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2013-11-16

アドルノ,ブランショ,グリーンバーグ  ──批評におけるモダ二ズムというイデオロギー── 熊倉敬聡

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 テオドール・W・アドルノ(1903-69),モーリス・ブランショ(1907-), クレメント・グリーンバーグ(1909-)。 ドイツフランスアメリカ国籍こそ違いながら,ほぼ20世紀の同時代を生きた3人。それぞれ,音楽,文学,美術という領域において,重要な批評のディスクールを残した,あるいはいまなお実践しているこの3人。 しかし,この3人の批評言語が何らかのかたちで関係づけられたり,あるいはあからさまに比較されたりするようなことは今まであまりなかったのではないだろうか*1。たしかに,たとえばアドルノは,シェーンベルクストラヴィンスキーを論じた『新音楽の哲学』の序論で,グリーンバーグ1939年に発表された論文前衛と通俗物」に言及しているし*2,またブランショは,評論集『終わりなき対話』に収められている「アルス・ノーヴア」と題されたトーマス・マンといわゆる「新ウィーン楽派」との関係を論じた文章のなかで,アドルノのこの楽派に対する所論を引き合いに出している*3。だが,これらの事実は,そこに影響関係を指摘できるほどの重要性をもってはいない。

 われわれがこれから企てようとしていることは,したがって,この3人の批評家の間に影響の事実関係を探ることなどではない。われわれは,より抽象的なレベル,つまり彼らの批評言語の「身振り」ないし「仕種」に,ある種の共通性を指摘したいだけなのである。彼らの批評のディスクールは,近代の,そして現代の芸術を主に取り扱うが,その取り扱い方──作品を選び,解釈し,歴史的に意味付けるその取り扱い方,仕種に,ある相似が,しかもイデオロギー的な相似が見られるのである。それをわれわれは,批評の「近代主義=モダ二ズム」と呼んでみることにしよう*4。しかし,なぜ,それが「イデオロギー」なのか。なぜなら,そのようなモダ二ズムの言説は,ある種類の芸術実践だけを優先的に,あるいは排他的に評価,肯定し,逆にそれ以外の実践を歪曲,否定,ないし抑圧する働きをもっているからに他ならない。

 とはいっても,当然のことながら,3人の批評は一事が万事同じだというわけではない。とくに,ブランショの批評は,ある時期から──50年代の終わりごろから──非常に興味深い転身をとげる。彼は,それまでの典型的なモダ二ズム的言説のスタイルから,逆にそれを否定するような,というか,そのような言説の枠組みの「外」,「外部」へとわれわれを連れ出すような言説の形へと移動するのである。そしてのちに見るように,この言説の転身・移動は,われわれに,モダニズム的芸術観念とは全く異なったある芸術観念の可能性を示唆してくれるようなものなのである。

 それでは,いったい,3人の批評言語にいかなる共通性が見られるのだろうか。

彼らにとって,「近代芸術」とは,大まかに言えば,自律的芸術の確立とその内部崩壊過程を意味する。まず,彼らの言う芸術の自律性の概念から見ていくことにしよう。

 ブランショは,評論集『文学空間』の中で次のように語っている。「たしかにそれ〔芸術〕は何ものか実在するものを,1個の客体を目的とするが,ただし美しい客体をなのだ,すなわち観照すべき客体──使用すべき客体ではなくて──を,更には,自足する客体,自分自身に依拠し,いかなる他者にも帰着せず,自分自身の目的(この言葉[fin]の二重の意味──目的と終末──に於て)であるような客体を,という意味だ*5。」あるいは,アドルノは次のように語る。「沈黙の中でのクレッシェンドにおいて初めて,現代音楽は自らの言葉を見出す。非人間化の穢れを自ら背負い込むことによってのみ,音楽は自律性の要請を,すなわち,音楽が祭典儀式から美的に独立して以来その主観的な段階を通して常に音楽に連れ添ってきた自律性の要請を,つまりは,事柄それ自身があらゆる要素において純粋に自己構築せよとの要請を,果たすのである*6。」

 このように,自律し,自らをしか目的としない芸術とは,別な観点から見れば,社会の拒否,つまり,非社会,非世界と化した芸術と言える。それをたとえばブランショは,芸術の「根本的顚倒*7」と呼び,その世界の陰画=ネガとしての状態を,「昼」に対する「夜」,「生」に対する「死」,「存在」に対する「虚無」などとして描きだす。「芸術とはもはや世界に関係を持つことを希わないあの主観的情熱なのである。ここ,すなわち世界内に於ては,もろもろの目的への従属が,節度が,厳粛が,秩序が支配している。ここには科学があり,技術が,国家がある,ここには意味があり,もろもろの価値への確信があり,『善』と『真』との理想がある。芸術は『顛倒した世界』であって,非従属,逸脱,軽佻,無知,悪,ナンセンス,これらすべてが芸術に属している*8。」

 しかしながら,この芸術の否定性は,単に世界ないし社会にだけ向けられるわけではない。それはまた,芸術そのものをも対象とする。近代芸術は,社会を拒否すると同時に,自分自身を絶えず拒否してやまぬ何ものかなのである。「破壊的であるということを示すしるしは,モダ二ズムが本物であることを保証するしるしにほかならない。モダ二ズムが,〈つねに同じである〉という閉域を死にもの狂いになって否定する際に用いるもの,つまり爆発はモダニズムの定数の1つに当る。反伝統的なエネルギーは渦となって伝統を呑みこむ。そのかぎりにおいてモダ二ズムは自己自身に逆らう神話であると言ってよい*9。」

 ここで,近代芸術のもうひとつの主要な性格が明らかになる。つまり,自己批判性=自己参照性である。グリーンバーグは有名な論文近代主義絵画」においてモダ二ズムを次のように定義している。「私は近代主義哲学者カントから始まったこの自己批判の傾向の強化──激化と言ってもよい──と同一のものと考える*10。」近代芸術の欲望のベクトルは,己れの外へは向かわない。それは自分自身を欲し,自分自身を問題とする芸術なのである。ヘルダーリンマラルメヴァレリーホフマンスタールリルケ,シャールらは,ブランショによれば,「詩に関する詩」を書いた詩人たちであり*11,また,現代音楽は,アドルノによれば,「類語反復的にもっぱらそれ自身との関係しかもだない」ような音楽なのである*12

 このような作品の自己批判性=自己参照性は,いわゆる「内容/形式」の観点から見るならば,当然のことながら,「内容」に対する「形式」の優位,作品のフォーマリスティックな反省をもたらすことになる。「認識するものとしての芸術が裁きをおこなうのは,美的形式をとおしてである。〔……〕新芸術は,美的に現実化されたものがそれをまえに支払不能であることを宣言しなけれぼならないほど高度に,形式の理念を緊張させる*13。」さらに,この形式主義は,作品をひとつの「有機的」統一体に,すなわち,作品の構成諸要素の内的連関が有機的となり,部分と全体が絶えず緊張の力学を生み出すような統一体に形作ることを意味する。「最後の一音に至るまでアーティキュレートされていないものは何一つ許されない。もし本当に音楽の質というものが,その作品が完全に余す所なく構成し尽くされ,生のままの未形成な面の残りが皆無であることによって決定されるのであるなら,現代音楽はこの基準を遠慮なしにわがものとしている*14。」そして,このような作品の形式的有機性を裏側で可能にしているのが,まさに「自律的主観性」の緊張力による技術的統御なのである*15

 ところで,この作品の形式的反省がなされる舞台とは,その作品が属する芸術ジャンルの歴史的に作られた「言語」に他ならない。そのような歴史的生産物としての文学言語,音楽言語,絵画言語を,たとえばアドルノは「素材」と呼び,グリーンバーグは「媒体」と呼ぶ。近代芸術のフォーマリスティックな自己批判は,歴史的傾向・運動として,この「素材」ないし「媒体」そのものに集中し,そこから外的な爽雑物を排除し,それをできるかぎり純化しようとする。その間の事情をグリーンパークは見事に表現している。「芸術の各分野が持つ独自で固有な権限の領域は,その媒体の性質が持っているもののすべてと合致することがすぐ明らかになった。そして,なにか別の芸術媒体から借りた効果,または別の芸術媒体がそれを借りたと思われる効果をことごとく取り除くことが自己批判の仕事となった。かくして,各分野は”純粋”に表現されるであろうし,その“純粋さ”によって自立性ばかりでなく特性の標準も保証されることであろう。“純粋さ”は自己限定を意味しており,芸術における自己批判の試みは徹底的な自己限定の1つとなったわけである*16。」こうして,グリーンバーグによれば,マネに始まる近代主義絵画は,絵画の媒体を構成する基本要素──平らな画面にカンヴァスの四角い形,絵の具の特性,等々──を集中的に問題にし,なかんずく絵画に特有で独自な条件たる平面性へと収斂し,彫刻の領域たる三次元性を排除していく傾向を示すことになるのである*17グリーンバーグ自身擁護したジャクスン・ポロックらのいわゆる「抽象表現主義」のオール・オーヴァーが,そのような近代主義絵画の平面化傾向の極限に位置するように見えたのもそこからすれば何の不思議もない。

 こうして,絵画は平面・色彩・線へ,音楽は音そのものへ,そして文学は言語そのものへと向かう。ブランショにとって,マラルメがことのほか重要な詩人に思われるのも,まさにこの文脈に他ならない。ブランショは,マラルメの有名な言語のふたつの状態の区別──なまで直接的な状態(=日常言語)と本質的状態(=詩的言語)──を敷桁しながら次のように語る。「詩の言葉においては,〔……〕ただ言葉だけが,自らを語っているように思われるのだ。その時,言語は,その一切の重要性を得る。言語は本質的なものとなる。〔……〕以後は,マラルメが語っているのではなく,言語が自らを語っている*18。」

 自律的な近代芸術とは,こうした自己目的的な芸術の謂である。ところが,このような自己目的的な運動は,その極限において,まさにその内在的批判性・否定性ゆえに,自らの解体を招来する。作品はもはや「閉じた」有機的統一体を構成できずに,「断片」の集積と化し*19そして,それを支えていた芸術主体の統一性も崩壊して,断片的な主体となる。アドルノブランショにとって,サミュエル。ベケットの諸作品は,まさにこの芸術の内的崩壊過程,断片化の過程の象徴となっている*20

 こうして,芸術は解体してゆく。それは,自らの内在的否定性の炎により焼尽する。音楽は沈黙へ,文学は余白へ,そして絵画モノクロームの平面へと限りなく近づいていく。「現在,人々は,さまざまな奇妙な質問が課されるのを耳にするに至っている。たとえば『現代文学の諸傾向は何か』というような質問,あるいは『文学はどこへ行くか』というような質問である。そうだ,たしかにこれは人をおどろかせる質問である。だが,もっともおどろくべき点は,もし答えがあるとすればその答えは容易なものであるという点である。つまり,文学は,それ自身に向かうのだ,消滅というその本質に向かうのだ*21。」「新音楽はみずからをその犠牲とする。新音楽は世界の闇と罪のすべてを引き受けた。〔……〕個人にせよ集合体にせよ,新音楽とかかわりをもちたがるものはない。そのひびきは,聴かれぬまま,こだまもなく,消えてゆく。〔……〕聴かれざる音楽は,危険をもたらす球のように,虚空の時間のなかに落ちてゆく。新音楽は〔……〕絶対的に忘れられてることを,自発的にめざしている*22。」

 これは結局,単に芸術のニヒリズムを意味するのだろうか。そうではない,まさにそこにこそ芸術の逆説的な弁証法があるのだ,とアドルノは主張する。芸術は自らを限りなく解体してゆくことにより,逆に社会に対する最も強力な異議申し立ての手段となる。なぜなら,芸術が自らの解体を通して問題としている「素材・媒体」とは,全面的に社会的なものであるからだ。芸術は自らを批判することによって社会を批判する。芸術の絶対的孤立が,逆に最強の社会批判となる。「……芸術の上で抵抗力をとり戻せるのは,ひっきょう社会的にも要求されている客観的な事柄が,時には絶望的な孤立化においてのみ守りぬかれることにもたじろがぬ者だけだ。見せかけの必然性や法律によりかからず,完全に独力でそれを仕遂げる用意のある者だけに,孤立無援な人間の映像にとどまらぬものが,いつか叶えられるかもしれないのである*23。」こう,アドルノは説くのである。

 以上が,アドルノブランショグリーンバーグ,3人にとっての「近代芸術」の在り様である。いったい,この芸術観のどこが問題だというのだろうか。少なくとも3つの問題点を指摘することができる。

 まず第一に,このようなモダ二ズム的芸術観は,それにうまく合致しないような芸術実践を歪曲,否定,ないしは抑圧するということである。つまり,近代・現代芸術のもうひとつの傾向たる(あえて名付けるならば)「他律的」な芸術──彼らにとってこれは究極的には「芸術」を意味しない──すなわち,自律的な芸術のように記号の社会的再生産を内在的に批判するのではなく,それを「モンタージュ」的二重化によって「異化」するような芸術を承認することができないのである。たとえば,グリーンバーグは,シュールレアリスムを「『外部』の主題を取り戻そうとする反動的傾向」であるとし*24あるいは,ホップアートにほとんど歴史的重要性を認めず,「趣味の歴史における単なる新しい1エピソード」にすぎないと断定する*25。また,ブランショは,そのシュールレアリスム論において,シュールレアリスムモンタージュ美学,「芸術と社会の一致」といった他律性のテーマを無視する*26。そして,アドルノは,2人とは逆にそのような芸術傾向について多くを語るが,それはその芸術傾向を徹底的に批判するためなのである。彼にとって他律的な音楽を代表するのはジャズストラヴィンスキーである。まず,ジャズは,「厳密な意味において商品」であり,「ただの一瞬も商品性格そのものを制するにはいたらない」ような純粋に商業的な音楽であり,さらには,真正なニグロ音楽でもなく,単にニグロ性を装っているだけの退行的な音楽であり,そして,ジャズの演奏主体は,その「ホットな」即興演奏という演奏集団からの個人の逸脱によって束の間「生贅」,「不能」,「去勢」の危機にさらされるが,その危機を極限まで押し進めることなく,逆に中途半端なところから引き返し,集団の権威に迎合し,一体化するという(政治的な意味での)「全体主義」的傾向を示す音楽として定義されるのである*27。一方,ストラヴィンスキーの音楽は,疑似古代性,主体抹殺などの性格をジャズと共有するとともに,さらに「幼稚症的」,「サド=マゾ的」,「精神分裂的」等々と形容され,その「継ぎ足し」,「モンタージュ」の技法──『兵士の物語』などに典型的に見られる──は,音楽的生命・有機性を抹殺するとされる。そして,ジャズ同様,政治的全体主義に寄与することが示唆されるのである*28

 次に第二の問題点は,彼らのようなモダ二ズム的芸術観に従っているかぎり,芸術は限りなく老いていくか,死んでいくしかないということである。ブランショの「最後の作家の死」というテーマは,その間の事情をよく象徴している*29アドルノもまた,この問題について自覚的であり,「新音楽の老化」という題の論文まで書いている*30。この論文および『新音楽の哲学』によると,アドルノは,音楽は今やその歴史的限界に行き着いた,とみなす。現代の音楽は,自己批判的衝動の減衰により,あるいは「主観」の力の減退により,構造的に「硬化」し,「収縮」し,「枯渇」している。十二音技法によって音楽主体全面的自由を獲得したが,それは逆に「自由」の全面的相対化という不自由に主体を幽閉してしまった*31。ごく少数の才能ある作曲家を除き,作曲は形式的差異化の力を失い,単調な「遊び」となり,また,技巧を自己目的化したテクニックフェティシズムに陥っている。このような,「新しさ」そのものが中和され,無力化される自由の袋小路にあって,なおかつ音楽言語の「革新」を求めようとするならば,それは「無為」に限りなく近づく狂気をしかもたらさないであろう。

 最後の第三の問題点は,このようなモダ二ズム的芸術観全体,すなわち芸術を絶えざる自己批判的な革新と捉える芸術観全体が,それがまさに否定するとされる当の社会の資本主義の論理に媒介されているのではないか,ということである。アドルノは,『美の理論』において再三,近代芸術は資本主義の論理に従う,と述べる。「芸術作品の要素を全体へと纏め上げている芸術作品の形態は内在的な法則に従うものであるが,この法則は外部の社会の法則と密接な関係がある。社会的生産力は生産関係と同様に事実的なものとしてではなく,たんなる形式にすぎないものとしてであるが,芸術作品のうちにおいても出現してくる*32」。「この〔モダ二ズムという〕概念は,芸術における市民的原理をまず承認するものにほかならない。この概念の抽象性は芸術の商品特性と結びついている。〔……〕新しさは美的には1つの帰結であり,芸術が消費財から横取りした特徴である〔……〕。新しさは拡大される再生産を示す美的記号であり〔……〕。モダ二ズムは,硬化したものや疎外されたものの模倣による芸術なのだ*33。」このように,アドルノは,自分の言う芸術のモダ二ズムが資本主義の運動と密接な関係にあることに自覚的である。(この点,ブランショグリーンバーグは自覚的ではない。)しかし,ここで問題なのは,彼自身が思っているように,資本主義の論理に従っているのがじつは歴史的事実としての近代の芸術ではなく,逆に彼自身の近代芸術を規定する批評的ディスクールであるという点だ。資本主義に媒介されているのは,芸術の実践そのものではなく,それを「モダ二ズム」として意味付ける言説の方なのだ。ペーター・ビュルガーも言うように*34アドルノは,近代芸術の運動を,資本主義社会の論理の単なる二重化,「模倣」としてしかみていない。もし本当に,アドルノの言うとおり,芸術が消費財の新しさを横取りしている限りにおいて芸術であるならば,われわれはそのような芸術と「モード=流行」──まさに資本主義産物である──とをどのように区別したらよいのだろうか。いったい,資本主義的ではない芸術の概念は可能ではないのだろうか。この問いを発する者こそ, (50年代終わり以後の)モーリス・ブランショその人である。

 本論の冒頭で述べたように,結局アドルノグリーンバーグが──前者は悲観的,後者は楽観的という違いはあるにしろ──終始モダユズム的言説の内部に捉えられていたのに対し*35ブランショの批評は,少なくとも50年代の終わりに,ある転身を遂げる,つまり,モダ二ズム的言説の枠組みの「外」で,芸術について語りうるような言説へと移動するのである。

 1959年に出版された『来るべき書物』の巻末にある「権力と栄光」と題された論考において,ブランショは,ふたつの「三途の川」について語っている。まず,一方の三途の川とは,世界の「根本的顛倒」としての「文学空間」において,作家が絶対的な夜へと,「地獄」へと下っていくときに出会う川のことである。ブランショは,少なくともわれわれの知るかぎり,この論考まではこの三途の川についてしか語ってこなかった。 しかし,彼はここで,もうひとつ三途の川があると言うのである。そのもうひとつの三途の川とはいったい何なのだろうか。それは,彼によると,「昼」の三途の川,つまり,世界の中,社会の中,大衆の中にある三途の川なのである。それは,大衆の中に朧くあるざわめき,ある種の言葉が,またある種の行為が目覚めさせうるかもしれないある無名の,無言のざわめきなのである。そして,ブランショは,この論考において,何とこのふたつの川が結局は同じ流れを作りだし,ある同じ「歌」を奏でると言うのである。「今日,作家が,地獄へ降っていると思いながら,ただ街路に降り立つだけで満足しているのは,この2つの流れが,この基本的な交流[communication]のこの2つの巨大な運動が,互いに浸透しあっていて,ひとつに溶けあおうとしているからだ*36。」そして,ブランショは,ついに文学と政治の一致,詩と革命の一致について語りはじめるのである。

 こうして,ブランショは,68年のいわゆる「5月革命」を迎える*37。彼は,この時,パリの街の壁の上に書かれた無数の言葉,あるいは,ビラ,ステッカー,パンフレットスローガン,そして,さまざまな「委員会」での際限のない話し合いのなかに,「日常のものとなった詩」を認める。そして,そのような言葉,「日常のものとなった詩」によるコミュニケーションの形を「未だ嘗て生きられたことのなかった共産主義の一形態」と呼ぶのである*38

 モダ二ズムの言説によれば,ブランショ自身も言っているように,芸術には絶対的な孤独が必要であった。その絶対的孤独のなかで,芸術は,作品の生成する内在的強度, intensiteとして実現されるものであった。しかし,「日常のものとなった詩」としての芸術には,そのような孤独は無縁である。それは,逆に,人と「共にあること」からしか生まれないような芸術なのである。それは,もはや,孤独な主観のintensiteではなく,「爆発的なコミュニケーションcommunication explosive*39」なのである。

 前述したように,芸術の「モダ二ズム」が,結局は資本主義の論理の内部にとどまるものでしかないなら,この「爆発的なコミュニケーション」としての芸術こそ,いわば資本主義の真の「外部」を形作る実践なのではないだろうか。そして,そのような資本主義の「外部」という意味合いにおいて,そしてその意味合いにおいてのみ,それを「共産主義的」芸術と呼ぶことが許されるのではないだろうか。

ブランショは,そのような形のコミュニケーションあるいは芸術が、「未だ嘗て生きられたことのなかった」ものだと言うが,それは,たとえ最終的に流産したとはいえ,──まさにこのような意味での共産主義の対局にあるスターリニズムによって流産させられたとはいえ──,ロシア革命前後のいわゆる「ロシア・アヴァンギャルド」が東の間生きたものではなかったのだろうか。

*1:たとえば,ブライアン・ウォリスは, 1991年世田谷美術館等国内3ヵ所で開かれた『拡張する美術──アメリカン・アート1960-1990』のカタログに寄せた文章(「モダ二ズム,ポストモダ二ズム,そしてその先にあるものは」)の中で,アドルノグリーンバーグがモダ二ズムとアヴァンギャルドというふたつの語を同義語とみなして大衆文化ないしキッチュに対抗させたと指摘しているが,彼の論にそれ以上の発展は見られない(同展カタログp. 178参照)。

*2:『新音楽の哲学』,渡辺健訳,音楽之友社,1973,PP.20-21

*3:L'entretien infini, Gallimard, 1969, pp. 506-514.

*4:われわれは,「モダ二ズム」ないし「モダン」という用語の別な用法も知っている。しかし,ここはその詳細な検討の場ではないため,興味のある方は,たとえばマテイ・カリネスクの『モダンの五つの顔』(富山英俊,栂正行訳,せりか書房,1989)の第1章「モダンの観念」を参照されたい。

*5:『文学空間』,粟津則雄,出口裕弘訳,現代思潮社, 1976. p.296.

*6:「音楽と現代音楽」,相沢啓一訳,『現代思想』, 1987年11月号(特集=アドルノ),p. 83.

*7:前掲書, pp. 340-343.

*8:同書, p.303.

*9アドルノ,『美の理論』,大久保健治訳,河出書房新社, 1985,pp. 42-43 (傍点筆者,訳を一部変更)。

*10:「近代主義絵画」,桑原住雄訳,『現代の美術Art Now 別巻:現代美術の思想』所収,講談社,1972, p. 46.

*11:『来るべき書物』,粟津則雄訳,現代思潮社, 1976, pp. 304-307.

*12:『新音楽の哲学』,P.64.

*13:同書, pp.158-159.

*14アドルノ,前掲論文,P.84.

*15アドルノ,『新音楽の哲学』,pp. 74-75.

*16グリーンバーグ,前掲論文,p. 47.

*17:同論文,pp.47-48.

*18:『文学空間』,PP.40-4U。

*19アドルノ,『新音楽の哲学』. pp.159-162.

*20アドルノ,『美の理論』,pp.423-424とブランシ3 ,『来るべき書物』,pp.326-337参照。

*21ブランショ ,『来るべき書物』,P.301.

*22アドルノ,『新音楽の哲学』,p.168.

*23アドルノ,『不協和音』,三光長治,高辻知義訳,音楽之友社, 1971, p.234.

*24:『近代芸術と文化』,瀬木慎一訳,紀伊国屋書店, 1965,p.23.

*25:“Abstraction Post-Picturale", in Regards sur I'art americαn des annees soixante, Editions Territoires, 1979,p. 36.

*26:「シュールレアリスムへの反省」,『焔の文学一火の部分I』,重信常喜訳, 紀伊国屋書店,1958, pp. 41-56.

*27:「ジャズについて」,『楽興の時』,三光長治,川村二郎訳,白水社,1979, pp. 108-160.

*28:「ストラヴィンスキーと復古」,『新音楽の哲学』所収. pp. 169-268.

*29:『来るべき書物』,p.338.

*30:『不協和音』,pp.199-234.また,この問題に関しては,ペーター・ビュルガーの「モデルネの老化」(『現代思想』,前掲号, pp.156-173,大石紀一郎訳)を参照のこと。

*31グリーンバーグも,モンドリアンに関してこの逆説を指摘している(cf.近代主義絵画」, p. 49)。

*32:『美の理論』,P.401.

*33:同書, pp. 39-40.

*34:『アヴァンギャルドの理論』,浅井健二郎訳,ありな書房,1987,p. 90.

*35:この点,アドルノに関してはやや留保を加えなくてはならない。すでに述べたように,アドルノのモダ二ズム的芸術観によれば,芸術の未来は限りない絶望的老化にしかない。そのような禁欲の狂気染みた厳格さに従わない芸術は,彼によれば,すべて「文化産業」への,そして体制(なかんずくファシズム)への順応主義になってしまう。このような二者択──老化か順応主義か──が,アドルノ美学倫理を律しているのだが,最晩年の彼は,それまでは文化産業の最たるものとみなしていた映画の中にある種の批判的可能性を(非常に断片的とはいえ)認めていたようだ(cf. マーティン・ジェイ,『アドルノ』,木田元,村田晋一訳,岩波書店, 1987. pp. 194-197)。

*36:『来るべき書物』, p. 388.

*37:ここで詳しく語る余裕はないが,60年から64年と続く La Revue Internationale 創刊の試みは,この文脈で考えるとき,ことのほか重要である。Lignes誌(no. 11, septembre 1990)の“Le dossier de La Revue Internationale"を参照されたい。

*38:『明かしえぬ共同体』,西谷修訳,朝日出版社, 1984, pp. 74-75.

*39:同書,P.73.

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