真魚八重子 アヌトパンナ・アニルッダ このページをアンテナに追加 RSSフィード

07-08-18

anutpanna2007-08-18

[][]『熟れすぎた乳房 人妻』

6/22に発売されたDVD『熟れすぎた乳房 人妻』を観ました。観たといっても発売直後から、もう3回目。監督は曽根中生、今回が初ソフト化の作品です。

この映画には何故かすごく惹かれます。些細な演出がとてもチャーミングで、ロマンポルノらしい起承転結のあえてない感じが、流れるような女性心理を表象していて魅力的。

簡単に物語。貞淑な人妻の夏子(宮下順子)は三人姉妹の次女。しかし、奔放な長女と三女の大胆なセックスを知って胸騒ぎを覚える。そして浮気性の夫に「おまえに浮気などできるわけがない」と煽られたり、三女のBFでまだ童貞の石井や、長女の愛人水野に熱烈に迫られた夏子は、彼らと肉体関係を持つ。

長女の情事を覗き見たヒロインの描写で、振り返った相手の男の股間になぜか真っ黒な紙が貼られており、真正面からの黒い紙→黒バックでガラスが何かで砕けるカット→窓から衝撃を受けて髪を掻き毟る宮下順子という流れが唐突。このシーン、情事を行う長女の白川和子をコタツをめくりあげた場所から撮影したり、割れたガラスとイメージがつながるように水割り用の氷塊を砕いたり、曽根中生らしいアヴァンギャルドさがありますね。他にもいろんな場面で謎の演出があり、ただの「人妻の気まぐれな浮気」だけが題材だから、逆に端々の演出で個性的に遊んでいて、映画らしい悦楽がある作品です。

ポルノ映画は主人公の女性が、いくつかバリエーションのある濡れ場を見せるために、物語も複数の男性と関係を持つことが必然的に要求されます。通常の映画なら初めに物語ありきで、その事柄に結末をつけていくことが映画の終わりとなっていくけれど、ポルノの観客は濡れ場を見にくるんだから、別に一筋の物語でなくてもイイと、誰かが気づいたのです。そのため、濡れ場がいくつか起こって、そのままそれぞれの事柄がなんとなくたゆたうように終わってしまう映画があります。勿論ロマポにもちゃんと一筋の話が大団円に結実していく作品も沢山あるけれど、移ろう時間を切り取っただけの映画もあって、それこそ人生に似た何かがあると思う。

物語に支配されないとは、なんて贅沢でしょうか。あからさまな事件や、必然を要するオチなどなくてもいい映画の自由さ。そして、自由という枷のなさは逆に際限が見えず創作者にとってはやりづらいものだったりするけれど、それを人生の一瞬一瞬として魅力的に成立させてしまう手腕が、曽根中生にはあるのです。『熟れすぎた乳房 人妻』を観ていると、『恋人たちのいる時間』などのゴダールや、アントニオーニのモニカ・ビッティ物を思い出します。ちょっとした踏み外しを巡りながらも、その描かれた世界に、その前も、その後もある感覚。

ご存知の通り、ロマンポルノはジャンル映画の代名詞です。でも、たいていの分野で物語はまずは激しく始まって、主人公が死んだり、人生が激変するという傾向になりますが、作品が増えるにつれて、常に主人公が人間として一線を越えてしまう話ばかり作っていられなくなるジャンル映画は、「日々」を描き始めます。『人形の家』のノラが家を捨てたらきっと娼婦になるしかないけれど、でも女性の誰もがそんな過激な選択をするわけじゃないし、映画会社も封切りのたび毎度死んだり家を捨てる映画なんて作れないから、ノラの密かな日常を描く映画へとシフトしていきます。家を捨てないノラの物語は、彼女の劇的な人生を追う作業から解放され、ノラの秘事や日常の断片をどう演出するかという映画になり、ある切り取られたにすぎない時間が逆に、物語に支配されない、ただ映画としてそこに存在する<純粋な映画>となっていくのです。

起こった物語を伝達するためではなく、ただ映画として存在する純粋な映画は、たいてい「運動」自体の面白さがあります。本作では、石井に恋される夏子は、彼に迫られた時点で満足してしまったのか、年上の得体の知れなさで彼を翻弄し続けます。思い切って訪ねてきた石井を適当にあしらって出かける彼女と、それを追う石井。その際の俯瞰で撮った、螺旋階段を駆け下りる二人は意味がなくて本当に溌剌と楽しい。夏子は大きな白い丸カバンを手摺に乗せて、リズミカルに降りていきます。葉山の母親の所へ運ぶ帽子が入っているカバンは、夏子の弾む愉悦を表して楽しそうに手摺で円を描くし、逗子に着いた夏子を追ってきた石井は、彼女の乗るバスをひたすら走って追いかけるのですが、このときの彼に気づいた宮下順子の、後部座席に沈んでクツクツ笑う無邪気で楽しそうな顔!彼も不思議な青年なので、なぜ熱烈に追うのかよくわからないし、夏子は面白くてずっと車を追わせる酷い仕打ちをして、ここには追いつ追われつのゲームがあります。ゲームって、目的のなさがほんとに重要なのですね。だから、このシーンは楽しい。石井の姿が見えなくなるとちょっとバスを止めて様子をうかがい、またちゃっかりバスに戻る女と、ただバスを走って追いかける男のいる場面は、恋の遊びがあって真底から愉楽的です。

結局、石井に根負けして彼と寝る夏子の、毛布を頭からかぶっての愛撫が曽根中生らしい。よくわからないのですが、曽根中生のセックスシーンはそんな設定も記号もないのに、切ないやりきれなさが漂っていることがよくあります。この髪や布で顔の見えない男女がもつれて睦みあう、表情のない肉体の絡まりが、エロさより男女の孤独から戯れる特殊な状況を表しているのかもしれません。

映画は、一度ここで遊びの情事を経て、また別の物語へと転がっていきます。姉の情事の相手であり、夏子の夫の同僚水野から誘惑される夏子。彼の海外転勤の前の晩、東京から出立地の神戸まで連れて行かれるのがクライマックスです。彼らはなぜかオープンカーで移動するのですが、エプロンの普段着の上にベージュのトレンチコートを着こんで、目の下まで顔を覆って風をしのぐ宮下順子の姿は独特でフランス映画っぽい。ラスト、なぜかまたタクシーで帰ってくる夏子のぼんやりまどろむ時間は、ロマンポルノらしくて、ロマポはなぜか車の後部座席でぼーっとするヒロインの姿で終わるものが幾つもあるのですが、映画が終わっても移動し続ける女の心象を表しているのかと思います。そして、ラストカットはカチリ、カチリ、と動くメーターのアップ。トリュフォーの『柔らかい肌』を彷彿とさせます。

宮下順子はいろんな映画でモニカ・ビッティのような表情をします。全体にわたしがアントニオーニだと感じるのは、女の行き先も果てもない、真っ直ぐな出立でもない彷徨を描くからで、彷徨は始まりも終わりも当てもないから彷徨なのです。そういう「日々の目的のない些細な踏み外し」程度という、劇的な物語からの解放が、ジャンル映画の繰り返しの中で偶然にでも出てきてしまったことが、ロマンポルノのもたらした良さだと思います。

この映画はほんとに皆さんに観て欲しい。ロマンポルノの豊潤さの一つの代表的な姿がある作品です。

熟れすぎた乳房 人妻 [DVD]

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