ボクはトマドオ

ジブリ嫌い」って少数派でしょうか。
ちゃんと見ずに言うのはフェアじゃないかもしれませんが、押しつけがましいメッセージがイヤとかという以前に、あの絵、特に主人公の女の子の絵がイヤです。
ルパン三世」は大好きで、むかしは映画版も含めて全部みていたのですが、どうしてもひとつだけ気に入らないのがありました。それは「カリオストロの城」で、それが宮崎駿の監督作品だと知った時は「だからか!」と心底納得しました。
先日 emmy に指摘されて知ったのですが、「風の谷のナウシカ」って「ナウ鹿」じゃないそうですね。主人公の鹿が、谷をかけまわる話だと思ってました。
そういえば、僕らが小学校の頃、教育テレビの学級ドラマのテーマ曲で、「ケンタはチンパンジー ボクは戸惑う」という歌詞の曲があったのをご存じないでしょうか。
これは、父親目線の歌で、ケンタというチンパンジーのことを「ねえ、お父さん、ケンタと私は何がちがうの?」と聞く娘。
それにどう答えればよいのかと「戸惑う」父親の心情を歌ったものだそうです(これも emmy に教わった)。
「戸惑う」の部分が「戸惑お」と聞こえるせいもあると思うのですが、ずっと「ケンタはチンパンジー、ボクはトマドオ」???「チンパンジー」は知ってるけど「トマドオ」ってどんな動物なんだろう?と思ってました。

meta-catholic philosophy 〜 「関係性」の哲学

「関係性」という言葉にはまっています。これは一種の反動で、これまであまりにも「個」にこだわり過ぎたためなのかもしれません。「この世には永遠不変の真実がある」とか「自分を奥深く見つめていけばそこには他者とは決して混ざりあうことのない自己像がある」とか、何にせよ深く掘り下げればそこには必ず石ころのような固形物があるというような世界観、人生観。これは、中高時代に受けたカトリック教育のたまものなのかもしれません。そういえば、わが母校の石碑には「すべてのものは過ぎさりそして消えてゆく。その過ぎ去り消えてゆくものの奥にある永遠なるもののことを静かに考えよう」と刻まれていました。あんなに辛かった中高の6年間。でも実際にはそこで学んだ精神を、わたしはすごく大事にしてきたのかもしれません。

ところが、最近いくつかの出来事をきっかけに、この「個」という妄想から解放されつつあります。こんな風にいうと、これまでの人生観、世界観、わたしが受けたカトリック教育の恩恵、ひいてはカトリック的な世界観を全否定しているように思われるかもしれませんが、そういうわけではありません。真善美の探求、神が創造した宇宙を解き明かそうという努力が人類を、そして、ごく微細な存在にすぎませんが私自身をわずかなりとも前進させてきたのだと思います。永遠不変の固形物の存在を信じることは、われわれが善く生きるために非常に有効である、つまりそういったものの存在は、道徳的に、また倫理的に、正しいもしくは望ましいものであることは間違いありません。

しかし、いま私はこれとは全く違う風に自己像をとらえる訓練をしています。訓練というと大げさですが、「個」を必要以上に意識するのが癖のようになっていますから、ある程度自分にいい聞かせながら、普段から意識しないと、新しい捉え方を修得できないような気がするのです。で、その自分に言い聞かせている言葉というのが「関係性」という言葉です。

「個」は他者との関係においてはじめて成立するもので、他者と切り離された個は存在しない。そうすると「まず世界を認識する自己があり、そして認識の対象として他者が生まれる」のではなく、「他者が先にあり、それとの関係において自己がうまれる」。さらに、その他者もそれ以外の他者との関係においてのみ存在するものなので、そもそも「個体」は存在しない。そう考えることによって、いままで捕われていた殻に覆われた自己像から解放される。そもそも固形物など存在しない。ある種のエネルギー体ではあるかもしれないが、そのエネルギーも他のエネルギー体との相互の影響によってはじめて意味をなすものである。

こんなことを考えはじめたのは、身近な「死」がきっかけです。生きている我々にとって「死」とは、目に見える肉体を失うことで、それはつまり「別れ」ということになります。でも、実はそもそも目に見える個体など存在しないのならば、「死」とは本来の姿(形のない在り様)に戻るということで、肉体という制約から解放されるということではないでしょうか。そもそも他者との関係においてのみ「個」が存在しうるのならば、死者を想う人のそばには、必ずその死者は存在するのではないかと思うのです。

肉体を失ったシーザーの魂、市川先生の魂のことを想いながら、彼ら想う気持ちはその魂とつながっているんだと信じているのです。

恐竜の前ってなんの時代?

近所のラオックスでZIPディスクを注文しようとしたら、「どこのメーカーでももう製造していません」と言われました。これまで録音したデータはZIPに保存していたのですが、どうやらそんな保存の仕方をしている人間はもういないようです。そうなると、いよいよ録音機材自体を見直す必要に迫られそうです。現在使っている録音機材はRoland vs-880。録音、編集一体型のハードディスクレコーダーというやつです。もう化石扱いされているようなものだろうとおもうのですが、でもこれを購入した'98年には、最新鋭とまでは言いませんが、まだまだ現役レコーダーだったように思います。10年も経たないうちに化石化するとは、電化製品の進歩の速さは凄まじいですね。昨日「ドラえもん のび太の恐竜〜」をfeliceと一緒に読みました。そこに出てきた恐竜の化石が1億年前といってましたが、うちの録音機材は、いまのpro toolsなんかと比べたら恐竜みたいなもんなんでしょうか。

テクノロジーの進化は確実にポピュラー音楽を進化させてきました。ですから、多少の屈折は別としてポピュラー音楽の範疇で創作活動を続ける限り、テクノロジーの進化を無視するわけにはいきません。化石にしがみついていても、現在の息吹は決して感じられませんから。ですから、少しずつ録音機材については更新していこうと思っています。ただし、つきまとうのは予算の問題。いま構想している音楽ならソフト面で補強したいものはあっても、ハード面では、別にvs-880のままでもいいような気がしないでもない。進化は必ずしも深化につながるわけではなく、周りの進化に追従して、肝心の自分自身を深化を忘れてしまっては・・・などと悩んでいるのです。

ミュージックマガジン3月号を購入。ザッと目を通しただけですが、Nirvanaの特集。懐かしい。あれは'92年だから浪人生だった時。神戸の輸入レコード屋で時間を潰している時に、店内にかかっていたSmells like teen spirit。もちろんその時は曲名もバンド名も分からなかったけど、背筋がゾクゾクっとして、CDを探しているふりをしながら聞き入ってしまいました。その後、アルバムを手に入れて、あとPearl jamやらSound Gardenなんかのアルバムも気に入って、時代と自分の感性が一致しているような錯覚を覚えたあの頃。ん?vs-880を買った'98が「恐竜の時代」なら、Nirvanaに興奮したあの頃は何時代だ??ミジンコみたいなのしかいない時代か?俺の過剰に意識したあの自分の感性はミジンコの感性だったのか?・・・まあ、そんなに外れてはいないでしょう。

雨の中、feliceと家の回りを散歩しました。テニスコートのそばで梅の花が咲いていました。花をバックにfeliceの写真を一枚。夜になってfeliceに「今日は花を見たね。何の花だった? ウ・・・」と思い出させようとはなすと、「う〜んとね・・、ウ・ナ・ギ」。「ウナギの花って何?」と言うと、自分でもおかしいことがわかって、バカ受けしていました。そんなfeliceは、最近Tom & Jerryにはまっているのですが・・・that's another story.

成功のサジ加減 前編

社会生活がある種の舞台にたとえられるならば、そこに舞台監督や演出家がいるかどうかはさておき、その舞台は演出のために大胆なデフォルメがなされていると考えることは可能です。では具体的にどのようなデフォルメが考えられるでしょうか?わたしは常々、「成功」という言葉は、それが本来意味するものと違った風に、しかもそれが本来もつ価値以上の価値を与えれた状態で、実社会において用いられているように感じていました。ですから、社会生活という舞台において、そこにある種のデフォルメがあるとすれば、その最たるものは「成功神話」ではないかと思うのです。

「成功」「失敗」は人を成長させる原動力になりうる一方で、それはあくまで動力であり過程であり一時的なものであり、つまり到達点ではないし目的でもありません。ところが、実社会では成功が目的化されているように思われます。本能的に、「成功」の本質も理解している人であっても「じゃあ成功の先にある本当の目標、到達点は何なのか?」と考える人は稀で、「成功体験の積み重ね」あるいは「不断の成功」などと言って、成功を自己目的化する傾向が強いように思われます。もちろんここで言う「人」とは、社会生活という舞台にたつ登場人物という意味であり、現実の人間はもっと複雑なはずです。つまりこの部分がデフォルメされているということです。成功に向かって邁進する「人」が、もっとも舞台映えするキャラクターであり、「成功とは何か?」と考える余地は、その舞台演出には全く不要であるということです。

倫理的価値基準といえば「真、善、美、聖」ですが、この中に「成功」という基準はありません。つまり「真、善、美、聖」は、追求する対象となりうるが、成功はそうはならないということです。もちろん「真、善、美、聖」を追求する過程で、何らかの成功や達成感をその原動力にするのは大いに有効だと思います。しかし、デフォルメされた舞台は、しばしばその舞台が他と切り離されて、あたかももう一つの現実であるかのようにふるまうことがありえます。virtual realityとはこのことでしょうか。舞台であることを忘れた舞台は暴走します。本来、価値基準とはならないはずの「成功」が、価値基準として肥大化して、先の見えない、先を見せない競争へと人を巻き込んでいくことがあり得るのではないでしょうか。

ただ、この類の話は「成功者」がすべきでしょう。成功は追求の対象とはなりえないことを心の底から思い知るには、やっぱり成功しなければなりません。成功をしらずに、成功のちっぽけさを語るのは、野良犬が吠えているのとおんなじです(これは野良犬蔑視ではなく、野良犬への愛情表現ですが)。
したがって、この話の続きは5年後に。はたして、それを語る資格をもっているのかどうか。もちろん、何をもって成功というのか、それ自体が主観的なものですから、資格もなにも「おまえのサジ加減ひとつやないけ!」と浜ちゃん風にツッコンでおきます。

いまさらM1グランプリ

何か書こう書こうと思っているうちに年があけてしまいました。今年もよろしくお願いします。
ところで、今さらながらM1グランプリ。今年(去年か)は、松ちゃんと島田紳助が審査員に戻ってきて、やってる方も緊張感が違うんじゃないかな。「笑い飯」を一番楽しみにしていましたが、まさか「笑い飯」よりも面白いコンビが出てくるとは。「ブラックマヨネーズ」。「ボーリング」のネタと「格闘技」のネタと、もう50回くらい見ました。テンポとか表情とか、別に自分が漫才するわけでもないのに、見る度に笑って、見る度に「なるほど」と関心して。洗練された漫才のネタって本当に面白いですよね。確かに洗練だけを求めれば、もっとうまい漫才はいくらでもあるのかもしれないけど、M1の場合コンビ結成10年までという制限があるので、必然的に発展途上のコンビが出るんですよね。可能性を秘めたコンビが洗練されたネタを披露するところに、ベテランには求められない面白みがあるように思われます。
ところで、今って、第何次かのお笑いブームなんですよね。これって善し悪しで、バラエティー番組で求められるものって、話芸以外の要素が多くて、芸人さんたちにとっては「練りあげる」「洗練する」という感覚ではなくって、ひらすら身を削って、自分をすり減らすような感じなのではないかなと思います。その危ういギリギリの緊張感の部分が面白いのかもしれませんが、簡単にマンネリ化することもあるし、本筋と違うところで安易な笑いに走ることにもなりやすいし。偉そうに批判するつもりはないですが、年に一度くらいは、磨きあげ練り上げた技を楽しませてほしいなと思う一視聴者です。

共感

anunauma2005-11-21

今週は「共感」という言葉について考えることが多かったので「共感」というタイトルで。
人の心はとても奥深いもので、一言で共感といっても、心のどの部分が共鳴しているのかによって、その強さも質も大いに変わってくるのではないかと思います。
「傷のなめあい」という表現がありますが、これは心のとても浅い部分で安易に響きあっているがゆえに、同じ境遇に同情しながらも、あらたな一歩を踏み出すことができない状況のことを言うのではないでしょうか。

私たちは、創作活動の中に喜びを感じます。この喜びは創作という行為それ自体に由来する喜びです。ほんの少し前まで創作活動と自己顕示とを完全に切り離して、純粋に創作の中だけに喜びを見いだせるかどうか確信が持てませんでした。聞き手が存在することを前提とせずに、それでも創造行為に携わりたいという欲求が生まれるかどうか。いまこの問いに対して答えを導き出すきっかけをつかみつつあります。

「聞いてもらわなくてもいいのなら、作品にする必要ないでしょ?」
そう、その通りです。作品を出すかぎり、それは自己顕示とは切っても切り離せないものだと思います。さっき書いたことと矛盾しているようですが、ここで言いたいのは「聞いてもらわなくてもいい」ということではなくて「聞いてもらうことを前提としない」ということです。
聞き手を前提とする創作には、「聞いてもらう」という言葉のとおり、聞き手の趣味、嗜好に自らをあわせたり、歩み寄ったりする必要があります。別に悪いことではなく、その姿勢こそがエンターテインメントを生み出すのでしょう。これは自己分析ですが、私たちは根っからのエンターテインメント好きでありながら、自分たち自身は空っきしエンターテインメント気質をもっていないようです。
好きなミュージシャンを10人あげれば、おそらく10人とも一流のエンタテイナーであり、「聞いてもらう」ことを徹底的に考えた人たちだろうと思います。何しろblack musicが好きなのですから、エンターテインメントを意識しないミュージシャンを見つけることの方が難しいでしょう。
だからこそ少し前までは思っていたのです。自分の作品もエンターテイメントでなくてはならないのではないか。「誰に聞いてもらいたいのか」「どんな人たちに好まれたいのか」これをよく考えないと創作活動は続けられないのではないかと。

いまこの「エンターテインメント」という言葉の呪縛から解放されつつあります。キーワードは「共感」。私たちは何にあるいは誰に共感しているのか。これまでは、私たちの音楽をよいと言ってくれる人や私たちがよいと思っているミュージシャンたちと共感しているものだと思っていました。確かにそこには共感はありますが、この共感は、私たちの心のほんの一部分が共鳴しているにすぎないように思います。誤解のないように言いますと、私たちの音楽をよいと言ってくれる人たちのことを軽視しているわけではありません。
もう少し深いところで、私たちの心が何かと共鳴するのを感じるのです。それは、生み出すときの孤独への共感ではないかと思います。JazzにもSoulにもHip HopにもSambaにもBossa novaにも、愛着を感じるどんな音楽に対しても、その文脈の外にいることを余儀なくされる。根なし草のようにさまよう心を、あるべき場所へとおさめようとするが、どの扉をたたいてみても「あなたが入るべき場所はここではありません」と追い返されてしまう。入るための努力をするには、あまりにも自尊心が強く、内気なのかもしれません。

しかし、このような根なし草の孤独を感じながら作品を生み出す時に、実は創作者として非常に重要な気質を育んでいるのではないかと思うのです。単に孤独と言うならば、創作に携わる人は、程度の差こそあれ必ず孤独を感じるはずですし、この孤独が創作者を育ているとも言えるでしょう。そして、この孤独を聞き手の笑顔で癒せる人は真のエンターテイナーなのかもしれません。私は違います。曲を聴いた時に直感的に感じることがあります。これは、疎外感の中で心の居場所をもとめて作られた曲、さらに言うと、その疎外感があったからこそできた曲だと。あくまで主観の問題ですから、何の証拠もありませんし、全くピントはずれなのかも知れません。ただ、私たちは確かにそのように感じ、そのとき深い共感を覚えるのです。

ちなみに一番最近このように感じたのは、宇多田ヒカルさんの新曲「Be my last」を聴いた時です。CD一枚も持ってません。ダウンタウンの『Hey Hey Hey』に出てたのをたまたま見て、すごく親近感を覚えました。バリバリの売れっ子歌手ですから、本人に対しては失礼な話でかも知れませんが、どう感じるかはこっちの勝手ですからいいですよね。あくまで直感的に、似たようなものを持っているのかもしれないと感じたまでです。
あと音楽ではありませんが、emmyの本棚から拝借して少しずつ読んでいる萩原朔太郎。いま読んでいるのは彼の詩ではなく、随筆を集めたものですが、その内容にも親しみを覚えます。あと小さい時に聴いた山田耕筰の「この道」のメロディー。山田耕筰がどういう人なのかよく知らないのですが、この旋律には単なる親しみやすさ以上のものを感じます。童謡というのは、そもそも大衆が親しみを感じるように、子供にも伝わるように作られているのですから、親しみやすさを感じるのは当たり前なのですが、優れた童謡には、大衆のものでありながら、決して拭いきれない作り手の意志、そしてその孤独感が感じられるものだと思います。

それにしても、アップルのiMac G5欲しい!

A-170


男の子って乗り物が好きなものらしい。電車とか飛行機とか・・・。で、乗り物の王様といえば、車、特にスポーツカーとかバイクなのかな??ところが、僕の場合、全然興味がないわけじゃないけど、そんなに車に熱中した記憶がありません。F1も全然みないし。
ただ、こんな僕が唯一ハッとさせられたのが、メルセデスベンツ。初めて目にしたのは小学校2、3年だったと思う。車種とかは全然わからなかったし、それどころか「ベンツ」という名前すら知らなかったけど、すごく特別な車なんだと感じた。神戸の実家から歩いて30秒のところ、つまり同じ町内の隣のブロックに、「とってもコワい山口さん」系のお宅があって、休日になると、そのお宅の前にベンツがずらっと並ぶんです。たしかその中にBMWも数台混じってた記憶があるけど、当然そのころは、BMWもしらなかったので、「チェスの盤面みたいなマークがついてる車」と思っていました。その一大モーターショウの中でも、もとりわけ、淡いブルーのベンツは、少年の心にグイッとくい込んできたのでした。

時は流れて、京都での日々。emmyはパジェロだなんだといろいろ言ってたけど、ほとんど関心もなく、京都での7年間はひたすらママチャリで過ごしたのでした。
アリヤくん(ピアニスト)がカブの座席に88鍵のエレピを縛りつけ、その鍵盤の上にケツをのせて警官に尋問されている姿をみて、大くん(ベーシスト:Destiny / 股豪)が、家路へと向かう途中にガソリンが切れて、山科まで原付を押して帰ったという武勇伝を聞き、さらにはタンゲンくん(溺れたエビの検死報告書)が軽ワゴンの後部ハッチから颯爽と機材を運び出す姿を目撃して、「人力の限界」を悟りはじめた頃、横須賀へと転居。
「動けばいいや、荷物がたくさん積めればなおよし」くらいのつもりで買った中古の日産ウィングロード。で、実際に自分で車に乗るようになって分かったのが、メルセデスのデザインの素晴らしさ。
特にライトが丸目になってからのEクラスは本当に美しい。emmyも書いてるけど、確かにベンツには「おっさん臭さ」ってあると思う。ジャズを聴いて、目をつむって指をパチパチならしている俗物オヤジのイメージ。

ビートルズが大嫌いでした。でも実は、それはビートルズが嫌いなんじゃなくってビートルズが好きだって言っているヤツの雰囲気が嫌いなだけだった。ジャズは敬遠していました。でもそれは、ジャズを敬遠していたんじゃなくって、ジャズが好きだっていっているヤツを敬遠しているだけだった。
メルセデスも同じようなところがあるかもしれない。でも、俗物は放っておいて、要は自分自身が「優れたものを優れている」と素直に表現する、そして、それを発言するだけの自信と価値がある人間になればいいだけの話。と言いつつ、ビートルズはそれでもやっぱりあんまり好きじゃないけど・・・。

結局どうなったのか。emmyも書いているとおり、new A-classを買いました。E-classはとてもじゃないけど手が出ない。でも、A-classと同じくらいの値段で、ファミリータイプのミニバンとかワゴンにするよりは、ずっといい選択だったと思います。安易なところで手を打たずに筋を通したという感覚かな。いずれはCLSに乗りたいなと思ってます。だからといって「山口さん」の仲間に入れてもらおうなどとは思ってません。別の意味で「筋を通す」ことを求められてしまいますよね。