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2012-09-30

真正性の水準と「顔」の倫理──二重社会論に向けて── 小田亮

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はじめに

 上田紀行は『生きる意味』[上田 2005]のなかで、現代日本社会を襲っている問題の本質を「生きる意味」が見えないということだとしたうえで、その原因を「かけがえのなさの喪失」にあるという。他者の欲求を生きることを強いるシステムのなかで、人は入替え可能、交換可能な存在になってしまう。そのことが、現代の人びとの「空しさ」の原因であるというのである*1

 さて、上田は、「かけがえのなさの喪失」に対処するには、個人レベルでは私たちひとりひとりが自分の「内的成長」への感受性を高めること、社会的には、私たちの「生きる意味」を育むようなコミュニティの「再創造」が必要だという。そして、再創造されるべきコミュニティのあり方として、NPOやセルフヘルプ・グループ、ワークショップコミュニケーションを挙げている。

 上田のいうように、人が生きていくには、自分の「かけがえのなさ」が必要だろう。そして、現代社会のシステムがこの「かけがえのなさ」、すなわち代替不可能で比較不可能な自己という感覚を喪失させるものだという、上田の診断にも賛成したい*2。けれども、「内的成長」と「コミュニティの再創造」という処方能は、はたしてふつうの生活者にとって十分有効なものだろうか。まず、現実的な問題として、NPOやワークショップコミュニケーションは学生ならば可能かもしれないが、生活を営みながら行うのは多くの人たちにとって困難だろう。また、理論的にも、NPOやセルフヘルプ・グループなど、目的をもった「有為」な共同体においては、会社などの組織と同様に、交換可能で比較可能な「役割」を遂行することに比重が置かれてしまう恐れがあるだろう。

 本書の序論で述べた「一般性−特殊性」の軸と「普遍性−単独性」の軸の位相の区別を用いれば、〈私〉のかけがえのなさは「普遍性−単独性」の軸において生まれるのに対して、社会のシステムは交換可能で比較可能な「一般性−特殊性」の軸にそって組み立てられている。したがって、個々人のかけがえのなさ──交換不可能性・代替不可能性・単独性・唯一性──を支えるためには、その底に「普遍性・単独性」の層が重なっているような非同一的な共同体が必要とされる。

 本論文では、自己という主体のかけがえのなさについて、ひいては「一般性−特殊性」の軸と「普遍性−単独性」の軸の位相の違いについてユニークな視点を提示しているエマニュエル・レヴィナス倫理学を、レヴイ=ストロースのいう「真正性の水準( niveaux d' authenticité )」という文脈に位置づける試みを通して、主体のかけがえのなさ(代替不可能性・単独性)を払拭してしまうことのない共同性のあり方を考察する。

 「個人化」とグローバル資本主義によって作りだされている社会の断片化と流動化は、人びとの不安を増大させ、共同性の再構築への希求を生み出しているようにみえる。ネイションエスニック集団など、近代以降創られた「想像の共同体」への希求も、そのような人びとの孤立化と不安を栄養として増大しているといえるだろう。故郷(パトリア)としての生活の場における人びとのあいだのつながりが断片化し、そこから切り離された人びとが、あたかも故郷喪失者として、ネイションという想像された共同体への一体性を求めるという図式である。「『ナショナリテイ』は故郷喪失から生まれる。つまり、ナショナリテイとは、自分に生をあたえ育んでくれた故郷のふところへ戻ることを、もはや容易に夢見ることができないときに生ずる」[アンダーソン 2005 : 101]。そしてその故郷喪失は、もはや故郷で暮らす人びとにも当てはまるのである。後で論じるレヴィナスの用語である「全体化」ということばを使えば、グローバル資本主義によって徹底された「個人化」によってばらばらになった人びとが、それによって増している不安から、「全体化」へと回収されてしまうというわけである。

 けれども、国民国家などへの「全体化」によって再び人びとのあいだのつながりが生まれることはない。ネイションヘの一体化はまさに「個人化」されたものだからである。序論でも触れたように、アンダーソンは『想像の共同体』において「共同体は、その真偽によってではなく、それが想像される

スタイルによって区別される」[アンダーソン 1997 : 25]と述べていた。その想像されるスタイルの区別は、提喩的想像と換喩的想像(換喩/隠喩的想像)として説明することができる[小田 1997]。ここで、重要なことは、提喩的想像のように、個人が無媒介に全体と結びつく同一化は、生活の場の隣接性によるつながりから切り離されてなされるのであり、「個人化」それ自体によって成り立つということである。つまり、全体化としてのナショナリズムは、個人化によってばらばらになった人びとを結びつけるのではなく、個人化そのものであり、人びとはばらばらのままになされるのである。

 そのようなナショナリズムの全体化=個人化は、「一般性−特殊性」の軸を成すものであり、人のかけがえのなさを喪失させるシステムである。それに対抗することは、同じく個人化によるリベラリズムや、より特殊化した全体化としてのエスニシズムによってはできない。それには、人びとの不安を全体化に回収されることなく、「普遍性−単独性」の軸にある別の共同性を求める必要があるということである。

 本論文で提示しようと思う「二重社会」という概念*3は、そのような共同性の生成や、システムを飼い慣らすための、「一般性−特殊性」の軸と「普遍性−単独性」の軸の位相の区別とその重なり合い、そして「一般性−特殊性」の軸を「普遍性−単独性」の軸へとたえず転換していく可能性を表すために導入されるものである。


1 真正性の水準と二重社会

 レヴイ=ストロースの「真正性の水準」については、別のいくつかの論文[小田 2008、2009a、2009b、2010]で取り上げてきたので、ここでは簡略に述べておこう。「真正性の水準」とは、「3万の人間は、500人と同じやり方では1つの社会を構成することはできない」という、単純な区別である。けれども、レヴイ=ストロースは、この区別の導入こそが人類学社会科学に対する最も大きな貢献となるだろうと言っている[レヴイ=ストロース1972 : 409]。

 この区別によって、社会は、他の人びととの対面的なコミュニケーションや関係性による小規模な「真正な社会」の様相と、より後になって出現した、メデイアや法、貨幣など、一般化された媒体に媒介された間接的なコミュニケーションによる大規模な「非真正な社会」の様相とに区別される。

 この「非真正な社会」は、近代における「社会の発明」によって、ひとつの社会であるかのようにみなされるようになったものである。竹沢尚一郎は、『社会とは何か』[竹沢 2010]のなかで、社会という語について、つぎのように述べている。

……社会ということばにはふたつの意味があることに注意したい。ひとつは、私たちが孤立して生きているのではなく、家族や友人、職場や地域社会などの枠のなかで、共同の生を営んでいるという意味での社会である。これは社交や人間関係ということばに近いものであり、この意味での社会は人間の誕生とともに存在したはずである。

 社会のもうひとつの意味は、日本社会やフランス社会というときのように、国家と広がりをおなじくする枠組みとしての社会である。この意味での社会は、近代になってはじめて生まれたものであった。[竹沢2010: 堯

 近代における「社会の発明」以前は、ことばの意味としても、社会とはレヴィ=ストロースのいう「真正な社会」のことであったといえよう。そして、近代に「発明=提造」された社会のほうを「非真正な(まがいものの)社会」と呼ぶことは、それほど的外れではないだろう*4

 レヴィ=ストロース自身は、その非真正性(まがいもの性)について、つぎのようにいっている。

 われわれの他人との関係は、折にふれての、断片的なもの以外、もはや、あの包括的な経験、つまり、1人の人間が他の1人によって具体的に理解されるということにもとづいてはいない。われわれの人間関係は、かなりの部分、書かれた資料を通しての間接的な再構成にもとづいている。われわれが過去に結びあわされるのは、もはや、物語り師、司祭賢者、故老などの人々との生きた接触を意味する口頭伝承によるのではなく、図書館につまった本によるのであり、それらの本を通して、鑑識力が骨折ってその著者の表情を再現するのである。現在の面では、われわれは、同時代人たちの圧倒的な大部分と、あらゆる種類の媒介──書類、行政機構──によって連絡しているのであるが、これらの媒介は、多分、途方もなくわれわれの接触を拡大してはいるか、しかし同時に、われわれの接触に、まがいものの性格を付与しているのである。[レヴィ=ストロース 1972 : 407-408]

 近代社会においては、社会関係は、もはや、1人の人間が他の1人によって具体的に(比較不可能な複雑性を残したまま)理解されるというやり方にもとづいてはおらず、かなりの部分、書かれた資料やメディアを通しての間接的な再構成にもとづいている。この再構成においては、思考の経済によって、「あの包括的な経験、つまり、1人の人間が他の1人によって具体的に理解される」ときの複雑さは縮減されている。いいかえれば、包括的な経験は、規格化され単純化された一般性への還元、比較可能なものへの還元、固定されたカテゴリーへと還元されている。それが非真正性(まがいものらしさ)ということである。

 その非真正な社会における、1人の人間の複雑さの縮減、カテゴリーや役割への還元は、「一般性−特殊性」という軸への還元と言いかえられるだろう。つまり、非真正な社会は、「一般性−特殊性」の軸によって特徴づけられるが、それに対して、「普遍性−単独性」の軸は、「1人の人間が他の1人によって具体的に理解される」ことが必要条件となるゆえに、真正な社会においてのみ成立する。もちろん、真正な社会にも交替可能な役割関係があり、したがって「一般性−特殊性」の軸がある。けれども、真正な社会においては、(?)

 重要なのは、レヴィ=ストロースは、近代社会のなかにも「真正な社会」という様相が、たとえば近隣や職場といった形で残存していると指摘していることである[レヴィ=ストロース 1972 : 409-410]。

 近代社会では、貨幣や法や論理といった一般化された媒体が小さなローカルな地域社会にまで浸透して、社会を非真正なものにしていった。たとえば、一般化された媒体としての貨幣について、ジンメルは、「土地には、農民にとってたんなる資産価値という以上のまったく何か別のものが隠れひそんでいた。それは農民にとっては、有益な活動の可能性であり、関心の中心であり、人生の指針を定める生活の内実だった。そして農民がその土地の代わりにその価値を貨幣で所有しはじめた途端、それらのものは失われていった」[ジンメル 1999 : 274]と言い、「対象の質にかかわる側面は、貨幣経済によって、その心理的なインパクトを失う。たえまなく値踏みが必要とされることによって、貨幣に換算した価値がついには唯一の有効な価値と思われてくる。事物にそなわった特殊な、経済的には表現不可能な意味に、人々は目を向けることなく、そのかたわらをいよいよ足ばやに通りすぎていく」[ジンメル1999 : 275]と述べていた。それは、ジンメルが、非真正な社会におけるほんものらしさ(真正性)やかけがえのなさ(単独性)の喪失をいち早く見抜いていたことを示している*5。けれども、本書の序論や別のところ[小田 2009a、印刷中]でも述べたように、人類学は、ジンメルが述べていたことに反して、経済的には表現不可能なそれらのものを保持していくような実践をローカルな生活の場で人びとがしていることを見出してきた。

 「二重社会」という視点は、このような実践を目の当たりにして、レヴィ=ストロースのいうように、現代でも非真正な社会に一元化されることなく、真正な社会が維持されているということを示すために提唱されたものである。つまり、それは、「一般性−特殊性」の軸による非真正な社会に包摂され、そのような社会を生きながら、同時に、「普遍性−単独性」の軸による真正な社会をも生きているという様相を指している。

 ここでのポイントは、真正な社会は、「普遍性−単独性」の軸のうえにあるため、一般化された媒体やカテゴリーも、真正な社会ではその一般性という性格を変えざるをえず、非真正な社会におけるそれとは異なったものになるということにある。つまり、真正な社会が非真正な社会に包摂されて、それらシステムの媒体(貨幣や権力)や知の体系におけるカテゴリーが真正な社会に入り込んだときに、真正な社会は、その一般化された媒体やカテゴリーを、「普遍性−単独性」の軸にそって、一般性を持たないものへと変えることで、非真正な社会との境界を維持し、それによって「二重社会」が創りだされているのである。

 もうひとつ重要なことは、真正な社会がけっして孤立したものでも閉ざされた世界でもないという点である。その1つ1つは小さな社会であっても、それらはネットワークを形成しながら連なっている*6。そして、非真正な社会との境界も固定されたものではなく、非真正な社会において作りだされたさまざまなものを取り入れつつ、そのつど非真正な社会とのあいだの区分線を引きなおしながら、「普遍性−単独性」の軸による真正さを維持しているのである。


2 二者関係と三者関係

 本論文では、「普遍性−単独性」の軸と「一般性−特殊性」の軸の違いを、レヴィナスによる「倫理」と「正義」の位相の違いに重ね合わせることで、「普遍性ー単独性」の軸が、真正な社会においてのみ維持されるということを、より明確にしてみたいと思う。それはまた、レヴィナス倫理についての議論、とりわけ「主体の代替不可能性」の議論を社会科学に接合する試みともなる。しかし、その前に、その接合のための補助線として、関根康正による「二者関係/三者関係」の議論を取り上げておきたい。

 関根は、『宗教紛争と差別人類学』のなかで、構造的差別宗教紛争のメカニズムを「三者関係」という視点から解き明かしている[関根 2006]。その説明をまず見ておこう。

 構造的差別としてのオリエンタリズムを、単に優越のオクシデントと劣位のオリエントとの階層的二項対立の認識内容だと解してはならないと、関根はいう。それは、差別者としてのオリエント、共犯者としての「良きオリエント(同化されるオリエント)」、H差別者としての「悪しきオリエント(異化されるオリエント)」の三者関係による永続的な再生産構造を有している。そこでは、白人の支配者によって野蛮な現地人男性(「悪しきオリエント」)から救済された現地人女性(「良きオリエント」)が子どもたちを文明化へと育む、といったような物語によって、共犯者(救済された現地人女性・第2白人化する教化された現地人エリート)を介在させることで、差別者たるオクシデントは、自己中心の正当化を行い、「知る者」として知と表象を独占する体制を維持させているという[関根 2006 : 285]。

 それに対して、「共犯者を欠いて直接的に言う者と言われる者とが対峙する二者関係では、表象者が同定できるから直接言い返せる可能性があ」り、「だからこそ、二者関係には、その都度の交渉というやりとりに開かれた開放性が伴われ、それゆえに自己革新−自己変容の可能性を秘めたものとしてあり続ける」[関根 2006 : 286]。そして、二者関係では表象の暴力はいわば剥き出しで感知しやすいけれども、同じ差別表象でも三者関係という構造的な形で示される場合、その表象の発信者、生産者が特定されず、顔が見えないので、反応も集合的な社会単位を主語にしたものになりやすいと、関根は指摘している[関根 2006 : 286-287]。

 また、インド宗教対立(コミュナリズム)も三者関係の構造を有していると、関根は指摘する。ここでの三者関係は、扇動する者/ヒンドゥーナショナリスト(コミュナリスト)、扇動される者/ヒンドゥー大衆(主として若者)、排他的暴力を振るわれる者/イスラーム教徒、という構図になる[関根 2006 : 113]。インド宗教紛争が激化するのは、経済自由化による市場原理の徹底とそれによる経済成長にもかかわらず、それによって相対的に低下していく中間層以下が、不安定さと存在論的不安の状態に置かれていくのと軌をーにしている。つまり、ネオリペラリズム的体制によって不安定化した「大衆」が、RSSやVHP、BJPなどのヒンドゥーナショナリスト(コミュナリスト)によって扇動され、そのなかから、若者たちを中心に、ムスリムに対して暴力的攻撃を行なう者たちが現われているというわけである。

 関根による二者関係と三者関係の区別はさまざまに敷街しうるものだが、ここでの議論で重要なことは、二者関係が真正な社会の「普遍性−単独性」の軸にあるのに対して、三者関係は、非真正な社会の「一般性−特殊性」の軸に則っており、三者関係が「全体性」を必要としているということである。

直接対面的な関係である二者関係では、その都度の言い返し・やり返しや交渉といった直接的なやり取りに開かれているし、また他の二者関係にもつながっている開放性がある。つまり、そのような二者関係の連鎖は、全体性として完結はしない。それに対して、「差別者/扇動者」「共犯者/扇動される者」「被差別者/排他的暴力を振るわれる者」という三者関係になると、「差別者/扇動者」が、オリエンタリズムにおけるオリェンタリストのように超越的立場にたって全体を見通し、個々の関係をその全体から意味づける。そこでは、それぞれの関係は、全体から意味づけられた序列のなかに固定化されるのである。

 この全体からの意味づけ・序列の固定化は、しかしそれらの序列に位置づけられる者が固定的で変わらないということを意味するわけではなく、むしろそこには入替え可能性がある。その交替可能性、交換可能性による変動からくる(序列が下がるかもしれないという)「共犯者/扇動される者」の抱く恐れが、その序列を維持・再生産していくのである。

したがって、このような三者関係の構造による宗教紛争や差別に対抗するには、この三者関係を崩す必要がある。いいかえれば、三者関係を二者関係に戻す必要がある。ただ、すでにできあがった三者関係の構造の下で、どのようにそれが可能なのか。

その可能性にとって重要となるのが、ひとは非真正な社会のみを生きることはできないゆえに、真正な社会と非真正な社会を二重に生きているという、「二重社会」論の視点である。三者関係のなかの「共犯者/扇動される者」としての大衆は、非真正な社会では誰とでも交替可能な「大衆」として現れるが、真正な社会では、代替不可能な二者関係をつないでいる。いわば、三者関係の底には二者関係が潜んでいるのである。

 三者関係の全体性に抗するには、それを完全に解体するのではなく(市民社会も三者関係からなっていることを考えれば、それは非真正な社会を解体するのと同じくらい困難である)、部分的にしかし不断に、三者関係を二者関係に戻すということになるだろう。つまり、それは、三者関係を完全に解体するということではなく、二重社会において三者関係と二者関係の間の「往復」を取り戻すということである。そして、この往復ないしは重ね合わせは、次節で取り上げるレヴィナスの説く「顔の倫理」と「正義」のあいだの「往復」に類似したものとなる。いいかえれば、レヴィナスの「顔の倫理」と「正義」のあいだの関係について考察は、ひとを三者関係から二者関係につれもどすことがいかに可能かという考察にもなるだろう。


3 レヴィナスの「顔」と代替不可能性

 レヴィナスの『全体性と無限』のねらいは、自己という主体の代替不可能性(単独性)を倫理のなかに見いだすことによって、主体の単独性(かけがえのなさ)と複数性を払拭してしまう「全体性・全体化」に抗する方途を提示することにあるということができよう。ここでのレヴィナスの「顔の倫理」についての解説は、レヴィナス自身の思想を明らかにすることを目的としたものではなく、あくまでもレヴィナスの「全体性」と「顔の倫理」の議論、とりわけ主体の代替不可能性(単独性)についての議論を社会科学に援用するためのものである*7

 レヴィナスは、主著である『全体性と無限』[レヴィナス 2005、2006]の序文で、全体性という概

念ついてつぎのように言っている。

 戦争において存在が示すことになる様相を劃定するのが、全体性という概念である。西欧哲学はこの全体性の概念によって支配されている。西欧哲学にあって、諸個体はさまざまな力のにない手に還元される。その力が知らず知らずのうちに個体に命令を下すのである。個体は、だからその意味を全体性から借り受けることになる(……)。それぞれに唯一のものである現在が、未来のために絶えず犠牲にされ、未来は現在の唯一性から客観的な意味をとり出すために呼び出される。[レヴィナス2005 : 15]

  レヴィナスのいう全体性・全体化は、周囲の具体的な関係から身を引き離し、超越的視点から全体を見通すことですべての他の存在者を意味づけ同化するという、オリエンタリズムと同様の、一般化された媒体としての合理性を前提とした志向であり、「一般性−特殊性」の軸での志向であるといえる。

 そして、レヴィナスは、「本書は、かくて、主体性を擁護する一書として提示される」[レヴィナス 2005 : 24]と述べている。つまり、全体性とは相容れない主体の唯一性を擁護することによって、全体性・全体化(ここにはもちろん全体主義という含意がある)に抗することが目的とされているのである。

 しかし、この主体性は、レヴィ=ストロース構造主義が批判した西欧近代の主体性とは異なったものだ。「本書は、こうして〈他者〉を迎えるものとして、他者を迎えいれること(オスピタリテ)として主体性を提示することになるだろう」[レヴィナス 2005 : 26]。

  レヴィナスのいう倫理とは、「他人のためにあること」、「他人の身代わりになること」、「他人に自分を贈与すること」である。他者との断ち切ることのできない関係自体が倫理であり、他者に無限の責任を負うこと、それが倫理だというのである。レヴィナスにとって、他者とは「全体性」のなかに構成しえないもの(他者がそうである「無限なもの=無限定なもの」とは還元不可能なものを意味している)、そして自己に代替不可能性(単独性)、かけがえのなさを与えてくれるものである。レヴィナスは、他者との関係を、 屮┘乾ぅ好謄ックな糧の享受」、◆峇蕕慮恩修箸靴討梁昭圓療来」、「第三者の到来による正義の要請」という3つの段階=層に分けて説明している。ただし、これは時間的順序ではなく、すでに共時的に起こっていることをいわば3つの層に分けて記述していると理解すべきものである。

 まず、,涼奮=層は、ひたすら「他なるもの」を摂取し同化している状態、ただ大気を吸って吐いている、パンを摂取して生きているように、「〜によって生きる」という段階で、レヴィナスはそれを「享受」と呼んでいる。この層における「他なるもの」との関わりは、自分の主権のなかにある欲求(ブソワン)によるもので、空腹だから食べる、つまり自分に欠如したものを満たして自分のなかに同化するというものである。この段階では「自律した」徹底してエゴイスティックな自分しかない。この享受という段階が全体化への抵抗として重要なのは、そこで「分離」(他なるものからの自分の分離)が起こっているからであり、その分離が自己の「唯一性」を生み出すからであり、その「唯一性」が全体性を離散させるからである*8

 また、他なるものを所有し享受する徹底的にエゴイスティックな自分がなければ、贈与や歓待の可能性もないという点でも、肉体をもつ自己の自存性は重要となる。贈与とは、同情から余ったものを他人に譲渡するのではなく、レヴィナスのもうひとつの主著である『存在の彼方へ』[レヴィナス 1999]に繰り返し出てくる言い方を使えば、「自分の口にほおばったパンを贈ること」である。つまり、自分そのものの譲渡、「譲渡不可能なものの譲渡」としての贈与が成り立つ前提となるのが、他なるものを徹底的に享受する自己がなくてはならないのである。

 この「享受」の段階では他者は登場してこない。「享受することにおいて、私は絶対的に私のためにある」[レヴィナス 2005 : 266]。そこでは、他なるものを同化し、その他性を消失させ、同へと変える行為がなされるだけである。それに対して、他者とは享受も認識もできないもの、自己が構成した世界の全体性の外部にあるものなのである。

 「享受」において、家のなかで自存性(自己充足)・自律性・内部性の幸福に浸っている自己へ、他者は突然に、外部性として、「顔」として到来する*9。それが△涼奮=層である。他者の顔が現われるのではない。他者が「顔」として、「裸形」で現れる。この「裸形」は、属性を持たないこと、すなわち交換可能で比較可能な属性が消去されていることを意味する。レヴィナスは、また、他者は「異邦人寡婦、孤児」として現われるともいう。この聖書に由来する比喩も、もちろん、異邦人寡婦や孤児こそが他者であるという意味ではない。たとえ裕福な隣人でも、他者として現われたその「顔」に異邦人寡婦や孤児が宿っているということである。そして、「異邦人寡婦、孤児」という比喩(あるいはやはりレヴィナスが用いる「プロレタリア」という比喩)も、何も「役割」や「地位」といった比較可能な属性をもたないものとして ──序論で触れたシャン=リュック・ナンシーのことばを借りるならば「無為」のものとして ──現われる、「代替不可能性=単独性」を意味していると解すべきだろう。

 顔の「代替不可能性=単独性」を、レヴィナスは、これも本書の序論で取り上げたハンナアレントの「誰であるか who 」と「何であるか what 」の区別と同じ区別で述べている。

 なるほどだれ( qui )は、たいていなに( quoi )である。「X氏とはだれか」と問えば、「国務長官である」とか「これこれの方である」と答えられる。その場合、答えはなに性として呈示され、諸関係の体系へと関係づけられている。だが、だれという問いに応えるのは、ある存在者の、分類することもできない現前なのであって、その存在者はなにものにも関係づけられることなく現前し、にもかかわらず、他のすべての存在者から区別されている。だれという問いは顔を目ざしているのである。[レヴィナス 2005 : 365]

 顔の到来によって倫理が始まる。顔とは「語ること」だとレヴィナスは言う。それは「呼びかけ」であり、それに対して無条件に、あらかじめ「応答」してしまっている。それは、意識的に引き受けたり答えたりはできないものであり、しかし応答しないということもできないような「呼びかけ」である。たとえ、無視しても無関心ではいられないような呼びかけであり、強迫=憑依のように私に取り憑ついて逃れることのできないものである。それは、自己にとっては「絶対的な受動性」として到来し、しかもその他者に対して「無限の責任」が生じるものとして到来するのだという。そのような他者との関わりこそが「倫理」だとレヴィナスはいうのである。そして、相手は自分に対して責めを負わないが(それは他人の問題であり、私の問題ではない)、自分はその他者に無限の債務を負うという、その絶対的な非対称性・非互酬性が、この関わりの特徴となっている。

 レヴィナスにとって「顔」が重要なのは、「顔」が全体性を停止させるからである。そして、ここでの議論にとってのポイントは、「顔」として最初に到来する他者に私が際限のない「責任=応答可能性」を負っているということこそが、〈私〉の代替不可能性としての単独性を創出するということである。「その責任については、だれも私に代わることができず、この責任からだれも私を解きはなつことができないということ ──それが〈私〉なのである」[レヴィナス 2006 : 152]。つまり、その「顔」が自分の前に顕現した以上、そこから生まれる責任=応答可能性は、だれも代わることができないという意味で、〈私〉は代替不可能なかけがえのないもの、単独なものになる。〈私〉のかけがえのなさ、代替不可能性は、他者との関係に全面的に縛られていること、その「絶対的な受動性」のうちにあるのである。レヴィナスは、このような代替不可能性の基礎を、「選び」によるものともいっている。『存在の彼方へ』ではつぎのように言われている。

 身代わりという責務の重荷は、逃走の余地を与えることなく私に課せられる。こうしてはじめて、私の唯一性は有意味なものと化す。私は〈自我というもの〉一般ではもはやなく、唯一無二なるこの私である。主体は任意の自我ではもはやなく、 ──この私か主体なのであり ──、そのような主体は一般化されることがなく、主体一般ではない。つまり、〈自我というもの〉一般はいまや、他の私ではなくこの私としての私へと移行したのである。[レヴィナス 1999 : 47-48]

 そして、顔の顕現による責任=応答可能性こそが〈私〉の代替不可能性(かけがえのなさ)を保証するというこの議論は、顔の顕現しうるような「近さ」、すなわち隣接性のある真正な社会においてのみ生ずることを意味する。真正な社会におけるこのような代替不可能性(かけがえのなさ)こそが、レヴィナスが序文で述べていた、全体性・全体化に抗する「主体性を擁護する」という企図の核となっているのである。

 また、レヴィナスのこのような代替不可能性(単独性)の捉えかたは、柄谷行人[1994]による「普遍性−単独性」と「一般性−特殊性」の捉えかたと、本論文におけるそれとの違いも明確にしてくれる。柄谷の「単独性」は、「この」性ともいうべきもので、レヴィナスの言いかたを借りれば、エッフェル塔モナリザの単独性(唯一性)と変わらないものとなる。それに対して、本論文の単独性は、レヴィナスのいう他者の「顔」による主体の単独性 ──〈私〉の単独性 ──であり、それは絶対的な受動性という非対称的な人称的関係においてのみ、維持される単独性=代替不可能性である。そして、繰り返しになるけれども、このような単独性=代替不可能性は、いくら接近しても同一化することのない「近さ」における対面的な状況においてのみ、すなわち真正な社会においてのみ保持されつづけるのである。


4 「正義」による顔の消失

 けれども、レヴィナスの議論は、「第三者」の登場によって(もちろん第三者はすでにつねに登場していたのであるが)、また話は大きく変わってしまう。それがの「第三者の到来による正義の要請」という段階=層である。それは、複数の他者(第三者)が到来することによって要請される「正義」 ──それは国家によって保証される ──の成立する段階=層である*10。顔の到来とそれによる強迫の段階=層では、「私は他人の身代わりになるが、私の身代わりになりうる者は誰もおらず、―者が他人の身代わりになることは、他人がー者の身代わりになることを意味してはいない」という絶対的非対称性があったのに対して、「第三者との関係はこのような近さの非対称性の絶えざる匡正(きょうせい)であり、この匡正によって、顔は顔であることをやめる。第三者との関係のうちには、計量が、思考が、客体化が、ひいては停止が存在しているのだが、そこでは彼性と私との無起源的な関係が裏切られると共に、私たちの前にこの関係が翻訳される」[レヴィナス 1999: 359]。そして「比較不可能なものの比較をつうじて、表象ロゴス、意識、労働が、ひいては存在という中性的概念が萌芽する。……正義の秩序は表象にもとづいて生起するのだが、こうして生起した正義の秩序は私が他人の 身代わりになることを緩和すると共に、この 身代わりに尺度をあてがい、自己を計量に送り返す。……こうして隣人は可視的なものと化し、顔たることをやめて現前する」[レヴィナス 1999 : 360]。

 「正義」は、交換不可能な者として選ばれた〈私〉が顔としての他者に無限に責任を負うという、その代替不可能性としての単独性ゆえに要請されるのであるが、同時に、その正義は、一般化された媒体としての法が実現させるものであり、顔や、顔との関係の比較不可能性−代替不可能性を払拭してしまう。そのような第三者の到来による逆説的な正義の成立を、レヴィナスは、あるインタヴューのなかで、つぎのように語っている。

 私にとって他人である者のかたわらにいる第三者、彼も「また」私にとって「他人である」のですが、この第三者ゆえに、正義の秩序は生まれるのです。/まさに他人と第三者に対して責任を負うがゆえに、私は、他者と第三者との相互作用に無関心ではありえない。一方に慈悲の念を向けることで、私は他方への愛から解放されることはありえないのです。各人の顔は比較不能な唯一性を表現しているのですが、自我、私は各人の比較不能な唯一性に踏みとどまるわけにはいかない。かけがえのない個別性の背後に、類に属する諸個体をかいま見、これらの個体を比較し、裁き、糾弾しなければならないのです。……このような〈公正なる正義〉の時においては、比較不能な者が人間を織りなす種と類のうちに「集約され」、そのうえで比較不能な者同士の比較がなされることになります。これはまた、司法的な権限を有した諸制度を強化する諸国家の時であり、つねに厳しい法たる普遍的な〈法〉の時であり、法の前に平等な市民たちの時でもあります。[レヴィナス 1993 : 327]

 また、レヴィナスは、ポワリエとの対話において、この「比較不可能なものの比較」を「始原的暴力」と呼び、それは国家にしか可能でないと、つぎのようにいう。

……他者たちを比較しなければならないし、2人のうちのどちらかが有罪かを判定しなければならないのですが、そういうことは〈国家〉のうちにおいてしか可能ではないということです。司法制度と司法的手続きがなくてはすまされないのです。ここで〈国家〉の必要性に思い至ることになります。これが繰り返し言うところの、始原的暴力です。もちろん隣人の顔によって励起された慈愛を通じて必須のものたらしめられた慈愛との対比において暴力と呼ぶわけです。もしも〈国家〉が出現しなかったら、そのときこそ私たちは純粋な暴力の増殖に立ち会うことになるでしょう。[レヴィナス/ポワリエ 1991 : 157-158]

 〈国家〉は正義(公正な裁き)のために、そして暴力の増殖を食い止めるために必要なものだとレヴィナスはいう。これは、ある程度の規模の社会(非真正な社会)においては、法や論理といった一般化された媒体が必要だというように言いかえられよう。実際、レヴィナスは、『貨幣哲学』において、つぎのように述べている。

 隣人とは異なる第三者はまた私の隣人であり隣人の隣人でもある。……匿名の全体性のうちにあって第三者は、私か責任を負い、内存在性の利害からの超越と慈悲をもって接近するそのひとの被害者であったかもしれないのだ。唯一的な者たちのあいだには比較、判断が必要である。まさに唯一的で比較不能な者であるという彼らの尊厳の名において、正義が必要なのだ。だが比較不能な者たちを比較すること、それはおそらく、経済的な秩序のうちで人間たちが構成する全体性へと回帰しつつ彼らに接近することである。この秩序においては、彼らの行為は貨幣に依拠する同質性のうちで計測されるが、彼らはこの全体性のうちに吸収されたりただ単に加算されるわけではない。[レヴィナス 2003 : 119]

 正義を実現させる比較不可能なものの比較のためには、一般化された媒体としての貨幣もまた、国家と同様に必要とされるのである。しかし、この国家や経済的秩序の全体性と、レヴィナスが抵抗しているはずの「全体性」とどこが違うのか、なぜ「全体性のうちに吸収され」ないことが保証しうるのかという疑問が残る。『全体性と無限』のなかで、レヴィナスは、「歴史の裁き」(真理にもとづく客観的な裁き)について、つぎのように述べていた。

 歴史の裁きは、見えるもののうちで下される。歴史上のさまざまなできごとはとりわけて見えるものであって、それらの真理は明証的なのとして生起する。見えるものは全体性をかたちづくるか、全体性に向うものであるかいずれかである。……歴史の裁きの普遍的な諸規範は、唯一性を沈黙させる。この唯一性に弁明はもとづき、そこから論拠を引き出すにもかかわらず、その唯一性を沈黙させてしまうのである。見えないものであっても、それが全体性というかたちで秩序づけられる場合には、主観性を侮辱するものとなる。歴史の裁きは本質的にいって、いっさいの弁明を目に見える論拠へと翻訳することであり、単独性の汲みつくすことのできない源泉を枯渇させてしまうからである。[レヴィナス2006 : 146-148]

 国家による正義は、この「歴史の裁き」とどこが違うのだろうか。正義もまた、唯一性を沈黙させ、主体性を侮辱するものではないのか。レヴィナスは、『全体性と無限』では、「歴史の裁き」と「神の裁き」を対比させ、神による裁きでは、「根本的に慎重なものであり、弁明の声と反抗を、その尊厳によって沈黙させることがない」[レヴィナス 2006 : 148]という。ではそのような「神の裁き」はどのように実現されるというのだろうか。

 『全体性と無限』では、レヴィナスは、それを私の無限の責任によってであるとしているだけである。

 正義によって私は、正義の直線のかなたへとおもむくように催告されるのであって、この歩みの終点をしるしづけるものは、なにもありえないのである。……私の存在が正義にとって不可欠であるのは、したがって、客観的な法によって固定されたすべての限界を超えて責任を負う者としてである。〈私〉とは特権的な者であり、あるいはえらばれた者なのだ。存在のうちで法の直線を踏み越えてゆく唯一の可能性であること、言い換えるならば、普遍的なもののかなたに位置を見出すただひとつの可能性であることこそが、〈私〉であるということである。内面的〔内部的〕で主観的なものといわれる道徳性は、普遍的で客観的な法がじぶんで果たすことができず、しかしそれを要求する機能を果たす。……裁きによってもはや主観性が疎外されることはない。裁きは主観性を客観的な秩序へと参入させて、その秩序のなかでみずから解消することはなく、主観性が自己のうちで深化する次元を残すからである。[レヴィナス 2006 : 150-151]

 そして、レヴィナスは、「単独性を、つまり主観性の唯一性を欠いては、正義も可能ではないだろう。正義において主観性がすがたをあらわすのは、形式的理性としてではなく、個体性としてである」[レヴィナス 2006 :153]という。けれども、顔による無限の責任が正義を要請するとしても、正義の裁きにおいては、無限の責任は軽減され、顔は、そして単独性は消失するのであった。裁きが終わったとき、その正義の裁きが無限の責任を負う者としての〈私〉の単独性をふたたび呼び戻すことがどうしてできるのかという点にかんしては、このレヴィナスの説明だけでは判然としない。

 そこで、再度、ポワリエとの対話から、もう少しわかりやすい説明を引いておこう。先に引用した部分で、始原的暴力としての〈国家〉の必要性を説いたあと、レヴィナスは、つぎのように言う。

 こう言ってよければ、〈国家〉の基盤となっている正義はいまだ未完成な正義であると意識することです。より具体的には人権についての配慮とともにこのことを考えてみる必要があります。私の意見では、人権についての配慮は政府の存在と一致するものではありません。人間の諸権利についての気遣い、それは〈国家〉に属する機能ではなく、〈国家〉のなかにある非−〈国家〉的な制度であり、〈国家〉のうちにおいてはいまだ成就されていない人間性の訴求なのです。こうして私たちは慈愛あるいは慈悲の過剰という出発点に戻ってくることになりました。そもそも〈国家〉はこの慈愛、慈悲を起源として出てきたのです。2番目の大事なことは、この〈国家〉にあって、律法はその一般性に即して機能し、普遍性を勘案しつつ宣告されるわけですが、一度裁きが下されたあとでも、かけがえのない有責者としての個人のために、なんとかして裁きの厳正さに修正を加えるような可能性というか訴えかけがなお存在しているということです。正義の峻厳をやわらげ、個人的な訴えに耳を傾けること、それは1人1人の役目です。慈愛の、慈悲の帰還が語られるのはこのような形式の下においてでなくてはなりません。[レヴィナス/ポワリエ 1991 : 159-160]

 内田樹によれば、ここでレヴィナスが説いていることは、「慈愛と正義の終わりない循環」であり「『裁き』と『赦し』のめまぐるしい交替」であるという[内田 2003 : 125]。この交替が可能となるのは、そこでまったく異なる2つの共同性=社会が同時に存在し、触れ合っているからである。つまり、「正義=裁き=顔の消失」と「倫理=慈愛・赦し=顔の顕現」は同一平面にはなく、前者が〈国家〉という社会の水準にあるのに対して、後者はその水準にはない。けれども、サイモン・クリチリーが指摘しているように[Cri tchi ey 1992 : 227)、ここでは共同性=社会じたいが二重化されている。つまり、「一般性−特殊性」の軸からなる非真正な社会としての〈国家〉と、「普遍性−単独性」の軸の上に基礎づけられた真正な社会との二重社会になっているのである。

 そして、その2つの社会を同時に生きているからこそ、「『裁き』と『赦し』のめまぐるしい交替」が可能となる。つまり、その交替は、2つの社会の間の往復として実現する。単独性を沈黙させる正義と単独性を基礎とする倫理とは本来両立不可能であり、前者は全体化・全体性へと向かうものとなる。その不可能なことを可能にしているのは、単独性を沈黙させる「一般性−特殊性」の軸からなる非真正な社会のシステムに包括されたあとも、「普遍性−単独性」の軸に基礎づけられた真正な社会が存続し続けていることによっている。

 ただし、このような往復が円滑にできるのは、現実に「近さ」の非対称的な関係が第三者の存在によってもただちに消失しないことが条件となろう。レヴィナスの議論では、第三者の存在からただちに〈国家〉による正義の必要性にいってしまっていた。つまり、その議論では、「一般性−特殊性」の軸から「普遍性−単独性」の軸への往還は困難のように思える。しかし、大澤真幸[1994]がいうように、必ずしも複数の他者の存在によって一般化された媒体がただちに必要とされるわけではない。大澤は、自身の「第三者の審級」の議論がレヴィナスの議論と並行性があることを認めながら、レヴィナスの議論では、通常の他者があまりにも直接に超越的他者(第三者の審級)へと飛躍してしまうが、「第三者の審級が投射しうるのは、他者の実在感が、ある『閾値』を越えて大きい場合に限られる」[大滓 1994 : 96]とレヴィナスを批判している。つまり、規模が大きい社会、非真正な社会であれば、第三者の審級が要請されるが、真正な社会であれば、ただちに第三者の審級を要請する必要はないというわけである。

 真正な社会においては、複数の他者の間で関係の非対称性をそのまま維持することが実際にも可能である。たとえば、贈与の非対称性を例にとれば、代替不可能な関係において比較不可能で代替不可能なものが与えられる贈与は、「普遍性一単独性」の軸においてなされるものである── それは、代替可能な関係において比較可能で代替可能なものが交換される市場交換が「一般性−特殊性」の軸においてなされるのと対照的である。贈与において反対給付があったとしても、それは非対称的で非互酬的である。というのも、贈与されたものと返礼されたものとを比較することができない以上、返礼は返礼ではなく、新たな贈与でしかないからである。つまり、贈与の非対称性および非互酬性が反対給付(返礼)によっては解消されないのである。もちろん、実際の贈与交換においては、どれくらいのものをもらったからどれくらいのものをお返しすればいいかを比較して計算するだろう。しかし、その計算は表立ってしてはならないこととして禁止されている。お返しを受け取ったほうも、お返しが少ないという計算による不満を表明してはならないのである。現実の贈与交換は、いわば「一般性−特殊性」と「普遍性−単独性」の軸の交叉する結び目となっていると言ってもいい。実際に比較し計算することが、「普遍性−単独性」の軸を消去することになってはいないからである。

 実際にも、真正な社会では、反対給付が禁止されている「一般交換」や、持続的な贈与交換のなかで最初の贈与が曖昧にされ、贈与なのか反対給付なのかが不明になるといったさまざまな工夫によって、贈与による近さの非対称性を保持し続けている。そして、その非対称性は、〈国家〉という非真正な社会に包摂されても(そこでは顔が消失し代替可能で比較可能な存在になっても)、真正な社会における代替不可能性は維持されているのである。


おわりに

 現代社会における個人化による社会の液状化・不安定性によって全体化への希求が高まるのを防ぐには、個の代替不可能性を覆い隠すような全体化へと向かわない共同性を提示することが必要となる。それは、もちろん個人化の徹底によってはなしえない。それは全体化への希求を高めるだけだからである。本論文では、それを「二重社会」における真正な社会の保持と、それによる「一般性−特殊性」の軸と「普遍性−単独性」の軸とのあいだの交替可能性に求めたのであるが、最後に、この可能性は「二重社会以前の真正な社会における共同体の二重性」によって保証されていることを示しておきたい。

 すでに述べたように、真正な社会にも役割関係はあり、代替可能な関係によって社会は維持されている[cf.渡辺 2009 : 325]。ただ、真正な社会においては、代替可能な役割関係に還元しきれない包括的な体験の過剰性が貼りついていて、いわば「一般性−特殊性」の軸と「普遍性−単独性」の軸とが重なり合っているため、その交替もたやすく行われうるのである。この節では、「二重社会」の成立以前の真正な社会における共同体にもともとある二重性について明らかにしておきたい。この原初的な二重性によって「二重社会」成立以降、非真正な社会のシステム ──「一般性−特殊性」の軸のみからなる ──をなんとか一時的で部分的であれ、「普遍性−単独性」の軸へと戻して飼い慣らすことが可能となるのである。つまり、原初的な二重性との連続性によって、「二重社会」の二重性とその間の交替可能性を生み出しているといえよう。

真正な社会の原初的な二重性の例として、エヴァンズ=プリチャートの古典的な民族誌によって有名となった南スーダンのヌアー社会における「ブスbuth」関係と「マルmar」関係の二重性を取り上げよう。

 エヴァンズ=プリチャートは、『ヌアー族の親族と婚姻』[エヴァンズ=プリチャート 1985]のなかで、典型的なヌアーの村やキャンプにみられる親族関係の網の目を紹介するさいに、ヌアー人自身が明確に行なっている父系リネージ関係と親族関係との区別の重要性を強調していた。リネージ関係とは父系出自集団が織り成す体系のなかの集団間(リネージ間)の関係を指し、親族関係のほうは親族カテゴリーによる個人間の関係を指す。ヌアー人たちは、リネージ間の父系関係であるリネージ関係を「ブスbuth」、個人間の親族関係 ──父系関係だけではなく母方の親族関係や姻戚関係や養子関係も含む ──を「マルmar」という語で表す。そして、日常的な付き合いはマル関係によって行っている。

ヌアーの村の住民たちは、全員がお互いにマル、すなわち親戚であるという。しかし、それは親密で閉じられた関係からなる排他的共同体であるわけではない。「ヌアーランドのどこへ行っても、一生のうちに接触するすべての人間と何らかの親族関係 ──本当の親族関係であっても、神話あるいは擬制によるものであってもかまわないのだがーを設定することができる」[エヴァンズ=プリチャート 1985 : 13]のである。よそから村やキャンプに移住するときには、別の関係で自分とも相手とも関係のある第三者を介したり、養子など擬制的な関係を作ったり、何らかの親族関係をたどって村の住民の誰かとマルの関係にある者として移入する。

このように、村や放牧キャンプは最小リネージからなるといわれているにもかかわらず、そこには多くの父系出自関係を持たない人々が含まれている。そのうちの典型的な非父系親族が「娘たちの子どもたち」であるが、さらに、村によっては近隣の他民族であるディンカ人出身者やアヌアク人出身者やその子孫たちが養取や結婚を通してマルとして含まれている。村人がすべて互いにマルであるといっても、そのマルはさまざまな関係が含まれた異種混淆的なものであり、異民族も含まれるような開かれたものだった。

 ヌアーの分節体系に見られるのは、同じ一つの関係がブスにもマルにもなる、すなわち、対立するブスとマルとは交替可能であるということである。報復闘争などに起こる対立・分裂の相では、父系出自関係はブスとなるが、融合の相ではマルとなり、村や小リネージの内部では他のマル関係に埋め込まれる。また、「娘たちの子どもたち」やディンカなど他民族出身の小リネージが分節リネージ体系に組み込まれるのは、マル関係がブス関係へと交替するからである。

 マル関係が重要なものとなるのは、「暴力の贈与交換」としての報復闘争に対して歯止めとして働くときである。分節リネージ体系をもつヌアー社会の報復闘争は、小さな父系親族集団間の血讐が、地域共同体間の報復闘争となるところに特徴がある。それぞれの地域共同体は、その土地の所有者とされる1つのリネージと非常に深く結びついているために、そのリネージの成員ではなくても、共同体の全員が政治的関係としてはそのリネージに統合されているため、小さな父系親族集団間の血讐も、まずその父系親族集団を含むリネージ間の報復闘争となり、それがそのリネージと結びついた地域共同体間の敵対関係へと発展するのである[エヴァンズ=プリチャート 1997 :275-276]。敵対関係になってしまった相手の集団の成員とのあいだには、より距離が近い集団間であればあるほど、たいていマル関係が結ばれている。逆にいえば、距離の近い関係での敵対関係は、その2つの集団を横断するマル関係によって抑制されるというわけである。

 M・グラックマンは、このようなヌアーの報復闘争の抑制を父系親族集団への忠誠心と非父系親族や地域共同体への忠誠心との間に生じる葛藤によるものという「忠誠心葛藤理論」によって説明している[Gruckman 1956 :18-20]。しかし、他のところで批判したように[小田 1989 : 240]、この仮説はほとんど比較文化的検証に耐えないだけではなく、ヌアーにおいては、父系親族集団も地域共同体も、つねに忠誠心の対象となるわけではなく、たやすく分裂一対立と融合を繰り返す。つまり「自然の情」としての忠誠心は、むしろ報復闘争の制度が作りだしているものであって、それ以前に自然にあるわけではないのである。

 では、報復闘争がなぜマル関係によって抑制されるのだろうか。それは、ブス関係が親族としての役割を規定するもので、報復闘争のさいには親族の義務としての血讐を促すものであるのに対して、マル関係は、父系親族関係であろうと非父系親族関係であろうと、そのような役割分化の規則として働かない関係であり、代替不可能な「顔」のある関係として働くからだと解釈できよう。いいかえれば、ブス関係が「一般性―特殊性」の軸の関係として働くのに対して、マル関係は、「普遍性―単独性」の軸の関係なのである。

 エヴァンズ=プリチャートは、ヌアーの政治体系は報復闘争を通じて作用していると述べているが、それは報復闘争においてこそ、ヌアーの政治体系の原理である分裂と融合の交替可能性が現われるからであり、それは、ブスとマルの交替可能性によるものである。そして、それは、真正な社会において、「一般性−特殊性」の軸と「普遍性−単独性」の軸とが交替することを示しているのである。

 このように、真正な社会における共同体では、比較可能で代替可能な役割関係としての「一般性−特殊性」の軸と、比較不可能で代替不可能な「顔」のある関係としての「普遍性−単独性」の軸が重なり合っていて、そのあいだの交替可能性によって、共同性が生成されているのである。それは、全体化へと向かわない共同性である。そのような共同性の二重性が非真正な社会に包摂される以前から真正な社会の共同体にはあり、そのことが、非真正な社会に包摂されたあとも、代替不可能な関係を保持する真正な社会を非真正な社会から保護し、そこにおいて非真正な社会をなんとか飼い慣らすことを可能にしているというのが、本論文での主張である。


文献表

日本語文献

アンダーソン、ベネディクト

ウィリアムズ、レイモント

上田紀行

内田

エヴァンズ=プリチャート、E・E

  • 1985『ヌアー族の親族と結婚』長島信弘・向井元子訳、岩波書店
  • 1997『ヌアー族』向井元子訳、平凡社

エスポジト、ロベルト

大澤真幸

小田 亮-

  • 1989『構造主義パラドクス勁草書房
  • 1997「ポストモダン人類学の代価 ──ブリコルールの戦術と生活の場の人類学」『国立民族学博物館研究報告』21-4 : 807-875。
  • 2007「現代社会の『個人化』と親密圏の変容 ──個の代替不可能性と共同体の行方」『日本常民文化紀要』26 : 45-77。
  • 2008「真正性の水準について」『思想』1016 : 297-316。
  • 2009a「『二重社会』という視点とネオリペラリズム ──生存のための日常的実践」『文化人類学』74-2 : 272-292。
  • 2009b「共同体代替不可能性について ──社会の二層性についての試論」『日本常民文化紀要』27 : 1-42。
  • 2010「構造でシステムを飼い慣らすということ」『現代思想』38-1 : 146-153。
  • 印刷中「二重社会論、あるいはシステムを飼い慣らすこと」『日本常民文化紀要』28。

柄谷行人

小泉義之

湖中真哉

斎藤慶典

ジンメル、ゲオルク

スティグレール、ベルナール

  • 2006『象徴の貧困』ベルナール・メランペルジエほか訳、新評論。

関根康正

竹沢尚一郎

デイヴィス、コリン

土井隆義

  • 2004『「個性」を煽られる子どもたち ──親密圏の変容を考える』岩波書店

ナンシー、J=L

  • 2005『複数にして単数の存在』加藤恵介訳、松籍社。

ブーケ、J・ H

レヴィ=ストロース、C

レヴィナス、E

レヴィナス、E/フランソワ・ポワリェ

  • 1991『暴力と聖性』内田樹訳、国文社。

渡辺公三

外国語文献

Bauman,Zygrrunt

  • 1993 Postmodern Ethics. Blackwell.

Critchley,Simon

  • 1992 The Ethics of Deconstruction: Derrida and Levinas. Edinburgh University Press.

CS・uckman,Uki X

  • 1956 Custom and Conflict in Africa. Basil Blackwell.

*1:この「かけがえのなさ」(交換不可能性)は、「個性」や「自分らしさ」とは違うものである。社会学者土井隆義[2004]は、SMAPのヒット曲『世界に1つだけの花』の「1人1人違う種をもつ……1つとして同じものはないから……もともと特別な Only one 」という歌詞を引きながら、それが「どこにも『特別な Only one 』を見出せない自分には価値がないかのように思わせる」、個性志向を煽る歌ともいえると述 べている[土井 2004 : 37]。しかし、この場合の「もともと特別なOnl y one」というのは、語義からいっても、「唯一無二の私」の「交換不可能で比較不可能なかけがえのなさ」を意味しているだろう。それは「交換可能で比較可能な個性」とはまったく別のものである。「かけがえのなさ」としての「交換不可能性」や「比較不可能性」は、たとえどんなに平凡であっても、また双子でも、「個性」や才能や役割などの比較可能な属性とは無関係にあるものであるのに、土井は、それを「個性」や才能やであるかのように解釈してしまっている。つまり、「交換不可能で比較不可能な個」と「交換可能で比較可能な個」を混同している。いいかえれば、「普遍性−単独性」の軸と「一般性−特殊性」の軸を区別しそこなっているのである。むしろ、土井のこの混同こそが現代社会の「個性志向」と「かけがえのなさの喪失」を表しているといえよう。

*2:もっとも、このような現代社会の病理の診断は、ハイデガーをはじめとして、これまでも繰り返されてきた。たとえば、ベルナール・スティグレールも、現在の産業社会における多様性は市場における商品の多様性でしがな<、そのような市場のバイパーセグメント化による多様性は、単独なもの(特異なもの singuli er )を特殊なもの( particulier )に変えてしまうと述べている[スティグレール 2006 : 160]。

*3:「二重社会」という言い方は、最近、湖中真哉が『牧畜二重経済の研究』[湖中 2006]によって見事によみがえらせた、J・H・ブーケの「二重経済」論の前提となっている「二重社会( dual societi es)」という用語を、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」の議論の帰結を表すのに借用したものである。それについては、別の拙論[小田 2009a、2009b、印刷中]でも展開している。

*4:レイモント・ウィリアムズも、当初、社会(ソサエティ)という概念は後の時代より身近なものを指していたのであり、コミュニティとほとんど同義であったと述べている[ウィリアムズ 2002]。

*5ジンメルは同じエッセイのなかで、貨幣が「近代文化の相反する2つの方向」を支えるものだと指摘している。すなわち、「ひとつは、平均化へ、均一化へ、もっとも離れたものをも同一条件のもとに結び合わせ、より包括的な社会圏を生み出す方向へと。もうひとつは、もっとも個性的なるものの形成へ、個の独立性へ、個我形成の自立ほめざす方向へと」[ジンメル 1999 : 271]。後者の方向性は、「おのおのの人格に、より大きな外界からの距離と個人志向と、自由を与え」[ジンメル 1999 : 271-272]るものであった。この均一化=一般化と個人化=特殊化という2つの方向性は、「一般性−特殊性」という同じ軸の上での相反する方向性である。この指摘は、ジンメルの時代では、「一般性−特殊性」の軸 ──すなわち非真正な社会 ──が、それまでの「普遍性−単独性」の軸にとって代わることが必要であり、重要でもあったということを意味していよう。本論文で、「一般性−特殊性」の軸を「普遍性−単独性」の軸へと転換することの重要性を指摘しているのは、現代社会では、「一般性−特殊性」の軸がほとんど「普遍性−単独性」の軸を覆い隠してしまい、そのことの弊害 ──かけがえのなさの喪失 ──が大きくなりすぎたためであり、現代においても「一般性−特殊性」の軸が必要とされる局面ももちろんあることを忘れているわけではない。

*6:真正な社会が形作るネットワークと非真正な社会でのネットワークの違いについては、拙稿[小田 2008]を参照されたい。

*7レヴィナスの「顔の倫理」については、コリン・デイヴィス[2000]、内田樹[2001]、小泉義之[2003]、斎藤慶典[2005]の解説を参考にした。なお、レヴィナス倫理社会科学に接合する試みとしては、ジグムンド・バウマン[Bauman 1993]のものがある。

*8:享受における分離は、斎藤慶典のいうように、私の単独性(代替不可能性)の源泉ともいえるかもしれない。斎藤は、「ここには、なおいまだその萌芽のかたちでしかないにせよ、〈他の誰でもなく、なぜかこの私がこの「味わい」とともにある〉という事態が、つまり「私」性と「味わい」ないし「体験」を貫き・それらを結びつけるとともにその中核に位置するにちがいないあの「これ」性が、確かに成立している」[斎藤 2005:76-77]という。しかし、それは「他者」が不在であるゆえに、ここでの「唯―性」は代替不可能性としての単独性ではありえない。レヴィナスは、この段階での〈私〉の唯一性を「孤絶」と表現している[レヴィナス 2005 : 228-229]。

*9レヴィナスの議論では、,涼奮=層とつぎの△涼奮=層のあいだに、「家に住まうこと」という段階=層があるともいえる。その「住まうこと」においても、他者は到来していない。したがって、「享受」の段階=層が続いていると言ってもよい。しかし、この「住まうこと」という段階=層では他人が現われている。それが家という親密圏に迎え入れる「女性」である。ただし、家にともにいる他者としての女性は、つぎの△涼奮=層に見られるような他者、すなわち「高さという次元において啓示される顔としてのあなたではない」。「むしろなじみ深さとしてのきみにほかならない」[レヴィナス 2005 : 313]。

*10:この段階=層については、『全体性と無限』以降の著作でより明確に展開されている。

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