死刑とか厳罰化の好きな人が犠牲者非難も好きな訳

当ブログの読者の方なら「どの話?」ってことはないと思うので前フリは省略。
犠牲者非難というのはほとんどの犯罪類型について生じうることだと思うが、性犯罪の場合に特に起きやすい*1。犠牲者非難に留まらず加害者について「元気があって良い」((c)太田誠一)などと言いだす輩が出てくるのも性犯罪に特徴的なことだと言えよう*2。で、そうやって被害者を非難するお歴々がでは刑事事件の被疑者や刑事被告人、さらには受刑者の人権擁護に熱心かというと、まったくそんなことはないのである(もちろん一般論として、だが)。
彼らにとって「強さ」というのはそれ自体道徳的な善であり、「弱さ」は道徳的な悪である。一般的には犯罪者は“意志が弱い輩”であって道徳的にも悪い奴らであり、そういう輩に対して「強い」態度に出ることは道徳的な善である。ところが性犯罪、とりわけ痴漢なんぞと違って強姦の場合は事情が違ってくる。(性暴力の原因が性欲であるという認識に基づいて)性犯罪者は“劣情に負けた”道徳的弱者と見る視点もある一方で、彼らのマッチョな人間観によれば強姦は“男としての強さ”の証しでもあるからだ(「元気があって良い」)。他方、女性が夜の盛り場を歩いたり露出の多い服を着ることは“道徳的な弱さ”、“自衛する強さの欠如”の現れであり、それ自体が道徳的な非難に値することである*3。だからこそ、「夜の盛り場」や「露出の多い服」がどの程度性犯罪を誘発する要因になっているのか、などという実証的な考察などすっ飛ばして被害者に説教かますなどという振る舞いに出ることができるわけである。

*1:単なる印象論だが、他には詐欺とか無限連鎖講の場合にもよく起きるように思う

*2:「強姦してもいい場合」というエッセイを書いた筒井康隆のような例もある。

*3:仮に夜の盛り場を歩いていた女性が性暴力の被害者になったのなら加害者の方も夜の盛り場にいたことになるわけだが、もちろん「夜の盛り場に行く男はけしからん」なんてはなしにはならない。