Hatena::ブログ(Diary)

garage sale このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-04-02

ネット文化、ニューメディアと社会的身体 フランコ・ベラルディ(ビフォ)へのインタビュー 櫻田和也 訳

Q :ビフォ、あなたの仕事のなかで取り組んでこられた言葉のひとつに「コグニタリアート」という概念がありますよね。これは危険な、新しい形の抑圧のことなんでしょうか? そしてもしそうだとするなら、解放の可能性はどこにあるのでしょうか? また、コグニタリアートという概念はどのような社会的展望をもたらすのでしょう?

A :コグニタリアート(認知労働者階級)またその一員としての「コグニタリア(認知労働者)」という概念は、この間、おそらくは過去10年くらいまでさかのぼることのできる期間、わたしたちが自分自身の身体、社会的・物理的・性的な身体への感触を失ってきたという考えと関係があります。ネット文化や新しい形のデジタルな生産、ニューメディアといったものは、わたしたちの社会的身体との関係性を消去してきました。しかし、社会的・経済的な危機の時、わたしたちは自分が身体を有しているという事実、社会的・物理的な身体を有しているという事実から目をそらすことはできません。バーチャル生産の労働者であるコグニタリア自身が、純粋にバーチャルな存在ではなく、また純粋に経済的な存在でもなく、物理的な身体をもっているということに目覚めるひとつの契機がここにあります。

Q :コグニタリアという概念には、マルクス的な意味でのプロレタリアとはどのような関係があるのですか? マルクス主義理論でも、機械への隷属により身体の疎外が起こる。そしてこの意識の生成こそが解放の前提条件になるということでしたが 。

A: もちろんコグニタリアートという概念は認知 cognition 、知識活動、知的生産となにかしら関係のあるものです、集合的知性といっても良いでしょう。しかしこれはまたマルクス的な意味でのプロレタリア概念をも含むものなのです。プロレタリアとはだれか? 失うものを何も持たない人々のことです、所有物がなにもないという理由で。コグニタリアはただ、自身の知的労働力だけを有するわけですが、現在のニューエコノミー崩壊のなかでわたしたちは自分自身の社会的本性、相互の社会的関係性を発見することになるでしょう。

Qマルクス主義では、そうした発見によってプロレタリアは革命的闘争の形態をとり権力を奪取することによって自らの解放へ導かれるということでしたが、今となっては、説得力ある革命的転覆の展望を見出す人はほとんどいませんよね。コグニタリアートはどのように自らを解 放するのでしょう?

A: わたしにもわかりません。 誰も知らないでしょう。 だってわたしたちはそのプロセスのはじまりに居合わせているのですから。ここ10年ほど、いや20年ほど前からわたしたちが目の当たりにしてきたのは、人類と技術的環境の完全に新しい関係性の構築であり、そしてこの期間、生産過程が急激に変化したのでした。そして、裏切られつづけてきたわけです。企業の終わり、労働の終わり、資本と労働の終焉、そして知的労働は旧形態の労働とは完全に異なるものだといったネオリベイデオロギーに説得させられてきましたが、これは一種の騙し絵 trompe l’oeil みたいなもので、つまり現実認識が歪められてきたわけです。わたしは解放のプロセスはまだはじまっていないと考えています。ニューエコノミー崩壊の途上ではじめて、それがどのようなプロセスになるか理解できるようになるでしょう。革命の時代は終わったというあなたは正しい、おそらく認知労働者コグニタリアにとっての解放過程は、集合的知性内部での連関、新しい認識論的形態の発見そのもののうちにあるのでしょう。

Q: 多くの人が、とくにインターネット文化のなかでは、インターネットや情報通信技術がある種のポスト革命的空間をもたらし、資本に取り込まれる前に知識を流通させ共有することを可能にすることによる解放のプロセスをもたらすと言います。あなたはこれが楽観的すぎる見方だと思いますか?

A :ピエール・レヴィ*1や デリック・ドゥ・ケルコフ*2といった思想家をわたしも高く評価していて、新しい社会的観点を形成する上でとても重要だと思います。かれらは新しい社会的な力の台頭や、集合的知性といったことを思考してきたのです。でも、かれらが見ないのは──たぶん忘れているのだと思いますが──社会的な力というものは知的なものだけではなくて、身体=社会-経済的身体を有するものだという事実です。もしわたしたちが職を失えば、全てを失うということです。現在の危機のなかでは、投資軍事技術に切り替わる傾向にあり、イノベーションの範囲を狭めています。わたしたちは社会的かつ物理的な身体をもっているのに、バーチャル経済のなかでは消去されてしまう。これが新しい社会思想の出発点です。わたしたちがいまだ何も知らないような。

Q: つまりコグニタリアートにとっては、解放思想は物理的身体を抜きにしては役に立たないということですね。バーチャル化や情報化といったところであっても、街頭行動などが今も重要だと。いわゆる反グローバリズムなどの運動は、どのようにみてらっしゃいますか? その重心点のひとつはイタリアにあるようですが 。

A反グローバリズム運動こそ、現実にグローバルな運動なのです。それは現在ただ1つのグローバルな運動です。というのも資本はグローバルな舞台から立ち去り、再び国民国家の形態をとっているのですから。たとえばブッシュ政権の政策みたいに。

Q: では資本はもはやグローバル化を構築する方向にはないと?

A: そう考えています。ネオリベイデオロギーの危機が、ある種のナショナリズムの復活へと導いているのだと思います。今後数年のあいだに、わたしたちはグローバル化の過程が崩壊するのをみることになるでしょう。アメリカヨーロッパの衝突が本当にそれを壊しているんです。

Q:ということは、反グローバリズム運動はグローバル化そのものよりもずっとグローバルなものだということでしょうか?

A: わたしたちには本当に、新しいグローバル化を立ち上げるという大仕事があるのです。下からのグローバル化であり、諸権利のグローバル化です。ご存知だと思いますが、これまでのグローバルな反グローバリズム運動は、おおむね倫理的な運動でした。人々は倫理的な理由によって抗議してきたのです。こうした反抗運動にはあまり効果がありませんでした。現在の危機のなかで、運動は単に倫理的な反抗ではなく社会的なものになりつつあります。これが情況を変えることになるでしょう。倫理的な心情を通して運動に参加するだけではなく、社会的に(日常生活のなかで、労働のなかで、社会的諸関係のなかで、共通理解の形成可能性のなかで、科学的調査研究のなかで等々)参加するようになるのですから。シアトルからジェノアの運動は倫理的なものでしたが、これからは下からのグローバル化の社会的な運動*3をみることになるでしょう。(World-Information.Org による2002年のインタビュー、英語原文からの訳)



フランコ・ベラルディ(bifo

 現代作家、メディア理論・活動家。粉川哲夫『メディアの牢獄』(1982)に「アウトノミア運動におけるスポークスマンの1人」として登場、80年の論文「アウトノミアのアナトミー(解剖学)」が詳しく紹介され「イタリアの熱い日々」の解説係を演じた。運動のメディアとして75年に雑誌『ア/トラヴェルソ』を創刊、76年からイタリア初の自由ラジオ『ラディオ・アリーチェ』をボローニャではじめ、70年代を通じてアウトノミア運動に注力。のちにパリへ逃走し、フェリックス・ガタリと共に分裂分析の仕事をした。80年代には『セミオテクスト』をはじめ多数の雑誌に寄稿し、90年代以降『突然変異サイバーパンク』『フェリックス』など著書多数。ユーロメーデーのDVD『プレカリティ』ではデモの参加者としてインタビューに応え、3つ前の仕事はポルノ小説家だったと白状している。21世紀に入りなおウェブマガジン『 rekombinant.org 』やテレビ電波ジャック運動『テレストリート』など精力的な活動を展開中。主著『不幸の工場−ニューエコノミーとコグニタリアートの運動』(2001)。

*1オタワ大学教授。邦訳書に『ヴァーチャルとは何か?』(昭和堂)

*2トロント大学教授。邦訳著に『ポストメディア論』(NTT出版

*3:文字通りの「社会運動」。社会−工場や社会-労働者といったコンセプトを作ってきたアウトノミアの発想から、社会という言葉そのものに強い意味、豊かな内容を持たせている。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/araiken/20110402/1301724285


目次へ