2011-03-06
それでも恋するバルセロナ
映画リテラシーとかもないし普段はへらへらと観ているだけなんだけど、ウディ・アレンの『それでも恋するバルセロナ』はちょっと映画読みできた気がしないでもなく、書いておく。
スイーツ恋愛映画を装っているけど、これはたぶん絵描きの話で、「絵描き同士の結婚は上手くいかない」っていう例のアレがテーマだ、と思った。
だから主人公は当然、マリア・エレーナとフアン・アントニオだ。たぶん一番出番少なめなマリアが最も主要人物。この人の嫉妬による結婚の悲劇を描いているのだろう。
考えをまとめるため図にしてみた。
ちなみに右の女性はペネロペ・クルスだ!
アントニオとマリアは男と女として愛し合っており、おそらく人間的に大切にし合える仲でもある。特にアントニオからはマリアへの崇敬の念すら感じる。
それはアントニオが、画家としてマリアから多くの影響を受け、成長をしたからなのではないか*1。
マリアは感受性が豊かで、表現意欲も旺盛、そしてあらゆる物事へのこだわりが強く審美眼も持っている。だから好きなものと嫌いなものがはっきりしていて、自分の感性に素直だ。
一方のアントニオの人物像…これは一度観たきりなのでわからない部分が多いけど、「マリアから芸術的インスパイアを多く受けた」ということは何度も言っている。
マリアはアントニオにとって師のようなものであり、芸術家としても女性としても大切にすべき存在だが、マリアにとってのアントニオはそうでなかった。
「あなたの作品はすべて私から盗んだものよ」という言葉があった。この一言でわかること。それは、アントニオがマリアのものを奪ったというより、マリアを超えたということなのではないか。
自分的な感性で見て、とても良いと思えるものをアントニオが描き始めた。もしくは、他者からの評価が上がり始めたのかもしれない。芸術の世界で生きるためには重要なことだし、アントニオは少なくともマリアより社交性があるようだったのでそう推測したにすぎないんだけど。
そこで、マリアに嫉妬の念が生じる。
同じ分野で活躍する者として当たり前の感情だ。これが他人なら嫉妬として認識しやすい。でも、恋人同士となると混乱が生じる。愛すべき対象に、同業者としての嫉妬を抱き続けるということになるわけだ。
で、こう論理立てて考え、「自分は絵描きとして彼に嫉妬しているのね…」と冷静に自分を省みれたら対処のしようがあったかもしれない。しかし「私たちは何故か一緒にいると上手くいかない…愛し合っているのに」と原因不明としてしまう。
そしてマリアはメンヘラへの道を突き進むのであった。
これから、物語が始まる。
クリスティーナが現れる。
クリスティーナ…いるいるこういう子…
常識的なことが嫌い。自分は他人とは違う。芸術に対する強い憧れがある。嫌なことははっきりしてるけど、何が良いのかはよくわからない。信頼できる人の感性に従う。
そこで、関係に変化が現れます。
ちなみに下の人はスカーレット・ヨハンソンだよ!!*3
マリアは愛する男の新しい恋人を知るためにクリスティーナの写真を見る。そして安心した。ああたいしたことない子だ良かった…何なら写真はちょっと良いんじゃない?くらい思った。
そんなマリアを見てアントニオは少し安心した。
かくして、2人でクリスティーナに「感性を示す」という作業が始まった。マリアとアントニオは同じ方向を向いている。
同じ目標があれば、自分と相手の間にある軋轢に目がいかなくなり、反目が減る。
そして、
「あなたこそが欠けてたものだったんだわ」
となる。
絵描きとしての自分と女としての自分を混同していたマリアは、これをも恋愛感情と勘違いする。「何か自由っていいわ!」とクリスティーナも受け入れる。
かくして奇妙な共同生活は続くのであった。
これに則って考えると、アントニオがヴィッキーに手を出したときにマリアが発砲した理由は、ヴィッキーが芸術家ではないことを知っていたからだと思われる。
マリアは、アントニオが浮気をするのは、自分の存在を重ねる相手が欲しいだけと思い込みたかった。だから、芸術家の素養のないヴィッキーが相手となってしまったということは、そこに自分がいないと感じた。そして切羽詰まった。
『それでも恋するバルセロナ』は、スイーツ恋愛映画を装った芸術家の結婚の話だと思ったのは以上の理由。
けど。アントニオの行動の原因がわからない。
苦し紛れに考えたのが、「絵を描くためのインスパイアを与えてくれるのは女性でなければならない」ということなんだけど…
ヴィッキーは表現はしないけれど、感受性が豊かな女性だったからなー。
- 出版社/メーカー: 角川エンタテインメント
- 発売日: 2009/11/27
- メディア: DVD
- 購入: 1人 クリック: 65回
- この商品を含むブログ (71件) を見る


