『刑事司法とジェンダー』

刑事司法は性暴力加害者をどのように扱ってきたのか。連続レイプ事件加害者への長期間にわたる接見や往復書簡、裁判分析等により、性暴力加害者の経験に肉薄。強姦加害者の責任を問う法のあり方をジェンダーの視点から検証し、性暴力加害者の責任を問う法のあり方を提言する。
http://www.jca.apc.org/~impact/cgi-bin/book_list.cgi?mode=page&key=keiji_gender

ネットで評判は目にしていたのだが、ようやく読むことができた。版元サイト(上記)の紹介文に見られるような本書の狙いが端的に現れているのは、たとえば次のような箇所だ。

 検察官は論告で、被害者の受けた被害性を以下のように述べた。

 本件の強姦被害者は、いずれも、近い将来、妻となり、母となるはずの若い女性たちであり、ささやかに生活していながらその夢を打ち砕かれ、将来にわたって生涯忘れることのできない大きな傷を負わされたものであって、被害者らの受けた精神的及び肉体的苦痛は計り知れない程重大

 加害者Yの悪質さを強調するために、被害者の受けた「傷」がどれほどまでに大きいものかを述べている部分である。そのために検察官は被害者の「妻となり、母となる」という夢を持ち出し、強姦によって「その夢を打ち砕かれた」と、強姦が被害者の人生にもたらす結果の重大性を強調する。
(113ページ)

しかしながら著者によれば、「妻となり、母となる」夢など、どの被害者も一切口にしていない。加害者の供述調書にも公判での質問にも一切登場しない「夢」は当然、被害者ではなく検察官の考えを反映していることになる。

 その考えとは、女性は「近い将来」妻となり母となるものであり、それを女性は夢見るべきであって、しかし、一度強姦されたならばその資格を失うというものである。一方的な女性像の強要が行われている上に、強姦されれば妻や母となれないと、断じている。法廷で被害者は、本人たちの思いとは別に、このようなスティグマを付与されるのである。(……)
(114ページ)

この「スティグマ」が加害者によって、犯行の隠匿(被害申告を阻止すること)のために利用されていることも、著者は明らかにしてゆく。刑事司法において再生産される「スティグマ」が「加害者の犯行を容易にし、更なる犯行を生む「資源」となっている」という著者の主張(200ページ)には非常に説得力がある。
個人的に特に興味深かったのは、被告人Yの供述調書や取調べ過程を分析した第2章、第3章だった。「動機」に関わる供述の報道や、旧日本軍将兵の加害証言などについてかねてから考えてきたことと共通する問題意識が見てとれたからだ。

 一つの事件を調べ、被疑者の供述から導きだされるものが「動機」なのではなく、多くの裁判官がこれまで下してきた判決が、捜査によって目指すべき「動機」である。そのため、捜査においては、強姦行為の犯行動機は性欲を満たすためでなければならず、その立証のためには、被疑者や参考人の供述に矛盾があり、被疑者の意志に反してでも、半ば強引に動機を編んでいくのである。
 表明された動機が認められるか否かの判断基準は、被疑者が内面を掘り下げて動機を表明しているか否かではなく、行為を駆動するに足ると社会通念上理解可能か否かであり、その判断基準は被疑者の外部にある。そして、刑事司法過程の最終的な判断者である裁判官が、その動機が行為を駆動したと判断できるか否かによって、動機たり得るかが決定するのである。もし、被疑者の語る動機が、裁判官や、裁判官の心証をあてにしている警察官や検察官によって理解しがたいものであった時、それは動機としては認められない。ここで動機は、犯行原因究明のために追及されるものではなく、犯罪行為を解釈し説明するものとして認識されている。
(95-96ページ)

性暴力の原因は「性欲」ではない、という主張は当ブログの読者の方々にとってはむしろ常識に属するものだろうが、橋下・大阪市長の「活用」発言をひくまでもなく一般的にはまだまだ理解されていない。なんといっても、私たちのフォーク・サイコロジーにおいて「欲望」概念が果たす役割が非常に大きいことが、障害の一つとなっているのだろう。しかし、本書の第2章を読んで、捜査の過程で「性欲」が動機として持ち出されるプロセスがいかにデタラメであるか、それも特定の取調官の問題というより刑事司法の構造的問題としてデタラメであるかを知るなら、性暴力の原因として「性欲」を持ち出すことの空虚さはずっと理解しやすくなるのではないだろうか。