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aoilab  明治大学 建築史・建築論研究室(青井研究室)blog

 

2018-05-08

いよいよ明日からサブゼミです!

こんにちは!

最近研究室にいる頻度が今までの半分になったM2の杉本です(単純に去年M1の時に居すぎただけなんですけどね)。

いま、電車の中で打っているのですが、研究室から帰宅するのがこんな時間になってしまうあたり、本格的に青井研の日々が再開したなぁと感じてます(笑)

さて、明日はサブゼミA班『芸術の言語』の第一回目の発表です。

B班の私は明日の司会なので、今日リハーサルに参加したのですが、去年のフーコー『これはパイプではない』同様、深みにハマると訳がわからなくなる内容でした…。

A班のみんなは、学年関係なく全員意見を言い合い、しっかりと議論ができていた印象でした(が、いかんせん難しい…)。

青井先生も今日研究室に来たとき、「グッドマンの本、これ、難しいね(笑)」と言っておりました。つい2週間前は「AとBは簡単だと思うよ〜」と言っていたのに…!


M1M2以外の大半がはじめてのサブゼミですが、きっと頭の上にハテナがいっぱい浮かぶことでしょう。それでこそサブゼミ。

噛み砕いて、みんなが最終的に納得・理解する議論ができるように、司会頑張りま〜す!

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↑10階の吹き抜けで議論するA班(ブレちゃいました^^)

2013-09-27 サブゼミ-D・ハーヴェイ班−3

サブゼミ-D・ハーヴェイ班−3


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今回は「都市コモンズ」をキーワードとした話しについて報告する。

1、 一定の共有地で何人か個人が畜牛を放し飼いにする。
2、 所有者たちは利益を得るために畜牛を増やしつづける。
3、 牧草が食い荒らされ、土地(共有地)の豊かさが失われる。
4、 個々人の利益の最大化によって共有地が喪失される。

以上の畜牛の例において、共有されているもの=牧草地=土地がいわゆるコモンズを表している。コモンズとは「共有的なもの、共同的なもの」である。この例の場合、牧草地が失われないようにコントロールするにはどのような方法があるのだろうか?
一つ、ある特定の人物がリーダーシップをとり、トップダウン的に管理するという手法が考えられる。しかしながらその場合、私的所有の拡大と権威主義的介入という二極分化した統治の構図となり、これは個人主義的な市場の拡大と国家による権威主義的介入という資本主義システムと同様な状況である。

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それでは、この二極分化(階級化)に対するオルタナティブとしてどのようなものが有り得るのだろうか。
その一つとして、エリノア・オストロム(Elinor Ostrom)によって提唱された「シェアリング」という管理方法があげられる。私的・公的諸手段の豊富な組み合わせによって共有資源を実質的に管理することである。ヒエラルキーを解消し水平的な連携による統治システムであるが、この考え方にも限界が生じる。
例えば、あるローカルな地域に住む農耕者らの間でならば、河川に対する水利権をシェアすることで平等に利益を分配することは可能であるだろう。それでは、同様のシステムでリージョナルな問題として酸性雨の問題を解決する事は可能だろうか。酸性雨の原因となる汚染物質を排出している施設との協議が必要となるだろうが、そのときシェアリングの概念だけで解決することは困難である。さらに、グローバルな問題として地球温暖化の解決に取り組もうとした場合、各国間のリーダー同士での協議が必要となる。
つまり、シェアリング=多極的統治システムによって利益を等配分しフラットな関係性を構築するという考え方は、ある一定規模のコミュニティ(地域、集団)においては効果を発揮するが、さらに上位のスケールへ横断する事ができないという重要な問題が残っているのである。

cf.ヨーロッパ連合(EU)に見られる財政的赤字という問題も多極的統治システムの限界を暗示している。ヨーロッパ諸国を取りまとめる上位システムの不在という点で限界がある。

以上までの「多極的統治システム」のような改良主義型の方法を乗り越える可能性のある、階級闘争に対する革命主義型オルタナティブとして「連合主義」という方法を本書のなかでハーヴェイが紹介している。
この「連合主義」という概念はマレイ・ブクチン(Murray Bookchin)という理論家によって提唱された。
「連合主義」とは「自治体会議の連合的ネットワーク」と同義である。自治体が、政治的にも経済的にも相互作用しながらオープンな集会/会議の場において市民体として自分たちの具体的諸問題を解決するシステムである。
権力がトップダウン的に上から下へ流れるのではなく、下から上へ(ボトムアップ)流れるような組織を提示している。このブクチンによる提案はスケールを横断したコモンズの創出と集団的利用を扱う急進的な提案であるとハーヴェイは評価し、反資本主義オルタナティブとして具体化するに値すると言われている。

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このような連合主義的ネットワークの例として、ブラジル南部のポルト・アレグレという都市での試みがある。この都市では地区毎の予算案について町内会レベルから順々に上位の議論へ上げてゆき、それを一年のサイクルで行うことがシステム化されている。こうすることで住民一人一人の意見が上層の議論まで反映させることが可能となり、決して十分とは言えない市の予算を公平に分配することが実現されている。

参考↓
[ 小池洋一「ポルト・アレグレの市民参加システム」http://www.systemken.org/geturei/39.html ]

ポルト・アレグレの例が示すように、過去30年もの間、新自由主義的経済システムがもたらしてきた行政側とローカルな自治体(個人)との間の格差という問題、そして、想定されていた共同の利益が個人化された私的所有権のせいで実現できなくなる(都市コモンズの悲劇)という問題に対する解決のためには以下の二つの政治方針を持つ事が重要であると考えられる。

1、 国家に対して、公共の目的に沿う形でますます多くの公共財を供給させる方針
2、 全住民が自己組織化し、非商品的なコモンズの再生産とそれらの質を高めるように公共財を領有、利用する方針


それでは、さらに具体例としてボリビアのエルアルトという都市で起きた新自由主義的な政策に対する反乱についても紹介しようと思う。

ボリビアは1980年代以降サンチェス・ロサダ(経済官房、大統領)によって新自由主義的な政策に舵がとられた。それによって1998年、それまで市営で提供されていた上下水道サービスを米国ベクテル社の支社に委託し、外資系の民営会社である「トゥナリ水供給会社」が設立された。その後、ダムを建設するための資金を調達するという名目で水道料金が一気に三倍まで引き上げられ、多くの市民の家計に打撃を与えた。
国家による政策や、理不尽な公共料金の値上げなどに反発した市民らは、2000年に労働者同盟を新しく組織し抗議行動を起こした。その行動に対し政府は弾圧を断行し多くの民衆が亡くなってしまう結果となった。
この事件の後、警察や消防士などの中にも反対運動に賛同する者が現れ始める。また、ボリビア中央労働者連盟の呼びかけに応じた教職員組合も無期限ストライキを開始した。このように都市に住む多様な主体を巻き込んだ反乱運動へと拡大し、政府にとって致命的となる影響を与えるまでになった。
そうしてボリビア政府も最終的に抗議者の主張を全て受け入れることを表明し、トゥナリ水供給会社は事業撤退を表明する結果となった。結果的に市民側の要求が通り、新自由主義的な政策から自分たちの権利を勝ち取ることとなった。

参考↓
[THE MAGAZINE ボリビア水戦争 〜水と公共事業は誰の物か〜 http://www.thesalon.jp/themagazine/social/post-21.html ]

その後の2003年にも、同様にボリビアの保有する天然資源に対する政府の新自由主義的な政策に対しても市民が反乱を起こし、大統領を辞任に追い込むまでの結果を勝ち取る反乱が起きている。

これらの事例から考察するに、反資本主義運動を行う際にポイントとなる3つの政治的目標が挙げられる。

1、資本主義の中で支配的になってる社会的諸関係に対するオルタナティブな社会関係を構築しなければならない。
2、大量生産、大量消費、社会制度の転換に伴うライフスタイルの変革
3、資本主義的価値法則を廃絶しなければならない (1、2の根底)


ポルトアレグレやエルアルトのように、多様な都市生産者(市民)を組織し都市への権利を勝ち取るための運動を起こす事例は、反資本主義闘争の出発点である。
ここまでが『反乱する都市』に書かれている内容の概要である。

さて、班のなかで本書を読み進め、ゼミでディスカッションをしていった中で気になるのは、紹介されているような都市反乱は果たして日本で起きていたのかどうか… 特に最近は企業のストライキやデモがあまり起こっていないのではないか、それはなぜか…という疑問が湧いてきた。そこで主に戦後の学生運動や労働運動について考察した。

(つづく)

M1 倉石

2013-09-23 サブゼミ-D・ハーヴェイ班−2

サブゼミ-D・ハーヴェイ班−2


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 「資本家はある一定量の紙幣でもって一日を始め、それ以上の紙幣(利益、剰余価値)でもってその日を終える。その剰余紙幣を、さらに多くの紙幣を得るために再投資するか、それとも自分の剰余を楽しみに使うか選択する。しかし、競争の原理は彼らに再投資を強いる。なぜなら、再投資しなければ他の資本家が再投資するのは確実だからである。」
この寓話が示すように人々の欲求による利益の拡大は必然となっている。特に1970年代以降拡大した新自由主義政策下においては国家の役割は後退し、所有的個人主義の時代となり資本拡大のサイクルを駆動させ続ける事が目的となった。
 前回述べたように、都市は過剰な資本を固定化し蓄積することができる大きな器である。それゆえ資本家たちは工場を建設し生産活動を行い、業務を遂行するためにはオフィスを必要とする。都市のあらゆる建造物は固定化された資本であると見る事ができるだろう。


 やがて剰余価値を蓄積する器としての都市が飽和しそうになると、その器の拡大や変形が図られる。19cのジョルジュ・オスマンによるパリの大改造や、20cにロバート・モーゼスが行ったニューヨークのサバーバナイゼーションも器としての都市の拡大である。近年では新自由主義が定着して後退した国家は、資本蓄積がスムースに進むように容積率を緩和し、金利を引き下げ、水道の蛇口を捻るかのように資本の流れをコントロールしてより多くの資本蓄積を画策する。

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 さて、このようにして常に資本主義システムを回し続けることで都市の拡大・経済成長・剰余価値の蓄積が進むのだが、ここで土地や建物に資本を蓄積することによって生じる現象がある。これは先のリーマンショックの引き金ともなった資本の擬制的性質である。
 建物や土地を取得し、そこからのレント(地代、家賃など)で利益を獲得するというかたちで資本蓄積を行うとき、その不動産を取得する際に支払った金額を回収するまではその建物や土地に本当に価値があるのかわからない。実際はその不動産において将来見込まれる価値を見越して評価され、さらに信用に基づいて取引が行われる。このときの予見的な架空の価値付けが「擬制資本」である。
 すなわち、不動産を取得することや、都市の開発を行う行為は常に「投機的」にならざるを得ない。そしてその投資した資本金を回収するまでに長い時間を有することが、不動産の特徴であると言える。

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 ここで投機的な投資によって生じる不動産特有の性質が顕著に現れた事例として中国の現状がある。本書の中でも「チャイナストーリー」として詳細にレポートされているので概要を述べてみる。
 リーマンショック後の世界的な不況に際して中国経済も損害を被った。それ以前から中国では不動産バブルが拡大を続いており、中国政府はインフラ整備の推進と、都市計画プロジェクトを性急に押し進めることで雇用の確保と地方自治体の資金確保を試みた。
 中国において土地は全て国が所有している。それゆえ都市開発を行おうとするデベロッパー(外資も含む)は中国地方自治体に対して使用料というかたちで資金を支払い建設に望む。一方で、開発費用に対する融資を行う銀行は大半が政府機関のようなものであり、貸し出しする相手は中国国有企業や大手企業が有利となり、その他の企業は資金集めに苦戦を強いられる。
 そのとき出現するのが「シャドーバンキング」と呼ばれるシステムであり、中小デベロッパーは銀行以外の金融機関から融資を受けることで資本金を獲得する。このとき問題となるのは、このシャドーバンキングを制御する仕組みが存在しないことだ。中国の都市開発プロジェクトは様々な主体が介入し、実際には需要がそこまで拡大していないにも関わらずニュータウンやショッピングセンターの開発が進行しており、これをコントロールすることができていない。


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 そうして生じる結果として、需要に対して供給が大幅に上回っている状況で完成した不動産には使用する人が集まらず、ニュータウンは空き家だらけのゴーストタウンと化し、ショッピングセンターもテナントが入らずがらんどうで荒れた場所になってしまう。
 将来的な価値(擬制資本)を見込んで投機的な投資を行う際、それが行き過ぎると不良資産となり資本家の首を絞めることになる。実際に中国ではシャドーバンキングの存在によって、以上のような乱開発を制御しようにも制御できない状況にある。「中国の不動産バブルが崩壊する」という類のニュースを時折見るが、このまま需要の拡大が追いつかないままでいくと資本家の擬制的な損害は増える一方であり、不動産価値が急落することは免れないだろう。

参考↓
YouTube「ゴーストタウン化 中国の住宅市場危機」http://youtu.be/yLPCDFQ2Ya0
[ ロイター「中国の地方政府、シャドーバンキングで膨らむ債務」http://jp.reuters.com/article/jp_forum/idJPTYE97P04720130826?sp=true


 「チャイナストーリー」のような現象は程度の差はあれ日本でもアメリカでも世界中で発生している。都市開発が行われる際、主導権を握るのは常にデベロッパーなどの特権階級であり、彼らが行う「創造的破壊」によって追い出されるのは低所得者階級である。
 都市開発は必然的にその土地に本来根付いていたものを破壊した上で新しい建物が建設される。低所得者層は追い出され、その跡には高所得者向けのマンションが完成するという事例は多い。資本蓄積のアーバナイゼーションは常に創造的破壊を孕み、階級を生む行為である。

 そうした時、考えるべきは反資本主義的オルタナティブ・都市開発のオルタナティブを探求することである。本書後半では「都市コモンズ」をキーワードに、市民がいかに自己組織化しオルタナティブを提示することが可能なのかについて、自由主義社会学者であり政策理論家であるマレイ・ブクチン(Murray Bookchin)を引用しつつ記述されている。
 さらに改めて報告します。

【ここまでの感想】
 僕らは建築学科のはずなのに今回のサブゼミは不動産学科や経済学科で勉強するような内容が多く含まれており、経済の専門用語を一つ理解するだけでもかなり骨が折れる作業だった。
 グローバリゼーションと言われるように、情報技術の発達に伴う不動産証券化などの手法が定着することで、世界中の資本家たちが遠くの国の都市開発にも関与できる状況であるから複雑で、構造を理解することは困難である。しかしながら、都市開発による創造的破壊行為が都市に与える影響は大きく、既存の地域社会を組み替えジェントリフィケーションと呼ばれる現象によって都市の構造が変更されていくことは東京を含め各都市で発生している。
 そうした事を考えると資本主義的な経済の動きが与える影響という視点から都市を観察することで、都市変容過程の一側面を見ることは可能だろうと思った。

(つづく)

M1 倉石

2013-09-22 サブゼミ-D・ハーヴェイ班−1

サブゼミ-D・ハーヴェイ班−1


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我々が生活している今の世界は、各自の生産活動を行い独自の経済圏を拡大・促進することだけではなく、世界経済の融合と連携深化しつつある「グローバリゼーション(地球規模化・globalization)」という現象が起きている。言い換えれば、「新自由主義ネオリベラリズム・neoliberalism)」という資本主義形態のグローバル化のことなのだ。

市場の自由競争を信じている新自由主義的な社会は、資本がよりフレキシブルに動けるために、外部に対して世界の金融組織(WTOなど)を導入したり、内部では資本に応じての規制緩和などをしたりしている。しかし、このような「国・社会の経済発展のため」のやり方はいったい誰によって、誰にとっての意識なのかというと、経済的拡大それ自体が目的化するか、ある特定の階級層にとっての利益のみが目的化することになりかねない。

 そもそも資本主義では、資本の運動が社会のあらゆる基盤となるということがこの世の支配権力に認識されている。社会を推し進めれば、資本を動かなければならない意識は、資本主義社会を強めている。そういったところで、国家的政策の操作と資本の運動の動力はそれで組み合われていく。

 かのマルクスの視点においては、資本主義とは、生産する行為を通じて価値を創出しうる。その価値は商品・資本となり、社会で流通しているものは資本主義社会における経済の根本である。しかし、資本は蓄積する傾向がある。それは、資本を生産する行為は常に過剰資本の生産を続ける。その生産のプロセスにおいて生じた剰余価値は新しい追加的な資本に転用される。そのとき生産の規模は拡大され、より剰余価値を生産していく。

価値と剰余価値を生産するために、原材料、労働者、機械を揃って生産プロセスを行うというのは工場であり、資本を生じる第一前線の空間である。更に、資本主義では、生産プロセスに関してあらゆるものも資本になれる。例えば、労働者自身もひとつの資本である。そのような場合、人的資本としての労働者階級と彼らを駆使し新たな資本を生産する支配階級とが生まれ、剰余価値を生産する過程において階級が生じる。そのとき労働者の住居などの空間についても労働力の再生産の場として資本生産システムの中に組み込まれることとなった。

資本主義が自立的に存立しうる最小の単位は都市であり、価値と剰余価値を永続的に生産することでもある。そういった点で、都市は過剰資本を吸収する一つの空間集成ととらえることができる。資本蓄積の過程は、それに応じて空間を創造・再創造する事は当然のことである。それは、資本蓄積による都市空間の形成(アーバナイゼーション・urbanization )である。

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 資本蓄積によるアーバンナイゼーションでは、永続的に資本を蓄積しつつあり、それと結びくのは搾取階級と国家権力である。その二つの力は絶え間なく、都市を改造、拡大し、より多くの剰余価値を創出しうる空間形成を推し進めていく。このようなシステムは、プレカリアートプロレタリアートなどの階級層から労働力を搾取し、彼らの居住空間までも次第に開発され転換されていく(ジェントリフィケーション・gentrification)。
 以上のような問題を考えるにあたって、デイヴィッド・ハーヴェイ(David Harvey)というマルクス主義的な経済地理研究者が着目された。それゆえ本研究室は彼の最新の著作である『反乱する都市―資本のアーバンナイゼーションと都市の再創造』(作品社―2013)をサブゼミの参考書とした。

 ハーヴェイは、資本蓄積のアーバナイゼーションによって形成される社会システムや都市空間への反発として都市の反乱が起こりつつあると言い、それの根本にある問題は「都市への権利」が略奪されることであるとし論述している。「都市への権利」とは、都市が造られ、造り直される仕方に対し意見を主張する権利であり、都市に住む皆が持つ権利である。しかし、都市社会学者ロバート・パークがいうような、「人間が自分の生きている世界を自己の内心の願望により近い形で造り直すため」にあるべき都市形成システムは、現実には剰余価値の集積を通じて発生するので、資本蓄積のアーバナイゼーションはある種の階級現象である。

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 つまり、都市においてはあらゆる階級の人間が混じり合って生活するための共同的なもの=都市コモンズ(commons)が特定の特権階級層によって略奪されている。デベロッパーの都市開発によるジェントリフィケーションや、金融機関による需要と供給の操作(ex.サブプライムローン)などがそれである。

 このような特定の階級によるヘゲモニックな都市形成過程において、いかにして既存の新自由主義的な資本主義システムに対してオルタナティブを示し、万人に対する都市への権利を奪還するのかという問題に対して、その萌芽として現代の都市反乱をレポートすると共に、そこに不足しているもの、すなわち都市形成に携わるあらゆる主体(プレカリアートなど)をいかに巻き込み自己組織化してゆく可能性があるのかについて考えなければならない。

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 …と、概要についてはこの程度にしておき、ハーヴェイの論考に関するより具体的な紹介と、本書を読んだあとに我々D班で考察した日本における都市反乱の歴史や、なぜ日本ではデモ等が起こりにくいのか?という問題については後ほど報告しようと思う。

(つづく)

D 陳 穎禎 、M1 倉石雄太

2013-06-17

サブゼミ家族班 2週目

家族班の2週目は、まず前回の西川祐子さんの『近代国家と家族モデル』で扱った、近代家族の前身となった近世の家族について勉強しました。

(『歴史における家族と共同体』 歴史科学協議会編 1992 年、「近代の家族と共同体」山中永之佑・「近世の家族と共同体」深谷克己より)
今回は江戸時代に全人口の8割を占めていた百姓に焦点を当てて話しました。
江戸時代の社会体制は、領主を頂点に、「むら」と「いえ」によって成り立っていて、「むら」は領主直結の統治のためのまとまりであり、同時に「いえ」同士が生活のために連携するまとまりでもあった。
「むら」が公と私の両サイドから必要とされ、利用されてきた時代であったと言え、公と私が混じった存在としての組織であった。

一方で、「いえ」の中身は少数単婚家族を中心に非血族、未婚、厄介の地位にある血族メンバーがまとまって共同体となっていた。
三層の玉ねぎ型であり、外側の層がいくら増えてもその構造は変わらなかった。
未婚、厄介の地位にある血族メンバーは玉ねぎの一番外側にいるのはなぜかというところまで調べられていなかったのですが、先生から新しい「いえ」をつくることが許されていなかったので次男三男はなかなか結婚することができず労働力として家主のもとについていなければならなかったというのを聞いて、衝撃を受けたとともに明治維新で家制度に大改革されても受け入れられたのは納得だなと思いました。



家族班が次に取り上げたのは山極寿一さんの『家族進化論』です。
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近代国家をつくる際に利用された家族という共同体は、制度に組み込まれる以前はどのような必要性を持って成り立っていたのかを見ていこうということで、その初現であるサルの共同体にまでさかのぼって考えることにしました。
この本では、文化人類学と生物学の進化論を一体的にして、リニアに見ていくことで人類の家族の形成過程を語っています。
他の動物の集団と人類の家族が似ている、似ていないの比較的な観察ではなく、霊長類の進化の系統樹に沿って系統的に見ていくことで人類の家族が科学的に歴史の中でどのように共同体を形成したのかが明らかになっています。
ただ、比較するのは”現在”生きているテナガザルやオランウータン、ゴリラ、チンパンジーなので系統樹をさかのぼった共通祖先が持っていたであろう特徴を推測していくという形になります。

霊長類はモグラのような祖先が熱帯雨林の生活に適応していき、その原型を残しているのが原猿類、昼行性になり体が大型化して真猿類に分化し(広鼻猿類)、そこから地上へ下りたのが狭鼻猿類、その先に類人猿と分化していき、人類もその系統樹の先にいる。
霊長類の個体同士のかかわり方、社会構造は、その種の生息環境・身体的特徴・繁殖戦略などが密接に関わっていることがわかっている。


まず社会と類人猿の関係を性に注目して見ていく。
19世紀の社会学者は、動物は生理的な要請に従って性交渉するが、人間は自由な意思で恋愛をしているとして、性ホルモンの作用のしかたが人間と動物とを分けるものであると考えられていた。
しかし実験によって、霊長類も性ホルモンによって完全支配されているわけではないということがわかった。
人類を含む霊長類は性の受容性に関してホルモン支配から脱却して自由な交尾が可能となり繁殖戦略を発達させてきたことがわかる。

また、オスとメスが持つ異なる身体的特徴(性的二型)は社会構造と相関しているということが分かっていたが、類人猿にはその一般側に当てはまらないということが体格差と行動からわかった。
 ex)メスをめぐるオス同士の競合が強い種は性的二型が大きく、複数のオスとメスが乱交関係にある種は性的二型が小さい。しかしオランウータンは単独生活をしているのに性差は大きいなど。
したがって、類人猿と人類の社会構造は性的二型ではなく繁殖戦略が社会構造と強く結びついていると考えられる。

人類の繁殖戦略と社会構造を分析すると、社会や文化によってペアの永続的な結合を強めるような方向にも、乱交を許容して精子競争を高めるような方向にも変異の幅を持っているということが明らかになった。
またそれは人類が森林からサバンナに進出する際に、食料を広範囲から確保するための小集団(家族)の必要性と、サバンナの猛獣から身を守るためにある程度の大きさを持った集団になる必要性という複数の家族を内包した共同体を築いていたということに起因している。

それと同時に、インセストタブー(近親相姦の回避)が起こってくる。種の保存という生物の究極的な目標とは一見かけ離れているように見えるので社会的な要因によって起こってくるものと考えられる。
人類以前の類人猿もインセストの回避の徴候は見られた。しかし、人類のペアとその上位集団の対立関係を内包するという特殊な共同体を保つためにインセストは規範としてタブーになったのではないかと考えられる。
サブゼミの議論の中で先生の指摘によって、インセストタブーはゆらぎのある集団を固定するための制度であり、初期の人類も制度よって人類の家族が成立したといえるのではないかという新たな視点が見つかりました。現在においても過去においても、ある制度をつくることで人類は目的を達成するための家族を形成してきたということで、話がとてもクリアになりました。


一方で、生活史(種のライフサイクル)の戦略を考えてみる。
霊長類は、他の動物よりもゆっくりとした生活史戦略をとっていて、子供を産み育てる間隔も長く寿命も長い。
類人猿の繁殖のゆっくりさは子育ての安全さという環境的な要因と、個体や群れの間の社会的な要因によって左右され、類人猿の独特の社会構造は生活史とどのように対応しているのか探っていく。

その一つの例として子殺しがある。
マウンテンゴリラやチンパンジーには、血縁関係にない子供を襲い殺害するという行動が見られる。
これは、ゴリラのオスが自分の子孫を残すための繁殖戦略であるが、それによってメスは子供の安全のために群れを移籍する際は子供を置いていったり、オスが2頭以上いる群れを選んで移籍するようになった。
このことから子殺しによって群れの形態が成立していたと言える。

類人猿で子殺しが起きる種と起きない種がいるのは、父性を保証するかしないかのちがいである。
父性を保証する場合、男同士が女をめぐって激しく競合し父親が誰であるか明確にさせる。
父性を否定する場合、妊娠期間でなくてもオスの要求に応じて交尾をして乱交して父親をあいまいにする。

このことから、人間は男が競合する社会であり父性を保証し子殺しが起きやすい社会であるといえるかもしれない。
しかし一方で、人間の女性は発情徴候が欠落していてはイランに限定されない性交をすることができるので、乱交で父性をあいまいにするような子殺しを防ぐ社会であるともいえる。
先にあげたインセストタブーと連携して、人類は夫婦に性を限定し、家族内のほかの関係には性を禁じることによって、複数の男の共存を許容して子殺しを防ぐ社会構造をつくっているともいえるのではないだろうか。
これも重層した共同体をつくるための工夫なのかもしれない。

人類の祖先は共同体を築く際に必要な、共感力と協力関係を強化させるために音楽というコミュニケーションツールを発達させた。
直立二足歩行になると腕や腰が自由になるので体でリズムをとることが可能になり、発声も様々な音を出せるようになった。

音楽によって高い共感能力を手に入たうえで、何らかの実態を指し示す言葉が登場した。
なかでもホモ・サピエンスが独自に発達させ、生き残る原因とも考えられるのが比喩能力である。
比喩能力によって、博物的知能・技術的知能・社会的知能の異なる知能を連結し相互に応用させることができるようになって新しい概念や技術を生み出せるようになった。
ライオンという実態の動物とは何の関係のない音を、その動物とを相互にバンと焼き付ける能力がすでに比喩である。

比喩能力によって複雑な社会、より上位の組織を作り上げてより多くの人を組織化することができるようになった。
首長社会、さらには先週取り上げた国家もその最上位に来る物のひとつである。

この本の終わりには多産のために組織された家族という共同体は、多産体制が終わった現在では家族を維持していくのは難しくなってきているが、家族の崩壊は起きてはならないという立場をとり、崩れ落ちたときにもはや人間ではなくなっているかもしれないと言っている。

家族の情緒的な問題は置いておくとして、人間ではなくなるというのはこれまでの流れから説明することができて、社会構造が変化し制度ができたときこそ系統樹の枝分かれが起きたところであるということができるので、人間が別の社会構造を持った動物として違うフェーズ(進化とは違う気がする)に移行してしまうということを示唆しているように思いました。



今年のサブゼミは、A班:論理のシステム、B班:人体の免疫の細胞レベルでのシステム、C班:人間の共同体のシステム、そして次回はD班:人間が比喩能力によって作り出した貨幣経済によって引き起こされる都市のシステムと、どんどん大きな話になっていて、まさにベイトソンの世界をひとつにする話とつながっていると感動しつつ、これもホモ・サピエンスが身につけた特殊な比喩能力のせいなんだなあと不思議な気持ちになっています。

話を広げすぎましたが、次回は家族って何?を現在形もっとで具体レベルで議論できるように用意していきたいと思います。
長くなりすぎましたが、、2週目、楽しかったです。
3週目も楽しんで盛り上げたいと思います。


M1 さとうあやな

サブゼミC班 1週目

サブゼミC班 1週目

ごめんなさい、報告遅くなりました。

6/5(水)サブゼミC班の1回目の発表内容についての報告です。

課題図書:西川祐子『近代国家と家族モデル』(2000 吉川弘文館)

発表者は、滝沢、佐藤、秋山、劉、笠巻でした。

C班は別名「家族班」とも呼ばれていて、家族に関する本を取り上げて議論を展開していくわけですが、
1週目では特に日本の近代家族に焦点を当てていくことになりました。

家族は自然的生物的集団ではなく、国家によってつくられた制度であるとしたら、
今の家族は崩壊しているのではなく、家族モデルのゆらぎ、脱制度化であると考えられないか。
多くの国家はまず家長と契約を結び、その家族を国民国家の基礎単位として統合したため、
「近代家族は近代国家の基礎単位とされる」と定義することで、いかに家族が制度として扱われてきたのかを見ていきます。

(1)「家」家族/「家庭」家族の二重制度
1871年の戸籍法、1898年の明治民法によりまず「家」制度が確立します。
「家」は戸主+家族で構成され、戸主の6親等以内の親族はみな同じ家族とみなされていました。戸主は家族に対してかなり強い権限を持ち、基本的に戸主権や財産、家業はその家の長兄が継いでいたため、家族のつながりは親子関係中心でした。
しかし、資本主義の発達に伴い、「家」の次男や三男は安い労働力として都市部に出稼ぎにいき、親への仕送りや弟妹の学費を負担していました。次男や三男はそこで妻を迎え入れ、夫婦+子の新しい家族を形成します。これが「家庭」家族であり、家族のつながりは夫婦関係中心です。「家庭」家族は「家」家族に属しながらも都市部に定着し、災害や不景気になると「家」の庇護を受けます。
このような「家」家族/「家庭」家族は1920年前後に成立します。最初は「家」家族中心だったのが、都市部に「家庭」家族が増えていくことで状況は変わっていきます。

(2)「家庭」家族/「個人」の新二重制度
実は、戦時中の家族単位はすでに「家庭」家族だったのですが、敗戦後、1947年の民法改正により「家」制度は廃止され、婚姻も戸主の同意は必要とせず、夫婦間の合意のみによってすることができるようになりました。戸籍法も一人あるいは最大二世代までを一つの戸籍単位とし、これを家族とみなすようになりました。制度だけでなく、実態としても「家」家族を吸収するような形で「家庭」家族はどんどん拡大していきます。「家」家族からの世襲財産よりも「家庭」家族の収入の方が多くなってくると、老後を迎えた親を「家庭」家族に迎え入れ保護することになります。
1955年に設立された日本住宅公団の影響などにより、生活レベルにも変化が生じてきます。食寝分離、分離就寝から始まり、2DK→3LDKへと発展し、個室もできることで家族の個人化がうながされる設計が進んでいきます。
しかし、独り暮らしや単身世帯など「家庭」の外で生活する人々も増加し、設計の変化だけでは追いつけないような家族の変化が生じます。1976年にはワンルームマンションが出現し、それ以降は四階建てのものが全国の都市に広がり、ワンルームはリビングのある家の子ども部屋が分離して別の都市へ遊離した形となりました。ワンルームマンションに住む人々は、仕送りと電話を通して「家庭」家族とつながり、1975年前後に「家庭」家族/「個人」という新たな二重制度が成立します。

今回は近代家族を中心に見ていきましたが、家族は制度としてつくられたものであるということが理解できたのと同時に、今後の家族は法、規範、生活レベルなど様々な点でどのように展開していくのか考えさせられるような回になったのではないかと思います。
課題図書では、フェミニズム論争やフランス型家族との比較などについても記されていますが、続きが気になる方は是非一度読むことをおすすめします。

B4 笠巻