TOR06下高井戸 完成しました!

こんにちは。ついにTOR06下高井戸が完成しました。
11月23日の街歩きに始まり、結局半年近くかかってしまいましたが
良いものができたと感じております。


今号の核となるのは、下高井戸は”都市の変化の受け皿として機能していた”ということです。江戸時代、この辺りは農村でした。甲州街道の宿場町でもありましたが、甲州街道の利用者が少なかったために閑散としていたそうです。甲州街道の北側には江戸市中へ飲料水を送るために玉川上水が通っていたり、現在明治大学和泉校舎がある場所は江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)が置かれており、江戸時代から江戸市中を支える機能が配置される場所でした。時代は進み、関東大震災後の郊外への人口流入の際には、下高井戸にもサラリーマン層が移り住み、さらに面白いことに寺院の移転先にもなり、都市の変化に応じて、この場所は様々な引き受け先、受け皿として機能してきました。
このようにして人口が増え、商店街ができ(この商店街が現在にも活気を失わずすごいのですが 笑)駅周辺から宅地化が進んできます。ここで先行条件が農村ということで03練馬と比較してみると、練馬は1938年に部分的に区画整理が行われていますが、下高井戸は先ほども述べたように宿場としての機能があったために短冊状の地割が引き継がれたためか、区画整理が行われていません。また宿場町としてのつながりで02北千住の千住宿の地割を比べると、千住宿の間口が7〜8間に対して、下高井戸は14間と約2倍の大きさあり、同じ宿場町でも大きな違いがあります。この違いは現在にも影響を与え、北千住が細長い地割を奥へ細分化して窮屈そうに建物が貼り付けられているのに対して、下高井戸は間口方向に二分化し庭付きの戸建住宅が建つということが見られます。

これらを踏まえて、今回は、下高井戸宿、商店街、寺院の三項目を取りあげています。
下高井戸宿は甲州街道の宿場町として機能していた頃の話から始まり、短冊状の地割の分割のされ方を現在をみて分析、商店街は主に下高井戸駅前市場を取り上げ、昭和10年代の建設から戦後の闇市を経て、1956年の建設、そして現在までを追っており、寺院は関東大震災後の都心部の土地区画整理によって移動されたことについてがそれぞれ書かれています。

三項目に関してはとても簡単に説明してしまいましたが、詳しくは是非冊子をご覧ください!


今号を担当したのは、現M2のこんちゃん、まりえ、あづみです。今回一番の苦戦は、恐らく”タイトルの付け方”だと思います。短いフレーズで一番伝えたいことを表し、かつ人を惹きつける魅力的なもの、これは本当に難しい!!「伝えたいことってこういうことだよね?」となっても、それにぴったりな単語が出てこなかったり、ちょっとしたニュアンスが合わなかったり、突き詰めすぎると「そしたらこの内容違くない?」と内容の修正説が出てきたり、、、3人とも最後の方は死にそうになりながら単語をつぶやき続けました。笑
修論が本格化するまでには、魅力的な題をつけられるように単語を増やしていきたいですね。


私たちM2はこれをもちまして、TORを次の代にバトンタッチします。
まだ次の調査地は決まっていませんが、小さな発見や自分が面白いと思うものを大切に進めていってほしいです。
あとはチームワークを大切に!


最後にひょっこりはん


M2 保川