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2016-11-12

モダニズムからアヴァンギャルドへ(ペーター・ビュルガー) 田辺秋守


 ペーター・ビュルガー(1936-)は『アヴァンギャルドの理論』(1974)のなかで、アドルノのしつらえた理論的な設定枠、つまり芸術の社会的性格と、社会から相対的に独立しているという自律性の[芸術の二重性格]を大筋では認めながらも、いくつかの点で大きくアドルノとは異なった論点を提起している。ビュルガーの主要な論点をあらかじめいっておくと、モダニズムの歴史のなかでモダニズムの急進化としてのアヴァンギャルド前衛〕(Avantgarde)の運動は、それ以前との明確な分水嶺をなすという主張である。ビュルガーが「歴史的アヴァンギャルド運動」と称するのは、1910年代から30年代にかけて興隆したダダイズムシュルレアリスムロシア構成主義などであって、50年代に生じたアメリカのネオアヴァンギャルドとは区別される。「前衛」という本来軍事的な直喩をとったアヴァンギャルド運動は、当時の市民社会に対して挑発的なショック効果を与えることを常とした。


a〈新しさ〉に対する批判をめぐって

 まずビュルガーは、アドルノの〈新しさ〉のカテゴリーには問題があるという(Burger 1974p.83/88頁)。アドルノにおいてはモダニズムの芸術の第一の特質は、伝統との徹底した断絶であった。しかしビュルガーから見るとアドルノは、アヴァンギャルドが際立たせている伝統との歴史的に一回的な断絶を、モダニズム芸術一般の発展原理と取り違えている。アドルノモダニズムを正確に歴史化することには関心がなく、むしろモダニズムの自律性を芸術一般の自律性に拡大解釈しているというのである。さらに、アドルノは〈新しさ〉のカテゴリーを、商品社会の一般的性格から導き出しているとビュルガーはいう。そのため芸術における〈新しさ〉のカテゴリーは、商品社会を支配している商品のモード(流行)と区別できなくなる。なぜなら、商品社会において〈新しさ〉のカテゴリーは決して実体的なカテゴリーではなく、「仮象的なカテゴリー」だからである。〈新しさ〉のカテゴリーが表しているものは商品の本質ではなく、商品に作為的に与えられた外観(見かけ)である。そこで、芸術が商品社会のこのもっとも外見的なものに適応するのだとすると、芸術はこの適応によっていかにして商品社会に抵抗できるのかという点が理解できなくなる。したがってこの抵抗は、作品そのものに備わる意図というよりは、「弁証法的思考」によって否定的なもののなかに肯定的な性格を認めることのできる、批判的な主体による措定でしかありえない。「ウォーホルの『百個のキャンべルスープ缶』は、そこに抵抗を見ようとするものにとってしか、商品社会に対する抵抗を含んではいない」(ibid, p.85/90頁)。このようにビュルガーはアドルノの〈新しさ〉のカテゴリー批判する。

 これについては、アドルノにも反論の余地はある。アドルノは一方で、商品に必然的に強制される商品の外装的な仮象の連関を、まさに「幻惑連関」(Verblendungs-zusammenhang)ととらえ、もう一方に真の芸術作品に現れる「美的仮象」(asthetischer Schein)を明確に区別している。芸術作品仮象は、商品の物神的な仮象のように意図的に実体を誤らせるようなことはしない。美的仮象仮象としての正体を自ら暴露している。芸術作品においては、素材的な契機から新たな形式を構築する途上で、それ自身としては構築されないものが美的仮象として経験される。たとえば、単なる物ではなく〈像〉として、散文の文字列ではなく〈物語〉として、また音列ではなく〈旋律〉としてそれは現出する。自己自身が現にあるのりよつねに異なって現出するということが、美的仮象の本質である。美的仮象にはつねに感性的な対象において認知可能なものとは別なものが、またくそれ以上のもの〉(das Mehr)が現れている。真の芸術作品はこの〈 それ以上のもの〉、いわば美的な「剰余価値」を救出するとアドルノは考える。しかしそれはあらかじめ計算された効果の結果としてではなく、予測不可能な〈他なるもの〉との遭遇である。これが〈新しさ〉のカテゴリーが商品の意図的な新しさとまったく相違する点である。「新しさは必要に迫られると不自然なものであるが、他なるものとしては、新しさは不自然なものではない」(Adrno 1970 p.41/42頁)。


b モンタージュ

 しかし、アドルノにはあきらかに規範美学が存在する。アドルノは自律的芸術の「非有機的な作品」を美学的な規範とし、そのような非有機的な作品をリアリズム芸術や通俗的作品を批判するための規準として用いている*1。けだしこれがモダニズムの特質であるからだが。非有機的な作品がモダニズム芸術に特有な産物であることについては、ビュルガーもアドルノに異論はない。また非有機的な作品を形成する「造形原理」(Adomo 1970 p.232/264頁)がモンタージュ(Montage)にあることにもアドルノに同意している。ビュルガーはモンタージュアヴァンギャルド芸術の根本原理だとさえいう(Burger 1974 p.97/106頁)。古典的な有機的作品は、それが人為的に作られたものでありながら自然さを装うとする。作品の部分と全体は統一された見かけをもつ。反対に非有機的な作品は、自らが人工物であることをことさらに強調する。モンタージュという手法は、何の関連もない現実の諸断片をつなぎあわせ、作品に組み込むことによってそのことを成し遂げるのである。有機的作品にある部分と全体の連関は否定される。そのかぎりで非有機的作品は「全体性の仮象」を破壊する。アドルノは次のように述べる。「しかし意味を否定する芸術作品は、またその統一において惑乱されていなければならない。これが モンタージュの機能であって、モンタージュは形式原理としてくり返し統一を生じさせはするが、それと同じく部分を乖離したまま誇張することによって統一を否定する」(Adorno 1970 p.231f./263頁)。アドルノ観点ではモンタージュの形式原理の否定性は、モダニズム芸術には[宥和の仮象]が禁じられているという一種戒律として機能する。ところが、規範美学に無関心なビュルガーは、モンタージュ の原理をそれ以前の表現システムが打破されたこととみなす。つまり、芸術家自身が現実を作品のなかに変換しなければならないという原理を打破しているとみなす のである。


C 芸術の生産と受容の変革

 しかし、ビュルガーはアヴァンギャルドの変革の歴史的な意義を、単に伝統的表現システムとの断絶に求めるのではない。ビュルガーの方法の特徴は、芸術の「機能的分析」である。「ビュルガーは、アドルノが強調する自律的作品の内実に替えて、変化する芸術制度、そのなかで変化する作品の機能を主張したいのである」 (Zuidervaart 1990 p.78/201頁)ビュルガーはアヴァンギャルドの芸術の変革の意味を、「生産」、「受容」、「使用目的」という3つの機能分析からあきらかにする。

 まず従来のブルジョワ芸術〔市民芸術〕の芸術作品の生産に対して、アヴァン ギャルドの「生産」は何か新しいのだろうか。自律的なブルジョワ芸術の生産は個人的なものである。生産の担い手である芸術家個人として生産し、芸術家の「個性」は「ラディカルに特殊なもの」と把握される。つまり「天才」の概念である。 これに対してアヴァンギャルドは「個人の生産」というカテゴリー自体を否定する。 アヴァンギャルドの作品は天才をまったく期待せず、そもそも作品制作に才能を必要としないというメッセージを送っている。たとえば、デュシャンの有名な「泉」 は、大量生産品である小使器に署名(偽名)をし、それを美術展に出品することによって、個人的生産ということを無効化する意図をもっていた。ビュルガーによれば、デュシャンの行為は作品の質ではなく署名の方が重きをなす芸術市場を挑発したことにとどまらない。個人芸術作品の創造者であると考える原理が否定されて いるのである。

 また、アヴァンギャルドは作品の個人的な受容も否定する。ダダのイヴェントはイヴェントにおいて挑発され憤激した観衆がイヴェントの一部に巻き込まれることを 意図している。そもそもアヴァンギャルド生産者と受容者の区別に異議を唱える。 これが明確に表れているのが、ダダ的な詩を書くためのツァラの教示や自動筆記によるテクストの構成法に関するアンドレ・ブルトンの手引きである。彼らの処方にしたがって人々が書き、実際に生産者になることをアヴァンギャルドは望んでいた。


d 芸術の自律性の止揚

 第三の芸術の使用目的は、芸術の自律性のとらえ方が重要な論点になる。ビュルガーによれば、近代芸術は18世紀に社会と分離しはじめ、20世紀初頭にいたるまで自律性は次第に強化される傾向にあったという。ビュルガーのいう芸術の自律 性とは、モダニストたちが獲得しようと努めた作品内在的な原理の確立とは異なる。 19世紀ブルジョワ芸術が典型的に示すように、ビュルガーにとっては、生活実践からの芸術の分離が自律性の指標である。ブルジョワ芸術にあって芸術の使用目的とは、「市民的自己理解」であった。もっとくだいたいい方をすれば、生活実践 (日々の労働)の圏外にある芸術のなかで、かろうじて「人間」としての自分を再確認することである。つまり、芸術は生をあがなうものだとみなされていた。

 だから、ビュルガーによれば、真の転換はアヴァンギャルド芸術家たちが市民社会における芸術の機能を批判し、芸術の自律性を否定したときに起こったのである。アドルノのいう伝統との断絶ですら[作品]という制度概念を疑問視することはなかった。アドルノは「自律的作品」という規範概念が、芸術の制度的枠組みに依存していることを疑っていない。それに対してアヴァンギャルドは、市民社会における制度〈芸術〉〔制度としての芸術〕(Institution Kunst)そのものを否定することを目的としたのである。制度〈芸術〉という概念はビュルガー独自のものであり、 またもっとも中心的なカテゴリーである。「ここで制度〈芸術〉という概念が表わしているのは、芸術を生産し分配する機構、および、ある所与の時代において支配的な── 作品受容のあり方を本質的に規定する── 芸術観の双方である」(ibid. p.29/34頁)したがって、アヴァンギャルドはこの両方を、つまり「芸術作品が 隷属させられている分配機構と市民社会における芸術のステータス」(loc.cit./34 頁以下)とを攻撃の対象にしたのである。いいかえれば、市場と作品の自律性の両方を攻撃した。

 ここでビュルガーのいいたいことは、「唯美主義」(Asthetizismus)とアヴァン ギャルド芸術の両方の志向を対比してみればあきらかとなるだろう。ビュルガーによれば、〈芸術のための芸術〉(I'art pour l'art)をモットーとする唯美主義デカダン派、象徴主義など)は、ブルジョワ芸術が[自己批判の段階]に到達した芸術である。その意味で、唯美主義の態度はアヅアンギャルドの必然的な前提になっている。唯美主義芸術家の実生活と作品の内容とのあいたに距離を設け、作品に社会的な生活実践のかかわりを持ち込むことを退けた。ここにおいて芸術は文字通り自己目的化する。唯美主義が引き合いに出し否定する生活実践とは、日常的な市民生活のなかの目的合理的な連関である。多くの場合それは中産階級に特有な「卑俗な世界観、功利主義的な偏見、凡庸な順応主義、趣味の低劣さ」(カリネスク)といった諸特徴と結びついている。もちろんアヴァンギャルド芸術家たちは、目的合理的な秩序を拒絶することを唯美主義者だちと共有する。しかし彼らを唯美主義者から分かつのは、芸術に基礎を置いた新たな生活実践を構築しようという試みである。つまり、市民社会の目的合理的な秩序の対極にあるものを生活の構成原理にするという試みである。こうしたアヴァンギャルドの志向は、アンドレ・ブルトンの有名なスローガンに要約されている。「〈世界を変えよ!〉とマルクスは言った。それに対して〈生活を変えよ!〉とランボーは言う。この2つの標語は、我々にとって同じことを意味しているのだ](1935年[文化防衛のための作家会議J)。それをビュルガーの言葉でいいかえれば、「生活実践のなかで芸術を止揚する」ということになる。

 このような実践の内実がいったいどんなものだったのか、社会はどのように変革されたのか、ビュルガーは具体的に示してはいない。けだしそれは当然である。それは成就しなかった試みであるのだから。だが、ビュルガーはアヴァンギャルドの志向に、かろうじて形式的な規定だけは与えている。「芸術と生活実践が一体となり、実践が美的であり、芸術が実践的である」(ibid. p.69/73百)ような社会。ビュルガーはアヴァンギャルドの芸術を基礎とした「新しいタイプの社会参加芸術」のなかで、芸術と生活の区分が止揚されるという目論みを描いている。しかしこうした芸術と生活実践の一体化を具体的に想像するのははなはだ難しい。たとえば、ファシズムスターリニズム(あるいはマオイズム)が行ったような強制的な「生活の美学化」*2とはっきりと区別される一体化を想像することは。あきらかにビュルガーは、「芸術と生活実践の一体化」を可能にする社会的基盤の問題を不問にしている。

 逆にアドルノが終始こだわったのは、こうした一体化には断固として反対すべきであるということだっただろう。したがって、アンドレアス・ヒッセンの次の指摘はまったく正しい。「ビュルガーが論じるように、失敗した試みであったが、歴史的アヴァンギャルドの主要日標が芸術を生のなかに再統合することであった、ということが正しいとすれば、アドルノアヴァンギャルドの理論家ではなく、モダニズムの理論家である。何よりも、彼は、歴史的アヴァンギャルドの失敗をすでに自己消化した、構成的「モダニズム」の理論家である。未来主義、ダダ、およびシュルレアリスムのようなアヴァンギャルド運動をアドルノがしばしば軽蔑していたこと、また生と芸術の再統合というアヴァンギャルドのさまざまな試みを美から野蛮への危険な退行としてきびしく拒否していたことに触れないでおくわけにはいかない](Huyssen 1986 p.31/131頁以下)。


e アヴァンギャルドの挫折の意味

 アヴァンギャルドは、芸術を生活実践の場に移行させ、そこで芸術を解消するという意味において、「芸術の自律性の止揚」を目論んだ。この目論みは完全に挫折した。こうしたアヴァンギャルドの運動の挫折の意味を良く見積もれば、その結果は「作品」カテゴリー回復され、アヴァンギャルドによって「反芸術」を意図して実践された手法(たとえばコラージュ、オブジェ、レディ・メイド、デペイズマン、オートマティズム、イヴェント等)が、あらたな作品制作に貢献する手法の一つとして制度〈芸術〉に回収されたということになろう。 50年代以後のネオ・アヴァンギャルドはこれらを「反芸術」としてではなく、再び「芸術」として実践した。「ネオアヴァンギャルドは芸術としてのアヴァンギャルドを制度化し、これによって真にアヴァンギャルド的な志向性を否定する」(Burger 1974p.80/84頁)。

 また、挫折の意味を悪く見積もれば、市民社会のなかで「自律的な芸術の偽りの止揚」(ibid. p.72f./77頁)という結果をもたらしたと考えられる。そうした偽りの止揚として、ビュルガーは娯楽文学と商品美学が隆盛となる傾向を指摘している。娯楽文学と商品美学は典型的に「他律的な芸術」である。他律的な芸術とは、社会からの相対的な自律性を得ることができなくなった芸術であり、作品が制度〈芸術〉以外の諸制度の何らかの目的のために役立つように生産され、受容されるような芸術である(Zuidervaart 1990 p.80/204頁)*3娯楽文学と商品美学を受容するには、消費的態度をとらざるをえない。作品を消費することによって受容することは、モダニズムが作品の受容者に作品の批判的な受容を求めたのとまったく対極にある。だが、それはまたファシズムによって強制された「生活の美学化」とも異なった「強制」のもとにある。ここでは芸術の自律性の解消は、芸術をめぐる市場社会の他律性(Heteronomie)の強化に直結しているのである。モダニズムアヴァンギャルドを含めた広い意味でのモダンの芸術の行程は、こうして「自律性」、「反自律性」、「他律性の強化」の軌道上を進行していた。

*1:「リアリズム芸術」と「モダニズムアヴァンギャルド芸術」をめぐってアドルノとジョルジュ・ルカーチとのあいたで有名な論争が行われた。その内容をビュルガーは次のように簡潔に要約している。「ルカーチにとってもアヴァンギャルドモダニズム〕は後期資本主義社会における疎外の表現である。だがそれは、社会主義者ルカーチにとっては同時に、この社会の社会主義的変革をめざして努力している現実の歴史的反対勢力に対する、ブルジョワ知識人の盲目性の表現を意味している。この政治的パースペクティヴに、ルカーチは現代におけるリアリズム芸術の可能性を結びつけるのである。アドルノルカーチのこの政治的パースペクティヴをとらない。そのためアドルノにとっては、アヴァンギャルド芸術〔モダニズム芸術〕が後期資本主義社会における唯一真正な芸術となる。有機的に自己自身において閉じて完結した作品(ルカーチはそうした作品をリアリズムの作品とよぶ)を作ろうとする一切の試みは、アドルノからすれば、すでに到達されてしまっている芸術的技法水準の背後への後退であるばかりか、くわえて、イデオロギーのいかがわしさをも感じさせるものとなる。有機的作品は現代社会の矛盾をあばかず、その代わりに健全なる世界という幻想を── たとえそこに明示された内容そのものはまったく別のものを志向しているとしても── 、すでにその形式によって助長するというのである」(Burger 1974 p. 120/128頁)。

*2ヴァルター・ベンヤミンは、激化するファシズムのただなかで「複製技術時代の芸術作品」(1936)に周知となった次のようなテーゼを書き記している。「ファシズムの行きっくところは当然ながら、政治生活の美学化(Asthetisierung)〔唯美主義化〕である(Benjamin 1936 p.506/627頁)。またファシズムに抗してベンヤミンが提唱したのは、逆に「芸術の政治化」(Politisierung der Kunst)であった。ビュルガーは当然ベンヤミンの「芸術の政治化」を念頭に置いているだろうが、むしろブレヒトの「社会参加芸術」の構想や実践に具体例を求めているように思われる、『アヴァンギャルドの理論』の第二版のためのあとがきで、ビュルガーは「ブレヒトの理論はおそらく、歴史的アヴァンギャルド後の社会参加芸術の可能性を示す指標と見なしうる」(Biirger 1974=1980 p.l37/145頁)と書いている。

*3:ズヴィダヴァートは、アドルノとビュルガーに共通する「他律的な芸術」に対する軽視には問題があるという、特にアドルノが芸術における「真理」と芸術の「社会的意義」を自律的芸術をモデルにして結びつけていることには、それほど根拠がないと指摘する。「真理を究極的規準として設定することは、通常、「自律的芸術」の「偉人な作品」こそが、より劣った自律的芸術作品や他律的芸術作品よりもずっと大きな社会的意義をもっている、と仮定するか、含意している、しかしながら、同一種類の社会的意義を特定する根拠がないかぎり、そのような仮定や含意はほとんど意味がない。この種の同一性は、スイング・ジャズからベケットの『勝負の終わ引におよぶ諸現象に関するアドルノ自身の議論においてさえも存在しない』(Zuidervaart 1990 p.8/210頁)。

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