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2012-01-10

講義 ポピュラー・カルチャーと流用 小田亮


1.ホガートとアドルノ大衆文化批判と「二層モデル」

 カルチュラル・スタディーズの生みの親の1人であるリチャード・ホガートは、『読み書き能力の効用』のなかで、イギリス労働者階級の「伝統的な民俗文化」の没落を指摘する(ホガートが本当の「民衆文化」を語るとき、自分が子どもの頃の個人的な体験を交えながら、ノスタルジックに語っている)一方で、当時のイギリス労働者階級の若者たちがアメリカ大衆文化を受け容れていることを批判しています。つまり、ホガートは、伝統的な民衆文化(ポピュラー・カルチャー)と大衆文化(マス・カルチャー)との区別をしているわけです。ホガートのいう大衆文化とは、ミルク・バーのジュークボックスやラジオから流れるアメリカのポップスやテレビ番組や、大衆雑誌やセンセーショナルな日曜新聞などに掲載される暴力小説やマンガや犯罪記事などを指しており、それらは、パブや労働者特有の言葉づかいやコミュニティ活動に支えられた労働者の身近な社会的な絆や日常的経験に結びついていた民衆文化を破壊しているとホガートはみなしていました。いいかえれば、ホガートは、イギリス労働者階級はいまやアメリカの文化帝国主義マスメディアが大量に流通させている通俗出版物によって「植民地化」されていると考え、その後カルチュラル・スタディーズへとつながる自分たちの労働者階級文化の研究を、そのような「植民地化」を批判するものと捉えていたといえます。そして、それは、アドルノホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』のなかの「文化産業」による大衆文化批判とも共通している面があります。

 しかし、ホガートがアドルノホルクハイマーフランクフルト学派と違うのは、民衆文化(ポピュラー・カルチャー)と大衆文化(マス・カルチャー)とを区別し、労働者階級民衆文化について、それが支配者層の文化、すなわち高級文化(ハイ・カルチャー)に対して自律性をもっていたことを強調していた点です。『読み書き能力の効用』では自分の育った労働者階級の文化についての体験を交えながら、いわば下からの歴史を掘り起こす作業を行っていました。そして、労働者階級民衆文化の自律性は、支配者層のブルジョワ文化・資本主義文化への批判を育むものと捉えられていました。

 このような自律的な民衆文化の捉え方は、マルクス主義のもうひとつの大衆文化論、すなわちフランクフルト学派大衆文化論とぶつかりあうものでした。そこでは、大衆文化は、抑圧的な支配者文化が作り上げたもので、消費者(読者やオーディエンス)を国民国家体制の一員として位置づけ、その体制を正当化する ように働きかけるものと捉えられていました。つまり、民衆のための大衆文化は、支配体制のためのアヘンか安全弁というわけです。その代表例が、アドルノホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』のなかの「文化産業」論です。アドルノらは、映画、ラジオ、大衆雑誌などマスメディアからなる複合的なシステムとして 「文化産業」をとらえ、そこではいかに多様な製品を産み出しているようにみえても、それは「ニセの個性化」であって、ひとつの同じものしか産み出さないと言います(それを「標準化」と呼んでいます)。そして、1人1人の購買者(消費者)は、いわば自発的に、自分たち向けの大量生産されたカテゴリーにしたがっていくのだと論じられていました。アドルノは、文化産業が思い込ませようとしても大衆は主体ではなく客体なのだ」と述べています。

 注目すべきは、アドルノの議論では、文化の生産が標準化されているためにその消費も標準化されているということが前提されています。そして、興味深いのはアドルノらが次のように述べていることです。


 文化産業は、数千年にわたって別々だった高級文化と低級文化の芸術領域を一緒にしてしまう。高級芸術の誠実さは、その有効性という思惑のなかで破壊してしまうし、低級芸術のもつ誠実さも、社会統制がまだ全体的ではなかったころには受け継がれていた反乱的な抵抗に対してくわえられた文明化の抑制によって消えてしまった。


 このアドルノの「標準化され押しつけられた大衆文化」論とホガートの「自律的な民衆文化」論は一見対立しているように思えますが、ホガートにとって労働者階級民衆文化の自律性は失われつつあるものに見えていた(ここが微妙なところですが)ことを考えれば、同じことの裏表ともいえます。この『読み書き能力の効用』がノスタルジーに満ちているような印象を与えるのもその認識のせいです。けれども、まったく民衆文化と大衆文化が同じになる(すなわち、自律的だった民衆文化が完全に「植民地化」される)とはどうやら考えてはいなかったようです。そこに、アドルノとホガートの違いがあるといえます。それは、アドルノ大衆文化に抗して守ろうとしていたのがエリート文化だったのに対して、ホガートが依拠していたのはあくまでもイギリス労働者階級の伝統的な民衆文化 だったという違いからきているともいえます。

 ホガートは、「品の良い週刊誌を読む能力が、そのままよい生活を送るのに必要欠くべからざるものではない」といい、「より詰まらない大衆娯楽に私が反対する最大の理由は、それが読者を『高級』にさせないからではなく、それが知的な性向をもっていない人びとがかれらなりの道をとおって賢くなるのを邪魔するからだ」と述べて、イギリス労働者階級民衆文化がエリート文化と一致することを目指しているわけではないことを強調しています、そして、ホガートが批判していたのは、大衆新聞やハリウッド映画が産み出そうとしている「階級のない階級」や「画一的なインターナショナルな人間タイプ」によって、「階級文化」 が「階級のない文化」や「顔のない文化」に取って代わられていくことでした。その点はアドルノの議論にも通じるものがありますが、その批判をするとき、ホガートが拠点としているのは、イギリス労働者階級のローカルな「顔のある文化」だったといえます。そして、そのようなローカルな文化の強さにホガートは希望を託していたのではないかと思います。

 ホガートらの「自律的な民衆文化」論とアドルノらのいう「押しつけられたとは気づかずに押しつけられる大衆文化」論との対立と節合は、その後のカルチュラル・スタディーズによるポピュラー・カルチャー論にとって重要なものでありつづけました。ただし、ホガート以降のカルチュラル・スタディーズの研究者は、高級文化(支配者層のエリート文化)と民衆文化の区別や、民衆文化と衆文化という区別を、ホガートやアドルノのように実体的にできるとは思わなくなっていました。

 エリート文化と民衆文化とが隔絶していたという見方を、フランスアナール学派社会人類学に影響を受けたイギリス歴史学者ピーター・バークに倣って、文化の「二層モデル」と呼んでおきますが、ホガートとアドルノがともに前提としていた文化の「二層モデル」的な見方から脱するのに役に立ったのは、 E・P・トムソンの『イングランド労働者階級の形成』における「階級文化」の捉えかたや、フランスアナール学派のミシェル・ド・セルトーとロジェ・シャルチエによる中世近世ヨーロッパ民衆文化の捉えかたでした。

 トムソンは、労働者階級によるジョン・バニヤンの『天路歴程』やメソジストの宗教活動の受け入れ方を例に挙げて、労働者階級は上流階級との関係の中で自らの社会的位置を認識し、その関係の変革や意味づけのために自分たちの階級文化を創造していったことを指摘したのです。ジャウディン・サンダーは、トムソンが明らかにしたことを次のようにうまくまとめています。


 労働者階級の文化は、上流階級の文化とはまったく異なる資源からつくりだされているわけではない。ただ労働者たちは、資源に対する独自の関わり方や思考、創造的活動によってまったく新しい特徴的な文化をつくりだしているのだ。


 このように、トムソンは、「労働者階級の文化」の独自性・自律性は、貴族階級やブルジョワ階級との隔絶によるものではなく、それらの階級との社会関係のなかで、同じ資源に対するアプローチの仕方や利用の仕方にあると捉えましたが、そのような捉えかたは、同じくカルチュラル・スタディーズのポピュラー・カ ルチャー研究に大きな影響を与えたフランスの「新しい歴史学」――ミシェル・ド・セルトーらアナール学派――の「民衆文化」の捉えかたに通じるものがあります。ド・セルトーは、「民衆文化」を支配的文化・エリート文化と隔絶された固有の区画をもつものという見方を批判し、その独自性・固有性を、支配的文化が作りだして押しつけている生産物を人びとが日常の中で活用する際の「独特のやりかた」にあるのだと述べていました。そして、その独特のやりかたを、支配的な秩序における「戦略」と区別して、「戦術」とよんでいます。ド・セルトーが「戦術」と区別している「戦略」とは、意志と権力の主体が周囲の環境から身をひきはなしてはじめて可能となるような力関係の計算や操作のことで、そこに前提されるのは、目標の相手に対するさまざまな関係を管理できるように境界づけられた「固有の場所」を所有しているということです。自分に固有の場を与える「空間の分割は、ある一定の場所からの一望監視という実践を可能にし、そこから投げかける視線は、自分と異質な諸力を観察し、測定し、コントロールし、したがって自分の視界のなかに『おさめ』うる対象に変えることができる」とされます。それに対して、「戦術」とは、「自分にとって疎遠な力が決定した法によって編成された土地、他から押しつけられた土地でなんとかやっていかざるをえない」人びとが、全体を見通すことのできるような境界づけられた自分の固有の場所があるわけでもないのに、なんとか計算をはかることです。

 つまり、この「戦術」は、植民地化の過程が典型的ですが、自分たちが責任(応答可能性)をもてる範囲のローカルな場で自分たちの法を自分たちで作っていた人びとが、より大きな社会に包摂されて、自分たちとは遠いところから法を押し付けられた弱者の方法です。それは、「所有者の権力の監視のもとにおかれながら、なにかの情況が隙をあたえてくれたら、ここぞとばかり、すかさず利用する」という、固有の場所をもたないがゆえに融通の利く、臨機応変の実践を指しています。この辺りの一貫しない「臨機応変のわざ」は、民衆文化が物真似や語呂合わせや下品さをともなっている点も思えば、1970年代から80年代にか けての山口昌男さんなんかが論じていたトリックスター論あるいは周辺文化論に近いものです(実際、山口さんはその頃ミシェル・ド・セルトーを同時代人とし て日本に紹介した人でした)。

 ところで、ド・セルトーは、この戦術をレヴィ=ストロースのいう「ブリコラージュ」といいかえてもいます。たとえば、ド・セルトーは、スペイン植民地化に服従するばかりか同意さえしたインディオたちが押しつけられた法や表象を流用していったという例を挙げ、現代社会でも、言語の生産者であるエリートが押しつける文化を民衆が使用するとき、「支配的文化のエコノミーのただなかで、そのエコノミーを相手に『ブリコラージュ』をおこない、その法則を、自分たちの利益にかない、自分たちだけの規則にしたがう法則に変えるべく、こまごまとした無数の変化をくわえている」と述べています。

 また、ド・セルトーから大きな影響を受けた歴史家のロジェ・シャルチエは、民衆文化における戦術を言い表すのに「appropriation」(私は 「流用」という訳語を使っていますが、「領有」や「充当」や「横領」といった訳語も流通しています)という概念をさかんに用いていますが、この「流用 appropriation」という用語も「ブリコラージュ」とともにカルチュラル・スタディーズでさかんに用いられている概念です。シャルチエは、読書の歴史についての実証的研究によって、アンシャン・レジームフランスで、エリートと民衆とが持っていたのが同一のテクストだったことを明らかにしています。つまり、トムスンが近代の労働者階級民衆文化について述べたのと同じように、歴史家たちは、上層の階級と下層の階級は文化の素材を共有していたこと、それぞれの階層の文化の独自性は、素材やテクストの違いにあるのではなく、それらの素材に対する対照的な扱いかた、用いかたにあるのだということを主張しているわけです。

 他にもエリート文化と民衆文化が隔絶していたわけではないことを指摘した歴史学者はすくなくありません。それらの歴史学的研究は、アドルノの「文化産業 は、数千年にわたって別々だった高級文化と低級文化の芸術領域を一緒にしてしまう」という認識の前提となっている常識や、ホガートが、民衆文化の独自性と いうときに前提としていた「自分たちで自前の文化を作っていた民衆たち」(そういった「自前の文化」をもっているからこそ、エリートの支配文化にも抵抗できるし、大衆文化にも抵抗することができるとホガートは考えたのでしたが)という見解を実証的に否定しています。

 歴史学における1980年以降の「二層モデル」批判には2通りあるように思えます。その2つを、「文化合意論」と「文化対抗論」と名づけておきましょう。

 二層モデルを批判している歴史学のひとつである「文化合意論」は、エリート文化と民衆文化が共通の文化をなしていたことを強調し、両者の間の相互作用や衝突も、この共通の基盤の上にはじめてなりたつ象徴的・演劇的なものとみなしています。文化合意論に分類できる歴史学者としてはイギリスのM・イングラム がいます。イングラムは、エリートの民衆文化からの撤退と敵視による乖離の拡大について、つぎのように言っています。

 バーク自身も認めているように、「民衆」文化と「エリート」文化、そしてこの両者のあいだに拡がる断絶といった基本概念も、それ自体が問題ぶくみであり、……重要なのは、どの時点にあっても、共通の文化をもつ――意味を分かちもつ――地域の存在を無視して文化区分をおこなってはならない、ということである。共通の文化こそ、社会のあらゆる階層を結びつけているものだからである。


 そして、英国の「シャリバリ」を例に挙げ、近世の支配者層が民衆のシャリバリを体系的に取締らず、娯楽やカタルシスの機会として容認していたことや、 シャリバリが支配層によって利用されたことなどを指摘し、シャリバリが一定の規範に基づいた民衆の抗議となりうるのも、エリートによってその規範が理解されていたからだというのです。

 文化合意論は、民衆の抵抗を階級闘争としてのみ評価し、民衆の抵抗が新たな生産様式を生み出さない場合、未来への展望をもたぬ妄動と事後的に評価して、 植民地主義的な支配のほうが伝統や旧慣を破壊して生産様式を変革する点で「進歩的」としてしまう階級闘争史観や、ロマン主義的な思い入れから民衆の抵抗を自分たちのできない抵抗をしているものとして結局は自分たちエリート文化から切り離してしまう「抵抗のロマン化」に対する一定の留保としては意味があるものです。しかし、その最大の難点は、あらかじめ存在する共通の体系なしには相互作用も交渉も成立しないとする、その機能主義的な前提にあるといえるでしょう。つまり、そこで無視されているのは、相互作用の場があらかじめ共有された体系としてあるのではなく、その共有のほうが相互作用の場における抗争や交渉の産物だという可能性です。そして、その難点は、文化合意論がヘゲモニーを行使する支配的文化の視点からの見方となっていることに由来します。支配的文化のヘゲモニーは、自分たちの意味体系を共通の意味(コモンセンス)として中性化することで被支配層の合意をとりつけることで創り出され正当化されるのですが、文化合意論はそれを追認しているに過ぎないのです。その結果、公式の意味体系を民衆が受容し共有する際の、その受容においてこそ発揮される「抵抗」をまったく見逃しているといわざるをえません。


2.「流用appropriation」と「模倣」という概念の可能性

 文化の「二層モデル」批判のもうひとつの流れである「文化対抗論」は、民衆文化がエリート文化に包摂されていく過程で、エリート文化との相互作用のなかで、民衆たちはエリート文化に対抗しながら自分たちの文化を新しく創造していったというように、民衆たちがエリートから文化を与えられてきたことを認めながらも、民衆文化の創造性を強調するものです。文化対抗論に分類しうる歴史家には、ロジェ・シャルチエのほかにピーター・バークやフランスアナール学派 のロベール・ミュシャンブレッドがいます。

 ピーター・バークは、『ヨーロッパ民衆文化』のなかで、16〜18世紀のヨーロッパでのエリート文化と民衆文化との間の相互作用に焦点を当てました。 バークは、人類学の概念を援用して、エリートの文化を「大伝統」、民衆文化を「小伝統」と置き換え、民衆はもともと大伝統から排除されて小伝統のみに属していたが、エリートは大伝統とともに小伝統にも参加していたと指摘した上で、17、18世紀と進むにつれて、自制と規律のエートスを習得していった支配者層は小伝統から撤退し、民衆文化を野蛮な異文化として見なし始めて、大伝統と小伝統との裂け目が拡大したと指摘しています。バークの議論の特徴は、2つの文化の自律性や固有性より、その間の相互作用を重視しながら、ホガートの二層モデルにあった対抗論的側面を批判的に継承しようとしている点にあります。エリート文化が一方的に民衆文化へと下降するという「下降理論」を批判する際も、宮廷の祝祭が民衆的祝祭を借用したといった上昇の例を挙げるよりも先に、下降理論が、民衆によって上層の文化が受動的かつ機械的に受け入れられたかのような印象を与えることを批判し、民衆による公式文化の模倣が選択的な借用であり、しばしばその模倣が知的ブリコラージュによるパロディに横すべりし、「まねをすることの破壊的な力」発揮されて公的文化が転倒されることがあったと指摘しています。

 また、ミュシャンブレッドも、『近代人の誕生』で、16世紀以降の「習俗の文明化」の過程が、文明の魅力による自然な模倣というより、監視などの強制的介入によるものであって、民衆がその介入を拒絶しながらも結局は受容したように見えても、そこには、エリート文化の意図していたものとは違った利用の仕方 や、さまざまな形のブリコラージュが行われたことを強調しています。そして、そのブリコラージュを「抵抗」と呼びながら、エリートによる習俗の文明化に対する民衆のあからさまな拒絶の敗北と、それに続く妥協的な受容により、民衆文化の独自性が表面的には失われたように見えても、その民衆の「柔軟な妥協によ る抵抗」こそが民衆文化の独自性とエリート文化との乖離を維持させたことを示唆しています。

 これら「文化対抗論」の歴史学的な民衆文化論の特徴は、1つは、エリート文化による民衆文化の発見(対象化=客体化)が、民衆文化の純粋性や孤立性の観 念を生みだし、2つの文化の間の概念的な裂け目を創出したと示唆している点にあります。もう1つは、ブリコラージュを駆使した「妥協による抵抗」への着目 にみられるように、民衆文化を実体的な階層や内容に求めるのではなく、そのやり方の独自性にみる点です。それは、すでに見てきたド・セルトーの「戦術」や シャルチエの「流用」に近いものです。

 ただ、ここで注意すべきことは、ド・セルトーたちは、たんにエリート文化と民衆文化との相互作用を指すために、ブリコラージュや流用という概念を用いて いたわけではないということです。そうではなく、そこでは、そのような固有の場をもたずにエリートの支配的文化や支配的エコノミーに服従し同意している民衆が、支配的文化のただなかでおこなう「ブリコラージュ」というもののやり方にこそ、民衆文化の独自性が現れていると同時に、支配的文化に対する「抵抗」 が現れていることが強調されていたのでした。

 しかし、ブリコラージュや流用という用語は、バークやアナール学派においても、たんなる2つの文化の間の双方的な相互作用や、計算された主体的な実践のように捉えられたりもしています。例えば、アナール学派歴史家ル・ロワ・ラデュリは、魔女集会としてのサバトにかんするイメージが、エリートたちによって、民衆信仰と学者の書物の両方から「ブリコラージュ」的につくられたものだと述べています。またバークも、日本での講演のなかで、貴族も民衆もみなブリコラージュをしているのだといい、低俗な茶碗を千利休が「流用」して高級文化の要素となったという例を挙げています。これらの例では、民衆文化がエリート文化を流用する一方で、エリート文化も民衆文化のものを流用するとされ、ブリコラージュや流用という実践があたかも全体的な計画に従った意識的な行為とされており、ブリコラージュが特定の計画に無関係で、まだ何かの役に立つというだけで集められた雑多な道具や材料で全体的な計画なしに何とかするということである(レヴィ=ストロース)ということや、ド・セルトーがいうように、「戦術」としてのブリコラージュや流用という実践が、計算ができるための全体を見通すことのできるような境界づけられた自分の固有の場所があるわけでもないのに、なんとか計算をはかることだということが忘れ去られています。

 ブリコラージュ的な戦術が発揮されるのは、エリート文化がヘゲモニーを握り、分割された空間にそれぞれの意味を割り振って統制している場であって、そこにおいてこそ、「その空間を利用し、あやつり、横領することしかできない民衆」――近世ヨーロッパの農民であれ、スペイン植民地インディオであれ、現代社会の消費者であれ――の日常的実践としての「戦術」が現れてくるのです。そのような戦術の特徴を示すために、ド・セルトーはそれを「戦略」と区別したのでした。民衆文化がエリート文化から与えられたものを「流用」して行うブリコラージュは、エリート文化が民衆文化を分割された空間秩序の中に位置づけるような「戦略」としての「流用」とは全く異なるやり方なのです。

 そして、エリート文化におけるサバト観念の形成をブリコラージュと呼んでしまうことが見えなくしてしまうのは、ブリコラージュが一元的な支配に対する「抵抗」となっていることです。たしかに、性的放恣や尻に口付けをするといったサバトの「さかしま」のイメージは、エリート文化が雑多な民衆文化的要素からつくり上げたものですが、異端審問官らエリートにとって意味のあるのは、悪魔との契約の表象としてのサバトであって、悪魔との契約という意味が変わらない限り、それはどのような表象でもかまわないのです。そこでは、一元的な体系を介した分節化によって単一の意味を付与された「悪魔との契約」こそが問題とされているのであって、そこでの「さかしま」のイメージは「悪魔との契約」という意味以外の多義性を許されることなく、悪魔学の固定された意味の体系に組み込まれています。つまり、エリート文化が民衆文化の要素を組み込むことと、民衆文化がエリート文化を受容(流用)することの間には、大きな違いがあるのです。それを相互作用としてのみ捉えると、文化合意論のように、厳にある支配関係が隠されてしまい、流用やブリコラージュが、支配されている側が包摂され た空間に自分たちのための隙間をあける実践だということが見えなくなってしまいます。

 シャルチエも、最近のインタヴューのなかで、自分が展開してきた文化の多層性と流用という概念について、つぎのような危惧を述べています。


 それらが支配関係を無化するような幻想をあたえかねないということです。文化の世界を考える場合に、複数の文化がそれぞれに流用を展開するとして、そこにそれぞれの差異はあるにしても、位置としては等置関係にあると考えることも可能ですね。しかし、被支配的な位置にある人びとが、彼らなりの流用によって意味を形成するという側面を強調すれば、文化における支配被支配の現実が見えなくなることもありうるでしょう。


 つまり、流用における互酬的な相互作用と流用を行う主体性の強調が支配被支配の現実を無化してしまうことを危惧しているわけです。二宮宏之さんが指摘していたように、シャルチエの「流用(アプロプリアシオン)」という用語の意義は、それを意識的・自覚的な行為としての「プラクシス」に対置させた日常的・ 習慣的な「プラティーク」における行為として捉え、そのうえで、受容的な行為が単なる従属や受動ではなく、規範や意味を独自のやり方でずらしていくという ことを示すことにありました。そのことを、二宮さんは、つぎのように述べています。


 プラティークの場合も、受動的・集合的に捉えてしまう可能性があります。そうならないためには、そこにアプロプリアシオンという、もうひとつの仕組みを入れないといけない。シャルチエが、プラティークのなかでアプロプリアシオンが行われているのだと先の論文で強調しているのは、プラティークのそういう側面を生かそうとしているのだと、ぼくには見えます。/ただ、そこから先が実は問題で、アプロプリアシオンをあまりに主体還元していくと、プラクシスに戻ってしまうのです。そうすると、プラティークを立てて、プラクシスを批判した意味がなくなってしまいます。

 そして、二宮さんのいう、シャルチエのプラティークとプラクシスの区別の意義は、セルトーの「戦術」と「戦略」の区別からきているものでした。「戦術」や「流用」という概念は、まず、民衆たちがエリート文化と隔絶された固有の区画をもち、そこで自前の文化を作っていたのだということを否定して、民衆たち は他者である文化の生産者たちの作った文化を消費し模倣している存在だということを前提とします(サバルタンたちが語れないのは「自前のことば」をもっていないからです)。

 それは、「下からの歴史学」以前の「上からの滴り理論」へ戻っているようにみえるかもしれません。しかし、文化合意論についてはそういえるかもしれませんが、「流用」論はそうではありません。「滴り理論」を否定するために、「下からの歴史学」(ホガートの仕事も広い意味での「下からの歴史学」に入りま す)では、民衆たちは自前の文化を作っているのだという「民衆文化の自律性」という見方が提示されたのですが、物真似や模倣ではない「自前性」に独自性や自律性を見いだすのではなく、物真似や模倣にすぎないということで価値を認めてこなかった「もののやりかた」に、模倣や物真似であることを否定しないで、 そういうやりかたに独自性を見いだす概念が、「流用」だったわけです。つまり、支配層である文化の生産者の意図する用途とは異なる別の用途に流用することで、同じ素材から臨機応変に別の文化を創りあげているのだというわけです。ここで否定されているのは、アドルノが前提としていた、生産者の意図そのままに 消費者は受け入れているという認識や、標準化された文化の生産は標準化された消費しか生まないという認識です。むしろ、消費における流用や規則の変更や模倣における「ずれ」の創出こそ、独自性を生む創造性として評価できるというわけです。

 そして、生産者の計算や意図とは異なる用途への「流用」という考えかたは、カルチュラル・スタディーズでは、フランス記号学の導入によっても用意されていたものでした。たとえば、フランス記号学アルチュセールイデオロギー論などの影響の下で書かれたスチュアート・ホールの有名な論文エンコーディング/デコーディング」では、流用ということばこそ使っていませんが、いわば文化産業による文化の生産としての「エンコーディング」にたいして、受動的な消費のプロセスとされてきた「デコーディング」(解読)を能動的な実践としての消費と捉えなおしていたのでした。つまり、オーディエンス、視聴者は、 単にマスメディアのメッセージを生産者の意図どおりに読み解いているのではなく、自分たちの置かれた状況に応じて、自分たちの利益にかなうように読み替えているというわけです。このような捉えかたは、ロラン・バルトによる読者の創造性のような議論にも影響を受けています。また、それをカーニヴァル的な記号の反乱と捉えたのはクリステヴァ(そしてヨーロッパではクリステヴァトドロフ経由で紹介されたバフチン)でした。

 カルチュラル・スタディーズが「戦術」や「流用」や「模倣」といった視点によるポピュラー・カルチャーの捉えかたをどのように引き継いでいったかは、たとえば、ジョン・クラークやディック・ヘブディジやジョン・フィスクらによる「サブカルチャー研究」に見ることができます。そこでは、労働者階級の若者を中心とした英国の若者たちが、アメリカや旧植民地から移入された文化を独自のやりかたで「流用」していることが示されていました。たとえば、ヘブディジは、『サブカルチャー』のなかで、ブリコラージュという概念を、つぎのように使っています。すなわち、モッズたちがノイローゼの治療薬として処方された薬をドラッグとして飲んだり、まったく上品な乗り物であったスクーターを、グループの団結の威嚇的なシンボルに用いたり、さらに狡猾なものとして、ビジネスマンの世界のコンヴェンショナルなしるしとしての、スーツや、カラーとネクタイ、短い髪などから、それら本来の意味である機能性や野心、権威への従順さといったものを奪い取って、「空っぽ」の呪物、すなわち、それら自身の価値において欲望され、評価されるモノへと変形するといったことを挙げながら、「モッズが、別の系列の商品を流用してあるひとつの象徴的な全体のなかに置き、それによってその商品のもつ本来のまともな意味を消し去ったり破壊したりしたとき、モッズはブリコルールとして機能したと言うことができよう」と述べています。そして、ヘブディジは、それらの破壊行為を、ウンベルト・エーコの「記号論的なゲリラ戦」という用語で呼んでもいます。

 また、ジョン・フィスクは、『抵抗の快楽』のなかで、1980年代後半に一世を風靡したマドンナによる「模倣」の戦術について述べています。フィスクは マドンナミュージック・ビデオやインタヴューの分析を通して、マドンナステレオタイプ化された「女性像」(聖女=天使としての女性および娼婦=悪魔と しての女性)を模倣して、それをパロディ化していると指摘しています。フィスクは、一方でマドンナが「男性中心主義的なセクシュアリティ」のシンボルとされていることを指摘します。1986年の『カウントダウン』誌の人気投票で、マドンナは大差で女性ボーカルの1位に選ばれる(2位の4倍の票)と同時に、「もっともセクシーなタレント」トップ20に女性としては唯一入って3位となりました(同時に、「今年度の最悪のタレント」でも2位に入っていました)。 また、1985年9月の『プレイボーイ』誌は、マドンナの「男性中心主義的なセクシュアリティ」のみを取り上げて、「なによりステージで見せるからだの動き、男をそそる声は、びしょぬれのセックス・シンボルをスポットライトのど真ん中に導いた」と書いていますが、フィスクは、その『プレイボーイ』誌も、そ のセクシュアリティの下で企てられているパロディに気づかざるをえなかったといいます。『プレイボーイ』誌は、つぎのように続けています。「声とからだは マドンナの真骨頂である。しかし、魅力の秘密はその辛らつさにあるのかもしれない。マドンナは、自分のイメージをつくりあげているものがほとんどまやかしであることを知っている。また、あなたがそのことに気がついていることも知っているのだ」と。マドンナは、父権的なイデオロギーによる「男性中心主義的なセクシュアリティ」を自分の思い通りに「流用」しても、それに服従はしておらず、マドンナのパフォーマンスは、マリリン・モンローや娼婦のイメージの模倣であり、パロディだというのです。フィスクは、つぎのように言っています。

 マドンナはいつも伝統的な女性像をパロディ化する。パロディは支配的イデオロギーに疑問を投げかける効果的な手段であり、対象の特徴をつかみ、誇張し、あざけり笑う。そうしてまた、支配的イデオロギーの網に『引っかかっている』者をあざけり笑うのである。女性のステレオタイプを風刺するだけでなく、ステレオタイプが形成されるプロセスをも風刺することで、マドンナは自分のイメージとイメージづくりのプロセスを支配しているのが自分であることを伝える。

 そして、「マドンナは、男性社会のシンボル体系を自分流に解釈し、男性社会の既成の記号表現(シニフィアン)を使いながら、男性中心の記号内容(シニィフィエ)を拒絶し、あざけり笑うことで、女性も自分の力で自分らしく生きることができるのだということを実証してみせているのである」[フィスク  1998:166-7]と述べています。ここにも、「流用」や「模倣」という概念が重要な道具として継承されていることが見て取れるでしょう。

 これらの研究で示されているのは、労働者階級の若者たちや女性たちが、文化産業やマスメディアや文化帝国主義によって「植民地化」されながらも、完全に 受動的にそれらの生産物を受け入れているのではなく、トムソンが明らかにした「労働者階級の文化の創造」と同じように、与えられた資源から独自の新しい意味や組み合わせを「ブリコラージュ」しながら、支配的文化をパロディ化し、そこから生み出される自分たちの「顔のある文化」としての「サブカルチャー」を創りだしていることなのです。

(2006年3月9日更新)






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