「ヒエラルキー」なんて言ってる奴は教養がない。

と、大学の行政学の先生に言われたことがある。ピラミッド型の権力秩序、階層を意味する言葉として「ヒエラルキー」という言葉が使われることがある。しかし、

hierarchie [独] ヒエラルヒー
hierarchy [英] ハイアラーキー

というのが正しい。それにもかかわらず、組織論や官僚制を論じる時に、「ヒエラキー」と誤用している奴は教養がないと自ら吐露しているようなものであるとおっしゃっていた。ある本を読んでいたら、「ヒエラルキー」という言葉が出てきたので、そんなことを思い出した。


一般教養、常識やマナーなんてどうでもいいことだろと思う一方で、やはり、どこかで重要だなぁと思う。どんなに美しい所作をしている人でも、そんな人に「つまらないものですが、いただいてください。」なんて言われたら、それまでの美しい所作は忘れてしまう。同様に、どんなに素晴らしい論理を展開していっても、「ヒエラルキー」という言葉の誤用があるだけで、それまで展開してきた論理がひどく薄っぺらに思えてしまう。専門用語であれば、なおさらである。「秩序」や「階層」という間違えようのない日本語を使わずに、専門家を気取ってあえて「ヒエラルキー」というカタカナの専門用語を誤って使うというのはひどく情けない。


ヒエラルキー」が一般に通じているのだから、問題ないのではという理屈はあると思います。確かにその通りで、「ヒエラルキー」という言葉を使おうが、「ヒエラルヒー」という言葉を使おうが、論者の言っていることは理解できます。「ヒエラルキー」が誤用であることを知らない人にとっては何の違和感もありません。しかし、「ヒエラルキー」なんて言葉は間違っていると知っている人にとっては、「ヒエラルキー」という言葉だけで、「こんなことも知らずに、何を偉そうに言ってるんだ?」と思う人もいるでしょう。たかが「ヒ」と「キ」の違いで、論者の信頼が大きく左右されるというのは非常にもったいない。論者としてはその中身で勝負したいはずなのに、その中身とは関係ないところで、文句を付けられると、その中身が吟味すらされない。中身で文句を付けられれば、反論もできるが、議論の外に文句を付けられるとどうしようもない。それは本当にもったいない。


話題としてかなり古いが、プロ野球近鉄バッファローズ買収問題でライブドア社長(当時)堀江貴文氏が既存の勢力から大きな批判を受け、楽天社長 三木谷浩史氏が受け入れられた。もちろん、裏側での交渉や、二人のやり方にも違いがあるが、二人の外見も大きく違う。公的な場でネクタイをするか、Tシャツ姿がの違いである。ネクタイを締めていないだけで、文句を言われ、とりあわれない。ネクタイをしていないだけで、一般教養や常識、マナーを知らない輩と判断され、彼の話には耳すら傾けられなかった。外見の些細なことで、と思えるが、そんな些細なことにも注意を払えないようでは、そう思われて仕方ない。


中身で勝負といっても、外見でいちゃもんをつけられないようにしっかりとしなければならない。知ったかぶってカタカナ語を使ったりしないようにしないといけない。