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2011-06-24

日常的抵抗論 第4章 オリエンタリズム批判と近代のアイデンティティ

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1.オリエンタリズム批判と啓蒙主義的主体

 序章でも紹介したが、現代の文化人類学本質主義批判に大きな影響を与えたのが、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』による、近代西欧のオリエンタリズム批判だった。「オリエンタリズム」とは、広い意味では「『東洋』と……『西洋』とされるもののあいだに設けられた存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式」[サイード 1993上:20]と定義されている。この意味でのオリエンタリズムは、古代ギリシア以来のものだろう。けれども、サイードが『オリエンタリズム』で主に批判しているオリエンタリズムとは、18世紀末に始まる「近代オリエンタリズム」であり、西欧近代が創り出した「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」[サイード 1993: 上21]である。したがって、オリエンタリズム古代ギリシア以来の西洋/東洋の存在論的・認識論的区別とか、どこにでもあるエスノセントリズムの一種としてとらえることは、それが近代に登場した支配のテクノロジーであることを隠してしまうことになるだろう。

 それ以前のオリエンタリズムが、未知の土地と未知の他者としてのオリエントに対する「驚異」(憧憬と嫌悪両面の)を核としていたのに対して、近代オリエンタリズムは、ヨーロッパを中心とする、閉じられた世界(未知などない世界)の中にすべての他者=異文化を組み込んで規格化する、支配と規律=訓練の言説である。その言説によって、オリエンタリストはオリエント全体を一望できる外在的な点に立ち、自分で自分を表象する能力のないオリエントに代わってオリエント表象できるという現実が創りだされる。サイードは、つぎのように述べている。


オリエンタリストはオリエントを高みから概観し、自分の眼前にひろがるパノラマ――文化、宗教、歴史、社会の全貌を掌握しようとする。それを行うためには、彼は、一連の還元的カテゴリー(セム族、ムスリム精神、オリエント、等)の装置を通して、細部をくまなくながめなければならない。こうしたカテゴリーは元来図式的かつ効率的なものであり、東洋人はオリエンタリストが彼らを知るようには自分自身を理解できないということもまた、多かれ少なかれ前提とされているのであるから、オリエントのヴィジョンはどれも究極的に、その所有者たる人物、制度、言説に依拠して、その首尾一貫性と力をひき出すことになる。[サイード 1993: 下92]


 こうして、オリエントは、「オリエント的停滞、オリエント的官能、オリエント専制オリエント的非合理性」といった紋切り型の言説の流通によってオリエント化される。オリエント化されたオリエントは、同時代の東洋の多様な現実にかかわらず、「後進性、不変性、女性性、受動性、非論理性」という、永遠に固定されたアイデンティティが与えられた。首尾一貫した能動的な主体としての西洋は、自ら創りだしたオリエントという「他者像」の鏡に映し出された逆像であったのである。

 この「オリエントオリエント化」は、より一般的には「他者の他者化」といいかえられるだろう。ここでいう「他者化」とは、西欧近代の「啓蒙主義的主体」ないし「ブルジョワ的主体」(ブルジョワ階級の白人成人男性)が自己の一部に含まれながらも否定的なものとされている行為性や欲望――怠惰や感情の表出、受動性、性的放恣、暴力的行為など――を、植民地ネイティヴや下層階級、女性、子どもなど、絶対的な差異をもつ(つまりおなじ時間もおなじ空間も共有していないとされる)他者へ投影してそれを他者の本質とし、自と他を非対称的なカテゴリーとして固定化するということを指している。

 「他者の他者化」については、サイードポストコロニアル理論以前に、レヴィ=ストロースが指摘している。レヴィ=ストロースは、『今日のトーテミズム』の冒頭で、19世紀末人類学におけるトーテミズム研究と同時代のヒステリー研究の類似性を指摘し、ヒステリー幻想とトーテミズム幻想が19世紀末という同時期におなじ文化的環境において誕生したことは偶然ではなく、そこには、研究の対象となる人びと(精神病患者や「未開人」)よりも、研究する側の精神――「あたかも学問的客観性というかさをかぶって、学者たちが、意識的か無意識的か、これらの人々を実際以上に自分たちと異なっているとしているかのように」見せたがる精神――が強く反映されていたと述べ、ヒステリー幻想やトーテミズム幻想とは、正常な白人男性が、自分たちのなかにある望ましくない部分を異常者や未開人という他者に投影することによって、そのような部分が自分たちのなかにあることを否認し、自分たちの道徳的世界を正常で確固たるものにするためのものだとしている。


 したがって、白人の正常な成人男性の思考様式を無疵のままに保持し、同時にこれを根拠づけるためには、それらもろもろの慣習や信仰を自分自身から切り離し――実際にはそれらの慣習や信仰はまったく異質なもの同士であり、他の慣習や信仰から分離することも困難なのだが――、われわれの文化を含めたあらゆる文化のなかに存在し機能していることを認めねばならないとしたら有害となるような諸観念を、この慣習や信仰のまわりに無害な塊として結晶させることほど都合のよいことはなかった。トーテミズムという考えは、なによりも、キリスト教的思考が本質的なものと考える人間と自然とのあいだの非連続性という要求とは両立しない精神的態度を、いわば悪魔祓いをするように、われわれの宇宙の外に投影したものであった。[レヴィ=ストロース 2000:8、訳文は一部変更した]


 このような「他者の他者化」によって「頑迷さ、受動的、依存的、感情的、非論理的」といった要素を未開人や女性や下層階級などの「他者」に押しつけて、自分たちを「能動的、自律的、理性的、論理的」といった普遍的な価値を有する主体(これが啓蒙主義的主体である)と見なすことができるというわけである。そして、啓蒙主義的主体の特徴は、自己を周囲の環境や社会的な相互関係から切り離して、固有の固定した位置(「アルキメデスの点」)を確保し、その超越的な位置から周囲の環境全体を見通してそれらをコントロールできる主体として構築されるということにある。

 自己を周囲の社会関係から切り離して固定化したアイデンティティを与えるというのは、先に提喩的想像と呼んだ近代の民族やエスニシティなどの集団的アイデンティティ酒井直樹氏の用語では「種的同一性」)の特徴でもある。そして、そのような固定されたアイデンティティを人びとに押しつけることが植民地支配のテクノロジーであった。けれども、他者化による啓蒙主義的主体の形成という視点は、その議論に重要なポイントを付け加えている。すなわち、おなじように固定された集団的アイデンティティを内面化している支配者と被支配者であるが、そのアイデンティティ付与のプロセスにおいて意味合いが支配者と被支配者とでは異なっているということを「他者化」という視点は明らかにしてくれる。支配者が否認すべき自己の一部を他者である被支配者に投射して、自分はそこから身を離すことによって自己のアイデンティティを確立するとき、他者に押しつけるアイデンティティは普遍的価値をもたずにそれぞれの文化に特殊なものとされるのに対して、自己のアイデンティティは特殊な慣習や文化の拘束を離れた普遍的な価値を有するものとなっている。後者のブルジョワアイデンティティとは普遍的な価値を身につけた「市民」というアイデンティティであり、その集団的アイデンティティは「透明」で見えないものとなっている。「アイデンティティの政治」が被抑圧者であるマイノリティにとって必要で、支配者であるマジョリティには不必要であるのは、支配−被支配の不均衡な関係において、この普遍/特殊という価値づけがなされているからである。

 サイードのいう意味での近代オリエンタリズムとは、西洋/東洋の二分法についての紋切り型の観念を流通させることによって、「オリエントの本質」なるものを一面的・一元的に規定してしまう言説であった。それは、他者としてのオリエントの排除によって、西洋がオリエントの全体を眺望し表象することのできる固有の場を占有する一方、オリエントはそのような固有の場がもてないゆえに自らを表象=代表することができず、オリエンタリストのみがオリエントに代わってオリエント表象=代弁することができるというレトリックによっていた。そして、そのような西洋のアイデンティティの確立こそが、「文明化の使命」による西洋の植民地主義正当化していたのである。

 そして、そのような「他者化」と「表象=代弁」の構図は、近代の人類学にも共通していた。人類学者のヨハネス・ファビアンは、『時間と他者――人類学はいかにしてその対象を作るか』[Fabian 1983]において、フィールドワークをしているときには現地の人々とおなじ〈いま-ここ〉という時間と場所を共有していたはずの人類学者が、本国に帰還して民族誌を書くときになると、現地の住民たちをその「共時間性(コイヴァルネス)」から切り離してしまうと指摘している。民族誌のテクストにおける「民族誌的現在」とは、人類学者の属する同時代的な現代世界から遠く離れた「未開」の地に存在する別の時間であり、停滞した時間なのであった。そのような対話的・身体的な共時間性の否定は、サイードの指摘する、西洋とは時間も空間も共有しえない永遠に停滞するオリエントという「ヴィジョン」にも共通している。そして、それは序章で触れた「前景の消去」による「知覚される対象ともはや同一空間に属していない」パノラマ的にものを見る目とおなじまなざしである。

 ただし、サイードの議論には問題点もある。それは、サイードオリエンタリズムにおける「心象地理」の説明をする際に、「自分の土地やその周囲と、その向こう側の領域とのあいだに境界線を設け、向こう側の土地を『野蛮人の土地』と呼ぶ」というような自/他の区別を「普遍的習慣」と呼び、「近代社会も原始社会も、ある程度までこうした消極的なやりかたで、自分たちのアイデンティティの感覚をひき出してきたように思われる」[サイード 1993: 上129-130]と述べている点である。ここでは、オリエンタリズムはどんな社会にもみられるエスノセントリズムと変わらないものになってしまっている。

 どんな社会にもある、この自/他の区別をする「普遍的習慣」は、自分たちのアイデンティティの感覚、いいかえればギアーツのいう「原初的紐帯」を作りだすが、その区分線がセミ・ラティス状になっているとき、そのアイデンティティは「他者」を「他者化」することなく、他者との関係性を保持するものとなるということが重要であった。隣接性による換喩的な関係と(家族的)類似性による隠喩的な関係を交叉させて作りだす自/他の区別は、自/他の境界線をあいまいなものにし、そのあいだに共通する部分やオーバーラップする部分を残すとともに、他者の特異性もそのまま保持したものだった。それに対して、サイードが批判する「アイデンティティの政治」による近代のオリエンタリズムやそれに対抗するオクシデンタリズムは、他者をまったく共通するもののないまったくの逆像として他者化している。それによって自己は他者をコントロールする超越的な位置に立つことができたのである。であれば、それらを自民族中心主義として一般化することでジレンマに陥らないためにも、生活の場のエスノセントリズムと近代オリエンタリズムとの区別を理念的に明確にしておく必要があったはずである。それの区別を、サイードは曖昧にしてしまい、結果として、近代のオリエンタリズムの特性を西洋のすべての他者表象にまで拡大してしまっているのである。

 近代オリエンタリズムにおいて、「他者化された他者」とその他者化によって創られた自己とのあいだの自/他関係は非交叉的なものであり、そのとき「他者」はツリー構造をもつカテゴリーとして固定される。しかし、生活の場では、他者は対話的・身体的な相互関係において自己と何かを共有したり、あるいは融合したりするとともに、非交叉的に境界づけ位置づけることのできない存在として現われている。いいかえれば、そこでは自/他関係はセミ・ラティスをなしているのである。そのようなセミ・ラティス構造の自/他の区分に対して、近代オリエンタリズムによるツリー構造の自/他の区分のほうは、そのような他者とのその時その場で流動する身体的相互性を否定して、首尾一貫した「同一性」によって自己を固定化することに特徴がある。つまり、「他者の他者化」は実際に流動な身体的関係をもつ他者を否定してしまっているのである。

 サイードは、『オリエンタリズム』のなかで、「わけても、私が読者に理解していただけたことを願っているのは、オリエンタリズムに対する解答がオクシデンタリズムではない、ということである」[サイード 1993: 下286]と述べて、一貫して、オリエンタリズムとその裏返しのオクシデンタリズムとをともに乗り越えることが重要だと言っている。重要なのは、オリエンタリズムの裏返しとしてのオクシデンタリズムに陥らずに、すなわち「真正」の文化といった本質主義的なカテゴリーに依拠することなしに、近代オリエンタリズム批判ができるのかという問題であり、近代オリエンタリズムからの離脱を、アイデンティティの政治とは別のかたちで行なうことができるかという問題であった。サイード以後の90年代のポストコロニアル理論や人類学では、アイデンティティそのものを脱構築=解体するという「戦略」によってそれを進めようとしたのである。

 たしかに、サイードが批判している「オリエントオリエント化」とは、客観的なオリエントという実体が実在していて、それをオリエンタリストが誤って表象しているということを指しているのではなく、オリエンタリストの「オリエント化=他者化」という操作によってオリエントなるものが創りだされている(構築されている)ということを指していた。けれども、より重要なのは、サイードの批判が、この「他者化」によって、オリエントの人々が「共時間性」をもつ対面的・身体的な相互関係(〈顔〉のあるつながり)にある「他者」であることが否定されていることを批判しているという点である。つまり、その否定こそが、オリエンタリストがオリエントを一望することができるとされる超越的視点(アルキメデスの点)にたつとすることを可能としているのであり、オリエントの人びと自身には不可能な全体の一望とそれによる客観的・普遍的知こそがオリエントを支配することを正当化しているのだという、知と権力の結合の批判こそが、オリエンタリズム批判の要であった。

 けれども、1990年代にはいると、サイードの影響を受けたポストコロニアル批評のなかから、サイード批判が登場してくる。そこでは、サイードは西洋/東洋の二元論を強調し、それを転倒させることを目的としているようにみえるが、オリエンタリズムなどの植民地主義的な自己/他者、文明/野蛮の二元論によって植民者や西洋人の自己を確立することなど、そもそも不可能であると指摘されている。たとえば、メアリー・プラットは、『帝国のまなざし』[Pratt 1992]において、「接触領域(コンタクト・ゾーン)」(植民地支配のような支配と従属からなる極端な非対称的関係のなかで、異なる文化同士が出会い、衝突し、格闘する社会的空間)では、異文化のあいだで文化の借用や流用が双方向的に起き、植民者と被植民者のあいだの相互作用や交渉や選択によって、サイードがいうような西洋とその「他者」という二元論は基盤から崩されると述べている。

 また、ホミ・バーバも『文化の場所』[Bhabha 1994]のなかで、サイードがその二元論による植民地言説を非常に強力なものとみなし、それが被植民者との相互関係によって作られることを軽視していると批判している。そして、サイードがいうように、西洋や植民者がオリエントや「野生」を他者化することによって固定的なアイデンティティを確立しようとするのだとしても、それは必ず失敗するという。つまり、バーバは、植民地的状況(プラットのいう「接触領域」)におけるアイデンティティは、植民者と被植民者を分断する境界線の両側で、不安定かつ流動的なものとなっているとし、植民者が確固たるアイデンティティを保持しているという主張は根拠薄弱なものであり、そこには必ず異種混淆性やアンビヴァレンスが孕まれていると述べる。

 たしかに、「他者化」によって創られる近代の二元論では、野蛮や自律的ではないとみなした存在(他者)と自分たち文明の間の相互関係を排除することによって、自分たちの固有のアイデンティティを確立していたことを考えれば、それによって排除され抑圧されていたその間の相互関係や異種混淆性を明るみに出すことは、その二元論を自壊させることになるようにみえる。

 しかし、ポストコロニアル批評による接触領域での異種混淆性やアンビヴァレンスへの注目には批判もすでに出されている。たとえば、ベニタ・パリー[Parry 1994]は、バーバらのように接触領域での交渉や選択や異種混淆性をもてはやすことは、結果として植民者と被植民者とのあいだの支配-被支配関係が暴力的なものではなかったようにしてしまい、あたかも両者が対等な交渉をしているかのように描いてしまうという。そして、それだけではなく、被植民者たちの「解放のナショナリズム」の基盤となる民族的アイデンティティをも崩してしまい、植民地主義に対する抵抗を無力化すると批判している。

 松田素二氏は、構築主義ないし反本質主義が陥るそのような罠を「異質化の罠」と呼んでいる。本質主義が他者を「本質」を共有しているものと表象するとき、その他者のカテゴリーを「同質化(ホモ化)」しているといえるが、反本質主義はその「同質化」を批判して、人間のカテゴリーを「異質化(ヘテロ化)」した。けれども、その反本質主義に対して、そのような「異質化」が、現にある支配-被支配関係の暴力を隠蔽するとともに、それに対抗しようとする被抑圧者の抵抗の基盤となる肯定的なアイデンティティを崩してしまうという批判が出されてきたというわけである。

 しかし、接触領域での異種混淆性やアンビヴァレンスへの注目に対するパリーのような批判――被植民者も植民者と同様に固定されたアイデンティティを確立して能動的な主体性を回復させることが重要だという主張――は、同質化や本質主義に戻ってしまい、そのカテゴリー(人間分節)の内部の異質性を抑圧してしまうという危険性を孕んでいることもたしかだろう。

 このようなジレンマに対する1つの答えが、ツリー構造を押しつけられた人びとがリゾームとしての〈顔〉のある関係を基盤とする日常的な実践を通してそれをセミ・ラティス構造へと変容させているという「適応」のしかたを「抵抗」ととらえる視点である。そのような日常的実践を「抵抗」ととらえることで、固定されたアイデンティティに依拠することなく、しかも現にある支配-被支配関係を隠蔽することもなしに、それを変容させていることを強調できるというわけである。

 けれども、そのような「日常的抵抗論」とそれがもつ問題点についての検討は、あとで行なうことにして、ここで明らかにしたいことは、異種混淆性への注目やアンビヴァレンスへの注目(「異質化」)が、けっしてオリエントや野生や精神病者や貧しい階級や女性や子どもの「他者化」によって創られる近代文明人のアイデンティティ形成(主体化)への批判となっていないということである。つまり、バーバのように異種混淆性とアンビヴァレンスを強調することによって植民地主義二元論の不可能性を指摘しても、その二元論を乗り越えることにはならないという批判である。

 すでに述べたように、他者化とは「否定すべき自己の欲望」の「他者」への投影であった。それによって形成された主体は、自己から切り離された「野蛮」に対して、「恐怖と憧憬」というアンビヴァレンスをもつ。自己から切り離された「望ましくない部分」は、それが抑圧されたものであるがゆえに、それに対する「欲望」を駆り立てる。構造主義によれば、禁じられた欲望の「対象」とは、禁止や抑圧によって生成されるものであり、それ以前に実体として存在していたわけではない。レヴィ=ストロースは、「インセスト(近親婚・近親姦)」という実体はなく、インセストの禁止によってはじめて創りだされるものであることを明らかにしたし、フーコーは、欲望というものがあらかじめ存在していてそれが抑圧されるのではなく、言説によって「禁止すべき欲望」として生産されるのであり、その禁止を内面化したものだけが近代的な「主体」となるのだと述べていた。

 つまり、「望ましくない部分」を投影した「他者」への憧憬=欲望とは、抑圧したものへの欲望として生じるのである。しかし、その欲望は、自己がブルジョワ的主体(啓蒙主義的主体)となるためには否認し抑圧して、それを他者に転嫁しなければならない。その抑圧された欲望を自己のなかに認めれば、今度は自分が「他者化」され、周縁化されるからである。そして、自分が周縁的位置に退化してしまうという恐怖は、そのまま他者化され周縁化された他者への恐怖となる。自己の能動主体性や社会的中心にいるという地位を脅かすのは、自分の抑圧された欲望の回帰ではなく、その他者とされるからである。

 近代のシステムは、それまでの貴族や騎士といった「身分」に代わって、「階級」という不安定なアイデンティティを創りだした。それが不安定であるのは、そのアイデンティティの確保がパフォーマンスとそれに対する他者の承認にのみ依存しているからである。たとえば「資本家」が資本家であるのは、その者が資本をもっている(と他者に信用される)限りにおいてである。そのような信用をえるためには身なりや趣味やパフォーマンスが上品なものでなければならず、信用や資本を失えば資本家ではいられない。それは、貴族という身分がパフォーマンスや外見によらず、貴族という地位(関係性による同一性)は、たとえ穴のあいたセーターを着ていてもその地位にかわりがないのと対照的である。つまり、市場原理によってブルジョワ階級はいつでも労働者階級に落ちぶれる可能性があり、労働者階級もいつ失業者になるかわからないという不確定性や不安定性があるのだ。

 近代においてその不安定性を補うのが「人種」や「性」など、あたかも文化の外部にある自然に根拠をもつ差異であるかのように、文化の内部で構築された「外部」にもとづく集合的アイデンティティであった。それらのアイデンティティは、その「構築された外部性」の様相をもつゆえに生来のアイデンティティであるかのように受け取られている。近年においても、「遺伝子」や「脳の性差」などという「言語」で人種間や男女間の差異が解明されたという言説が絶えないが、それら「遺伝子」や「脳の性差」もちろん文化的に構築された外部であり、それによって客観的・科学的に人種差や性差が決定されたわけではない(そのような「科学的決定論」は19世紀以来、途絶えることなく繰り返されてきたものなのである)。そして、近代における人種差別性差別は、労働市場を人種別・性別に編成することによって、市場原理にゆだねられることに由来するアイデンティティの不安定さを縮減する働きをもっていた。つまり、植民地支配という政治的理由以外にも、近代資本主義システムが「人種」や「性」などの固定された境界をもつ全体化されたカテゴリーにもとづく本質主義的なアイデンティティ表象を必要とするのには、理由があったのである。

 近代において階級が「人種」や「性」のメタファーで語られるのも、その不安定さを減らすためといえる。けれども、それはまた、人種や性などの近代のアイデンティティも不安定なものにならざるをえないということの現われでもあった。それらのアイデンティティは、「自然」や客観的な「生物学的事実」にもとづくものとして本質主義的に表象されるけれども、それらも「階級」とおなじように、外見やパフォーマンスに依存したものだった。たとえば、「性」のアイデンティティは、「女らしさ」「男らしさ」のパフォーマンスとその反復にのみ依拠したものである。つまり、西洋の白人ブルジョワ男性というアイデンティティは、「白人らしさ」や「ブルジョアらしさ」や「男らしさ」をつねに示している限りにおいて、「白人」であり「ブルジョワジー」であり「男」であると承認されるのであり、そこから逸脱する場合には、「白人ではない」、「スノッブだ(上流階級ではない)」、「男ではない」とされる。それぞれの「らしさ」には模範(カノン)が作られ、そこから外れたものを「非白人」「非ブルジョア」「非男性」という「他者化された他者」に投影し、それらの他者との差異をつねにパフォーマンスすることによってのみ、それらのアイデンティティは維持されるわけである。

 そして、アイデンティティが自己のパフォーマンスと他者からの承認という不安定なものに依拠していることを暴く議論が、反本質主義の議論であったといえよう。しかし、その暴露によって近代のシステムを揺るがすことができるという反本質主義の議論は、そもそも近代のアイデンティティの「システムとしての安定性」が、この個々のアイデンティティの不安定性をエンジンにして生み出されていることを忘れている。好色や怠惰や感情に流されるといった受動性や自律性の欠如など、啓蒙主義からみた自己の否定的な部分、野蛮性への恐怖と憧憬のアンビヴァレンスは、啓蒙主義的主体(西洋の白人ブルジョア男性)のアイデンティティを確立するための「他者化」が生んだものである。そして、システムは、「他者化された他者」の位置に「退化」してしまうという不安定性からくる恐怖をエンジンとして、人びとをアイデンティティのパフォーマンスによる再生産へと駆り立てている。つまり、このシステムは、それらの不安定性や差異を、「西洋の白人ブルジョア男性」に備わっているとされる自律性や能動性や合理性を模範とする単一の市民的価値基準によって序列化することで、単一の方向をもつ序例のなかの良い位置を占めようとする人びとの「欲望」を駆り立てることによって、単一の固定された方向性をもつ安定したものとなっているのである。

 ポストコロニアル研究によって、「人種」のアイデンティティや「英国人らしさ」といった「民族」のアイデンティティ、そして「階級」差を表示するリスペクタビリティ(上品さ)といった「らしさ」のカノン植民地の白人たちによって生み出されたということがさまざまな事例で明らかにされているが、それも、植民地の白人たちが、最も「白人らしさの喪失」を疑われる位置にあって、白人らしさのパフォーマンスやその基準を最も必要としていたからであった。

 プラットやバーバらの議論は、他者化によって生じた植民者のアンビヴァレンスが啓蒙主義的主体やその固定的なアイデンティティを必然的に崩していくというものだった。しかし、ここで指摘したことは、そのようなアンビヴァレンスは、近代のアイデンティティのシステムとしての安定性へと駆り立てるエンジンの役目をはたすのであり、他者化と啓蒙主義的な主体化のメカニズムをむしろ強めることにもなるということだった。

 そのことを、関根康正氏による,全域的な「三者関係」と直接対面的な「二者関係」における差別との区別を援用して述べておこう[関根 2001]。関根氏は、オリエンタリズム表象の問題とは、西洋と東洋(非西洋)というその階層的二者関係の外見とは違って、差別者(西洋)と差別の共犯者(西洋化=文明化する非西洋)と被差別者(非西洋)からなる階層的三者関係による「同一性政治学」となっているという。つまり、そこには全域的な同一基準(文明化という単一のものさし)が設定され、それによってすべての社会が相対的な位置を与えられる。そして、インド社会に特殊だとされてきたカースト差別にも、支配カースト差別者)、下位カースト(共犯者)、不可触民(被差別者)からなる三者関係という一般的図式がみいだせると述べる。

 ここで注目すべきことは、相対的な差別である、全域的な三者関係における差別のほうが、局所的な直接対面的二者関係における絶対的差別よりも、はるかに安定したものであると関根氏が述べている点である。差別者は、「他者化」によって全域的な単一の基準を作り出す。その単一の基準によって否定的なものと測定される部分を自己から切り離し他者に投影することで、自己をその基準に同一化する(すなわち,文明化という基準における「明確な文明人」という透明な同一性を獲得する)が、共犯者はその基準による相対的な自分が否定的なものとして周縁化されることを怖れて、差別者が「他者化」した他者(被差別者)の他者化をさらに再生産していくことになる。この全域的な三者関係の相対的差別は、このような「アイデンティティ政治学」による再生産のメカニズムをもつゆえに、不安定に見えても安定している。いいかえれば、相対的であるという不安定性ゆえに強力な安定性を得ているのである。

 したがって、自分の生活の場を植民地化するシステムに抗して「生き抜く=息抜く」うえで重要なことは、近代のアイデンティティの隠された不安定性や深層の差異をたんに暴露することではない。重要なのは、その不安定性を単一の方向へむかう「欲望」を駆り立てるものとするのではなく、多方向への変容の「快楽」を用意してくれるものとしてとらえなおすことなのである。それには、近代のアイデンティティの不安定性を種的同一性という枠組みによって安定させるのではなく、日常的な〈顔〉のある関係における非同一的な共同体において安定させる道をさぐることが必要となるだろう。


2.セクシュアル・アイデンティティと撹乱の戦略

 前章で、〈顔〉のある関係は役割間の関係に還元されない「過剰性」をもつと述べたが、この「過剰性」は親密性を表すわけではない。たとえば、セクシュアル・ハラスメントもこの過剰性によるものといえるだろう。会社におけるセクシュアル・ハラスメントは、会社での協働関係や役割関係以外の関係を、相手が望んでいないのにその関係に持ち込もうとする行為である。しかしだからといって、「職場での関係から会社の労働関係以外のものを一切排除せよ」という常識的な解決方法は、〈顔〉のある関係がつねに「過剰」であるということを忘れている点で、有効なものとはならない。それは、公共圏では一切の出自や属性をなくした者どうしとして議論したりふるまったりすべきだとする要求とおなじく、ほとんど不可能なことを求めているのではないか。

 たしかに、セクシュアル・ハラスメントは不愉快なものである。その不愉快さを「セクシュアル・ハラスメント」と名指すことによって、見えるもの、告発可能なものに変えていったことには大きな意義があった。あえていえば、その不愉快さや危険性は他者と相互関係をもつ〈顔〉のある関係にはつきものである。セクシュアル・ハラスメントが問題となるのは(あるいはその不愉快さが許容範囲を越えるものとなるのは)、そのような不快な行為にたいしてはっきり拒絶したり告発したり証言したりすることがかえってその人たち(女性たち)の不利になるという状況があるからである。それはセクハラをする個々人の問題という以上に(もちろんセクシュアル・ハラッサーに責任がないということではない)、男性たちがかばいあい、女性たちのあいまいな態度がそのような行為を誘発するのだとすることによって、そのような状況をつくりだしている女性嫌悪的な「男社会」(これには女性も含まれることもある)の問題である。

 セクシュアル・ハラスメントをはっきり拒絶したり告発したりすることがかえって女性たちの不利をまねくような状況を生んでいる「男社会」の本質を、イヴ・セジウィックは、『男同士の絆』[セジウィック 2001]のなかで、男たちの間の「ホモソーシャルな絆」と呼んだ。つまり、セクハラの問題性は、個々の行為そのものの不愉快さにあるのではなく、それよりはるかに不快さをもたらす男たちの間の「ホモソーシャルな絆」なのである。セジウィックは、女性を自分たちのあいだの絆から排除する「男たちのあいだのホモソーシャルな欲望」が、近代社会では強烈な「ホモフォビア(男性同性愛嫌悪)」と結びついていると述べている。つまり、近代社会においてこのホモソーシャルな絆が成立するのは、男性間の関係の過剰性を排除することによっているのである。とすれば、セクシュアル・ハラスメントを防止するために関係の過剰性を排除せよという解決方法は、女性嫌悪をうみだし、セクシュアル・ハラスメントをまさに問題化しているホモソーシャルな絆を作りだすこととおなじやりかたなのだといえよう。

 また、セクハラの対策として、個々の男性たちに「職場での関係に労務関係以外のものをもちこまない」ようにする自覚をもてと言うのと同時に、女性たちにも「嫌ならばはっきりノーと言うこと」と指導することがあるが、これも〈顔〉のある関係性から過剰性や社交性を払拭していく方向での対策といえよう。女性たちが男性上司による性的冗談やデートの誘いといったセクハラ行為にたいしてはっきり拒絶することばを言いにくいのは、査定などで不利になるとか、身体的暴力への恐怖ということによるというよりも(身体的暴力への怖れを感じたなら、それはセクハラというよりもレイプだろう)、女性たちの多くが、相手の気分をなるべく害さないように配慮するような「ケアの倫理」を身につけているからだろう。「ケアの倫理」とは、発達心理学者のキャロル・ギリガンが『もうひとつの声』[ギリガン 1986]という本のなかで「正義の倫理」と区別したもので、合理性によるものではなく、他者との相互依存関係のなかに自己を位置づけることからくるものである。

 ギリガンは、それまでのL・コールバーグによる道徳発達理論を検証しようと思い、コールバーグが道徳発達の面接調査のために考案したジレンマの1つである「ハインツのジレンマ」という問題を使って、男の子と女の子を対象に面接調査を行なった。その問題とは、ハインツという男の妻が病気で死に瀕しており、医者から最近開発された高価な薬を飲む以外に治癒の見込はないと言われ、金策もうまくいかなかったハインツは、薬屋が値下げすることを拒んだその薬を盗もうとするのだが、ハインツは薬を盗むべきかどうかという問題である。コールバーグは、被験者がこのようなジレンマを解決していく論理を追うことによって、道徳性の発達段階を測定できるとした。すなわち、「正義」という普遍的価値を身につけているほうが高い道徳性の発達段階に達していると測定できるとしていた。

 けれども、ギリガンは、面接調査をしているうちに、コールバーグの判定基準では、劣ったものとしてしか評価されてこなかった「ケアの倫理」を語る女性の「もうひとつの声」があると考えたのである。たとえば、11歳の男の子が、「ハインツのジレンマ」の問題を、薬屋のお金と奥さんの命とではどちらが大切かという算数の問題のように考えて、「ハインツは薬を盗むべきだ。もしハインツが捕らえられたとしても、裁判官はたぶん、それは行なうべき正しいことだと考えるだろう」とあっさり答えを出すのに対し、おなじ11歳の女の子のエイミーは、自信なさそうに、「そうねえ、ハインツは盗んじゃいけないと思うわ。ハインツは、そのお金を人に借りるとか、ローンなんかにするとか、もっと別の方法があるんじゃないかしら。ハインツは絶対その薬を盗んではいけないわ。でも、ハインツの奥さんも死なせてはいけないと思うし」とか、「もしハインツと薬屋がそのことについて充分話し合えば、彼らは盗み以外のなにかの方法を考えつくことができる」と言って、なかなか答えを出せない。

 コールバーグの図式では、エイミーは男の子よりも一段階劣っていると測定されるのだが、ギリガンは、そこに、女性に特徴的にみられる、コンテクスト依存的で物語的な思考様式にもとづき、他者との相互依存関係のなかに自己を位置づける女性的な「ケアの倫理」をみいだす。エイミーは「ジレンマのなから数学の問題ではなく人間に関する、時間を超えてひろがる人間関係の物語をみて」、そのジレンマを道徳の論理のなかで完全に独立した問題として考えられないために、「その答えはコールバーグの概念から完全に逸脱して」しまう。つまり、「エイミーは、世界というものを自立している人びとから成る世界というよりむしろ、人間関係で成り立っている世界と考え、また規則のシステムで成り立っている世界というよりむしろ、人間のつながりで成り立っている世界と考えている」[ギリガン 1986:45-46]のである。そして、ギリガンは、女の子と男の子とのあいだのこのような違いは、発達段階の度合いの違いではなく、語っている倫理の違い――ケアの倫理と正義の倫理の違い――であり、思考様式や人間観の違いだとし、「ケアの倫理」がこれまで低い評価しか与えられてこなかったのは、自己を抽象的で一般化された(顔のない)他者に対して区別された自律的主体としてとらえる男性の道徳意識としての「正義の倫理」を、道徳意識を評価する上での普遍的な基準としてきたからだと述べる。

 あとの章でも触れるように、フェミニストの多くは、このような「ケアの倫理」を、女性たちを従属的な地位に縛りつけるものであり、払拭すべきものとしているが、この「ケアの倫理」はむしろ〈顔〉のある関係性において男女を問わず当然はたらいてしかるべきものであり、男性にそれがあまり見られないのは近代社会において男性たちが〈顔〉のある関係性とそこでの社交性を疎外していることを示しているにすぎない。

 そして、セクハラという個々の行為を区切られた空間から排除しようというやりかたは、空間の管理によって危険性をなくそうとする「セキュリティの政治」(あるいはフーコーのいう「生-政治」)のやりかたとおなじものであり、さらに、そのやりかたは、近代における啓蒙主義的主体の構築ともおなじものである。すでに述べたように、啓蒙主義的主体とは、周囲の環境や関係性から身を引き離しているゆえに、特殊な文化や周りのしがらみに縛られない普遍的で客観的な知を得ることができるとされる主体のことであるが、近代西洋の白人ブルジョワ異性愛男性の啓蒙主義的主体が、周囲との関係から自分の身を切り離して、周囲に左右されない自律的な主体となり、周囲をコントロールできる固有の場(アルキメデスの点)に立っているという幻想を抱くためのやりかたには、おもに2つのやりかたがある。ひとつは、自己の受動性や従属性を、主体的な「選択」によるものだと思いこませるというものである。これは、デュルケームが『社会的分業』において扱っていたパラドックス、すなわち近代社会の役割分業における有機的連帯によって、個人は機械的連帯の場合よりもはるかに全体に依存・従属せざるをえなくなっているのに、その個人はより自律していると意識できるのはなぜかというパラドックスと関連している。先に述べた、自己を「複数の役割関係の束や集合」として複数化しても、結局はそれらの役割に還元できない「主体」を温存しているのではないか、という疑問は、その「役割」を自ら主体的に選択しているのだというように、「選択する主体」を役割の束とは切り離された固有の場(アルキメデスの点)に温存しているのではないか、という疑問だったわけである。

 もうひとつのやりかたは、自己の一部に含まれながらも否定的なものとされている行為性や欲望――たとえば、怠惰や感情の表出、受動性、性的放恣、暴力的行為など――を絶対的な差異をもつ(つまりおなじ時間もおなじ空間も共有していないとされる)「他者」、すなわち植民地ネイティヴや下層階級、女性、子どもなどに投影して、自と他を非対称的なカテゴリーとして固定化するということを指している。すでに指摘したように、これは、オリエントを「オリエント的停滞、オリエント的官能、オリエント専制オリエント的非合理性」といった紋切り型の言説の流通によってオリエント化するオリエンタリズムに典型的に見られるものであった。そこには、「他者化された他者」は、有徴であるもの(徴つき)として「周縁化」されるけれども、マジョリティである異性愛者のブルジョワ白人男性である「自己」のほうは普遍的な人間として無徴化されるという非対称性がある。この非対称性ゆえに、マジョリティに近づけば近づくほど、「アイデンティティの政治」を必要とせずに、普遍的価値にもとづいて「おなじ人間なのだから、民族の違いなんて関係ない」と言うことができ、結果的にマイノリティの「アイデンティティの政治」を否定し、自分たちの価値をマイノリティの側に押しつけることができるのである。

 そして、他者との絶対的差異を創りだして、実際の不安定性を補うのが「人種」や「性」や「セクシュアリティ」や「身体」など、あたかも文化や言語の外部にある自然に根拠をもつ差異であるかのように言語や文化の内部で構築された外部性である。それらの差異は、「文化の内部で構築された外部性」であるが、この構築を隠蔽することで、自然の差異であるかのように受け取られる。

 けれども、「否定すべき自己の欲望」の「他者」への投影によって形成された主体は、自己から切り離された「否定的欲望」に対して、「恐怖と憧憬」というアンビヴァレンスをもつ。そして、近代のアイデンティティがアンビヴァレンスを孕む不安定なものだということをあばく議論が、ホミ・バーバらのポストコロニアル理論の構築主義的な議論だった。そして、それは、男性/女性という対立軸にそった首尾一貫した性的アイデンティティを構築しようとする行為は、抑圧されたものが不意に回帰してくることによって必ず失敗すると述べる、ポストモダンフェミニズムによる首尾一貫した性的アイデンティティの不安定性の指摘と軌を一にしている。

 しかし、それらの議論、すなわち近代のアイデンティティが不安定なものだということの暴露が近代のシステムをゆるがせるのだという議論は、すでに指摘したように、そもそも近代のアイデンティティの「システムとしての安定性」が、この個々のアイデンティティの不安定性をエンジンにして生み出されていることを忘れているものだった。たしかに、このシステムは、個々のアイデンティティがたえまないパフォーマンスの反復によってのみ維持される。しかし、そのパフォーマンスは、前節で述べたように、「抑圧したものの回帰」あるいは「退化」への恐怖によって崩壊するのではなく、むしろ強化されるのであり、システム全体は、「他者化された他者」の位置に「退化」してしまうという不安定性からくる個々人の恐怖を使って、個々人をアイデンティティのパフォーマンスへと駆り立てることによって、単一の固定された方向性をもつ安定したものとなるのである。

 ところで、啓蒙主義的主体のシステムとセクシュアリティとの結びつきが、イヴ・セジウィックのいう「ホモソーシャルな絆」をつくりだしているといえる。その結びつきは、見やすいかたちでは、他者を他者化するときにセクシュアリティが用いられるということに現われている。たとえば、黒人や下層階級セクシュアリティの貪欲さといった異常なセクシュアリティと結びつけられてきたといった結びつきである。

 しかし、啓蒙主義的主体とセクシュアリティとの結びつきは、それだけに留まらず、もうすこし複雑なものとなる。すでに述べたように、セジウィックは、「男たちのあいだのホモソーシャルな欲望」が、西欧近代社会では強烈な「ホモフォビア」と結びついていることを問題にしている。つまり、近代社会の男たちのあいだでは、なぜ「ホモソーシャル」と「ホモセクシュアル」とが「ホモフォビア」によって深く切断されているのはなぜか、という問題である。そのような「問い」が出てくるのは、近代社会でも、女たちのあいだでは、「ホモソーシャル」と「ホモセクシュアル」は(つまり「女の利益を促進する女」と「女を愛する女」は)明確に区別されてはおらず、連続しているようにみえるからである。すなわち、現代社会では、女性のホモソーシャルな絆とホモセクシュアルな絆のあいだには連続性がある(これをセジウィックは「ホモソーシャル連続体」と呼んでいる)のに対して、男性においては、ホモソーシャルな絆とホモセクシュアルな絆とは完全に断絶しているという非対称性がある。セジウィックは、ホモソーシャル連続体が男性の間では断絶しているのは男特有の本質的な特徴であるとか、家父長制がそもそもホモフォビアと結びつくといった見解はとらなかった。というのも、古代ギリシアやサンブル人社会などのニューギニア高地の諸社会ではそうではないからである。

 けれども、セジウィックは、男が男に差し向けるホモフォビアミソジニー女性嫌悪)と必然的な関係をもつと述べる。これは、ゲイ解放運動とフェミニズムが反ホモフォビア・反ミソジニーというおなじ目標をもって連帯できる可能性を提示するためという戦略的な言説でもあった。しかし、ホモフォビアミソジニーが必然的な関係をもつという根拠をセジウィックが明らかにしたとはいいがたい。たとえば、サンブル人社会を家父長制でありながらホモフォビアがない社会の例としてもちだすのであれば、サンブルでのミソジニーホモフォビアと結びついていないといえるからである。

 したがって、ミソジニーホモフォビアとの関係が必然的だというより、この2つがともに近代の啓蒙主義的主体を成立させるためのものだったととらえるべきだろう。そのようにとらえることによって、この2つの結びつきは必然ではないけれども、近代社会においては当然のことだったとはいえるようになる。そして、抑圧は抑圧の対象を創りだすという構造主義的な視点からすれば、ホモフォビアホモセクシュアリティを抑圧するだけではなく、その対象である同性愛者を創りだしているのであり(したがって、サンブルの「儀礼同性愛」は同性愛ではないことになる)、それとおなじように、ミソジニーは女性を抑圧するだけではなく、その対象である女性を創りだしているといわなければならない。

 そして、男が男に差し向けるホモフォビアは、「ホモソーシャル連続体」のなかのホモセクシュアルな欲望を抑圧し、その欲望をその抑圧そのものが創りだした同性愛者という他者へと投影し、同性愛者というものを自分たちとは絶対的差異をもつ他者として他者化した結果生じたものととらえられよう。前にも述べたように、他者の他者化による主体化を脅かすものは、当の他者化によって、自己の抑圧された欲望の回帰ではなく、他者そのものとされることで、その他者化された他者への嫌悪となるのである。おなじように、近代のミソジニーとは、男が自己のなかにある受動的なもの、文脈依存的なもの、軟弱なものを抑圧し、それを「女性的なもの」(女々しいこと)として女性に投影するという「他者化」によって生まれたものとなる。つまり、その2つの「他者の他者化」は、近代西洋の白人ブルジョワ男性が啓蒙主義的主体として固有の場を確保するためのものとして、近代社会では密接に結びついているというわけである。いいかえれば、そのような「他者の他者化」の結果、近代西洋の白人ブルジョワ男性は、抑圧した欲望を投影された「他者」である同性愛者や女性を(植民地ネイティヴや下層階級とおなじように)嫌悪し恐怖するのである。

 ただし、このようにホモフォビアミソジニーとの結びつきをとらえなおすことによって、セジウィックのねらいであったゲイムーヴメントフェミニズムの連帯というのは困難なものとなる。というのも、目標は反ホモフォビアや反ミソジニー、あるいはその両者の必然的結合というだけでは済まなくなるからである。しかも、反ホモフォビアや反ミソジニーという運動や言説が、ホモフォビアミソジニーとおなじようにその対象である「同性愛者」や「女性」を創りだしているということになってしまう(これがフーコーの論点だったといってもよい)。

 では、どうすれば良いのか。ここでヒントになるのが、フーコーの論点をさらに推し進めたジュディス・バトラーの議論(とその限界)である。バトラーは『ジェンダー・トラブル』のなかで、「フェミニズムの主体というアイデンティティをけっしてフェミニズムの政治の基盤としてはならない」[バトラー 1999:6]と断言している。「女」というアイデンティティが必要とされるのは、マイノリティによるアイデンティティの政治のためには結束や連帯が重要だとされるからだが、バトラーは、「女というカテゴリーの一貫性や統一性に固執すれば、具体的な種々の『女たち』が構築されるさいの文化的、社会的、政治的な交錯の多様性を、結果的に無視してしまうことになる」[バトラー 1999:41]という。そして、「『女』というものの中身をまえもって定めないような連帯の政治の試み」として、「創発的連帯(emergent coalition竹村和子氏の訳では「取りあえずの連帯」)という枠組みのなかで、さまざまなポジションの女性たちがバラバラなアイデンティティを表明しうる対話的な出会いの場がもたらされる」と述べながらも、連帯の理論は、連帯の構造の理想的な形、すなわち「統一」を結果的に保証するようなかたちを示そうとするあまり、アイデンティティの次元において団結という排他的規範を打ち立ててしまうとバトラーはいう。その結果、アイデンティティを撹乱する可能性を排除してしまうのだというのである。これなどは、セジウィックゲイムーヴメントフェミニズムの連帯の形や目標をまえもって示そうとしていたことの批判とも読める。それに対して、さまざまなポジションが創発的に予測なく集合しているという「創発的連帯」の形態において想定されているのは、「アイデンティティ」は前提ではないこと、そして連帯している集合体の意味や形はその実現以前には知りえないということだとバトラーは述べている。

 また、バトラーは、フーコーに倣って、性的アイデンティティの基盤として、言語以前の「生物学性差」や「身体」や「自然」を想定することを否定する。それらは、言語の内部において「言語の外部にあるものとして構築されたもの」(「構築された外部」)でしかないというわけである。そして、その言語は男性中心主義の言語であるけれども、だれもがつねにすでにその言語の反復的実践の内部にいるとバトラーはいう。

 そのような徹底した構築主義の立場から、バトラーは、「言語の外部」としての「ル・セミオティック(原記号界)」や「前−言説的な母という身体」に依拠するジュリア・クリステヴァの「撹乱の戦略」を批判している。クリステヴァの「撹乱の戦略」とは、ポリフォニック(多声的)な詩的言語が、男性中心主義的な首尾一貫した単声的な言語体系とそれによる「意味する主体」を、母の身体との原初的な連続性へと解体するというものであり、1970年代から80年代の文化記号論における両義性や周縁性による中心の撹乱(山口昌男)という図式と類似したものといえよう。それに対して、バトラーは、「クリステヴァは母の身体を、言説のまえにあって、欲動構造のなかで原因として作用するものとみなしているが、フーコーが明確に述べていることは、母の身体を前−言説的なものとして言説によって生産することこそ、特定の権力構造がおこなう自己拡大や隠蔽」なのだと述べる。

 では、「言語の外部」の否定するバトラー自身の「撹乱の戦略」とはどのようなものなのか。それは、「法の単なる模倣や再生産、そしてそれゆえの法の強化にならないような反復の形式はどのようなものか」というバトラーの問いや、「たとえ反復が、アイデンティティを文化的に再生産するメカニズムとしてかならず存続していくものだとしても、いかなる撹乱的な反復がそこに発生して、アイデンティティそのものの規制的な実践を疑問に付すことができるだろうかという問いかけをする余地がある」ということばに見られるように、異性愛主義や男根ロゴス中心主義の言語や法の内部において、それらを再生産する反復のなかに「撹乱的な反復」を見出すという戦略である。

 すでに述べたように、ジェンダー的な主体を構築する近代の主体化は、パフォーマンスを反復することによってなされる。しかし、バトラーが「撹乱の戦略」を見いだすのも、そのような主体化のためのパフォーマンスにおいてである。それは、具体的には、ドラッグ(女装)におけるジェンダーアイデンティティ模倣によるパロディに典型的にみられるパフォーマティヴな撹乱となる。バトラーは、ドラッグが、ジェンダーの表出モデルと、本物のジェンダーアイデンティティという概念の両方をパロディ化すると述べる。そして、フェミニズムの理論では、そのようなパロディ的なアイデンティティは、女装の場合は女性蔑視であり、男役(ブッチ)/女役(フェム)というレズビアンアイデンティティの場合は、異性愛性役割ステレオタイプを無批判に受けいれたものと批判されてきたが、ドラッグが「女」という一様化された像を作るものであるにせよ、それは同時に、異性愛の一貫性という規制的な虚構によって自然化されているジェンダー経験のさまざまな局面が実はそれぞれ異なっているものだということをばらしていると、バトラーはいう。そして、「ジェンダー模倣することによって、異装(ドラッグ)は、ジェンダーの偶発性だけでなく、ジェンダーそれ自体が模倣の構造をもつことを明らかにする」[バトラー 1999: 242]と述べる。

 このようなバトラーの撹乱の戦略に対しては、異性愛主義の言語を再生産するパフォーマンスの反復あるいは模倣と、撹乱する反復あるいは模倣とを区別できるのか、区別できない以上、それらの反復は権力構造を再生産するだけなのではないかという批判も出ている。それについては、後で戻って論じることにしよう。また、「フェミニズムの主体というアイデンティティをけっしてフェミニズムの政治の基盤としてはならない」というバトラーの断言に対しても、当然のことながら、他のポストモダン的な「異質化」の戦略に対してと同様に、「主体をもてる者だけが主体をもたないという観念と戯れることができる」という批判や、マイノリティアイデンティティの政治に対して、その一枚岩的なアイデンティティの解体の主張は、現状の力関係の不均衡を助長するだけだという批判が出されている。

 けれども、ここでは、バトラーに対するもう1つの批判を出しておこう。それは、バトラーの撹乱の戦略も、最終的にはバーバらとおなじく「暴露」の戦略となっており、その撹乱による不安定性はシステムを強化するだけだという批判である。バトラーは、ドラッグ(女装)が、それによって模倣されるオリジナルなジェンダーアイデンティティが実は「オリジナルなき模倣」であり、「本物」とされるジェンダーそれ自体が「ドラッグ模倣である」ということを暴露することによって、ジェンダーの意味が脱自然化され流動化されるのだと述べている。いいかえれば、バトラーの撹乱の戦略は、自然化されたジェンダーアイデンティティでは一致しているとされている外見と中身とのずれを明らかにすることによって、脱自然化しようというものだが、パフォーマンスによる近代のアイデンティティの生成においては、もともと外見と中身のあいだにはずれがあることを暗黙の前提としている。その暗黙の前提を白日のもとに曝したとしても、システム自体は揺るがないのである。この「暴露」は、近代の人種的アイデンティティが不安定なものだということを暴露することによって、それを解体するというポストコロニアル理論の「暴露」の戦略と同様に、近代のアイデンティティの「システムとしての安定性」が、この個々のアイデンティティの不安定性や流動性をエンジンにして稼動するものであることを忘れている。

 たしかに、アイデンティティが構築されたものであり不安定であることは隠蔽されており、その隠蔽によってアイデンティティは自然化されている。しかし、その隠蔽は近代のアイデンティティのシステムに不可欠なものではない。そして、それを暴露したところで、その不安定性は、アイデンティティの危機として意識され、人々をより強迫的にアイデンティティのパフォーマンスへと向かわせるだけなのである。

 では、バトラーの撹乱の戦略も結局システムを強化するだけならば、やはり出口はないのだろうか。外部や他者性への出口は、バトラーがその「外部」や他者性が、異性愛主義や男根ロゴス中心主義の言語の内部で「その外部にあるものとして構築されたもの」、すなわち「構築された外部」にすぎないとして否定しているのであるから、最初からないことになる。そして、その内部で権力構造を再生産する反復=模倣と、撹乱する反復=模倣とをまえもって区別できない以上、パフォーマティヴな撹乱という戦略も結果的には権力構造を再生産するパフォーマンスとなってしまう恐れがあるということになる*1

 けれども、バトラーに対して投げかけられた、反復や模倣が支配的な権力構造を再生産することになるという批判は、リゾーム的な関係の「過剰性」を想定していないために生じてくる批判である。いいかえれば、1つの関係性に1つの意味を与えて全体へと統合するようなツリー状の構造を想定しているのである。そこでは、ある役割関係をパロディ的に反復しても、その撹乱は全体へと回収されて、システム全体を安定させてしまうことになる。しかし、リゾーム的な1つの関係性の過剰は、そこでなされる反復を、ツリー状の構造をラディカルに変革することになる横断線を生みだしていく。つまり、リゾーム的な関係においては、反復や模倣は、ツリー状の構造をセミ・ラティス構造へと変容させていくのである。

 それは、たしかに、ゲイレズビアンアイデンティティの男役/女役や、ドラッグ(女装)が異性愛におけるジェンダーステレオタイプの再生産にみえるように、表面的には変革にはみえずに再生産にしかみえないだろう。しかし、言語の内部での〈いま・ここ〉のラディカルな変革は、そのような再生産=反復(けれどもリゾーム的な関係の錯綜体における反復)のなかでしか起こらないものなのである。

 そして、それは、クリステヴァが求めたような「外部」への出口ともなる。言語の内部に「構築された外部」が隠蔽しているのは、それが構築されたものだということだけではない。構築主義者はその「構築」という事実を暴露することで、支配構造を解体できるとしていた。けれども、それはレッド・へリングなのだ。そこには構築主義者が見落としているもうひとつの隠蔽がある。すなわち、この「構築された外部」は、実際にある「外部」をも隠蔽するものなのである。序論で、ジャン=リュック・ナンシーの「社会は共同体の廃墟の上に作られたのではない。それはわれわれが「社会」と呼ぶものとも、「共同体」と呼ぶものともおそらく関係をもっていなかった何ものか――部族あるいは帝国――の消滅のうちに、ないしその維持のうちに形成されたのである」ということばを引用したが、それを援用すれば、支配構造としての異性愛主義的・男根ロゴス中心主義的な言語は、「構築された外部」としての自然性や身体の廃墟の上に作られたのではないが、そのとき隠蔽されているのは、それらその外部にあるとされるものが「構築」されたものだということだけではなく、構築された自然性や身体性とは異なる(かつ異性愛主義や男根ロゴス中心主義とも区別される)何ものかの消滅ないし維持もまた隠蔽されているのである。

 そして、この「隠蔽」は構築という事実を暴露したところで解体されない。とはいっても、構築された虚構の外部の向こうに「真実の外部」があるというのではない。そのような「真実の外部」があるように思わせることこそ、バトラーのいう「言語の内部で構築された外部」という構築の効果にほかならない。また、実際にある外部とは「無垢の自然」やクリステヴァのいう「母の身体」のことではない。クリステヴァの誤りは、その「外部」を空間的にとらえて実体化してしまったことにあろう。ここでいう、実際にある外部(そして実際にある身体や実際にある他者)とは、リゾーム的な錯綜体としてある関係性の「過剰」のことであり、それは模倣=反復によって(その効果を通して)明らかになる「外部」のことなのである。

 そして、バトラーは、「この心理的余剰とは何なのか。そして破壊的な、あるいは非制度化を図る反復とは何なのか。第1に考えなくてはならないのは、セクシュアリティはいかなるパフォーマンスも表象も物語も越えてしまっているということだ」と述べて、さらに「性、ジェンダージェンダー表象、性行動、空想、セクシュアリティのあいだには直接的ではっきりした境界線や気軽に引ける境界線はない。……セクシュアリティの要素には、まさしく姿を現わさないもの、ある意味で、絶対に現わすことができないものが含まれている」と言っている。ここで、バトラーが「セクシュアリティ」と呼んでいるものこそが、具体的な関係のもつ過剰性に相当するものなのだ。啓蒙主義的主体を確立するために、あるいは単声的なアイデンティティを確保するために、抑圧されなければならないもの、そしてその抑圧によってその対象を「外部にあるもの」として構築することで隠蔽しなければならないもの、それが「〈顔〉のある関係の過剰性」と呼んできたものであった。

 バトラーも1991年の「模倣ジェンダーへの抵抗」という論文で、つぎのように言っている。


 演じられたことに先立つ演技者はいないという主張、パフォーマンスはパフォーマティヴだという主張、パフォーマンスは「主体」の外見的見かけをその外見にしたててしまうという主張はなかなか受け入れられない。それは、セクシュアリティとかジェンダーとかをそれより前にある心理的現実の直接的あるいは間接的な「表現」だと考える傾向ができているからだ。しかし、主体が「先」ではないと言うことは、主体を否定することにはならない。事実、主体と心理の融合を拒絶すると、心理に意識的な主体の領域を越えるものという特徴を与えることになる。このように心理が主体の領域に納まらないということ、この余剰こそが、自由意志で動く主体、すなわちいつでもどこでも、ジェンダーセクシュアリティ双方、あるいはそのいずれかを思いのままに選べる主体という概念によって組織的に否定されているのである。異性愛の位置付けが均一であるかのようなうわべを組み立てる例の身振りと行為の反復の合間に、噴出するのがこの余剰である。……その意味で、異性愛のエコノミーの中で暗にホモセクシュアリティをうちに含んでいるのが、この余剰なのだ。[バトラー 1996:127]


 それは、リゾームが現実のものであるとおなじ意味で現実に存在するものであり、しかもツリー構造の内部でそれを変容させるというラディカルな抵抗を可能にするものであると同時に、ツリー構造の外部に現実にあるといえよう。つまり、言語が実際にはツリー構造ではないのにもかかわらず、そのように思い込ませることによって、ツリー構造の「外部」などないかのようにみせることこそ、「構築された外部」という見方による隠蔽の効果である。それが隠蔽しているものとは、支配的な言語とその内部で構築される外部という二元論(これが支配的言語の内部を全体的なものにしている)の「外部」なのである*2

*1:バトラー自身も、ナンシー・フレイザーセイラ・ベンハビブとの論争をへて、パフォーマティヴな撹乱という戦略に重きを置くことをやめて、まえもって社会的連帯の形を目標として設定したりユートピアとして描いたりすることに一定の理解を示すなど、理論的には後退しているようにみえる。

*2:この外部は、ジャン=リュック・ナンシーが、共同体/社会の二元論について、述べていた「われわれが『社会』と呼ぶものとも、『共同体』と呼ぶものともおそらく関係をもっていなかった何ものか」に相当するといえよう。



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