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2015-01-01

セザンヌ クレメント・グリーンバーグ

 セザンヌの芸術は、30年前にはモダニティの溢れんばかりの源泉だったが、もはやそうではないかもしれない。しかし、その新しさや当世風のとさえ呼べる点で持ちこたえている。彼のはっきりした青の線は、対象の輪郭をその量塊から切り離し得るが、その方法は今やおなじみのものであるにも拘らず、今なお言いようもなく新鮮で思いがけないところがある。だが、セザンヌ自身は、華やかな妙技や迅速さ──一見、当世風なものにつきものの全てのことに対して、何と懐疑的だったことだろう。

 彼は自らの芸術家としての使命について重大な啓示を得た時、中年になろうとしていた。だが、彼が啓示を受けたと思ったものは、啓示に出会ってそれを果たすべくこれまで彼が進展させてきた手法とは、大いに矛盾していた。だから彼の芸術の不確実な質──おそらくは、それが色槌せぬモダニティの源泉なのだが──は、彼の意図に反するかのように進化する方法に圧されて、元の意図を修正するという究極の必要性から生じたのである。彼は、西洋絵画の基本原理──体積を測定できるような空間を十全に丈字通り眼に見える表現にすることへの願い──を、印象主義の色彩の効果から救い出そうと、当初は熟慮の上で意識的な試みを続けていた。彼は、印象主義が絵の奥行を迂闊にも塞いでしまったのに気づいていたのである。彼の芸術が発見とそれによって転換点となったのは、大変熱心に、印象主義の色彩を放棄せずにその空間を再び掘りだそうとしたためであり、またこの試みが(無駄に終わったものの)極めて深く考えられたことによる。彼は、革命家の役割を果たしたいなどと実際には思ってもいなかったのに、マネと同様、新しい通路によって古い大道へと絵画を還そうとしたまさにその試みによって、絵画の方向を変えたのである。

 セザンヌは、絵の統一性についての、つまり絵で実現される究極の効果についての考えを、古大家たちから受け継いだ。彼が自然に基づいてプッサンをやり直したい、そして「印象主義を古大家たちのように堅牢で恒久的なものにしたい」と言った時、明らかに彼が言わんとしたことは、印象主義による視覚経験の記録が与える「生の」彩色材料に、盛期ルネサンスに見られるような構成と、デザインとを課したいということだった。各部分、微細な単位は、なおも印象主義の方法によって塗られるべきだ、というのもそれが自然により忠実であると思われたからである。だが、これら各部分は1つの全体の中へと組織づけられるべきだったのである。

 印象主義者たちは、自然主義がいかなるものかを熟知しており、自らも一貫した自然主義であって、理論的には視覚的な印象を意識的に妨げないように絵の構成部分とともに、絵の全体としてのデザインや統一性をも自然に任せていた。それにも拘らず、彼らの絵画は構造を欠いてはいなかった。成功した芸術作品ならどんなものでもそうあるべきように、印象主義の絵でも成功したものならばどれでも、適切で満足のいく統一性を達成していた(セザンヌは自分でやりたいと言ったことを確実にやり遂げたという点で、ロジャー・フライその他に過大評価されたが、そのせいで印象主義に構造が欠けているなどという虚言が生まれたのである。欠けているのは、幾何学的、図解的、 彫刻的な構造である。その代わり印象主義は、色彩と明度で点や領域によるアクセントや抑揚をつけ、つまり一種の「構図」を作って構造を獲得したのであり、それは他の絵画に比べて本来的に劣っているのでもなければ、「構造的」でないというものでもない)。セザンヌは、全て与えられたまま自然の中のモチーフに任せてはいたものの、それで絵の統一性のための充分な基盤がおのずと与えられるとは、やはり感じていなかった。彼が欲したのは、その相互関連において、もっと確固とした、もっと触知できる、それゆえおそらくもっと「永続的」なものになるはずであった。そして、それは自然の中から読み取られねばならなかった。

 古大家たちは、絵のデザインの構成要素やその接合部が、建築におけるのと同じくらい明瞭でなければならないと考えていた。後退と突出を示す多様な明暗の階調が、1つの秩序の中で諸々の関心事に基づいて配置されており、眼は律動的に組織づけられたその凹凸の秩序の中を通って行くように導かれるものだったのである。かような組織に、印象主義の色彩の平板なタッチが生み出す重量感の無い平面的な形状を容れることは、明らかに不可能だった。スーラは、《グランド・ジャッド島の日曜日の午後》においてこれを明示していた。それは、彼の他の殆どの群像構図の完成作品においても同様である。そうした絵で、彼は人物たちを、徐々に後退していくように配された面の上に置いたのだが、それは──ケネスークラーク卿が注目した通り──人物像にボール紙のような性質のシルエットを与えるのである。スーラによる点描主義の、色彩を充填する過剰(ハイパー)−印象主義の方法は、深奥空間のまことしやかなイリュージョンを何とか作れたものの、それは、その中にある量塊や量感のイリュージョンではなかった。セザンヌは、この問題の条件を逆にして──ヴェネツィア派の人々よりもフイレンツェ派の人々のような思いを抱いて──先ず量塊と量感とを、次いでその副産物として深奥空間を獲得しようとしたのである。それは、光の変化を記録する印象主義の方法を、固体の表面のそれぞれの面の方向における変化を示すやり方に転用することで獲得できる、と彼は考えた。伝統的な明暗による肉付けの代わりに、彼は、おそらくより自然な──そして印象主義的な──さまざまに異なった暖色や寒色による肉付けを施したのである。

 対象の表面が、その中に囲い込んでいる容量の形体を規定するのは、各々の面の傾斜方向を変移させることによるのだが、軽いタッチで絵具を置いていくことによって、そうしたより大きな面の傾斜方向の変移を記録しつつ、彼は30歳代の終り、筆跡のモザイクでキャンバスを埋め始めていた。そのタッチは、モネピサロシスレーの、より粗い絵具の小片の場合と「点々」をつけた時とまったく同じく、物理的な画面に注意を向けさせるものでもあった。セザンヌの線描の歪みも画面の平面性をますます強調するばかりだった。その歪みは気まぐれに始められたが(セザンヌは決して彫刻的な線を習得できなかった)、虚構の容量と空間を表面のパターンに定着していくという、新しい種類というよりは新しい範躊の方法へと変わっていったのである。その結果、ローマ時代後期のモザイク芸術以来、西洋では見られなかったような、一種の絵画的な緊張感が生まれた。縁同士が融合しないように塗られた絵具の小さな矩形が互いに重なり、それが絵の表面に描かれた形状となって現れる。と同時に、これら同じ小さな矩形による肉付けと形体化は、描かれたものをイリユージョ二スムの奥行の中へと引き戻す。それによって無限の振動が、絵の文字通りの塗られた表面と、その背後に形成された「内容」との間に生じるが、ここにこそセザンヌ流の「革命」の本質があったのである。

 古大家たちは常に、表面とイリュージョンとの間の、つまりミディアムの物理的な事実と、形象としての内容との間の緊張に留意していた──しかし、彼らは技巧によって技巧を隠蔽する必要があったので、この緊張をはっきりと強調するのを望むことはまずなかった。セザンヌは、印象主義的方法から──と同時にその方法によって──伝統を救出したいと強く望むことで、我しらずその緊張を明確にせざるを得なくなった。印象主義の色彩は、それがどんな風に扱われようとも伝統的なやり方に比べてはるかにずっと絵の表面を物理的な実体として扱ったのである。セザンヌは、絵画に関しては、観察したものを描き留めた画家の中では最も知的な画家の1人だった(風変わりで根っからの自己防衛的な皮肉屋たったために、後半生は芸術とは無関係な問題に関して順応主義者であると思われようとしたが、そのせいで他の多くの物事に関しても、かなり知的な人であったはずなのに、それは世に知られていない)。しかし、知性は芸術家に、自分が何をなしつつあるのか、あるいは本当は何をしたいのかを明確に気づかせることを保証するものではない。セザンヌは、観念が芸術作品に凝結してそれを制御する度合を過大評価していた。彼は意識的に、自然に対する自分の視感覚の最も正確な伝達を求めていたが、この感覚は、それ自体が目的である芸術のためのある種の指針に基づいて秩序づけられねばならなかった。──そしてその目的にとって自然主義的な事実は単なる手段にすぎなかったのである。

 自分の視感覚を精密に伝えることとは、なし得る方法はどうあれ、彼の眼からモチーフの各部分までの距離を、分析できる最小の切子面状の面にまで写し換えることを意味した。また、表面の肌理、滑らかさや粗さ、固さや柔らかさ、つまり触覚的連想を抑えてしまうことをも意味した。つまり、それはプリズム的な色彩を、空間的な位置──固有色や一瞬の光の効果を超えた空間的な位置の唯一の決定要因と見なすことを意味する。その目論見は彫刻的な印象主義だったのである。

 セザンヌのものの見方の性質──例えば、中景と前景を短縮するという仕方や、眼の高さより上にある題材の全てを前方へ傾けるという仕方──は、モネの見方の性質と同じくらいに、古大家による奥へと窪む建築的構成には不適当だった。古大家たちは、常識的な感覚でそうあるべきだと思うような、緩やかに繋がった連続体として空間を取り扱い、そうした空間の中を進む時には黙ってするりと通り抜けた。彼らの最終目的は1つの劇場としての空間を作ることだった。セザンヌのそれは、空間そのものを劇場にすることだった。

 彼の焦点の合わせ方は、古大家のものよりも強力だが、同時に、より均一でもあった。ひとたび「人間的関心」が排除されてしまえば、題材から生ずる視感覚は1つ1つが等しく重要になったのである。絵としての絵と、空間としての空間の両方が、よりぴんと張りつめ──ある意味では膨張していった。この膨張の1つの効果は、絵の凹凸をともに押し広げつつ、また表面上にある雑多な内容を、キャンバス自体の形と一致する単一のイメージあるいは形体の中へと無理やり溶かし込みながら、絵全体の重さを前方に押し出すことだった。こうして、印象主義を彫刻的なものに変えようとするセザンヌの努力は、それが遂行される時、絵のイリュージョンを、構築することから、1つの客体としての、つまり平らな表面としての絵それ自体を構成することへと転向された。セザンヌは、申し分なく「固体性」を獲得した。しかし、それは再現的なそれと同じくらい二次元的な文字通りの固体性なのである。

 実際の問題は、自然に従ってプッサンをいかにやり直すかではなく、──プッサンがなしたよりも注意深く明確に 奥行の中にあるイリュージョンのあらゆる部分を、いっそう優れた絵の権能を授けられている表面のパターンにいかに関係づけるか、であったようだ。三次元のイリュージョンを装飾的な表面の効果に強固に結びっけること、彫塑性と装飾性の統合にれが、本人がそう言おうが言うまいが、セザンヌの真の目的だった。そして、この点てロジャー・フライのような批評家は彼を正しく理解していた。しかし、またこの点で、彼が述べた理論は彼の実践とは大いに矛盾していた。私の知る限り、記録に残っているセザンヌの所見で装飾的要因について彼が関心を示したことは一度もない。ただし、例外として彼の好きな古大家の2人、リューベンスとヴェロネーゼに「装飾的な大家」として言及してはいる──そしてその言葉は不用意なものと思われるので、かえって啓示的なのである。

 彼が最後まで「実現すること」が能わないと不満を述べ続けたのも不思議ではない。彼の方法が強力に推し進めた結果は、固体性と奥行のイリュージョンを最大限に組織づけようと欲して彼が心に抱いていたものとは異なっていた。虚構の平面に従って虚構の奥行へと入って行く各々の筆跡は──筆でつけられた跡としてあり続ける明白な性質ゆえに──ミディアムの物理的現実へと立ち返った。そして、その筆跡の形体と布置は、チューブから絞り出された絵具で覆われている平らな矩形の形体や位置を想起させた(セザンヌは、かつて誰もがそうだったにせよやはり「高尚な」芸術を欲していた。しかし、彼はミディアムの触知性をあからさまに残した。「人は描画のまさに質を通じてこそ画家たるべきであり、粗雑な素材でも用いなければならない」と彼は語った)。

 彼は長い間、省略によって自分の感覚を裏切ることを恐れ、不完全であるせいで不正確になることを恐れて手探りで進んだので、キャンバスに多くのものを詰め込みすぎていた。1870年代後半と。1880年代のものとされている傑作の多くは(彼の若い時の原−表現主義的な至芸の中には、荘厳かつ予言的なものもあるが、ひとまずそれは措くとして)調整を欠いているがゆえに統一性に欠け、くどくどしくて窮屈すぎる。部分部分には感情がこもっており、仕上がりもしばしば綿密なのだが、瞬時に全体を見て引き起こされる類の感情が余りにも少なすぎる(彼の最高傑作の中に未完成の絵画が非常に多いのも不思議ではない)。セザンヌの生涯の最後の10年か15年の間だけ実に頻繁に、その力が衝撃的で独創的であるばかりか完全であるような絵が彼のイーゼルから生まれている。その時になってやっと、あの技法が真価を発揮しているのである。奥行のイリュージョンは絵の平らな表面において、いつもより生き生きと、心に取り憑かれたように構築される。幾つもの切子面状の面は、自らが生み出す図像と表面との間で前後に躍動するだろうが、しかしなおもそれらは図像と表面との両方とともに在る。明確だが簡潔にはたき付けられた絵具の四角い筆致は、あるリズムをもって揺動し拡張する。それが平面的なパターンはもちろん、イリュージョンをも受け入れるのである。芸術家は、輪郭線から背景へ移る時に色相を厳密にせねばならぬという考えを緩めたのだろう。彼の筆跡も切子面状の面も、今では以前のような密なかたまりとなっていない。より多くの空気と光が虚構の空間に行き渡っている。もはや不朽性は、空気の無い乾いた状態を代償として獲得されるものではない。セザンヌが、とぎれとぎれの輪郭線の背後をウルトラマリンでより深く掘り下げると、絵全体はいったん覆いを取り払って、それから再び覆われていくように見える。絵を囲んでいる矩形の形を絵のあらゆる部分で反復して、その形体の大きさを超えんばかりでもある。

 セザンヌ1890年に死んでいたとしても、やはり偉大だっただろうが、それは達成したことよりもむしろ革新という面においてだったろう。生涯最後の数年間になって、その画家のヴィジョンの掉尾を飾る十全で成功した統一、多くの声と楽器が奏でる1つの音響──瞬時に響くにも拘らず無限の多様性を持つ1つの音響──のように提示される統一、そういう類の統一が、かつてよりはるかに多くセザンヌに現れる。その時明らかに彼の芸術は、自分でそうしたいと述べていたものとはかなり異なったものになっている。彼はその問題についてかつてと同じくらい考えているのかもしれないが、かつてほどにはそれを実行に移そうとは考えていない。若い信奉者たちをすっかり魅了してしまった彼は、幾分心を開いて、自分の発言を書き留めさせたり、自分の「手法」について手紙を書いたりしている。しかし、エミール・ベルナールやヨアヒム・ガスケを始め、当時彼の言葉を直接聞いた人たちならば彼の言葉に困惑しなかったとしても、今日、彼が言ったはずのことを読むしかない私たちは困惑してしまう。しかしながら、私はアール・ローランに従って(セザンヌの線描の本質的な重要性への少なからぬ洞察を私は彼の『セザンヌの構図』から授かったのだが)、この人家自身が、自分の芸術に関して理論化した時に少なからず混乱していたのだ、と考えたい。しかし、彼は理論好きのベルナールが自分に過度の理論化を強いる、と不平をこぽしはしなかっただろうか(一方ベルナールのほうでは、セザンヌは過度の理論によって絵を描く、と評していた)。

 最後まで、彼は肉付けの必要性と、自分の「感覚」を伝える際の完全さと正確さの必要性を繰り返し言い続けた。彼は並々ならぬ自覚をもって、トロンプ・ルイユとミディアムの原則との結合として自分の理想を語り、自分がそれを達成できないのを嘆いた。彼は没するその同じ月にですら「実現」できていないと不平を洩らしていた。実際、彼の晩年の偉大な絵画に集積された抽象性から考えると、セザンヌが「少しだけ進歩」したと言っているのを聞けば、人はもっと驚いてしまう。彼はゴーギャンとヴァン・ゴッホを「平板な」絵を描いていると非難してこう言った。「私は、肉付けや階調を欠いたものなどこれまでも決して望まなかったし、これからも容認しないだろう。そんなものは馬鹿げている。ゴーギャンは画家ではなかった。彼は中国風の絵を作ったにすぎない…」と。ベルナールは、彼が初期(プリミティブ)ルネサンスの芸術に無関心だったと伝えている。それらもまた明らかに余りに平板だったからである。だが、セザンヌは自分はプリミティヴであると述べ、それに従い、西洋伝統の三次元性への誓約を、印象主義の靄とゴーギャン流の装飾との両方から救済したいと願う方向は、彼の死後5年か6年のうちに、西洋では中世以来かつて見なかった平面的な類の絵画へとまっすぐに続いていった。

 ピカソとブラックとレジェキュビスムは、セザンヌの始めたことを完成させた。その成功は、セザンヌ手法から問題が残っていたどんなものをも取り除いた。セザンヌが自分の洞察のほんのわずかしか使わなかったせいで、キュビストたちは彼から新発見の源の全てを受け取ることができた。キュビストたちは、発見であれ再発見であれ、彼ら自身、たいして骨を折る必要もなかったのである。これはキュビストたちにとって幸運だったのであり、これによってなぜピカソレジェやブラックが1909年から1914年までの問に、その力を十二分に発揮して、また目的に手段を適切に合致させ、ほぼ途切れることなく続いていく占典的な「実現」を果たし得たのかが説明できる。

 セザンヌの誠実さと忠実さは模範的である。実際、彼はこう述べている。偉大な絵画とはリューベンス、ベラスケス、ヴェロネーゼ、ドラクロワによるような方法で生み出されるべきだが、しかし、私自身の感覚と能力は彼らのそれに相当するものではないので、私は自分がすべき方法で感じたり描いたりするしかない。そうして、彼は40年間、来る日も来る日も、明快で注意深いメチエによってそれに取り組んだ。一筆描くたびに絵筆を洗うのにテレビン油に浸し、それから絵具の小さな一塗り一塗りを、決めた場所に置いていきながら。物質的な余裕はあったものの、それはゴーギャンゴッホよりももっと英雄的な芸術家の生涯だった。あらゆるモチーフのあらゆる部分を、処理できるその最小の面にまで分解するのに必要な抽象化と視覚の努力とを考えてみるがいい。

 そこには、殆ど毎日のようにセザンヌを襲った自信の危機があった(彼はパラノイアという点でも先駆者だった)。だが、彼は完全に狂ってしまったわけではなかった。彼は不動の姿勢でじっと耐え続けた。彼は制作に没頭したが、その報いとして早くに老け込み、糖尿病になり、隠遁生活を送り、芸術を除けば彼の人生はひねくれて空虚だった。彼は自分を柔弱な人間で、ありふれた日常生活の難儀に脅かされる「ボヘミアン」だと考えていた。しかし彼には芸術的気質があり、その時代に絵画芸術が提供し得る最も手ごわい挑戦を求めたのである。

1951年1961年

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