ところでポモは滅ぼされねばならぬ


8月17日(日)の深夜に放送された NNNドキュメント'14 の「歴史に挑む高校生 日韓 40年目の修学旅行」は同じ読売の「たかじんのそこまで……」とか「ミヤネ屋」のスタッフに正座させてみせたい番組だったのだが、少し気になるところもあった。番組の半ばほど、韓国人の友人2人と居酒屋で歓談している日本人留学生の様子がインサートされるのだが、その部分は彼の次のような発言で締めくくられる。

いま、日本も韓国も会話が少ないじゃないですか。それが問題だと思っていて、こうやって会話をしながら、お互いに理解を深めていくことが大事なんじゃないかな、と僕は思うんです。ま、そのときに意見が食い違う時ももちろんあるのは仕方ないじゃないですか。違う国で、違う文化で、歴史の教育の仕方も違うので。だからそういう部分は仕方ないとして、こうやって対話を通してお互い理解を深めてゆくことがまず、解決するための土台というか、ベースをつくるうえで大事なんじゃないか。

強調は引用者。ここにも毎度おなじみ、実にカジュアルな相対主義が顔を出している。「国」や「文化」や「教育」の違いが、ぎりぎりまで意見をすりあわせる努力を最初から放棄する理由として、なんの疑いもなしに持ち出されているように見える。
もちろん、ここで私は二十歳をわずかに越えたばかりのこの留学生を非難しようというのではなくて、このような発言のモデルばかりを若者に提示している大人たち、こういうタイプの発言を“いい発言”として素材に選ぶ大人たちをこそ非難しているのだ。
国家が人身売買ネットワークを体制内に取り込んで作り上げた強制売春制度の「本質」が「強制連行の有無」に矮小化できるのか否か、といった問題は「国」や「文化」や「歴史の教育の仕方」を越えた普遍性をもつ問題だ。もし「歴史の教育の仕方」がそうした普遍的視座への到達を妨げるのであれば、私たちは「歴史の教育の仕方」の方を乗り越えねばならない。