なるほど〜。

あるキリスト教のグループでとてもお世話になった事を、とても
感謝しています。
ちょっと価値観が変わってしまったので昨年秋から1歩半くらい下がって
見てるのですが、今まで見えなかった表向き以外の(アカン)ものが
色々見えるようになって、人間かたっぽだけじゃないな〜、と実感しております。

表には出ないけど、さりげなく人を切っていく所が勉強になりました。

恐れがベースの発想で考える、行動するとこうなるんだな〜と
しみじみ実感出来て良かったです。



人のやってる事に対してアカン事を見つけるのは簡単に出来るのですが、最近
その言葉がまるまる自分に返ってくるな、と気付いてしまったので、

人に対して思ってる事、言ってる事 = 自分に対して思ってる事、言ってる事


だなぁとしみじみとしています。



ある誤解みたいな事で、私を憎んでるっぽいエネルギーを出す方が
いるのですが、結構上の立場の御年輩なのに、本人に何の確認もなしに、
私を悪者にしないと筋が通らない人の言う事だけを信じて、ここまで人を
憎めるものなのか、と本当に驚いてしまいました。

でもこのお陰で 「私は自分を裁く人を裁かない。」 と決めれた事は、とても
ありがたい事だったと思います。
この時 この方
http://ribastsudo.exblog.jp/

と面談していた事と、イエスの「人を裁くな。自分が裁かれない為である。」
という言葉を見て、本当にその通りだなぁ、と思いました。

裁く事がいかに何も生まないか、空しいことか、
この事によって気付く事が出来て、感謝しています。


価値観が変わってきて感じてる事は、以前このブログでも書きましたが、

あるお祈りの方法をやっていたのですが、
そのテキストの一番基礎になる部分で、

「いかに自分が神に愛されている存在か」を
知る部分がない事が大きな弊害になっていると言わざるを得ないな〜、と
思います。(なぜか削除されたらしいけど、今思えば分断統治の為に意図的に
消したという気もしています。)


私も昨年秋に価値観が変わるまで、このグループの価値観と同じだったし、
悪を裁く事はいい事だと思っていました。

裁く事、と言っても、神様の審判はただのジャッジメントであって、是は是、否は否、と
エネルギーによってより分けているだけであって、誰も憎めとは言ってないな、と段々
分かってきました。
(そもそも神(愛)は裁かないです。)

憎しみを持って裁いてる限り、自分の中が地獄だし、とても平和とは言えないと
思います。


キリスト教は長い事そんな罠に掛かってきたんだなと最近思っています。


エスは許し、愛する為に来たのなら、それを知らなきゃ何やってんだ、という
事になるんじゃないのかな。。


と最近思います。





必要なら留まると思うけど、どうなるかは未定・・。







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