、この哲学は、(個人的信仰じゃなくて学問とするつもりならですよ)聖書学と教会教義学史の素養が必要です。その素養のないただの(失礼)哲学者では話になりません。ルールとスキルが必要だからです。日本の環境なら、天才で5年、凡人なら10年かかるかな。それもヘブル語、ギリシア語、ラテン語、英語、ドイツ語、フランス語が一応基礎くらいは先にわかっていて、聖書やキリスト教史をゼロからスタートする場合だが。

アウグスティヌスは、 ”De Doctorina Christiana” の中で(4.1.1)、「理解されなければならないことを見い出す方法と、理解されたことを表現する方法」について述べているが、どちらにしても学問的に議論したい人は理解するための規則が最初になります。数学や物理学の知識なしに理論物理学の議論に参加できないものね。知らないとトンチンカンな問題を扱ってしまうように、哲学史とか倫理学史とかかじっただけの人とは、学問としての神学の議論はできません。

以上は、学問上のことで、信仰は簡単です。ふとキリスト者になったりします。しかし、これが一番難しい。学問的議論よりよーっぽど難しい。ただし、ヘンテコ(←ペンテコステの間違いではありません)な教会でなく、普通の(←また大雑把!)に通い続けるとある程度、その信仰の内容が成長します。信仰は動的なもので、静的なものではないからです。

あっ、そうそう信仰に到る機序(回心の機序)を考察したカトリックの神学者 Lonergan の ”Method in Theology” は今では古典と言ってもいいのでしょうが、あれでさえ不十分の不十分。ていうか、私に言わせると false questions の産物の一つ。でも、自分としては大真面目だったんだろうな。

あれっ、だいぶ長くなったぞ。これはまずい。えーと最後に、今「ふとキリスト者になったりします」と書きましたが、多くの場合、「直観知」というようなものではないはずです。むしろ、混沌がホイップクリームのように突然固まりだす瞬間があるのですね。えっ、混沌から生れるなんて、なんか天地創造だぞ。

蛇足。でも皆様のような方々が日本に多ければ、オウムやその他の反社会的な宗教には罹らないでしょうね。お陰で、普通の(←また普通って何だ)キリスト教にも罹ってくれないので、日本人はやりにくいよ。16世紀の日本人に憧れる。

ま・ここっとま・ここっと 2007/08/23 18:02
公教要理を丸暗記しても、教会法に精通しても、それだけでは
必ずしもカトリック信者ではない。ところが公教要理を読めなくても、
教会法を理解できなくても信仰深いカトリック信者はこの世にゴマン
といる。
さて、成人洗礼志願者が目の前に現れてカトリック司祭が相手の
カトリック信仰をどう見出すのか?キリスト教信仰ではなく
カトリック信仰です。

横入りになってしまいますが、神の存在の直感知というのはマザー・
テレサに限ったものではないのでは?というより、マザーは生まれながらにして
常に神と共にあったのですよ。

antonianantonian 2007/08/23 20:37 あああっ!!!途中まで書いて、馬鹿んス脳にわずかに残った思考エネルギーを使い果たし、海に入って、その後レモンなアルコホルなど呑んで、昼寝などする怠惰臭い島休暇時間を過ごしているうちにこんなことにっ!!!????!!!

皆様コメント有り難うございます。

kanjinai様>
哲学脳のないわたくしの書き殴りにコメント戴き有り難うございます。
まずもって、kanjinaiさんのあらゆることに懐疑するという、その疑問はわたくしが大切にしている「知への誠実」の態度として、尊敬してしまいます。疑うことやまぬことは、「否定する」という事とは違う。寧ろ対象への誠実から生じるものだと思うゆえに。
で、通常ギョーカイのタコ壺ではなかなか語られぬこと、或いはそこんトコの脳味噌は使ってない個所だよ。という点で、eireneさんとkanjinaiさんの対話は、とても有り難いです。
UFOはいる気がします。笑)

eirene様>
今回の一連の御紹介エントリはすごく刺激的でした。有り難うございます。夏休み脳なんで思考タイマーが尽きて続くになっちゃいました。[あとで書く]です。笑)

匿名の僧様>
再び降臨有り難うございます。
僧とあらば大衆の前で話すのがお仕事ですね。笑)お話くださって嬉しいです。

>いわゆる false questions なのです

英語脳のない私は辞書で引いてしまいましたが・・・笑)確かにこれらの問題を「哲学」というか地上の論理で語るというのは平行線を辿っていくに過ぎない事かもしれません。そして匿名の僧さんが御指摘の通り、一通りの神学を知ってのち考えろよ。というのはおそらくその通りでもあります。
日本の中世思想学会(神学会)にはなかなか面白い人がいて、八木雄二とか清水哲郎といった無神論である事を表明しながら、スコトゥスやオッカムを探求しているんですね。彼らの語る内容はほとんど信仰者以上に信仰者な事を言う事があるんですが、やはりちゃんと自己との距離がある。すごいなと思います。ただ信仰者で神学者にいわせると「そこ(信仰)がないから詰めが甘い」と批判されてますが。(オッカムセンセの方はかつて信仰者だっただけに、それはないみたいですが)

>>神の存在を直感知で感じて
>というのも、もしそのように言ったとしたら、回心の瞬間をそのように表現したということにすぎない(だろう)。

・・・・・・・そ・・・・そうだったのか。えうれか。

>16世紀の日本人に憧れる。

私はそういう信仰者でありたいと思うのですよ。

ま・ここっと様>
そうなんですよね。
ギョーカイ言葉で言うなら恩寵なんですよね。マザーは神の恩寵の中にあり、それに向かう。常に「回心」をし続けていらした。まぁこの辺りは人間の自由意志がごにょごにょな世界なのですが・・・。

で、まぁここではキリスト教全般、つまり一神教であるひとつの宗教の話なんで「キリスト教」なんですが、そのうちのひとつである、ローマ・カトリック、通称「カトリック」と呼ばれる教派の話となると、まぁそうですね。(もとより「カトリック」とは普遍を意味するんでどこも「そうである」と考えるとは思いますが。)
つまり「普遍の教え」とはなにか?という事は考えますね。概ね合意しているのは信条に記されたあれであり、またその「信じる」という対象のなかに「普遍の教会」とあるのはまさにeireneさんが「キリスト教とは「知的伝承」である」という時のその「伝承」であるよ・・・ということを続きで書こうとして果てています。

ま・ここっとま・ここっと 2007/08/23 22:36
いいなあ、トロピコ・おヴぁかんす。うっとり。
こちとら、連日の雨。20度前後。しかも、でんでん虫の繁殖期らしい。うぢょうぢょ。おえ。

  >>壁画描きは肉体労働である。プロレタリアート万歳。

実は地元の2教会に壁画を待ってる壁面数枚あり。( ̄ー ̄) ニヤリ
いつもむき出しの壁面を見るたびに庵主殿を思うのですが。
やっぱどうもマリア座の壁面は埋まりが早いですね。主祭壇壁画より
マリア座の方が早く埋まったりします。
それに引き換えヨゼフ座が気の毒です。「信仰」の続き、楽しみにしています。

夢之介夢之介 2007/08/24 11:00 ワシは学者ではないので難しいことはワカランが
信仰生活することと学問を究めることとは違うと思う。
神は存在するか?
存在すると思って生活するのと存在しないと思って生活するのとを
比べたら、存在すると思って生活するほうが、殴りたい奴とも妥協
して生活できる。だからワシは存在すると思っている。
何となく単純であるほうが素直に信仰できそうな気がする。

madrigallmadrigall 2007/08/24 15:08 一番最初に出会ったカトリックの神父さまは「あなたは神を信じますか?」の一言も言わず、
「疑いなさい」と言いました。「信じなさい」とは一度も言わなかった。ひねくれ者の自分には、
実際そのほうがマシでした。「疑って、疑って、疑い尽くして、疑えなくなったら信じなさい」
って言葉に釣られクマーになってここまで来てますので。それでたどり着いた末に無神論者に
なろうが、はたまた一生未信者でいようが、信者であろうが、納得できると思っていましたから。

たとえ棄教することがあっても、腕のいい釣り師(漁師)のことは良い思い出です。
釣り師が話してくれたこと一つ一つを、釣り師の雇い主が忘れても釣られた外道は覚えています。

その身が海に還れず、埠頭の上でただ腐るだけだったとしても。

antonianantonian 2007/08/24 20:51 ま・ここっと様>
本日はプロレタリアしてきましたよ。汗をかく仕事はいいもんですよ。腹が空く。
困ったのは、肉体労働は夜に正しく眠くなる。挿画の仕事あげにゃならんのに困ったもんだ。一眠りしてやるかの。

>実は地元の2教会に壁画を待ってる壁面数枚あり。( ̄ー ̄) ニヤリ

むーん。おフランスは遠いよぅ。
ヨゼフも大事にして欲しいやね。

夢之介様>
まぁ、確かにまったく違うんですが、そう言い切ってしまうと対話出来なくなるですよ。ロゴスの宗教としては、色々ロゴス的にうにゃうにゃして来た過去もありですよ。
単純な信仰はいいなぁと思うけど、デッサンを極めたピカソがあの極致に達するには紆余曲折があったみたいな、そういうプロセスを経るしかなくなったりって事もあるかもです。
その蓄積が教会の全ての遺産でもあると思うんですよ。

madrigall様>
疑うというのは否定ではない。「疑う」という行為は神の恩寵である「自由意志」に拠って為されるわけでもありんす・・・と考える私はその神父様は素敵だと思います。

まぁ召命ってのはミラクルだから、私には判らんですが、
で、ココからはギョーカイモードで言います・・・・ギャラリーは「電波」とか言わないように。

「耳を澄ませていなさい」と。
つまりまぁ召命というか回心というか、それは自分を明け渡すトコからはじまるもんでもあったりするのだな。執着から自由になる。まず自分から自由になるトコからはじまる。
・・・・つっても、まぁなかなかそんな事出来ん罠。
ま、ぶっちゃけ、「洗礼は神の一方的な恩寵であるがゆえに受けたほうがお得だよ。」と。
なんというか、当り籤が当たり前の福引券みたいなもんで。

まぁ、その後は野となれ山となれでもいいと思うっす。それは神様とmadrigallさんが共に考えることだ罠。ただし当り籤を当りと思わん商品が待ってる場合もあるんでお気をつけあそばせませですわ。神って肝心な時に沈黙してやがるからな。

maamaa 2007/08/26 01:11 「ぶっちゃけ、『洗礼は神の一方的な恩寵であるがゆえに受けたほうがお得だよ。』←とっても受けました!
だって、私が釣られる直前、餌のほうへ背中を押したのは、神父様の「早い方が得ですよ」とシスターの「パァーっとやりましょう、パァーっと」って言葉でしたからね。このところ、「沈黙」についてや、いろんな方々の宗教についての云々、興味深く拝見していました。疑ってみても沈黙されてても、そこに在る(と思える)ことが有り難いなぁと…、しみじみ思ったりしちゃいます。

antonianantonian 2007/08/26 13:30 なんかね。難しくないんだけど、大人になるって難しく考えがちだよね。へ理屈をこねてしまう。一方的な恩寵が判らなくなるのは、わたくしの常でもあるです。
そこを克服するのが難しくて、大変であるよ。ああ・・・・ピカソって偉大だ。