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2007-09-30

「老いる」ということ

「老いる」というのは若いみなさんが思っているような経験ではない。

「死ぬ」というのがどういうことかは、自分が死んでみるまでわからない。

「老いる」というのがどういうことかも、自分が老いてみないとわからない。

私は自分が老いてきて、「老いる」というのが子どものころに想像していたのとはぜんぜん違う経験だということを身に沁みて知った。

老いるというのは「精神は子どものまま身体だけが老人になる経験」のことたったのである。

老いの手柄 (内田樹の研究室)

私は独り者のせいか、着るものとかには無頓着で、30代前半で着ていたTシャツとかトレーナーとか平気で来ている。だから勤務先の20代の女の子に実年齢(45歳)をいうと大抵「え〜、若いですね」と言われる。そうですかね、といいながら、心の中ではニヤついている自分は、ふと何でなんだろうと考えてみる。

独り者だから所帯じみていないから、などと今までは思っていたが、実はそういう事だったのですね。

生まれたときから現在の年齢までの「すべての年齢における自分」を全部抱え込んでいて、そのすべてにはっきりとした自己同一性を感じることができるというありようのことをおそらくは「老い」と呼ぶのである。

幼児期の自分も少年期の自分も青年期の自分も壮年期の自分も、全員が生きていま自分の中で活発に息づいている。

そして、もっとも適切なタイミングで、その中の誰かが「人格交替」して、支配的人格として登場する。

そういう人格の可動域の広さこそが「老いの手柄」だと私は思うのである。

老いの手柄 (内田樹の研究室)

でも、その「人格交替」がうまくいかなかったらどうなるのか?

それが、一般的にいう「老いる」ということなのだろうか?

友人としての死神

寒い。朝起きたら雨が降っていて、午後にかけて気温がどんどん下がっていったようだ。(実際は朝からあまり上がらず、最高気温は15℃だった。)秋を通り越してもう冬になり、今年残りわずかだね、といった感じの気分で、よく考えてみたら、まだ9月なんだよな。ああ、でも明日からは10月。衣替え。いつまでも半袖、ショーツなんて着てられないよな。年をとってくると、一年のうち階段を転げるように寒くなり、暖かくなるのは手すりをつかまえて階段を一歩一歩上がるように感じるんだけど、反対に一年過ぎるのがとても早くて、ここ五、六年はあっという間だった。こんな時間というか、季節の移り変わりの感覚がズレ始めているというは、ボケの始めだろうか。

僕の友人に鬱病の人がいて、以前日が短くなったり、寒くなったりし始めると、病気がぶり返すんだと言っていた。わかるような気がする。今日なんか特にそう。もう朝から布団、被って寝ていたい、そんな気持ちになってしまう。私の場合、これは遺伝。死んだオヤジがそうだった。晩年はかなり鬱がすすんで、自分の部屋に閉じこもって一日中寝ていたことがある。そんなことを思い出すと自分もそうなるのか、とふぅと息をついてしまう。

でも私の場合、そういう感覚って友人みたいなもの。よく子供が空想の友人をつくって頭の中で遊んでいる、というのを聞いた事があるとおもうけど、それに近い。ただ子供はそれが成長期のつきものみたいなものだが、私のは老齢期にいたる、ぶっちあけていえば、これから死に至るまで、ずっと私の右肩に手をかけていつも離れずにいる死神みたいなものだ。彼の、私の肩においた手をいくら振り払っても、また手をおき何処までもついてくるみたいな。

もうそれは仕方がないこと。あきらめているということではないんだが、ひとりものでも結婚していても、結局、人間というのは「おひとりさま」で死ぬのであって、そんな人間を最後まで看取ってくれるという心の拠りどころが、たとえそれが死神であっても、いいんじゃないかと思う。そういう死神を心の中に抱えてなければ、いざ、「ガンになりました。余命何ヶ月です。」って言われたとき、本当に自分の事をわかってくれるのは、心の中に棲む死神だけじゃないか、と最近、だんだん季節が秋から冬に近づくにつれ、そう思うようになってきた。