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2011-02-23

新宿区ダンボール絵画研究会シンポジウム 2005年10月10日(中原佑介・毛利嘉孝・武盾一郎・山根康弘・深瀬鋭一郎)

深瀬:美術評論家の中原祐介先生、社会学者東京大学助教授毛利嘉孝先生、作家の武盾一郎さん、今回絵を担当し、一番中心に居ました。同じく段ボール村でのペインターの山根康宏さん、彼は武くんに続いて絵を描き始めた1人です。まず、わたしから簡単に概要を説明します。今回段ボール村展覧会を企画した原点であります1990年代後半に日本におきましていろんな場所で例えば今東大駒場寮、神戸震災でのしんげんち、今回の新宿の西口、など自治的な組織が出来ました。テント村であったり浮浪者の段ボール村のような取り壊し反対運動があってそこでどちらかというと法的権力が見えにくくなった場所で実に興味深い芸術活動が行われたということです。その3つの主な場所のシリーズとしてこういうアーカイブ、私個人として研究を進めていこうという趣旨です。その中で今回は簡単に申し上げますと1994〜5年、経済不況として大量の路上生活者が発生しました。何故かと言いますと1980年代後半バブル経済が崩壊して最初の頃はあまり経済悪化はしなかったのですが1992、3,4年となるにしたがって大不況となりました。公共工事のみならず一般工事も激減し日雇い労働者が路上に溢れ出ました。その時に新宿に流れ込みます。大都会であって手も付けていない食べ物が転がっている、トイレ、水などもあり、あとは地下道ということで雨風が凌げ、工業用段ボールがいろんな店舗の脇に積んでありその段ボールを組み立て居住空間になったという様々な環境が新宿西口段ボール村の形成を容易にしました。結果的に300件ものダンボールハウスができました。 1995年8月13日から美術予備校に通っていた武さん、吉崎タケヲさん、山根康宏さんが絵を描き始めます。1998年2月14日に最終的にこの段ボール村は強制撤去されました。過程の細かいことはございますが都庁はJR新宿駅から徒歩10〜15分掛かります。朝、晩の通勤時間でしか動いてませんが「動く歩道」を作る計画がありました。当時路上生活者がいたので撤去が行われたということです。1996年1月24日の強制撤去まで山根さんは段ボール絵画をやっていました。最終的には1998年2月6〜7日に段ボールハウスに大火があり、原因は分かってませんが4名死亡しました。それを最後に新宿連絡会という自立生活支援団体が自主退去を日雇い労働者に促しました。そして2月14日に新宿段ボール村はなくなりました。日雇い労働者はほぼ新宿中央公園やいろんな場所に流れました。以上簡単にご説明しました。続いて武盾一郎さんから新宿段ボール村はどのような存在だったか説明してもらいます。

:段ボール村、人が多く住んでいた頃はここに図がありますが(※)右側にスバルビルの「新宿の目」というパブリックアートがあります。向かいの現在「動く歩道」がある側に軒を連ねていました。そのまた壁側に通路がありましてそこの住民たちは歩いていました。西口の左側に旧京王モール、今は小田急ハルク南館ですがこちらへ行くと京王新線ダンボールハウスがあります。そこを出てキオスクまでの道の左側に段ボール村がずーとありました。道の真ん中に柱があるのですがその前後にもダンボールハウスがありました。もう1つ、通称インフォメ前と言われていた旧西口地下広場にもダンボールハウスがありましてダンボールハウスと言われる場合、西口の広場の事を指します。このあたりはおよそ200件ダンボールハウスがありました。大きく分けて3カ所なのですがダンボールハウスの構造が違います。京王新線の場合、屋根のない折り畳める簡易型になっています。夜、京王新線の地下道は閉鎖されるので住んでいる人は毎日片づけなくてはならないからです。西口広場から都庁までのダンボールハウスですが今映っているのは山根が絵師として入った1996年9月の写真です。

山根:突然来て描きました。このような場所で絵を描くということは初めてだったのですがとにかく夢中でかいてました。1996年9月3日に絵を描き始めました。来て、これは凄いことになると思って「描いて」と誘われ僕も描きたいと思い始めました。もう次の日は予備校に通うのをやめてここに入りびたってました。

:これも京王新線の簡易型ですね。洗濯物とか掛かっている。「新宿の左目」というのが武、山根、タケヲの3人の代表作です。夜から朝にかけてライブペインティングし、 4日間かけて制作しました。

山根:「新宿の左目」は居住用ではなく倉庫として使われたダンボールハウスでかなり他のものより大きかったです。これにははっきりしたものを描きたいと考え、「新宿の目」が右目だということで左目を描けばバランスが取れるのではないかと描き始めました。

:「新宿の左目」は1996年1月24日の強制撤去の時に新宿連絡会の人がインフォメ前に移動させました。「ヒケを張る」と言うのらしいのですが「新宿の左目」を中心とした段ボール村の拠点となりました。そして1月24日に「新宿の左目」を除いて全部ダンボールハウスは撤去されました。これがシンボルとしての役割を果たして2月14日の最後まで残りました。段ボール村の運命と共にしたといっても過言でないと僕は思います。 B通路側の作品なのですが、動く歩道になってしまったあたり、通路には柱と植え込みがありました。その隙間にダンボールハウスがあったので縦構図の絵が多かったです。これは山根1人の作品です。この頃は撤去の日が近づいていたので「スイートホーム」という3人での大作を描きながらそれぞれ個人で描いていくという作戦をとってました。B通路は動かない家が多かったので頑丈に作られている家は本当にガッツリ作られていました。通路の真ん中あたりに住民がみんなで御飯を食べたり集まれるサロンがありました。そこに「スイートホーム」を描いてました。1月24日の強制撤去の時はこの通路が最前列になってました。都庁方面から行政側のガードマンや都の人が来て、それを防ぐように当事者、支援者、このことを聞きつけてきた人が来ました。そこが突破されてトラックが通路をはさみうちに撤去しだしました。その間も3人でまだ描き上がっていなかった「スイートホーム」に取り組んでました。どんどんダンボールハウスが撤去され、人も排除されてました。僕らが絵の全体をみるために後ろに下がって「これで完成でいいね」と言って頷いた瞬間両側から破壊され、トラックへ詰め込まれてしまいました。22日間かけて描いた大作でした。ざっと参加者からの話をしました。

深瀬:今、武くんが言った1月24日の強制撤去になぜトラックが来たかと言いますと、路上返済の撤去で清掃者が道端の段ボールを捨てるという形でした。後の裁判での報告意見ではその段ボールは個人の所有物として認められ、よって違法であったと指摘されます。行政側が違法をしたということで批判されることになります。それでは中原祐介先生からお話をして頂こうと思います。新宿段ボール絵画についてどういうものだったか、宜しくお願いします。

中原:中原です。わたしの著書「人はなぜ絵を描くか」に、武さんが段ボール絵画を描いている写真が載っています。皆さんご承知かと思いますが人類最古のラクガキはラスコーや、アルタミラの洞窟に描かれた絵です。ラクガキはアメリカではグラフティといわれます。子供の頃ラクガキはしてはいけませんと言われます。ラクガキはいけないこととネガティブなイメージが出来ます。画家が油絵など堂々と描くことはできるのですがよその家の壁などにラクガキすることはいけないことであると言われます。ラクガキは人類最古の絵ということになるのですが今の時代だと社会的に許されないことという見方が一般的です。実はこの本の中で脳神経科の岩田誠先生が何万年前に絵を描くということは例えば、犬がなわばりとしておしっこをします。またそこへ連れて行くとその場所を嗅ぎ、自分の匂いと一緒の匂いがしたら安心します。それと同じで人間のなわばり意識、あるいは個の人間として生きている証だったのではないかという仮説を立てられました。公ではありませんがその頃の人間の脳は犬と同じ容量だったそうです。我々ここ東京という公共空間では我々のなわばりはないのです。だからといって先器時代のように公共地ならび自由地にラクガキをして占拠することは許されない。東京都の中に「どうぞ自由にラクガキをしてください」という場所は基本的にありません。部屋のなかでこっそり、だけど紙の上で描く行為はラクガキにはならない。そこでラクガキというのはテーマや何を描くということも含め、反権力的な要素がどうしても再現される。いわゆる意識の新革です。意識の新革というものは絵でなくとも今、横浜トリエンナーレで会場の倉庫の前で赤と白の縞模様の旗がたくさん飾られています。ダニエル・ビュランというフランスの作家です。パリ在住です。パリの地下鉄をご存知の方、いらっしゃいますか?ロンドン地下鉄も相当ですが、ポスターがいっぱい貼ってます。そのポスターと同じ大きさの縞模様がプリントされた紙を非合法でペタペタ貼りました。もちろん剥がされてしまうのですが。彼は東京の美術館の壁にも縞模様のポスターを貼りました。美術館というところは基本的に絵画は壁に掛ける場所なのですが彼はいきなり壁にポスターを水張りしたのです。美術館側からうちは絵画は掛ける場所ですと言われます。彼はまた非合法でやってしまったのです。それで終わりかと思えば、皆さんがご存知のように東京都電柱はどんなポスターでもなにか貼るのに東京都の許可が要ると彼に説明したのですが彼はポスターとバケツ一杯のノリを持って阿佐ヶ谷あたりの電柱に無申請でペタペタ貼りました。警察が来たらすぐ逃げて。これもラクガキと一緒で公共空間の占拠になり、許されないダンボールハウスと較べますとそういう面でいきますとダンボールハウスの方が公共空間を占拠したことになり、そこに絵を描くことは分かりません。武さんの話を聞くとダンボールハウスの人に「この壁に絵を書いて良いですか?」と聞いている。しかし、描かれた絵は公共空間の占拠になる。なぜラクガキという言葉を使ったかというと先程説明したように現在のラクガキは社会性、政治性をどうしても持つ。しかしそういう法律のない石器時代の壁に描かれた絵はいろんなことを考えたのですが、あ、ラクガキだ、と思った。唯一許されることで昔、子供が道路の上に蝋石で絵を描いてたりしました。子供になにも道路に絵を描きなさい、ラクガキしなさいとわざわざ言う人もいないのに描く。一種の自発性ですね。紙とクレヨンや絵の具を与えると公教育になります。何万年前の壁にクロマニョン人が絵を描いた。学校教育で習ったわけでもないのに。自発的ですね。著書に「人はなぜ絵を描くか」というかっこいいタイトルを付けましたがなぜ描いたか答えようがない。一番解りやすいのはラクガキですよと言うことです。しかし社会的に悪いということではなく、何だか分からないが自発的に絵を描く。そこでラクガキが最古の絵画だと言ったのです。今もそうじゃないかなと思っています。もう1つ。私の持論ですが。ラクガキと言ったのはダンボールハウスに文字が書かれているモノがあります。例えば「スイートホーム」とカタカナで書かれてます。ダンボールハウスでもいいのですが壁になにかを書いて社会的になにかしようと思えば文字が一番良いです。ではなぜ絵を描く? なにかを伝える、テレビやポスターを含めて絵を使いますが大前提になっているのは文字が読めない場合ということです。文字が読めない場合は絵で訴える。キリスト絵画でもみんなそうです。文字の読めない人が大多数だったから図解しているわけです。しかし今は図解する必要がない。文字がない時代、文字をつくって印刷物が出来て学校で勉強して日本はほぼ100%近い世界でダントツの文字普及率です。インドは6割、字を読み書き出来ません。IT産業で世界でも突出していますが教育、文字の普及率はおせじにも高いとは言えない。これもたびたび論ですがメキシコの普及率も低い。地下鉄の駅は文字と絵を壁面表示しています。文字が読める人は文字、読めない人は絵で行き先を解読したりするわけです。日本では考えられません。例えば新宿の表示を絵で表示されるということです。普及率が高くなる、高くなると絵画の需要性が落ちてくる。そのくらい絵というのはどういうふうに言えばいいか分かりませんがここまでいうのは言い過ぎかなあと思いますが展覧会に人が来なくなるのはそのせいではないかと私は思っています。あまりこのことは問題にされないのですが。文字の普及率にいろんな問題が関わってくる。その典型がソビエトロシアですね。文字の普及率が低かったロシアレーニンが革命をどうやって人に伝えるかということでやったのですが。ラクガキというのは政治性、プロパガンダとして情報として文字が一番正当なのです。段ボール絵画アートかどうかという問題でアートというのは遊び的要素の強い人間の行為である。ラクガキというのは、積極的に良いことではないが岩田先生が仰有るには犬がおしっこする、というような縄張り意識、もう1つはグラフティのように政治性の強い行為ということです。もし、人に積極的になにかを伝達するにはデモンストレーションとかには絵画は全く出ません。全部垂れ幕や文字情報ですね。もう1つ。文化の意味合いでいくと段ボール絵画絵画はそのものが社会と情報と力を持っているかというとスピリッツと切り離せられない。ちょっとプライベートな話をします。私が小学生の時、戦争が始まりました。入学した年に中国と戦争になって、4年生の時、太平洋戦争が始まりました。子供というのはあまり自我がありませんし、文字が読めませんからいろんなことに絵を使うわけです。反米英鬼、鬼畜米英、この言葉が随分はやりました。アメリカルーズベルトイギリスチャーチルの似顔絵を学校のグラウンドに掲げて竹槍かなにかでその顔を突き刺すのです。そうすると戦意は高揚します。小学生の時から絵が上手くて随分とチャーチルルーズベルトの顔を描けと言われて描いてました。しょうがないですね。大学の頃、原爆反対運動をしていました。そのときにやっぱりプラカードに絵を描いて欲しいと言われました。何の絵を描きます?と言ったらアインシュタインの顔、だと。50枚ほど描きました。絵の効用というのはイメージを与える強さは全般的に見てどうかな?と思います。真面目に社会的に役割でもなんでもいいですけどどれだけ人に伝える力を持っているか。文字と較べると弱くなる。遊びですね。そういう方向があるのではないかと私の意見として聞いて頂ければと思います。

深瀬:中原先生、有難う御座いました。ラクガキとしての絵、表現としてのものを伝えようとしての絵、それが文字が広がっていくにつれて絵が遊びの要素を持つという点というお話を頂けました。お話を受ける形で社会学者毛利嘉孝先生、宜しくお願いします。

毛利:毛利です。宜しくお願いします。実は準備をしてこなかったのですが。準備を進めるよりもまず、会話を聞きながら進めたら面白いんではないかなと。

(テープ入れ替えのため、すこしここで途切れます。)もう1つは前回、武さんと話した時(NADIFF)は準備をしたときは結構時間がかかってしまったということがありましたので今日はあえて準備をしませんでした。いろいろお話を伺って先程の中原先生の話を聞いていて、やはりグラフティ、ラクガキというのは違法性、犯罪という行為になるんですが実はすごく気になっていたことなんですね。何故気になっていたかというと単純に違法かどうかということじゃなくてそれ自体の美術だとか芸術だとか美術館だとかをそうしたものは考えるのにすごくキーになることではないかと。多分、いま我々が美術だと芸術だと思っていることはたまたまそういう形を取っているだけで時代に合わせて変わっていくということはよく言われることですよね。とりわけいい方に関係してくる。最近、「芸術」といういい方もしない。「アート」という言葉をいいますよね。芸術って言葉、あまり言わない。武さん、芸術家という言われ方はどうですか?

芸術家…俺って芸術家…?(笑)まあ、単純に古くさい人というそういう偏見的なイメージがありますね。

毛利:アーティストという言葉はなんとなくイメージが出来る?

: …そう…ですね。

毛利:言い方というのはすごいあるんだと思います。とりわけ美術というのは芸術だなあというものがずっと変わっていっていて、ある時までは例えばうちの親なんかは現代美術が解らない。美術ってなにがいい? 単純に美しいものがいいと言います。だけど現代美術をしている人はそういうものではなくて、大体20世紀の頭から美しいかどうかではなくて強いかどうか、強いか弱いかに変わっていくんです。非常に強い印象を与えるものというものをつくるんです。ところが多分80〜90年代に大きな地殻変動みたいなのがあって強いかどうかではないようなまた新しいイメージ、それは端的に売れるかどうか、だと思うのですがそうしたものがすごく強くなって美術作家で売れるかどうかをこれだけ意識してつくったことはなく、それまで少なくとも、私は最近までたまたま福岡にいたんですけど戦後に九州派と言われている60年代に活躍した人としゃべってるとむちゃくちゃなことをやっているわけです。こう、なんか石とか投げたり、それをパフォーマンスと称したりとか、本人達もなぜこんなことやってるのかわかってないんですよ。わかんないけどこれが過激だとやっていて、これが売れるかどうかの意識なんてないんです、今訊いてもなかったりするんです。それが60〜70年代当たり前だったんですね。ところがどんどんある種マーケット的なのが入ってきてそれが80〜90年代で、90年代の美術は一応盛り上がってきているんです。それは例えば村上隆さんだとか会田誠さんとかいろんな人がでてくるんですね。やっぱり非常に価値判断が人を集められるか、売れるかどうかになってきているんです。マーケット、というものが非常に問題になってきている。社会学というか思想の領域で90年代以降、急に再発見された思想家で、ギー・ドゥボールですが、彼は「スペクタクルの社会」を書きました。彼自身は60年代に出てきた人ですがその時に言っていることですがスペクタクルな社会というのはなんなのかといいますと資本による経済市場経済とは100%自分の生活を覆ってしまうというのがスペクタクルな社会と言いますが、スペクタクルというのは見せ物という意味でして。すべての人が労働することがではなくて一方的に見ることを強制された社会で、ある意味、ポストモダン的なイメージですが、厳しい社会が訪れる、と。ドゥボールの思想というものは実はグラフティに非常に大きな影響を与えたんです。例えばパリの5月革命に、フランス中いたるところにラクガキがされたんですけどその時にドゥボールシチュアシオニストが言ったことですけど、これから芸術は犯罪になっていく、と。芸術というのはなにか?と、いろんな言い方をされていますが芸術といわれることがもはや犯罪と区別されなくなっていく、それが芸術である、と。もちろん、独特のアイロニーがあるわけで、じゃあ人を殺したら芸術なのかなどの言い方もありますが、多分、あるひとつの信義というのがあって芸術とはなにか、これからの芸術は未来の芸術は犯罪になるだろうとという言い方をしていて、これは凄く重要な示唆だと思っています。別に犯罪者になれといっているわけではないんですが(笑)多分90年代初頭から始まってきた美術だとか美術館だとかを巡る変化があってで、一方ではっきり言われていることですがある意味勝ち組負け組がでてくる。かつてであれば国家なり地方の行政なりが美術館などを支援し、その美術館がかなりの自律性を持ってなにかを発表していった時代が少なくとも90年代初頭まではあったのですが、今は殆どそういうのが不可能になっていっている。それぞれのところが特別法人化するなり、なんとか市指定管理者制度などしてそれなりに市場をふまえてお客さんを集めている。日本の美術館であれ、海外の美術館であれ、やっていかなければならない。マーチャンダイズもしっかりしなさいしっかりしなさいと言われる中で、美術館という制度もここ20年前と変わっていっている、それらとセットでトリエンナーレだとかビエンナーレだとか大きなステータス的なイベントが制度で出てきて、そのなかで芸術とはなにかと考えた時にあそこで廻ってしまっているものは本当に芸術なのかじゃなくて他のなにかなのか僕らはもっともっと真剣に考えなくてはならない。武さんと山根さんの絵はそのことをすごい考えさせられる。何故僕がここに座っているかという一番の理由は97,8年頃から武さんや山根さんに関する原稿を書く機会がありましてそれは短いのから長いのまでいろいろあるんですが、わりと折りに触れ書いているんです。別に新しい発見があったわけでもなく大体同じことをぐるぐる書いているんです。なんで自分はずっとそこへ戻ってくるのか考えたんです。多分、今在る我々の生きている情景みたいなのをうまくだしているなあと何か言っているような気がするんですね。それは先程中原先生がおっしゃった犯罪、グラフティを巡る何とも言えないような感覚と結びついてるんじゃないかなと。2つぐらいこういうことじゃないかと考えたことがあります。1つ目はこれをなんというものでなんて考えたらいいのかひとまず考えたんですね。多分昔で言うとある種の政治的な運動や政治的な絵画であると言い方が可能だったら、例えばプロレタリアアートと呼ばれているもの、それはある種リアリズムみたいなものを政治的な直接的なイメージ、そうといえばそうなんだけどそれとは違う観点から当時言われていたプロレタリアアートプロレタリアと言われていた人達、工場で労働し、自分自身は従事してなくて、自分自身には労働資本がない人達なんですがなにかを表現している、プロレタリアという階級そのものが多分90年代から変化してしまっていて全然違う形のプロレタリア、あるいは労働者がすごく出てきて、多分昔のプロレタリアアートというものがある時日本で全く評判が悪くなってしまう。日本だけでなく世界的ででもですが時代遅れと見なされてしまう。一方でプロレタリアという形式そのものがなくなってしまう、あるいは変容してしまう。どう変容したかというとまあ、いろんな人がいっていることですが割合はっきりしていて昔もっていたプロレタリアというのがいっさいなくなってしまうんですね。とりわけ東京なんかに住んでいる、東京プロレタリアと言われるような人達、非常に最近だとどういう生活を送っている人かというとコンビニエンスストアだとかマクドナルドだとかああいった多国籍企業で時給1000円くらいで働いていて、そういう人達にあなたプロレタリアですか?と訊くと、いえ、フリーターです、とか、ただ単に働いて食っているだけですよとかの言い方しかしないんです。そこではマルクス主義的な言い方ではプロレタリアだとか労働者だとか言われる人達がどっかに行ってしまった、その代わり実際には年収は100〜200万のなんとかかつかつに生きている人達が膨大に増えている。そういう人達をどう名付ければいいのか、今、問題になっているんですね。いろんな言い方の中でフリーターでいいんじゃない?という意見もありますが最近の流行り言葉ではアントニオ・ネグリマイケル・ハートという政治学者書の『〈帝国〉』の中で言われているマルチチュードという概念の言葉があります。意味はプロレタリアと同じ様な意味で多様性だとか多質性だとかなのですが、彼等の議論によるとグローバル化した社会の中でのある種の運動の1つとしてマルチチュードと呼ばれるのがあるのですがなんと呼ぼうとしてもマルチチュードというのがフリーターに当てはまるかと思うのですがプロレタリアと呼ばれる、対応するような人達が都市の中でものすごくたくさん居る。もちろんその中には野宿労働者も含まれているだろうしそのような人達がどういうかたちで考えられるのかものすごく問われている。かつてプロレタリアと呼ばれていたマルチチュードだとかフリーターと呼ぶか解りませんがなんらかの形でいろんな形で出てこようとしていた1つの動きのような気がする。武さんの話を聞いていて改めてわかったんですけど80年代以降の一般的に言えば普通のメディアは大体政治というものが失われたような気がします。普通に大人達が言っていた、若い子は政治に興味がないといったような。しかし新宿ひとつ取ってきてもものすごくいろんなやり取りがあってしかもそれはかつて左翼運動に関わってきた人達や武さんや山根さんのようなぼくの言葉を借りると関係ない人達もそのやり取りに関わっていて、実際警察との緊張関係があったりするんですね。そのことを考えると80〜90年代というのはメディア報道しているようなことは社会的に信じられてきていることや、政治的じゃないこと、むしろ政治的に見えるものを隠蔽するかのようなものすごい力が働いてきているんです。しかもそれがさっき言ったスペクタクルの社会なんです。一見、僕らは美術のことなど80年代90年代こういうのが流行りましたよとテレビだとか新聞だとか見て知っているつもりでもそういう風になっているし若者達が政治に興味がなくなったということもなんとなく知っている。実は80〜90年代それなりの細かい動きがあるにも関わらずそ大きなメディアでは全く報道されなくなっていく時代。どういう意図があるか解りませんがそういうことが行われている。その時に隠蔽されたものはなんなのかがひとつ。それと例えば六本木ヒルズに代表されるようなある種の非常に裕福な人達、しかもそれらの裕福な人達を支えるような美術、裕福な人達が支えているある種の美術のシーンがあり、かつ、それによって隠されてしまったかのような制度の形式というのは一体どこにあるのかそういうことを考えないといけないなあと思いました。2つ目なんですがマルチチュードという言葉にあわせてもう1つカタカナを考えました。ホームレスと言う言葉です。印象的だったのは最初の研究会(2005年4月30日)で稲葉さん(飯田橋のNPO法人自立生活サポートセンター・もやいの代表理事)や、内藤さん(当時西口地下道で野宿生活をしていた)と話をしていてホームレスという言い方はどうですかという問いにあれは外国語だからなあ、とホームレスとあまり言われたくない、日雇い労働者とか違う言い方をして欲しいと。それは正しいと思う反面、一方では英語のホームレスという言葉を考えるといろんな下敷き的な考え方がある。ホームレスとは哲学的な問題を語るとすればニーチェでは近代的な人の特徴だと近代人はホームレスである。自分たちが帰っていく場所、もはやホーム、故郷など持たない人が近代人の特徴だと。もちろんそれは比喩的な言葉でありますが今は比喩的なものを越えて東京に住む若い人、自分も含めてですがかなりホームレスな状態にありつつある。稲葉さんの話で出たのですがフリーター層をどう読むかという問題になるのですが最近の若い人のホームレスというのは大体メディアの人が取り上げたりもするんですがいないことはないのですが見えにくいんですよね、と。どうしてかというと短期で野宿をする人が多い。仕事が無くてお金がなかったりして野宿をする。かつ、お金が有る時はネットカフェや24時間営業のところへ行ってネットや携帯を通じて仕事を見つけたりするわけです。しかし家を維持することは出来ないので転々としている。普通我々が思っているホームレスという言葉はなんとなくリストラなどに遭った年寄りや中年以上のイメージがあるんですが実は全然違うような形で都市の中で家を持てない若者が増えていて。もちろんそれと公務員の自分を重ね合わせるのは違うのですが、愚痴をいうわけではないですが(笑)都市に住んでいる若者は定収の半分以上が家賃に消える状態でやっていっている中で少なくとも自分が生きているところが終の住処だとは思えない。たまたまここに住み、たまたまこういう仕事をしているけど本当にたまたまで5年後とかは景気が悪くなってるかもしれないし、もっとやりたいことが見つかるかもしれないし常にそういうことを考えてるんですね。仮の姿だと。実は同時に昔であれば50代ぐらいには大きな家に住んで子供達に囲まれて生活するというイメージを持っていたりもするんです。ある種のホームだとか故郷だとか戻るべき家だとかを持たない時代、別にニーチェだとか言わなくてもそういうことがはっきりと出てきている。そうした中で実際に野宿する人は肉体的にも精神的にも結構厳しいものがある。勿論全ての人に当てはまるわけではないけれども今生きてる現状の形式、原点ということを今回の研究会に思いました。最後に、今の問題というのはもうひとつ先にあって、実はこういうのすらまだユートピア的に見える。要するに90年代新宿でこういうのが出来たんだ、ということなんです。今出来るだろうか?まず出来ない。地理的には出来るところがあるかも知れませんが。90年代の一番特徴的なことは政治的な可能性ではオウム事件以降いろんな形で管理体制が厳しくなっている。 90年代中頃まではストリートでいろんな運動が可能だったけど2005年の今ではそういうことすら出来ないぐらいです。すごく空間が切りつめられていて居場所が無くなっているということを我々は考えなければならない。10年というのはあっという間に過ぎ去ったように思えるのですが多分これがこの2,3年で出来るかというとそういうことが問題ではなくて全然違う形式でなにかが起こると思います。その形式とはなんなのか、将来的には議論出来たらと思います。

深瀬:毛利先生、有難う御座いました。お二方からいろんな論点を提示して頂きました。まず、中原先生からはこれはラクガキだろうかこれは壁画といえるのだろうかそれとも遊びといえるのだろうかといった問題提起、シリーズとしての関係で絵画とした問題意識、また毛利先生からはマルチチュードという言葉で説明して頂いたのですが、これは段ボール絵画フリーターアートというようなものではないかという問題意識、また、ニュー・ホームレス問題、形を変えたホームレスというものが現れたのではないか。これはプロレタリアニーチェが関係したようなものではないか。また管理社会からの進展ということもご指摘して頂きました。管理社会化については実は私の本職は災害対策なのですが、東京の部門にいて感じるものはやはり管理社会化であります。例えば1955年に地下鉄サリン事件阪神大震災があり、2001年には9・11同時多発テロ、NY、ワシントンでありました。その前後に宗教テロ、主にイスラム教原理主義が世界に頻発していて、世界的に見て災害が増発している。いろいろな分野で管理社会化を促進しうる状況が十数年前から続いてきている。もう1つありましてベルリンの壁が崩壊しました。その後、極端な軍事対立が無くなります。仮想敵国にとどまる、地域紛争にとどまるその他のテロがそういう主要な戦いの相手になり、その中にあって国家は再生として管理社会化しやすくするその2つの要素があってこの十数年間のうちにどんどん厳しくなったと思います。統治技術、戦争技術もそうですし、いろいろそういった権力の壁も大きいですがやはり進歩していっている、例えば統治技術としては分割統治、非常に良いと思われている。歴史的に見てみると例えば領主と人民プロレタリアなどの指導下層。容易に語り合う団結性を双方取りうるようなかたちであると対立が発生しやすくなる。そういうことがあるので例えば現在あるフリーターだとかニートもいますし、路上生活者日雇い労働者もいますし、常用雇用契約社員雇用形態が極めて多様化している。近代史上で発生していた典型的なプロレタリアアートというくくり方が極めて難しい。もしくは成立しないような状況。その中では従来の労働者層についてどのように捉えるべきか、その捉え方はフリーターアートというのはひとつ面白い言葉と思って批評させて頂きました。旧プロレタリアアート層に相当しうる、様々な層における芸術行為、また、その人達のための芸術行為、というものがひとつありうるのではないでしょうか? 1つは先程のこれは壁画なのだろうか、ラクガキなのだろうか、示威行為か、絵の持つメッセージというのはどういうものか、そこに遊びの要素がどんどん高まっていくのではないかという関係性を考えるとフリーターアートというべきものは極めて遊びの要素の強い絵画ではないでしょうか?そういう意味では非常にデザインと近しいものがあるのではないかと思います。

深瀬ディスカッションを始めます。まず、口切りを中原先生、どうぞ宜しくお願いします。

中原:先程言ったアソビをテーマに言い足りなかった始めたいと思います。非常に内容が高度になりつつあります。先程、絵画に潜むアソビのことを言いました。これは非常に好ましくないと本来はアソビでそれをやってはいけないということに事実そうなっています。このアソビということに一番良くないと言っているのは国家権力なのです。なぜかというとアソビというのは究極は非常にアナーキーなのです。例えばアソビの楽しさ、面白さには基準がないのです。何点の面白さ、60点の面白さなどの基準はないのです。別の言葉でいうと究極の美術なのです。国家としてはやばいです。だからこそ例えばナチスはアソビという色彩の濃厚な芸術を退廃芸術と呼んだんです。国家が戦争していくために教育性の高い美術を排したんです。日本の場合もそうですよね。幻想的な絵だとか抽象的な絵だとかアソんでいるわけであって国家としてはそれは許せない。で、この流用性、教育性はソビエトの場合も同じなのです。先程プロレタリアアートが出ましたがソビエト社会主義リアリズムは流用性、教育性もはっきりした美術でないといけないのです。というようにですね実はアソビを濃厚にすることは良いこと、好ましいことなんです。むしろラクガキというものも空間を占拠したということ、いろんな言い方が出てきましたが犯罪性という言葉が当てはまるか私は自信がありませんが。流用性だとか教育性だとか道徳性だとかを常に要求するのは権力側なのです。アーティストが自分でそういうことを考えて絵を描くということは面白おかしいことになるですね。かつて、宗教というものもそうなんです。宗教も権力でしたから宗教のための教育、宗教画を描く。まずそのことを申し上げます。プロレタリアアートというのは元々はソビエトの官制、公の認可を得た美術作家だったんですよね。日本は社会主義国ではありませんから反国家的な美術表現になったんですね。ひっくり返していえば全然別でポーランドは戦後、社会的には共産党が支配していた。労働者と農民を描いてはいけないというソビエト方針ですよね。そこでそれに反対する連中が反社会主義リアリズム運動を起こしたんですね。それ以前はドイツに占領されている時はドイツの権力、ナチスドイツに協力しなくてはならなかった。という具合に権力が芸術を管理する、それに翻弄される。そういうことで言えば共産党が強制して生じる自由、反社会主義リアリズム運動、アナーキズム、芸術ですねそういう方向、空間性を問う。それを私は考えるべきではないかと思います。

深瀬:どうも有難う御座いました。続いて毛利先生、お願いします。

毛利:言い足りなかったことですが、新宿ダンボール絵画研究の冊子に参加者が寄稿しています。中には高校生の方とか年配の方とか居ましてとても民主的な本でいろいろな書き方がされています。その中に山根さんが書いた「新宿レアリスム」の中の言葉できれいなだけの絵は描かない。と武さんが言っていたと書いています。最初、新宿段ボール村を写真で見直した時、絵ということを受け入れられたくない感じがしたんです。好きかどうかと言われたら決して好きではないかもしれません。今、絵が残っていて、部屋に飾りたいかといえばそれはちょっと…というと思うんですよ。それがとても大事なコトなんです。さっき、美術がある時から強さではなくて売れるだと言いましたが端的に部屋に飾りたい絵なんです。かつてアメリカ抽象絵画と言われたあれらはなんか銀行のロビーに飾るための大きさと、美術館に飾るための大きさ、などある意味生きやすさを感じます。全く同じようなことが現代美術に起こっていて、怖い、かわいい、エロティックだとかで部屋に飾っておきたい、持っておきたいどんどんそういう風になっていて それはギャラリーのせいで仕方ないかもしれないけど、となると絵とはこれは持ちたくないなあだというものそういうものが美術で、排斥するはずはないのにまさにそのことと同質になっているんじゃないか。その問題を考えたいなあと。要するになにかを不快にさせる、ひやっとさせられる、選んでるテーマ、色使い、あと目が多い、が特徴的ですよね。

深瀬:非常に重要な点だと思います。新宿ダンボール絵画に出ている絵で目をモチーフにしているのは非常に多数あります。描いた側意識としてなぜ目をモチーフにしたのかお話して頂けたらと思います。山根さん、お願いします。

山根:目をかくというのは武さんがしょっちゅう言っていたことです。正直武さんが何故目を描きたがるのかわからなかったです。描いていくうちにいろいろ感じたのはですねやはりああいう場所ですからすごい人が通るわけです。常に視線に晒されているわけです。その状況のなかで自分たちは絵を描いている。通っていく人はそれはなんだか解らないことですよね。自分もそう思うわけです。それに勝つため、というか耐えるため、跳ね返すなにかというものを描かないと自分を保てない。そこで目を描く。鏡を描くような意味合いがあったのかも知れません。なにかそれに対抗、僕の場合は自分を成り立たせるためだけだったのかもしれない。

:対抗するために目を描く、なのに見た人の鏡、2つの相反するものじゃないですか。山根の話を聞いていてそうだなと思ったんですよ。僕は目を描きたいと言ったのは明瞭で、通行人の人達はダンボールハウスに住んでいる人、ぼくらを含めてですが物を見るように見ていく、あるいは見ないようにして通り過ぎるコトが多かった。勝手に通行人側が「ああ。くせえなあ」とか「こいつらむかつくなあ」とか「かわいそうだな」とか判断するんです。ところが同じく住んでいる人達も通行人に対して思っている。人と人といる、思った人は思い返してくるというのはついぞ思っていないんです。だからそれに対しておまえらも見られているんだぞということを凄く強く通行人の人達に自分のことを気に掛けられていることを表したいなあという気持ちがある。それを中心にして見る人の鏡だとかの大きな思いはそれでした。

深瀬:面白かったのは通行人の人は自分たちも見られているということですね。公共建築に20世紀後半に目をモチーフとしたものが一時期もてはやされたことがありました。最近はあまり流行らないのですが。これはある研究があって事件というか事故が起こりやすい場所に「目」をおいておく。事故率が激減したという報告があります。それは要するに人に見られているのを意識する、そこで悪いことが出来ない。無秩序の場を秩序にするためのコンサルトであったわけです。結果的に中原先生がおっしゃった無秩序におけるアソビの要素が結果的に公共場」に秩序をもたらすことに繋がっていく、ひとつ面白い。

:すごい皮肉になっちゃうんですけど。

深瀬:続いて自由に意見を言って頂ければ、と思います。挙手していただいても結構です。質疑でも構いません。

:先程中原先生がこれは一種の犯罪のような意識の話をされましたが描いている人は犯罪という意識は本来もっていただろうか犯罪の意識を持って描いていたのかお伺いしたい。

:どちらかというと20代の頃の出来事なので青臭い話になっちゃうのですがナイフの代わりに筆を持ったみたいなそういう部分が正直ありまして、もし僕が絵というやり方を知らなければ包丁でよかったのかもしれないんですよ、実を言えば。なぜかというと、思想的にこの社会が嫌いであるとかそういうことではなく、おとしどころのない憤り、自分に対する不甲斐なさ、自分に対する価値が見つけられなくて、自分なんかいなくていいんだなと、思ったのだけれどもどうしてもどこかで「生きたい」と思う。そしたらどうしたらいいのかというと手っ取り早く包丁を持って誰かを刺しちゃうでもよかったかもしれない。たまたま筆を持って絵を描くことが出来たということも実はありました。そういうことが確実にありました。

ラクガキというのはラクガキしているのは見られない、つまりラクガキとは知らない間にラクガキされているタッチがないから例えば線路の電車に夜中にわーと描かれる、ある種作家性というか保たれるようにそういったのものがラクガキアートにはあるんだけれども描くのが見られていて、いわゆるグラフティといわれるものとの差が大きく見られるんです。そうした時にこっちはおそらくその本人は犯罪をしているという意識はないんだろうけど段取り早いのはなぜその時にパフォーマンス的に描いていたある種さっきの武さんの話だとある種アイディンティティの確立性をやっている、あるいはさらにいうのであればある種自分の芸術表現なんだという自負みたいなのがあるところが大きな違いだと思います。

:そうですね。その芸術表現の自負はありました。一番最初の人に尋ねていく時にダンボールハウスの家にノックして、たまたま中に住民がいて、なんじゃい!とでてきたんですけどその方の写真はこちらに…その方々ですが、その時、僕は思わず「絵を描いているものなんですけれども家の壁に絵を描かせてください」といったんです。絵を描いている者です、とふっと言っちゃったんです。何でもない者ですけど絵を描かせてくださいとは言わなかった。だからですね、どこかで自分は絵を描きたい、絵描きかどうか分からないけれども描きたい人間だという意識はありました。どうしようもなく描きたかったし、描くしかなかった。あと、丸腰で描いていることは怖かったのは事実です。いろんなことが怖かった。そこに住んでいる人も含めてなにがしを含めて。ぼくはどうしたかというとリュックを背負いながら絵を描いたんです。リュックを背負ったからって物質的に防御できるかと言われたらはなはだ疑わしいですけどなにか背中にぴたっとあるとすこし安心したのでぼくはよくリュックをして描いてました。

深瀬:他に御座いますでしょうか?

客(女性):とても絵を描きたかったとありますがその後の自分の表現は変わっていったんでしょうか?

:その後というのはいつから?

: 1998年のこういう状況がなくなってからです。自分の「絵を描きたい」という衝動はどう変わっていったのかも合わせて聞きたいです。

:ぼくは1998年の段ボール村が消える時にちょうど神戸被災地、「しんげんち」というところに行っていて、そこの村は、公園を不正占拠してやむにやまず自治区を作り上げてしまった処なんですね。そこのコンテナハウスに絵を描いていこうと思ってそこに住みながら村長さんの了解を得て絵を描き始めた時期にこの村が消えたのをトカちゃんて撮影してくれている人からファックスがあり、知りました。昨日も言いましたがあんまりにもびっくりしてなにがなんだかさっぱり分からなかったのだけれども実をいうと少しほっとしたんです。なんだかわからないけれども新宿に描きに行っていて苦しいんです。そこで、ああ、ぼくはもう苦しまなくてもいいんだという、そういう思いをして描かなくてもいいんだという風にほっとしたんです。ほっとしただけではないんだけれども強烈な虚無感にも襲われました。で、しんげんちで描き始めるんです。1999年までいてあまりいいかたちではない状況で出て行かなくてはならなくなりました。出て行かなくてはならなく、埼玉県に戻るんですけれども、こういうものを描いた後、絵を描くのはイヤだなと思いしばらくは果てました。1回果てました。本当に。それが正直なところですね。

深瀬:自分では話しにくいことでしたが1999年の5月に神戸震災のしんげんちから彼のお父さんの住んでいる埼玉に戻ります。それからしばらく彼は放浪しまして、帰ってきてから引き籠もりになります。彼だけではなかったんですけれどもしんげんちのようなスクワット的な自然発生的なテントだとかダンボール村ですとか廃業反対運動で立てこもる、そういう形で最終的には村がなくなるということは大変心に深い傷を負うもので住民の心も乱れるしそういうなかでいたたまれなくなっていくわけです。それをいくどか繰り返した後に作家自身が引き籠もってしまうわけです。引き籠もりから回復してこの研究会、展覧会するのに5年月日が掛かりました。

山根:僕の方はですね、1996年11月24日の強制撤去が行われた日、その時にぼくはひとり、抜けてしまうんです。武さんとタケヲさんはそのまま絵を描き続けるわけですが。抜けて、どうしようか?絵は描きたい。というときに始めた事が同人誌を作ったんです。仲間を集めて。それがちょうど1997年ぐらいです。絵を集めたり、写真を集めたりして、同人誌を始めました。それを持って東大駒場寮にいくんです。そこは以前武さんがこういうところがあるよと教えてもらって一緒に行った記憶があるところです。それはしんげんちにいったあとでしたかね?

:前ですね。

山根:ちょうどいろいろ被っている時期だったとおもいます。そこいってそこでギャラリーを作ったヤツがいましてそこを拠点といいますか、利用して、武さんの展示をやったりですとかぼくも展示をやったりそういうことで次に繋がっていきました。

深瀬:いまだに彼等は鷹野依登久くん、今日は来ていませんが山根康宏くんとアーティストブックの出版をしています。彼等はもともと東大駒場寮にあったオブスキュアギャラリーでやってました。そのなかでアーティストブックを作り始めて今に至るという。先程、作家の苦しかった、怖かったということでしたがそれがラクガキとの大きな違いに関わっていることではないか---の孫のような人は描いて逃げるタイプだったわけですよね? その時は報道されているようにわーと描いて逃げる時に怖いみたいな。武くんと吉崎タケヲさんが最初描きにいったのはしょんべん横町の脇のガード下に描いて逃げるような、ここを重点的に描いていこうと思ったそうですが結局それはやらずに人に背中を晒して怖い思いをして苦しい思いをしながら描いた。ということで、そこで通常のラクガキと違うと思うんです。そこの展開が何故生じたのか。

:何故でしょうかね?新宿という街の構造とかになっていくんじゃないかなと思うんですが描けなかった時にどうしたかといいますと何故ションベン横町に描こうと思ったのはとにかくどこかに自分たちの絵をどこかに描いちゃいたいというどこかに出してもどうせ相手にしてくれないから自分らで描いちゃおう、という。当時にしてみればグラフティだったのかもしれない。夜露死苦みたいのに近しい感覚だったと思うんです。しかし、それもどうやらできないっぽい。なんか新宿という街のシスティマチックさに打ちのめされてどうしよう?とぼとぼ歩いてたらどういうわけだか西口の地下道のダンボールハウスの方に歩いていったんです。どうしてそこにいったか覚えていないんですけど。ここだ!と思ったんです。というか思う間もなくすーと行っちゃったんです。意図してやったわけではない。その後大変な思いをするなんて当時若かったから分からなくてとにかく衝動をどうにかしたいの方が重要だったんじゃないかなと思います。

深瀬:その説明を受けまして中原先生、お願いします。

中原:先程の毛利さんのメキシコ壁画についての話に少ししゃべって欲しいと言うことで。メキシコの美術はセンター街やいろんなところで実にたくさんの壁画があり、突出しています。1922年に時の文部大臣、バスコンロセスがメキシコスピリッツが低いのでできるだけ民衆に絵を見せたい、そのために美術館に足を運ばせるのではなく道路に面した公共の建造物に描かせようとしたのがそもそもです。バスコンロセスが出来るだけなるだけ美的感性を民衆に養って貰うためにやったのです。ところが壁画をやりたいと言った3人の大物、デイエゴ・ロベラ、ダビット・アルファロ・シケイロス、ホセ・クレメンテ・オロスコなのですがとりわけリベラとシケイロスが政治的な美術家壁画を利用していわゆるプロパガンダメキシコの歴史、スペインにむちゃくちゃにされ、あるいはメキシコの農民がどれだけ搾取された、などのことをひたすら主題にしました。メキシコ絵画というと政治的なニュアンスがありますが。そもそもは誰の目にも美しい絵が歩いていても目に付くように公共に描くということだったんではないかと思うのですがバスコンロセスは寛容な知識人として有名でした。1階から3階まである大きな大統領官邸にも政治的な絵が描かれています。メキシコの有名な詩人オクタビオ・パス壁画運動に対してミソクソに言ってます。こんなのは絵ではない、単なるプロパガンダだと全否定しています。今の若い連中も壁画をあちこちに描いています。政府はいっさいの公共建造物、文化省でも大統領官邸でも描いて良いと言っております。もう1つ、壁画運動をしようとした国がソビエトですね。1950年代にモスクワリアリズムのアーティスト達が開いた国際会議があったのです。その時、メキシコのアーティストがソビエト社会主義リアリズムを徹底的に叩いたんです。こんな下らないリアリズムはないと。世界で社会的リアリズムというのはただ我がメキシコだけだ、と。それに対してソビエトのアーティストは誰一人反論できないという有名なシーンがあります。

深瀬:有難う御座いました。それでは毛利先生、引き続いてプロレタリア壁画というキーワードで…。

毛利プロレタリア壁画というキーワードではなく、先程の話の質問という形でコメントしたいのですが、多分今の話だと絵は誰のものかと、視界は誰のものかというすごく大事なテーマですよね、特にまあ、さっきのそのスペクタクルな社会という話だと取り敢えず土地は誰が所有しているかは仕方がないですが視界まで奪われるのはいやだというところで、特にスペクタクルな社会に対するシチュアシオニスト運動というか、要するに広告がたくさんあるわけですよね、それは金を払って金をもらった者が視界を奪うというところが問題であって。質問は、武さんの絵なり行動なりって一方で絶えずオーソライズされた美術との戦いという。典型的な例でいくと新宿のA通路のところに謎の現代美術と称された4000万円かけて作られた突起物がかつてダンボールハウスがあった場所につくられた。都としてはちょっとした現代美術というかオブジェだっていっているんでしょ?それを作ったことに対しての武さんの行動。もうひとつはその後どうなっていくかというと都はグラフティなどに対して囲い込み制度をつくるわけです。ヘブンアーティストとして、公認したアーティストとしてパフォーマンスなりラクガキなりの行為に許可を与える。ヘブンアーティストなんて名付けられて恥ずかしいと思うんですけど(笑)僕はいまだに恥ずかしくて言えないんです、ちょっと頭が悪そうなんで(笑)そういう形でヘブンアーティストとしていわゆるグラフティなどをひとつの囲い込みとして水戸美術館などでグラフティの展覧会が行われるという快挙というか愚挙というか…。そういう囲い込み、あるいは公的なものがやっていてしかもそこの入れないというのがはっきりはってあってそこから結局拒絶されてそのせめぎ合いというのは思いの外きつくて暴力的介入、警察やらなんやらがあるわけです。そこのところは一番考えたいなあと思うのですがそれが単に美術が公認されるかされないかということだけではなくそれがかなり具体的な建設手段に常に結びついていくという…。武さんの話を聞くと犯罪だ危ないことをやっているという意識はなかったという気がする。危なっかしいことをやっているという意識はあったかもしれないけれども実際に捕まると犯罪だったのか?となるわけですよね?そこらへんのことをどう考えていたのか?

:一軒一軒尋ねていって絵を描いているので家主の為に描いているわけです。そこは明確で家主の為に描いてるわけで。それがどういうわけか全力で家主の為に、いいんじゃない?と言われるよう出来上がった絵は家主に納めるという意識だったのだけれども矛盾しているわけですが無差別にばーと誰でもその絵が見えるようになっている。描き始めて思ったのですがこれはものすごく両極端なものをつくっている。当時意識していたのは思い出すとこういった新宿という街があってもいいわけじゃないですか。ここにも書いているんですけれどもシュールリアリズムにも書いているんですが子宮 だな、と思ったんです。都庁というのは男根なわけです。この子宮の壁に付着するように路上生活をしなければならない人が産まれてくる、と思ったんです。絵も産まれてくる。ぼくがつくるのではなくぼくのコンセプトやらなんやらここに貼り付けるのではなく産まれてくる能動性がある。ぼくがなにかしているという気がしなかったということがひとつあって、この子宮の中で起こっている想像、イメージをしていたんです。地下道全体が1つのうごめきでその中の1つの作用として絵がここに増えていくんじゃないかという想像をしていた。で、なんだろう、へんなもの、突起物がここに出来ることによってここに産まれたものが殺されていくわけです。実を言えば個人的に知り合ったここに住んでいた人が辛い目に遭うから腹がたったんだけれども。ぼくの見方で、へんてこりんなものができたことで産まれたものが殺されていくということで腹が立ったわけです。竹を割ったようなへんなやつね。だからとりあえずハニワだろう、と。タケヲが昼間はダンボールハウスに絵を描いて、夜は自宅でハニワを作って。で、このハニワ達は親子で食事中なのです。お母さんハニワはエプロンを付けています。東京都がなぜ突起物をつくったかは2つの記事がありまして。1つは都市の景観を良くするためのパブリックアートだと。もう1つはこちらは思わず都の本音が書かれてあってホームレスの人が住めなくするための処置です、と。両方見て両方に腹が立ったわけです。これはいたずらしかないなあと思って、ハニワだと思ってやったんですけどすぐに警備員のひとがばーと来ちゃってぼくは一旦逃げてそのあとハニワがどうなったか気になって10分もしないうちにハニワは捨てられたと聞きましてぼくはハニワの方が絶対良かったと思ったので本当に頭にきたのでここになんかにこやかな顔を描いたんです。そうするとものの10分もしないうちに警察が6人ぐらいやってきてぼくは捕まってしまいます。ここにすんでいたホームレスの方も1人騒ぎをおさめようとばけつの水をぼくと警官がもみ合っているところにばーと掛けちゃうんです。警察にも水がかかって公務執行妨害として一緒に捕まってしまいます。で、こんときぼくは自分が犯罪者だという意識は全くないです。ハニワだろ、と思ったし、顔だろ、と思ったわけです。そうに違いないと。だから捕まってからぼくは犯罪を犯した意識がなかったので22日間拘束されたわけです。

毛利:犯罪者という意識はない?

:このときは犯罪者の意識はなかったです。良心の呵責としては、一緒に捕まったOさんという巻き添えをくっちゃったホームレスの方をぼくが警察に謝らない限り出さないぞと刑事さんに言われていて、そこの葛藤がOさんに悪いな、Oさんに悪いなと思いながらあやまらなかったんです。が、最後に謝ります、と調書をとって開放されたわけです。

深瀬: Oさんというのはホームレスの画家さんで、武くんよりもホームレスに評判の良い絵を描いていました。富士山の絵とかですね。非常に分かりやすく良い絵を描いてました。それでは質疑応答に入ります。

客(男性):私、美術に携わる人間なのであえて美術の話をさせて頂きます。トークショーを聞いていて美術、あるいは絵の内容について殆ど議論されていないことが非常に不自然な気がします。この段ボール絵画研究会の中で中原先生がおっしゃったように段ボール絵画は武さんの1つのフォーマットだろうという話がありましたが明確にはっきりと特徴があると思います。ぼくは武くんと98年頃から知り合っているのですがそれまでのいわゆる社会主義リアリズムというかなんらかの抵抗運動とされるときの孤立感、またグラフティともどうも違う。一番最初に思ったのは彼が一軒一軒許可をもらう段ボール絵画のお行儀の良さ、ある種、現代性と呼べるようなものがある気がしました。それと本人達は考えていたか分かりませんが段ボール絵画は消えることを前提として、消えたといっても消えて当然で、その消えるというフォーマットが最初からあったのか打ち合わせして絵を描いていたのか、オートマティズムといいますか、ここに赤があったほうがいいから赤を置く、ここにこういうかたちがあったほうがいいからかたちをかくなにか意図的なものがある絵画ってけっこう読めるものなんですがこれらは読めないんです。そういうフリーハンドの自由がここにあるような気がする。つまり描き込まないところは描き込まない、描き込むところは徹底的に描き込む。リアルに描き込んである所とすごいマンガチックにかかれているのが混在している。統御しようとしていないかのような。山根くんと武くんにきいてみたいのはどの程度打ち合わせして描いていたのかそのわけわかんなさを説明してください。

山根:えーとですね、なんですかね、正直ぼくもわけわかんなかったです。わけわかんなかったけどエスキースするわけです。ぼくと武とタケヲの3人の絵の時は展示にもありますが結構きっちりエスキースしているよね。それがどういう意味で自分たちが良いとしているかは正直言ってよくわからないです。3人で話し合ってここからこうした方が面白いんじゃないか、という所であ、面白いという風になって実は意味なんてわからない、ただ打ち合わせだけはしている。それで出来た絵は結構あります。打ち合わせしていない絵もあって、ただ下地を塗って本当に思いついたのをそのまま何も考えず筆をうごかすのもあります。そこから抽象的な形がでてそこから絵の具が重なり合い、そういう所をはじっこから拾っていって最終的なかたちになる。ぼくは割とその形態のを描いていたと記憶しています。

武:大体そのとおりですね、描き方としては本当に。基準って何だろうと思うと面白い、良い、なにを持って良いとするのはわからないけど、「良い」

山根:自分でこれはダメだろうと思って出したものが武さんが目を見開いて「それ、良いじゃん」と言うと、あ、いいのか、という風に。

:3人で描いているから自分がいいと思っていると大体ほかの2人が「良くない」というんですよ。だから自分でそういうところで一生懸命にこれ、すげーいいなあと描写している時に山根とタケヲが来て。これ、つまんないとパーと消されたりするんです。そういう作業を繰り返していって出来上がった作品が多い。3人がそれを許した時点で完成という形になります。あと、色に関してはどちらかというと全部良い色が揃っていたわけではなかったので意図していません。お金が無くて買えなかったりするときもあるので。例えば白と黒しかなくてどうしようもない時は白と黒で描いた絵もあります。限られていてその中からいいという所までもっていくという感じです。

山根:実は自分たちで描いていたんですが完全になにか別のなにかに預けちゃったような感覚もあるんです。無責任ないい方ですが、なんだろう? しょうがないという所もあったかもしれない。

客(男性):今おっしゃったこと、段ボール絵画の特徴だと思うんです。例えばさっき中原先生がおっしゃったアルタミラの洞窟では書き手は明らかに鹿を描こうとして鹿を描いているんです。疾走しているビジョンを持って描いているんですね。ここには画家が思いえがいた発想したことを自由に描いていると見えながら意図を打ち消しあっている。もし予備校に行っていたとする。なぜ予備校にいっていたか、それは思いえがいていた通りに手がそのままトレースするための技術をつけるためです。そのことを裏切ることを許容しあっている。で、そのことによって絵がなんか訳分からなくなっていく。「ぼく」の意図が他の2人に消され、自分が良くないなーと思っていたことがいいじゃんいいじゃんということになって出来ちゃう。自分の意図を越えたことが何枚も並ぶことになる。

客2(女性):口先より先に筆持った手が動く武さんに惚れました(笑)お2人のご自分の絵に対する説明を聞いていたら集合無意識みたいな自由連想を引っ張り出すようなことと了解しました。私、ちょっと前にNYに行ってきたのですがそこではビューラム(?)アートというものがたくさんあり、9・11以降ツインタワーを追悼するビューラム(?)がたくさんあったわけでそれが悲しい関係ではなくお互いに協力しあって自分たちの感情なり街への気持ちなりを強く表現しあって高めていくというそういうものがたくさんあったんです。話を聞いていて日本は不幸だと思いました。NYの地下鉄でもホームの汚さと壁の美しさの対比、ホームはむちゃくちゃ汚くていろんなゴミが落ちているんです。使い終わったコンドームとか。でも壁はむちゃくちゃ綺麗なんです。カラーモザイクだったり。 ビッチな所ほど、その工芸品としての完成された美しい壁だったり。お金持ちの住んでいる地下鉄はとても素晴らしく綺麗で。下町には度肝を抜かれるようなすごい汚いラクガキがあったり。またそれがよかったり。どうして日本はそうならないのかなと思います。

客(男性):描かれた当時、美術界から全く黙殺されたと聞いてます。それは当然でして、多分、美術を完成させる意図で描かれているものではないんですよね。どちらかというと絵の方が拒絶していたんだと思います。これだけいっぱい話をしていて見る側の話が全然出てこないんだし、描く側も無視する。つまり美術というのは描く側があって描いただけではなくそれを見た時に唯一無二の、例えばエゴン・シーレを見て感動したとしてエゴン・シーレに花とかの美しさの感受性の確信を与えられコアに脳に刻まれて体験する、このことを無視してどうも美術史は先にいけないですね。一時期いろんな運動、いろんな位置づけがある、それをアートと言わない、あるいはそれをどう認識するかいろんな自由がある。そこは20世紀を生きてこられた中原先生、というと失礼ですが身をもって経験されていると思います。そういう感想を持ちました。中原先生、どうでしょうか?

中原:話が戻っちゃうけどNYグラフティですね、ジャン=ミシェル・バスキア、キース・ヘリングは大変有名な美術家です。あの人達は本当にグラフティをやっていたのでこれはすごいと一番最初に評価したのはアンディ・ウォーホールです。彼があの2人を買ったというか、簡単に言うと美術家にしたわけです。とりわけバスキアはウォーホールコラボレーションで同じ画面に絵を描いてしかも傑作、2人の男性の正面を描いたりですね。しかし日本の場合、街を歩いて人がみるというか接点は美術館、画廊というところが主ですが、画家はあまり育たない。それは、例えば時々、岡本太郎がペン、筆先を止めたりしたけどなぜなら日本は良くない。貧しいというか、日本の美術家の視野が狭いんですよね。これは絵、絵です(段ボール絵画の画像を見て)。それが自分の視野に入ってこない、だから画家は油絵なら油絵しか自分自身にはいっていかない。ぼくはその日本の美術家の許容の狭さの1つだと思っています。それからもう1つこれはさっき確かにNY、日本とは違うのですけどビューリティティー(?)アートのことですがこぞってNY市民が1つになる、あれは例外的な一時期であってああいうそのもう今まで敵対しあってお互い差別しあっていた人達がことテロに関しては様々な人達が手と手を繋いで。今まであんなにNYに政治色が翻った時期はないです。どっち向いても政治、トラックもみんな有名なブティックまでです。9・11、これはやっぱり異常なんですね。テロに対して抵抗するということで市民は1つになった。20数年間許可されなかったセントラルパークを黄色い布で包むというクリストの作品を受け入れたのも9・11のおかげなんです。

深瀬:他に質問、コメント等ございますか?

客3(女性):感想なのですが武さん達が描いてきた絵なんですけれども私はずーと見てきてとても生きていることを葛藤している絵だなと思って。すごく色も情熱的でそういうのアーティストの皆さん、ダンボールハウスの皆さんと共用している所があって。NYの話ですが確かに日本は良くない、こういう状況になったからこういうのが生まれたんだなあと思いました。

客4(男性):2つほど質問します。武さんと山根さんに今日お話を伺って違法性というのが1つのキーワードで段ボール絵画自体は違法性はなかったんだけれどもダンボールハウス自体は不法に場所を占拠しているのですが、ダンボールハウスを持っているというか家主の許可をもらって絵を描いている。しかし線引きとしては段ボール絵画自体は違法性はなかったというように段ボール絵画であったとしても内容の方に違法性が生じる可能性があるんだと思うんですよね。。無政府的であることを強く出したりだとか宗教的な内容だったりとか。そういう基点に反した場合に撤去を要請されるということはありうるとしたらお伺いしたいという点と、ダンボールハウスの住民が在って初めて成り立つという言ってみればダンボールハウスの住民をパトロンとして実際お金が貰えるわけではないにしろ人が住んでいるという事実がなければすぐ撤去されてしまうという、段ボール絵画が成り立たなくなってしまうというのは決定的な事ではないかと思います。そこでホームレスとどういう交流が行われていたのか、絵の内容的にはホームレス側からこういうのは困るだとか、これを描いて欲しいだとかというがあったかお聞きしたいです。

:段ボール絵画の内容に関して行政などの権力の行使があったかというとそれは全くありませんでした。内容ではなく存在を否定されるという。東京第3建設室の人が部下を引き連れてここら辺(B通路)を練り歩くことがあったんですがぼくが絵を描いている時に経験したことはそのおじさんが「てめえらの描いた絵なんか全部捨ててやるからな」と言って通り過ぎたんです。ぼくはびっくりしまして。内容なんかどうでもいいんですよ。存在自体が許し難いということを彼等から感じました。

山根:ダンボールハウスに住んでいる方との交流、パトロン的なことですけどこれはぼくの体験でなかなか絵を描く許可が下りないダンボールハウスがありました。どうしてもそこに絵を描きたいという想いから3人代わる代わる何回もお願いに上がり、やっと許してくれました。有難う御座いますという気持ちで一生懸命描きました。それからぼちぼち彼と話しをするようになって現在、どうやってここで暮らしているのかどうして暮らすようになったかなどの深い話をしてくれました。こっちも話せることや一生懸命絵を描くということで彼が当時正月でしたからおせち料理や刺身やら廃棄処分のハンバーガーやら持ってきてくれるんです。ぼくらに対して食べ物、一番大事なものをくれる、仲良くする、そういう人が何人も出来ました。

:基本的にもらった食べ物は絶対全部食べました。たまたまお腹いっぱいだったとか例外的な事もありましたがぼくらは腹空かしだったので。あと、手料理もありました。西口の地下広場にはカセットコンロで煮炊きして手料理を作る人もいましたので。最近考えたのですが、ホームレスと呼ばれてしまう最下層の人がパトロンになっていたということはアートパトロンというのは国家、行政機関大企業だとか個人だとプチお金持ちだとかITで成功した人だとか考えてしまいますがそういうのではなく誰だって芸術を共有して持ち上げられる力を証明しているのではないかと考えました。

深瀬:最後、5分になりました。最後に1つ質問、コメント等ございますか?

客2(女性):今までここでお話を聞いていてちょっと似たことを思い出したんです。私、11年ほど前代々木公園イラン人の方と仲良くしていてシシ・ケバブや紅茶をごちそうになりました。私はその頃アラビアンナイトに傾倒していたのでよく行ってましたがやがて彼等はみんな公園から追い出され、その後にその事を考えるシンポジウムがあり、聞きに行きました。しかしそこの会場はお寺だったのでムスリムの彼等は入ることが出来ませんでした。そういえばここにも居るべき人が2人居ません。外にいる人達と高い塔にいる人達です。彼等とも話するべきではないかと思いました。

:一昨日のシンポジウムで当時、実際路上生活をしていた方がいらっしゃいました。今、展示しているダンボールハウスも当事者の方が再制作してくれました。今日は残念ながらいらっしゃることが出来なかったようです。

深瀬:このシンポジウムに先立って都庁の南展望台でペインティングパフォーマンスを武くんにしてもらいました。その時、都庁の方にも観覧して頂きました。基本的には芸術、段ボール絵画に焦点を当てた研究会ですので積極的にシンポジウムパネラーダンボールハウスの住民の方や都庁の方にアポイントは取りませんでした。しかし途中経過の研究会の形でゲストに迎えさせて頂きました。今日は一番最後ですので20世紀の美術を見つめてこられた中原先生、21世紀を見つめていく画家の方をお招きいたしました。本日は雨天でおもむろに出掛けるのは非常に気負う中遠路はるばるお越し頂き有難う御座いました。中原先生、毛利先生、作家の皆さん、関連の皆さん、どうも有り難う御座いました。

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