ザ・コーポレーション

耐震偽造問題やライブドアショックを考えるために、見にいった訳ではないけど
ザ・コーポレーションを見にいく。

カナダといえば、ドキュメンタリー映画はじめ、アクティビズムが非常に活発な国の印象がありますが、この映画もそんなビデオアクティビズムを想起させるような内容。
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企業=法人格を持った一つの人格と捉えたとき、企業(コーポレーション)は正にサイコパス人格障害)であるとし、企業による様々な犯罪事例(環境汚染、低賃金労働など)やその傾向を各分野の専門家の意見などを交えつつ、テンポ良く分析していく映画。一環して企業や資本主義=悪として糾弾していく筋となっている。さて、とても重要でかつ難しい問題を扱っている割にはやや問題設定というか視点が浅い。やや予期していたものの、う〜んやはり残念。。

企業というものの存在の大きさを再認識できるという点では確かに考えさせられた。ただ・・この映画が繰り返すように「利益の追求に盲目的になり多くの企業が社会的な罪を犯す」という視点だけではあまりも浅すぎる。もちろん企業側の意見も撮っているし、「悪いのはCEO個人ではない、人は環境次第でその人格も変わる。」など原因の深みにやや踏み込みつつある場面も散見されるがやっぱり浅い。まずは現状認識を広めて行動を起こそうよという的を絞った狙いという事だろうか。

国家(国家への帰属意識)やイデオロギーが崩壊したいわゆる「大きな物語の終焉」以降、企業の存在感は日増しに強まりつつある。民主主義の象徴のであるかのようなアメリカの政治の背景になんとも見えにくい黒い影をたくさん感じるのは、多くの場合そのせいなんだろう。
過去の歴史において国家という社会システムの中で個人の集合が犯した罪と同様の意識構造は企業体になっても同様に生まれる。戦争という名のもとの殺人と、株主利益追求のための殺人は意識構造においてあまり違いがないような気がする。

CSRなんていう言葉を持ち出すと、トレンドな経営用語として消費されるだけ。問われているのは、美しく生きるとは?という身体的な感覚と、ますます見えにくくなる全体を日々のくらし(ディテール)の中から各個人がどう感じていくか?という話だと思う。各個人の意識の積み上げが社会を構成する。市場も政治もマスメディアも各個人の欲望の最大公約数の写し鏡なのだから。
「経済の外部性」なんて言葉を持ち出すまでもなく、資本主義が全体のアーキテクトではない。この事は「資本主義」や「企業の利益追求主義」への批判だけでは問題の解決にはならないという事にも通じると思う。