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2013-11-24

コラボレーションの脱資本主義的可能性について──ロシア・アヴァンギャルドを中心に── 熊倉敬聡

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1.なぜ今、コラボレーションなのか?

 最近、現代芸術の世界では、コラボレーションという概念が注目されているように思われる。筆者の知るかぎりでも、アメリカで『20世紀の芸術的コラボレーション』展(1984年スミソニアン美術館)、『ティーム・スピリット』展(1990-1992年、アメリカ各地を巡回)などの展覧会が行われているし、日本では『美術手帖』が1991年2月号で「コラボレーティヴ・アート」特集を組んでいる。それに今回の慶恵義塾大学アート・センターのブックレット第1号がコラボレーション特集というわけだ。

 なぜ今、コラボレーションなのか。確かに現代美術の世界にかぎっただけでも、コラボレーティヴ・アーティストは非常に多い。60年代後半から活動を開始したアートラングージ、ジェネラル・アイディア、ギルバート&ジョージ、コマール&メラミッド、アンヌ&パトリック・ポワリエなどのいわば老舗から、IFP、エドワード&ナンシー・キーンホルツ、ベルント&ヒラ・ベッヒャー、ボイル・ファミリー、クレッグ&ガットマン、フィッシュリ&ヴァイス、ティム・ロリンズ&KO.S.、マイク&ダグ・スターン、ウォレス&ドナヒュー、ピエール&ジル、などきりがないほどだし、日本でも、ダムタイプ、アイディアル・コピー、コンプレッソ・プラスティコ、小杉十安藤、Het Hなどがいる。

 ところで、現在、ジャーナリズム、批評の言説がコラボレーションについて語る際、暗黙のうちに前提にしている図式があるように思われる。それは、モダン:制作主体の単一性・自律性/ポストモダン:制作主体の複数性・交通性、というものであり、それはまた、制作媒体・メディアをめぐるモダンポストモダンの対立(単一メディアマルチメディア)に対応している。

 このような文脈に従うかぎり、確かにコラボレーションとはすぐれてポストモダン的な現象に見える。だが、本当にそうなのか。コラボレーションとは(マルチメディア性とともに)「近代」以降の芸術に特有なものなのだろうか。しかし、よく考えてみると、collaboration =共働性とは何もポストモダンに固有な現象ではなく、人類の芸術的実践の歴史を考えた時、むしろ常態なのではないだろうか。古代の祭祀から、中世ギルドルネッサンスの工房、あるいは20世紀の様々なアヴァンギャルドイタリア未来派、ダダ、ロシア・アヴァンギャルドシュールレアリスム、シチュアシオニスム、フルクサス等々)。とするとむしろ、「近代芸術」の非コラボレーション性──仮にそれが正しいとしたら──の方が、人類の芸術実践にとっては異常な事態だったのではないだろうか。だから、我々は、コラボレーションというものを単に上記のモダンポストモダンという安直な図式だけで考えてはいけないのだ。逆にそうした図式の内部だけで考えているかぎり、我々は芸術にとっての、そして人類の歴史にとってのコラボレーションの意味を捉えそこなってしまうだろう。コラボレーションという概念を、単にジャーナリスティックなモードとして語り、消費してはならないのだ。


2.社会主義思想におけるコラボレーション=共働性の意味

 ところで、コラボレーションの意味を十全に捉えるためには、我々は芸術的コンテクストから暫し離れなくてはならない。なぜなら、コラボレーション=共働性は、芸術の世界で問題とされるはるか以前から、ある社会思想の領域で中心的プロブレマティツクを構成していたからだ。オーエン、サン=シモン、フーリエ等に始まる社会主義思想は、共働性の中に人類の新たな社会の姿を探し求めた。そこに、資本主義的「疎外」から脱出する可能性を見ていたのだ*1

 我々はここで、その社会主義思想の中でも資本主義に最も根源的な批判を加え、「科学的」に共働性の未来を考えたとされるマルクスコラボレーション観を見ていくことにしよう。

 マルクスによれば、人間とは元来コラボレーション的=共働的存在である。つまり、人間存在とは、自然との関わり(=生産的労働)と他者との関わり(=交通)とによって編まれた存在なのである*2。「労働におけるそれであれ、生殖におけるそれであれ、生活の生産は、かならずただちに二重の関係として──すなわち一面では自然的関係として、他面では社会的関係として──あらわれるものである。ここで社会的というのは、どんな条件のもとであろうと、どんなやり方においてであろうと、またどんな目的のためであろうと、ともかく何人かの個人の協働が考えられているという意味である。次のようなことが生ずるのはここからである。すなわち、特定の生産様式あるいは特定の工業段階は、いつでも特定の協働様式あるいは特定の社会段階と結びついており、この協働様式が、それ自体ひとつの《生産力》であること」*3

 しかし、共働性はただそれだけで万人に幸福な社会を作りだすわけではない。むしろ、今までの人類の歴史では、共働性は「自然成長的」に分割される、すなわち「分業」となることによって、幸福どころか逆に人間にとって「対抗的な力」、外的な強制力として働いてきたのだ。「分業は、われわれにとって、まさに次のことについての最初の例証である。すなわち、人間たちが自然成長的な社会に住むかぎり、またしたがって特殊利害と共同利害との分裂が存在するかぎり、活動もそれゆえ自由意志的でなく、自然成長的に分割されているかぎり、人間の自己本来の行為が、かれにとって疎遠な、対抗的な力となり、かれがその力を支配するかわりに、その力がかれをしめつけることの最初の例証である。すなわち、労働が分割され始めるやいなや、各人は、ある特定の活動範囲だけにとどまるようにしいられ、そこからぬけだすことができなくなる。かれは猟師、漁夫、または牧夫、または批判的批判家のいずれかであって、生活のてだてを失うまいと思えば、どこまでもそのいずれかでありつづけねばならない」*4

 そして、資本主義とは、この自然成長的協働=分業が限りなく発達し、複雑化したシステムであり、そこでは、工場内分業として、ある製品を完成まで導く労働は、効率最優先の発想から細分化され、特殊化された単純部分労働の機械的系列と化し、各労働者はその[部分]に強制的かつ反復的に服属することになる。

 マルクスによれば、共産主義社会とは、そのような分業=自然成長的協働を廃棄し、共働性が社会全体で「自由意志的」に制御される社会である。「これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、批判家にならなくてよいのである」*5。「全面的な依存、この諸個人の世界史協働の自然成長的形態は、この共産主義革命によって、これら諸力、すなわち、人間たちの相互−作用からうみだされたものでありながら、従来まったく疎遠な力としてかれらにのぞみ、かれらを支配してきた力の、制御と意識的支配へと変えられる」*6

 自由意志的な共働が織りなす共産主義社会はしかし、マルクスの中で(何人かのマルクス論者が指摘するように*7)労働と欲望の関係をめぐって微妙な結像の触れを示す。例えば『資本論』第3巻の「三位一体的形式」の箇所で、マルクスは未来の社会を次のように「必然性の国」と「自由の国」との結合として描き出す。「じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持して再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。かれの発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である*8。」

 ところが、『コーダ綱領批判』においては次のように言うのだ。「共産主義社会のより高度の段階で、すなわち個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立がなくなったのち、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、個人の全面的な発展にともなって、またその生産力も増大し、協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるようになったのち そのときはじめてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる──各人はその能力におうじて、各人はその必要におうじて!」*9

 今村仁司も指摘するように*10、この「そのものが第一の生命欲求となった」労働という言葉に、フーリエ的な労働と快楽の一体化というテーゼの残響を読みとることは難しくないであろう。しかし、ここで問題なのは、この2つの共産主義社会のイメージのどちらが良いか悪いかということではなく*11、むしろ、共産主義とは、すべての個人にとって、自らのすべての労働が[自由意志的]な悦び(「ボランティア」!)となるような社会に向けて、いわゆる「必然性の国」が限りなく「自由の国」へと転化してゆく常にwork in progress であるようなダイナミックな運動として理解すべきではないだろうか。

 ところで、マルクスを受けて、レーニンボリシェヴィキロシア革命を通して目指した社会の在り様とは、まさにこのような自由意志的共働=悦びが満ちる社会であり、(のちに見るように)すべての労働がいわば芸術となるような、というより、労働/芸術という資本主義的対立そのものが止揚されるような社会であったのだ。

 が、我々はそのようなロシア・アヴァンギャルドの考えを考察する前に、まずそれが止揚しようとした当の芸術と資本主義の関係を検討しなくてはならない。


3.近代芸術の反資本主義

 ある種の批評的言説は、いわゆる「近代芸術」を特徴づける際、他の諸特徴とともに、制作主体の単独性・没社会性、「本質的孤独」(ブランショ*12を指摘する。確かに前世紀後半のいわゆる「呪われた」芸術家たちの実存的・芸術的運命を考えれば、その指摘は正鵠を得ているように思われる。──近代芸術の非コラボレーション性。

 ところで、マルクスを含めた社会主義者たちが、ある種のコラボレーションの形式(「自由意志的」共働)の中に、そしてその中にのみ資本主義社会を脱する可能性を見ていたのだとしたら、その時、非コラボレーティヴな近代芸術は、資本主義に対して、いったいどのような位置を占めるのだろうか。それはまさに、コラボレーティヴでないがゆえに、資本主義に迎合するとでもいうのだろうか。結論から先に言おう。いわゆる近代芸術は、ある種の反資本主義的性格をもっている。しかしそれは、常に社会的に「非場所的」なものであり、歴史的に「非同時代的」な反資本主義性なのだ。どういうことか。説明しよう。

 自明なことだが、資本主義的生産物=製品は、社会的に「商品」として自己実現するために、すなわち購買されるために、(1)使用価値(財の物質的有用性から象徴的価値まで含めて)的かつ交換価値的諸記号の十全なる総体として、社会的に認知されるよう、(2)製作物として完遂されたもの、仕上がったものでなければならない(つまり、製作途上あるいは破損したものであってはならない)。

 ところで、例えばクリステヴアによれば、近代の芸術とは、自らの実践を procès de la signifiance 「意味生成的係争」として実現する類のものである*13。 procèsとはフランス語で通常「訴訟」「裁判」を意味する言葉であり、一方、signifianceは(クリステヴアの用語法では)ごく大まかにいって、ある記号体系(例えば言語)とそれを支える主体双方の構造化の生成過程そのものを指す用語である。従って、procès de la signifiance とは、そのような記号体系−主体の構造化それ自体を、ある記号的実践のもつ批判性=否定性が「訴訟」にかけ、問題化する終わりなきプロセス──proècsには「プロセス」という意味もある──ということになる。ところが、このprocèsの批判性=否定性は、それが「作品」という形をとろうとする時、単に signifiance に対して働くのみならず、その「作品」の生成そのものに自己参照的に働いてしまい、従って、「作品」は自らを「完成」に向けて形成しようとすればするほど逆にますます自らを消去し、流産させてしまうことになる。「作品」(oeuvre)の生成は──ブランショの言うように*14常にdésoeuvrement (非作品化)としてしか自らを営むことができない。マラルメセザンヌカフカ等々、「近代芸術」の芸術家が定められた終わりなき「断片化」としてのdésoeuvrement 。

 ここで我々は、「近代芸術」のもつ反資本主義性を「積極的」と「消極的」の二種類に分けることもできよう。「積極的」反資本主義性とはまさに、記号の社会的生産体制への根源的批判としての procès de la signifiance であり、他方「消極的」反資本主義性とは、近代芸術が完成された作品=製品とはなりえず(desoeuvrement)、従って「商品」へと転化することが不可能な性格である。

 ところで、資本主義社会とは、(マルクスが『資本論』の冒頭で言うように)「1つの巨大な商品の集まり」として現出する社会である。換言すれば、人でも物でもそれが「商品」とならないかぎり、原則としていかなる社会性をももちえないような社会である。

 ここに至って、近代芸術の反資本主義性の逆説的性格が明らかになる。つまり、それは自らの実践の内部では、 procès de la signifiance として資本主義へのある種の批判性をもちえるが、それがdésoeuvrementとして、作品=製品としての成就を最初から奪われているがゆえに、自らを永遠に「商品」に転化することができない、すなわち自らの実践を外在化・社会化することができないのである。近代芸術の反資本主義性は、社会的に場所を持ちえないし(制作主体の内にとどまるか、せいぜいその主体の取り巻き=小グループの内にとどまる)、そして歴史的にみて同時代的に働きえないのである。その事態を納得するには、例えば、常に来るべきものとしてしか自らを指し示しえず、ほとんどすべての実践痕跡を消去し、社会の中で永遠に場所を失ってしまったマラルメの le Livre〈書物〉、あるいは、1919年アンドレ・ブルトンが発見するまで50年間社会から完全に忘却されていたロートレアモンの存在を思い出すだけで十分であろう。

 従って──クリステヴァも指摘するように*15「近代芸術」以降の芸術的実践資本主義に対して自らに新たに課す課題とは、次の2つのものになる。(1)どのようにしたら procès de la signifiance の反資本主義性が社会の中に場所をもち、同時代的に作用することができるか。(2)もしそうして、その procès が(近代的意味での)「芸術」の枠から外に出るとしたら、それを社会の他の諸領域にも波及させ、社会そのものを脱資本主義化することはできないか。

 ところで、この2つの課題に同時に答えようとした歴史的運動があった。それこそ、(数ある20世紀初頭のアヴァンギャルド運動の中でも)ロシア革命期の芸術的・政治的アヴァンギャルドに他ならない。


4.ロシア・アヴァンギャルドにおけるコラボレーション──労働vs芸術の止揚に向けて──

a .コラボレーション自由意志的「組織化」

 1917年ロシア革命以前のいわゆる「アヴァンギャルド」芸術は、もし一言で要約するなら、芸術実践の〈自己目的化〉をその主導的ディスクールにしていた。(話を簡略化するために、いわゆる「造形芸術」の領域だけに限るとすれば)ロシアにおけるアヴァンギャルドは、1907年にラリオーノフ、ゴンチャローワ等が結成した〈青い薔薇〉グループのネオ・プリミティヴィズムの絵画に始まるとするのが定説のようだ*16表現主義フォーヴィズムなどの西欧の新しい絵画言語と伝統的なロシアのイコンやルボーク(民衆的木版画)への関心を独自の方法で婚姻させたネオ・プリミティヴィズムは、グループの分裂・結成の繰り返しとともに(〈ダイヤのジャック〉1910年結成、〈ろばの尻尾〉1912年結成)、次第にその抽象性を高めてゆき、いわゆる「立体未来派」の造形的自己目的化へと収斂してゆく。例えば、詩人にして画家のダヴィッド・ブルリュークは書く。「昨日、芸術は手段であった。今日、芸術は目的となった。絵画絵画的な課題のみを追求するようになった。絵画は自己のために生きはじめた」*17そして中でも、1913年頃からマレーヴィチがシュプレマティズムへと突入し、一方タトリンが「絵画レリーフ」から「反レリーフ」へと移行して、ロシア・アヴァンギャルドの造形言語の自己目的化は、絵画二次元化と三次元化双方のヴェクトルで1つの頂点を迎えることになる。

 そこに、ロシア革命が勃発する。

 自己目的化の極点にあったアヴァンギャルドそれ自体には、おそらくその時、自らを外在化・社会化する内発的な理由はなかった。レーニントロツキーら政治的アヴァンギャルドの引き起こした革命との遭遇は、いわば歴史的偶然であった。人類史上前代未聞の「共産主義革命」に直面した芸術のアヴァンギャルドたちは、最初それに(理論的にではなく)あくまで直感的に対処する。彼らはそこに「私の革命」(マヤコフスキイ)を感じとり、芸術の革命と政治・社会の革命の強い共振を覚える。自己目的化の極限にあった芸術は、その共振から生じた衝撃により、突如外部へと暴力的に開かれ、「街路」へと「広場」へと連れ出される。──芸術の「コペルニクス的転回」。

同志諸君!

バリケードへ!

心臓と魂のバリケードへ行け。

退路の橋を焼き払う者こそ

真のコミュニストなのだ。

未来主義者だちよ、ゆっくり行進するのはもうやめろ、

未来に向かって飛躍するのだ。

(中略)

安物の真理なんかうんざりだ。

心臓から古いものをたたきだせ。

街路はわれらの絵筆。

広場はわれらのパレット。

時代がかった書物では

千ページを費やしたって

革命の日々は歌えない。

街路へ出ろ、未来主義者たちよ、

太鼓を打ち鳴らせ、詩人だちよ!*18

 革命当初、このように政治的・社会的衝撃により、外部へと暴力的に開かれたアヴァンギャルド芸術のアナーキーは、やがて革命政府によって次第に「組織化」されるようになる。1918年初頭に設置されたナルコムプロス(教育人民委員会)の議長ルナチャルスキイは──リト(文学部会)、ミュゾ(音楽部会)、テオ(演劇部会)とともに──「国内のすべての美術流派と美術活動全体の建設と組織」*19を目的としてイソ(造形芸術部会)を同年6月に設立する。立体派の画家シュテレンペルグが部長となり、ペトログラード支部には画家のアリトマンを責任者に、マヤコフスキイ、ブーニン、シクロフスキイなど美術プロパーではない芸術家や評論家も参加し、またモスクワ支部では、タトリンを責任者として、マレーヴィチ、カンディンスキイ、ロドチェンコら錚々たる顔触れのアーティストたちが結集した。

 イゾの仕事は多様だ。(1)「国営自由展覧会」(参加資格に制限なし)の開催。(2)新しい美術館の設立、運営。(3)国家による作品の購入。(4)アジテーションプロパガンダ芸術の企画、実施(ツァーリ時代の旧モニュメントの除去、新モニュメントの設置〔タトリンの有名な〈第3インターナショナル記念塔〉はこの一連のプロジェクトの1つであった〕、革命記念祭やメーデーの祭典、壁画、看板、ポスター、煽動建造物・列車・汽船・市電自動車陶器など)。(5)美術教育の再組織化、運営。ペトログラードでは、美術アカデミーが廃止され、スヴォマス(国立自由芸術工房)に再編され、またモスクワでは、モスクワ絵画・彫刻・建築学校とストロガノフ応用美術学校が改組され、ヴフテマス(国立高等芸術技術工房)として生まれかわった*20。(6)インフク(芸術文化研究所)の設立(20年5月)。初代所長にカンディンスキイが就任した(ペトログラード支部長:タトリン、ヴィテヴスク支部長:マレーヴィチ)この研究所は。共産主義社会における新たな芸術の理論化と普及を目的としたアーティスト、学者らによる共同研究機関であった。

 ここで特に、コラボレーションという観点からみて興味深い後三者を少し詳しく見てみよう。

 まず、インフク。初代所長のカンディンスキイは、インフクの作業プログラムを立てているが、その綱領にはすでに芸術の共働性およびインタージャンル性を積極的に推進しようとする考えが現れている。「芸術文化研究所の作業の目的は、個々の芸術のみならず、全体芸術の基本的要素を分析的・総合的に研究する科学である。ここから3種類の課題が出てくる。1.個々の芸術相の理論について 2.個々の芸術相の相互関係の理論について 3.記念碑芸術あるいは全体芸術の理論について*21」そして特に、「記念碑芸術あるいは全体芸術に関する作業計画」という箇所では、この領域においていわゆる「ロー・アート」まで含めた芸術の綜合化=コラボレーションが提唱されている、「この領域では、あらゆる芸術ならびに芸術近接領域を代表する人々によって作業が進められる。すなわち、それは、画家、彫刻家、建築家音楽家(とりわけ作曲家)、詩人劇作家、舞台活動家(とりわけ舞台監督)、別けても特にバレエ活動家サーカス芸人(とりわけクラウン)、寄席芸人(とりわけ道化)等々である」*22ところが、カンディンスキイは、その「心理主義」ゆえに他のメンバーと齟齬をきたし、半年足らずで離脱してしまう。(彼はその後、ドイツのヴフテマスともいうべきバウハウスで自らの理論を実践、教育しようとするだろう。)

 その後のインフクの活動は(インフク広報部による「インフクの活動報告」*23等によれば)、2つの方向に分けられる。

(1)理論的作業。インフクとは、メンバーの頭脳の絶えざる交通=ブレイン・ストーミングの場であった。その知的共働の作業から、構成主義、生産主義の理論が練り上げられていった。例えば、1921年1月から4月にかけて、「コンポジションとコンストラクションの概念およびその相違に関する分析」と題された一連の研究会・討論会が行われ、ここで〈コンストラクション〉──「構成」という訳語の何たる不的確さ!──という概念が決定的に明確化されるに至る。あるいは、21年から22年にかけての冬には、構成主義の生産過程一般への融合の試みといえる[生産芸術]ないし「生産主義」の理論的生成がなされている。

(2)実践的作業。 1.ヴフテマス、スヴォマスなどのカリキュラムへの実践的、理論的貢献。(インフクのメンバーの大多数がそれらの工房の教授であった。)2.舞台装置作成、公演・著述活動、展覧会などのメンバー個々の実践的作業。 3.生産に関わる国内の様々な組織との交流。4.プロレトクリト(プロレタリア文化連合)との交流。 5.国内外の芸術・文化組織との交流。

 以上概観した活動内容を見てわかる通り、インフクとは、内部における、また外部との知的交通によって新たに編まれ続ける、開かれた組織ならざる組織であったといえる。それは先のインフク広報部による「活動報告」の結語にある通りである。「インフクとは人工的に造られた組織ではなくて、現実的に統一され、進化し続ける何物かなのだ」。

 次にヴフテマス。 1918年4月12日の政令により、ツァーリ時代の諸帝国芸術アカデミーが廃止されると、国中に大小様々な形式の国立自由工房が生まれる。その中の最大規模の、ものが、ペトログラードのスヴォマスと並んで、モスクワのヴフテマスであった。この新たな芸術教育の方針は、芸術活動と日常活動の融合、「芸術家」と民衆との境界線撤廃、芸術教育と生産労働の一致にあった。それはいわば「学校」と「工場」の融合体、〈工房=アトリエ〉であった。

 カリキュラムは、その約10年にわたる存続期間中絶えず改編が行われたが、基本的には1年ないし2年の「基礎コース」修了後、8つの学部絵画、彫刻、テキスタイルセラミック建築、木工、金工、グラフィック)に分かれ、3年間の専門教育を受けることになっていた。教授陣は、アヴァンギャルド芸術家(そのほとんどがインフクのメンバー)とともに、旧アカデミーのスタッフも含まざるを得なかったがために、呉越同舟的陣容であり、特に学部はそうであった。それに対し、基礎コースはほばアヴァンギャルドたちが主導権を握っていたために、より斬新な教育内容をもっていた。例えば1921〜22年にかけてのコースの構成と担当者を見ると、(1)色彩コンストラクション(A-ヴェスニン、ポポーワ)(2)空間コンストラクション(ドクシャエフ、クリンスキイ、ラドフスキイ)(3)グラフィック・コンストラクション(ロドチェンコ、キセレフ、エフィモフ)(4)ヴォリューム・コンストラクション(ラヴィンスキイ)となっている。これを見てわかるようにそこでは学部の編成がもっている「近代芸術」的「ジャンル」の構造が乗り越えられ、構成主義の理論的成果がそのままカリキュラム化されている。

 ヴフテマスを代表とする革命政府の芸術教育は、結局、知の権力装置としての近代的・ブルジョワ的「学校」を止揚し、教育機関を理論的・技術的知の実験的共働の場と捉え、しかも、芸術ないし教育が、他の「日常」の活動・労働に浸透し、同化するような〈メタ−学校〉を目指したものであったと言える。

 最後に、アジテーションプロパガンダ芸術。 1918年4月、レーニン自ら「モニュメントによるプロパガンダ」という考えを打ち出し、以後、アジテーションプロパガンダの目的に、単に恒久的なモニュメントのみならず、ありとあらゆるものがこの芸術のメディアとして利用される。演壇、キオスクから、ポスター、壁画、看板は勿論のこと、列車、汽船、市電自動車陶器までが、民衆との交通、というか民衆間の交通の装置となる。というのも、このアジプロ芸術においてはもはや、芸術家=創造者/民衆=享受者というブルジョワ的一方向構造が崩れているからだ。そこでは、民衆的共働が創ると同時に享受するのだ。その民衆的創造=享受が最も大規模に実現されたのが、革命の記念やメーデーのための〈祭典〉に他ならない。「革命祝祭日の構成は、煽動芸術のもう1つのきわめて重要な形態であった。そうした構成は、さまざまな芸術分野を特別な──短期間的な──やり方で幅広く総合する条件を生んだ。〔中略〕煽動芸術のあらゆる形態は、祝祭の参加者が積極的な反応を引き起こし、創造的で、できるだけ”芸術的な”自主活動を行なうよう刺激することを課題としていた。祭典の構成によって、通りや広場、個々の建物のいつもの様相をできるだけ変えることが目標とされた。古い町にさまざまな芸術によって独特な“未来都市”が──壮大な多層的シンボルとしての、また芸術的手段で表現された、思想的、感情的プログラムとしての“未来都市”がつくりだされた」*24。こうして、国内のあらゆる都市が、(ヴフテマス「基礎コース」の構成同様)「ジャンル」という概念を超えた、いわば〈メタ−ジャンル〉的な巨大な芸術的コラボレーション空間に変貌した。

b.コラボレーションの脱資本主義的可能性

 ここで、ロシア・アヴァンギャルドにおけるコラボレーションの脱資本主義的可能性を理論的に考えるにあたり、まず、対比的に「近代芸術」の非コラボレーション性を理論的に捉え返してみたい。第3章でも述べたように、近代の芸術実践の否定性=批判性は、「意味生成」(signifiance)の構造化に批判的に働くとともに、自らの実践に自己参照的に働いてしまう。換言すれば、「近代芸術」は、その実践を構成する観念的かつ物質的なあらゆる社会的要素(当該芸術ジャンルの関わる記号体系から主体の在り方、そのジャンルの造形言語、メディア特性など)を問題化すると同時に、それらすべてを自らの自己参照的・自己目的的螺旋状運動に巻き込み、限りなき内在的差異化の運命を強いるのだ。

 このような運動の軌跡を描く近代芸術において、非コラボレーション性は少なくとも次の3つの構造的アスペクトで指摘することができる。

 (1)芸術ジャンルの孤立化・非交通。芸術実践は、自らのジャンルを構成する造形言語の根拠を絶えず問題化することにより、その言語の形式的特性を明らかにするとともに、他のジャンルに関わる要素をできるかぎり排除しようとする。ジャンルは相互に孤立し、交通を拒否する。

 (2)芸術実践主体孤立化・非交通。芸術実践の自己参照的運動は、それの関わる造形言語のみならず、その実践主観的に支える主体をも巻き込む。限りない自己言及・分裂と化す主体は、当然のことながら、他者との外在的交通(少なくとも直接的な)から遠ざかる。(せいぜい、[書簡]という間接的交通手段に頼るだけだーマラルメゴッホなどの膨大な手紙を思い出すだけで充分だろう。)

 (3)芸術実践の非メディア化。これは次元の異なる二つの場面で言える。まず、芸術実践の自己に内在的な参照は、実践が本来メディアとしてもちうる可能性、すなわち、社会的外在化=開かれとしてのメディア性(「書物」「タブロー」などとして)を忘却、抑圧し、社会との交通を絶つ(「積極的」非メディア化)。そして、それのみならず、実践自己批判的運動は、自らを完成した作品=製品として成就しえない(desoeuvrement)がために、自らを「商品」としてメディア化=流通させることもできない(「消極的」非メディア化)。

 このように、近代芸術の非コラボレーション性は少なくとも3つのアスペクトで指摘することができる。これに対し、ロシア・アヴァンギャルドコラボレーション性はどのような形で現れるのだろうか。これもまた、近代芸術の3つのアスペクトと対照的にやはり3つの局面で指摘できるだろう。

 (1)芸術実践間の〈他性〉による交通的 procès。実践に内在的に働いていた否定性・批判性が、「革命」により、「コペルニクス的」に転回し、外部へと暴力的に開かれ、今度は、それぞれに〈特異〉な実践間の<他性〉そのものが織りなす自己批判的共働へと転化する。例えば小規模な例では、詩画集『これについて』におけるマヤコフスキイ(詩)とロドチェンコ(フォト・モンタージュ)によるコラボレーション。これは、従来の挿絵本におけるテキストと挿絵の主従関係を乗り越え、各々に特異な詩とフォト・モンタージュがいわば並列的に交響しあうものとなっている。それから例えば、メイエルホリドの演劇。ブルジョワ風俗劇においては、台詞=言葉の表象性に美術、音楽、身体などの他の演劇的要素が従属していたのに対し、メイエルホリドの演劇は、彼自ら考案した身体の構成主義ともいうべき「ビオメハニカ」のコレグラフィ、マヤコフスキイらの執筆したテキスト、ロドチェンコ、ポポーワ、ステパーノワらが手掛けた舞台装置、衣装、ショスタコーヴィチらの作曲した音楽が、これまた並列的に共働しあう、「演劇」というよりむしろインタージャンル的な「パフォーマンス」に近いものといえる。しかり、ロシア・アヴァンギャルドの試みた芸術的交通では、もはや近代芸術的「ジャンル」は無効なのだ。それは(ジャンルという概念から出発する)「インタージャンル」的なものというより、むしろ「ジャンル」という概念自体を止揚する〈メタ−ジャンル〉的実践なのだと言えよう。前述のヴフテマスの「基礎コース」の目指したカリキュラム編成も明らかにそのようなメタ−ジャンル性を狙っていたし、また、革命記念祭やメーデーの祭典も、諸芸術ジャンルの綜合としての「綜合芸術」というより、もはやどの部分をとっても純粋に「建築」「彫刻」「絵画」「演劇」「文学」「音楽」等々と定義しえぬ文字通り〈メタ−ジャンル〉的なコラボレーションだったのではなかったか。

 (2)芸術実践主体間の〈他性〉による交通的 procès。近代芸術において内的・自己参照的否定性に巻き込まれていた主体は、ここで、間主体的〈他性〉の共働に投げ込まれる。しかし、その共働は決してある超越的なテロスを達成するため同質的に構造化される集団ではなく、全く逆に、共に考え、共に行うことが、主体同士の異質性の交通となり、究極的には「主体」という概念が無効となるような〈メタ−主体〉的磁場の生成となる。先程見たインフクの知的共働、あるいはヴフテマスの教育的共働の絶えざる理論的・実践的生成は、まさにその証左と言える。

 (3)芸術実践の再メディア化・メターメディア化。近代芸術の「積極的」・「消極的」非メディア化に対し、ロシア・アヴァンギャルド実践は対照的なメディア態度を示す。まず、ロシア・アヴァンギャルド実践は、アジプロ芸術に典型的に見られるように、「メッセージ」は最小限で、ただただ社会と関わるという行為だけに還元された実践という様相を呈する。近代芸術によって一旦は非メディア化された芸術は、ここで再メディア化される、というより本当は〈メタ−メディア〉化されるといった方がよいのかもしれない。なぜなら、「近代」において中心的なメディア貨幣、書物など)が時間的にも空間的にも隔たっている複数の人間を間接的に媒介するものであるとするなら、ロシア・アヴァンギャルドの芸術実践は、極端な場合、そのような意味でのメディア性(間接的媒介)を最小限に切り詰め、逆に直接的関係に限りなく近づこうとするからだ。──芸術実践のメタ−メディア化。

 ところで、前述したように、近代芸術は自らを作品=製品として成就しえないがゆえに、すなわち絶えず非作品的〈断片〉としてしか自らを生成しえないがゆえに、(「1つの巨大な商品の集まり」としての)資本主義社会においては、商品=製品として自らを社会化=流通させることができなかった。それに対し、ロシア・アヴァンギャルド実践は、資本主義的回路を経由する必要がないために、自らの断片性をそのまま一挙に社会化することができる。というか、メタ−メディアとなった実践は、創り出される瞬間から常にすでに社会化されているのだといえる。こうして、ありとあらゆるもの(壁、紙、陶器などから様々な乗り物、学校にいたるまで)が再メディア化、いやメタ−メディア化され、ロシアの国土(特に都市)は、──空間的・時間的造形の断片(「インスタレーション」!)の絶えず明滅する祝祭的世界となった。

* * *

 このように、ロシア・アヴァンギャルドにおけるコラボレーションの追求は、少なくとも3つの局面において「近代芸術」から脱するヴェクトルを孕んでいた。しかしそれは単に芸術という領域における「近代」を乗り越えようとするものではなかった。他の20世紀初頭の芸術的アヴァンギャルド運動(イタリア未来派、ダダ、シュールレアリスムなど)に比して、ロシア・アヴァンギャルドが決定的に異なっていた点は、それが政治的アヴァンギャルドによる[革命]に、それも「共産主義革命」にリンクしていた点であり、まさにそれゆえに、それは芸術の革命に終わらず、政治の革命と接合して社会全体の革命に実践的かつ理論的に貢献したのだ。結局、ロシア革命後約10年にわたる政治的・芸術的アヴァンギャルドは、資本主義的労働vs芸術という対立そのもの──「自然成長的」共働=分業の極限としての資本主義的賃労働vs非共働的かつ反資本主義的活動としての(近代)芸術、という対立そのもの──を、労働がそのまま芸術であるような、というより、もはや「労働/芸術」という対立概念が失効し、「自由意志的」共働(=「ボランティア」活動)の悦びのみが社会の成員に共有されるような「共産主義社会」へと(弁証法的に厳密な意味で)止揚することを目指した。確かに革命後約10年間は、実験的とはいえ、いわゆる「芸術家」と「労働者」の間に、生産工程、工房教育、祝祭演出などの場面で様々な共産主義的共働の試みがなされた。しかしながら、1924年1月にレーニンが没し、それ以後、共産党内部で権力闘争が激化し、29年頃からスターリンの支配権が確立して、ソヴィエト社会全体が急速に右傾化してゆくとともに、それまでの共産主義的共働を支えていた間主観自己批判の強度が、あるいは抑圧され、あるいは排除されて(トロツキイの国外追放〔29年〕、マヤコフスキイの自殺〔30年〕、メイエルホリドの処刑〔40年〕、ソヴィエトの共働的社会は急激に同質化、階層化、集権化に向かい、「国家の死滅」(レーニン)どころか、逆に専制君主国家の超コード化の礼賛、悲劇的戯画へと転じる。歴史の何という皮肉。

 しかし、ロシアアヴァンギャルドたちが実現しようとした共産主義的=脱資本主義的共働の試みは、何もこれで潰えたわけではない。それは、「世界システム」としての資本主義に抗する「反システム運動」(ウォーラーステイン*25として、以後ずっと資本主義社会を顕在的にあるいは潜在的に浸食し、脱資本主義化しようとしている(「68年」の革命、etc.)。

コラボレーション」の人類史的可能性を単にジャーナリスティックなモード=記号に解消してはならない。その脱資本主義的潜勢力をどこまでも追求しなくてはならない。


(くまくら たかあき・慶恵義塾大学専任講師/フランス文学、現代芸術)

*1:最近、「マルクス主義」の外部で、社会主義思想(マルクスのそれも含めて)のコラボレーション観の再評価が盛んに行われている。筆者の知るかぎりでも、以下のような重要な文献がある。杉原四郎他著『アソシアシオンの想像力平凡社、1989。今村仁司『労働のオントロギー』、勁草書房、1981。 田畑稔『マルクスとアソシエーション』、新泉社、1994。『現代思想』(特集:マルクスのいない社会主義)、1991年8月号。

*2:本論では、いわゆる「認識論的断絶」(アルチュセール)以降の、すなわち『ドイツ・イデオロギー』以降のマルクスを問題とする。

*3マルクス/エングルス『新版ドイツ・イデオロギー』、花崎皐平訳、合同出版、1966、p.58.なお、マルクスの邦訳では通常、「協働」はドイツ語の Zusammenwirken の訳語であり、我々の[共働]は英語の collaboration の訳語であるが、本論ではその意味するところに相違はない。

*4:Ibid, v.67.

*5:Ibid.,p.68.

*6:Ibid, p.77 .

*7Cf.田畑op.cit, pp.166-169、西田照見『将来社会についての自治的連合体の構想と終末論的発想の残基−マルクス』 in杉原op.dt, pp.247-280)。

*8マルクス資本論』第3巻第2分冊、マルクス=エングルス全集刊行委員会訳、大月書店、1968、p.l051.

*9:『マルクス=エングルス全集』第19巻、大内兵衛・細川嘉六監訳、大月書店、1968、p.21.

*10:今村op.dt, pp.25&-264.

*11Cf.西田op.cit

*12cf.文学空間』、現代思潮社、1976。我々は、「近代芸術」の定義の仕方は多様であり、美学上の微妙な諸問題を含んでいることを知っている。ここでは、ある種の批評的ディスクールが規定する「近代芸術」、すなわち芸術実践の自己目的化=自己批判化ないし(のちに見るように、ジュリア・クリステヴァが言う意味での)「意味生成的係争」graces de la signifiance)として近代芸術を捉える定義を採用することにする。

*13Cf.『詩的言語の革命』、原田邦夫訳、勁草書房、1991。

*14:Maurice Blanchot。L'entretien in&ii,Paris, Gallimard, 1969.

*15:La. révolution du langage poetique, Paris, Seuil, 1974, pp.366-367.

*16Cf.水野忠夫ロシア・アヴァンギャルド』、パルコ出版、1985、pp.41-44/J ・ E ・ ボウルト編著『ロシア・アヴァンギャルド芸術』、川端香男里、望月哲男、西中村浩訳、岩波書店、1988、pp.9-11 .

*17:「キュビズムj in 『社会の趣味への平手打』(cf.水野、op.dt, p.50)。

*18:マヤコフスキイ「芸術軍への指令」、『コミューンの芸術』、1918年12月7日号(Cf.水野、op.dt, pp.l07-108)。

*19Cf.水野、op.cit, p.lll.なお、以下のアヴァンギャルドの「組織化」に関する我々の記述は(特に注記があるものを除き)、水野およびボウルトの前掲書以外に、八束はじめ『ロシア・アヴァンギャルド建築』、INAX、1993/アナトリー・ストリガリョフ「革命期のロシアソビエト芸術1910-1932」、中原佑介監訳、in 『芸術と革命』展カタログ、西武美術館、1982、pp. 11-45/Anatoli Strigalev, "L'art de propagande r^volutionnaire. L'agitprop", in Paris-Moscou, Paris,Centre Georges Pompidou/Gallimard, 1991, pp.407435 /L Zadova, "Le Vhutemas-Vhutein", Cahiers du万Musee national|d'artmodeme, no.2√oct/dec. 1979,pp.231-240等を参照した。

*20:より正確に言うと、ペトログラードでは、ペゴフスマ(ペトログラード国立自由芸術工房)→スヴォマス→(再び)アカデミーとなり、一方モスクワでは、スヴォマス→ヴフテマス→ヴフテイン(国立高等芸術技術学校)となった。

*21:「モスクワ芸術文化研究所(INKHUK)」、相沢直樹訳、『ロシア・アヴァンギャルド4 コンストルクツィア』、五十殿利治、土肥美夫編、国書刊行会、1991、p.185.

*22:Ibid,pp.l90-191.

*23:インフク広報部「芸術文化研究所(INKHUK)の活動報告」、相沢直樹訳、Ibid,pp.20a,208 。

*24:アナトリー・ストリガリョフop.cit, p.28.

*25Cf. G ・アリギ、T・K・ホプキンス、I・ウォーラースティン『反システム運動』、太田仁樹訳、大村書店、1992.

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