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2014-02-08

芸術制作におけるジャコメッティ的アプローチのもつ意義と可能性──未完成概念の再考から── 小澤基弘


機イ呂犬瓩

 画家であり同時に彫刻家であったA・ジャコメッティ( Alberto Giacometti, 1901−66 )の制作プロセスは,極めて独特のものであり,それは一言で言えば,形成と破壊の連続的な交替で成り立っていると言える。彼は常に,「視ること」と「創ること」の反復のプロセスそのものに力点を置き,作品の物質的な完成を度外視したのである。こうした彼の創造プロセスは,一見異色で奇異なものに映るかもしれないが,創造行為の本来の意義と目的を考えると,それはまさに必然的で正当なものと判断されるのである。芸術における作品創造のプロセスをもう一度見直し,その取り得べき本来の方向性とその展開の可能性について,ジャコメッティのアプローチを手がかりとして考察することが,本稿の目的である。その際,まず創造過程自体のもつ美術的意義の理論的証明が不可避であることは言うまでもない。本稿ではこの理論構築が,その主たる作業となる。そして,こうした創造過程の再考の中から,美術教育の現場へと還元し得るような要素を見出し,その適用の具体的な方策を提示すること,それがジャコメッティ的アプローチの教育的還元として当然問われねばならない最大の課題であろう。本稿では誌面の関係上,その具体的方策について,導入のかたちで触れるに留めざるを得なかったが,表現および鑑賞教育の両側面から*1,今後この課題に対処していくことを誓いつつ,以下の考察を進めるものとする。


ジャコメッティの制作プロセスから

 論の展開に当たって,まずジャコメッティの制作プロセスについての具体的検証から姶めたいと思う。彼は先に述べたように画家であると同時に彫刻家でもあり,従って本来は絵画と同様に彼の彫刻制作のプロセスも考察せねぱならないが,ここでは考察の中心を,特に彼の後期の絵画制作に絞って見ていきたいと思う。矢内原伊作あるいはデビッド・シルヴェストルの肖像(図1)の制作過程の連続写真からも分かるように,ジャコメッティは一枚のカンヴァスで何ヵ月も同じモデルを描き続ける。そしてそれは,漸次形と色を構築的に重ねつつ仕上げていくという通常の描画プロセスとは大いに異なったものであり,モノクロームの絵の具で面相筆を使って,モデルの頭部だけを速写的に描き出しては消し,また再び描き出しては消すという過程の際限ない繰り返しなのである。彼は先に描いたものを残そうなど全く考えず,直ぐにナイフで剥ぎ取ってまた描き始めるのであり,モデルの気転で密かに記録された写真によってのみ,我々はその絵の変遷の一部をやっと知ることが出来るのである。それはいわゆる完成を目指して描かれているのではなく,非常にドローイング的なものであることが分かる。そしてこのデビッド・シルヴェストルの肖像の最終ヴァージョン(図2)においても,それは念入りに完成されたというものではなく,その過程上の一状態と全く同様に,やはり未完成のドローイング的な状態で終えられているのである。

図2 Portrait of David Sylvester 1960

このことは何を物語るのだろうか。ジャコメッティは,見たものを見た通りに再現すること,つまり外界から触発された自己の内的なヴィジョンを正確に追うことに終始し,作品を完成させることは芸術の本来の目的ではないと考えていた*2。彼の未完成のドローイング的画面の集積は,そうした彼の視覚を通じて形成される内的ヴィジョンと,材料を使って再現される画面の間のズレを,そしてその二者の一致へ向けての試行錯誤の痕跡を赤裸々に示していると言えるだろう。

 ジャコメッティの制作態度,あるいはその創造プロセスが我々に提示するものは,作品,つまり絵画や彫刻を創造するということは一体如何なることであるのかという,言わば芸術創造の根源的な問題の問い直しだと筆者は考える。それは芸術作品という完成された美的価値をもつ「もの」を創り出すことをその第一の目的とするのか,あるいはそういった「もの」はあくまで結果的な産物に過ぎず,芸術とは自己の茫漠としたヴィジョンを明確化していく思索手段であり,創り出された「もの」よりも,それを創造していく「こと」の方に,つまりその創造プロセスの方に力点を置くべきであるのか,この2つの捉え方がここで問題となってくるのである。そしてジャコメッティは,まさに後者の考え方を我々に提示してくれていることになる。筆者は本稿において,彼が示してくれた芸術におけるこの後者の側面に光を当て,それをジャコメッティ的アプローチと命名し,以下においてこの考察を展開していくこととする。


掘ゥ廛譽侫グラツィオンについて

 ヨーゼフ・ガントナー( J.Gantner,1896−1988 )は,芸術における未完成の問題を,その創造過程の側面から捉えようとした最初の美術史家である。そのために彼の提示したものは,プレフィグラツィオン(Prafiguration)の概念と呼ばれるものであり,それは作品が1つの形象つまりフィグラツィオンとして完成するに至るまでの前段階,言い換えれば先形象の作品状態全てを意味することになる。同じく美術史家で,ガントナーらと「未完成なる芸術形式」と題されたシンポジウムを開催したJ・A・シュモル( J.A.Schmoll )による簡潔な図解を援用しながら*3,この概念の大きな輪郭あるいはそれと未完成との関係について,まず説明することにする。

 図3では,芸術作品が,その動機から始まって1つの完成された作品に至るまでの過程を大まかに示している。A段階では,作品を創ろうとする内的動機付けがあり, Gの形成過程を経て,Wの形象化つまり完成作品へと至る最も単純な図解である。次にもう少しG段階を複雑に見れば図4のようになる。ここでは形成過程が, Vの芸術家の心中におけるもの(これは先形成と呼ばれる)と,具体的な材料を使っての段階とに区別される。

図4の場合は,この2つの段階を理解し易いように明確に分けているわけだが,実際の創造過程はそのように単純なものではない。

図5を見て頂きたいが,ここではVの先形成段階と,Gの材料による具体的形成段階とが混交していることが分かる。それはつまり芸術家の心中の先形成過程が終了しないままに実際の制作行為に入っていること,そしてそれらが同時進行的に進んでいることをこの図は示しているのである。確かに筆者のように実際の制作に携わっている側から見れば,内的な先形成が完結してから描き始めるということはまず有りえないわけで,そのような内的な形成を具体的な形成行為を通じて確かなものとしていくと考える方が自然であると思われる。この図5では,芸術家の心中の形成と材料による具体的形成とが同時に終えられている言わば理想的な創造過程を示しているが,現実にはこうした状態で作品が完成されることは,筆者自身の経験からもあるいは一般的にもまず有りえないであろう。

実際は図6のようにVの過程がGの過程を凌駕する,つまり内的な形成が終えられないままに現実の制作を終えねばならないことの方が圧倒的なのである。これは言い換えれば,作品は芸術家の内的なヴィジョンが十分に具現化されない未完成状態に留まったまま終えられるということを意味するのであり,ジャコメッティの作品はまさにこれを如実に物語っていると言えるだろう。

 形成の終局とともに弛緩や幻滅感におそわれることが,芸術家だけでなく一般的にも言えるということが,ザンダー( F.Sander )らの実験から確認されており*4,それを回避するために作品を未完成の状態に留めておこうとするノン・フィニト( non-finito )の問題がこうして浮上してくることになるのである。

我々が芸術作品に対する場合,大抵は図7のS 1の一方向からしかそれらを眺めていないと思われるが,ガントナーの主張は,こうした方向に加えて,S 2の創造過程の方向からも同時に芸術を見なければならないとするものであり,プレフィグラツィオンとはまさにそうした認識から出てくる概念なのである。つまりこの横の過程を切っていったときにそれぞれから出てくる未完成の形象をそれは指すことになる。

例えば図8にあるように, Vの先形成の段階で出てくるプレフィグラツィオンp 1は,具体的にジャコメッティの作品を例にとれぱ,例えばラフスケッチのような走り描きの状態のものを指すことになる。そしてVの先形成とGの具体的形成とが同時進行している過程から出てくるプレフィグラツィオンP 2は,先の図1のような状態の制作途中の未完成状態の作品を示すことになるのである。こうしたプレフィグラツィオンが多ければ多いほど,その芸術家の創造過程,思索過程がより明確に把握され得ることになり,内的ヴィジョンの指向性に対する理解をますます可能にするものと思われる。

 ジャコメッティの制作過程に見られる形成と破壊の連続は,彼がまさにプレフィグラツィオンの切り口をいかに多く入れたかということを意味するものであり,それは彼がいかに自身の造形理念に近づきたかったかを示していることになる。しかし描けば描く程ますます彼の目指す理想的なヴィジョンは遠ざかっていくように彼には思われるのであり,最後まで未完成のプレフィグラールな状態が続かざるを得ないのである。先にも述べたように,ジャコメッティ自身はそのような夥しいプレフィグラツィオンを残そうなどとは全く考えないで,どんどん消しては上から描き直しているので,それらの痕跡を記録したJ・ロード( J.Lord )や矢内原の写真は,彼の造形理念を知る実に貴重な資料であると言えるであろう。本稿の表題である「芸術制作におけるジャコメッティ的アプローチ」とは,つまりは彼のようにヴィジョンの追求のために多くのプレフィグラツィオンを描き出していくことを制作の最良の方法とするアプローチのことを指すことになるわけである。ただしジャコメッティは,そのアプローチの痕跡を自分自身では残そうとは考えなかったのであるが,本稿においてはそれを,こうした痕跡の持つ価値と意義に十分に留意しつつ制作を進めていくようなアプローチとして定義付けたいと考える。


IV.プレフィグラツィオンの美術史的位置付け

 次に検証せねぱならないことは,このようなジャコメッティ的アプローチが,西洋のこれまでの美術史の中で果たして認められるか否かということである。それを検証することによってこのようなアプローチの正当性とその位置付けが明確になるものと思われる。ガントナーはこれについて,「巷間に流布する美術史は,その立場があまりにフィグラツィオーネンの歴史に片寄り過ぎてはいないか。そうしておそらくプレフィグラールなもののより精密な吟味によって1つの新たな衝動が,我々の様式史の幾らか硬直した形体に対して期待されるべきではないか」と述べている*5。彼の言うフィグラツィオーネンとは,つまり完成された芸術作品自体のことであり,そのような完成作品だけで語られてきたこれまでの言わばマンネリ化した美術史に新たな局面を与えるには,作品の創造過程に,つまりプレフィグラールな側面に光を与えるべきであると彼は考えるわけである。そして彼はレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロにそうしたプレフィグラツィオンの最初の兆候が見られると考える。

図9 レオナルド・ダ・ヴィンチ 『三王礼拝

 ここでまずレオナルド・ダ・ヴィンチ絵画制作の在り方について検証してみたいと思う。図9を見て頂きたい。これは彼の代表作である『三王礼拝』の一部分である。一見して明らかなように,この作品は未完成の状態,つまり描き始めのエボッシュの段階で終えられていることが分かる。このようにレオナルドの作品は,その殆どが未完成の状態に留められているのである。

図10

図10は彼のドローイングであるが,このような類いのドローイングを彼は無数に描いている。彼の画家としての最大の貢献は,ドローイング絵画の独立したジャンルとしたことであり,それによって絵画領域の巨大な拡大化がもたらされたと言われる*6。つまり彼もそれを自己の思索の最良の手段と考えていたのであり,1枚の完成されたタブローを創ることよりも,ドローイングを通じての純粋思惟により重きを置いていたことが理解されるのである。従ってガントナーが述べるように,レオナルドにあって初めてプレフィグラツィオンとフィグラツィオンという2つの運命線が公然と明かるみに出たと言えることになる*7

  

図11

 同様の認識をもって制作した最初の彫刻家は,ミケランジェロであった。図11は彼の代表作『アッカデミアの奴隷群』のうちの一体であるが,これらは全て未完成の状態で終えられている。同じく晩年の『ロンダエーニのピエタ』においても全て,粗削りの状態で留められているのである。このような未完成は,「墓の悲劇」*8と言い表されているように外的な要因もあったが,真の要因は,彼自身が自らのソネットの中で詠っているところの「心のイメージ」*9に彼が忠実であればある程,こうした未完成のプレフィグラールな状態で終わらざるを得なかったのである。つまりそれらの夥しい未完成の作品群は,彼のヴィジョンと作品の完成との間の分裂を物語っているのであり,レオナルドがその分裂の間隙を数多くのドローイングで埋めた一方で,ミケランジェロはあくまで大理石を彫ることでそれに対処していったと言えるだろう。

 こうして見てくると,言わば近代西洋美術史の最大の出発点であるレオナルドミケランジェロが,ともに芸術におけるプレフィグラールな側面によりその力点を置いていたということが理解されるわけであり,フィグラツィオンという完成された美術作品からだけでなく,むしろプレフィグラツィオンという横からの美術の考察によって,新たな美術史の流れと美術のより本質的な在り方が鮮明になるとするガントナーの主張は,この二大芸術家の例証によって非常な説得力をもっものとなるのである。

 こうしたプレフィグラツィオンの流れの中で次に大きな位置を占めるのは,レンブラントであろう。確かに彼は,完成されたタブローも多く描いているが,彼もまたプレフィグラールな側面に大いに着目していた画家の1人であった。特にそれが顕著に伺えるのは,彼のエッチングの作品からである。

図12 レンブラント 『この人を見よ』

図12の2枚は『この人を見よ』という彼の代表作であるが,これらの作品群は1枚のプレートにどんどんと手を加えていくことによって出来上がったものである。自己のより理想的なヴィジョンを追求するということが,結果的に1枚の版を延々と修正することになるわけであり,エッチングという手法はそうした変化の痕跡を残すためには非常に有効なものであると思われる。レンブラントエッチング技法の初期の開拓者の1人であったことは,彼がまさにこのような側面に着目していたことの証しである。エッチングに限らず版画一般のもつ最大の利点はプレフィグラツィオンの痕跡,つまり創造過程を通じての自己のヴィジョンの変遷を,逐一試し刷りによって残すことが出来る点である。つまりそれらの刷りの連続的な羅列によって,自己の理想的イメージの具現化の過程の中での揺らぎや思考錯誤の跡を,客観的に把握することが可能なわけであり,それは結果的に自己省察に大いに役立つことになるのである。レンブラントは版画のこうした特性を完全に理解していたわけであり,この点からまさに彼もレオナルドミケランジェロの系譜に入る画家であると言えることになる。

 同様にしてレンブラント以降,このプレフィグラツィオンの系譜を辿っていけば,やがてゴヤドラクロワを経てターナーセザンヌロダン,そしてクレーへと繋がり,ジャコメッティへと至ることになると思われる。これらの作家の考察については紙面の関係上本稿では割愛するが,筆者が「ジャコメッティ的アプローチ」と命名したアプロ ―チは,レオナルドを端緒とする実に正当な,そして創造過程においてより本質的なものであることが,以上の限定された芸術家の考察の中からだけでも十分に明確化されたものと考える。そのアプロ ―チとは,繰り返しになるが,創造された「もの」,つまり完成されたタブローや彫刻に力点を置くのではなく,創造する「こと」,つまりそのプロセスそのものに力点を置き,芸術を思索の手段として捉えるというアプローチのことを言うのである。それは具体的には,ドロ ーイング,あるいは未完成の粗描きや粗削りというかたちで外在化することになる。こうした状態にある作品は,常にその中に或る「問い」を含んでおり,我々に何かを「問いかけて」くるのであり,それがこのような未完成の作品のもつ本質的な意義であろうと思われる。ジャコメッティを例に取れば,先の図1のシルヴェストルの肖像に見られるように,最初に描いた粗描きの画面が1つの問いになり,その問いに対ずる答えを再び同じ画面上で探るのであるが,それがまた新たな問いとなるというように延々と続いていくことになるのである。そしてそのような思索が,自己の内面化,深化をもたらすことは必至であり,恐らくこの問いは永遠に解決を見ないままに続けられることになるだろう。


V.美術教育への導入について

 以上までの考察で筆者は,芸術制作におけるジャコメッティ的アプローチについて,それのもつ意義と可能性を明確に出来たと思う。ここで今度は,そのアプローチをどのようなかたちで美術教育に取り入れることが出来るか,その具体的方策について考察せねばならない。質の違いこそあれ,ジャコメッティのような芸術家も,中学や高校の生徒も,絵や彫刻を創るその根源的な創造プロセスは全く同じものであるべきだと思われる。従ってまず最初に筆者が指摘したいことは,授業における作品主義的な考え方を改めて,作品を創っていくそのプロセス自体をクローズアップ出来るような方法論を確立することであると考える。その方法としてまず第一には,ドローイングを教材の主要な部分として大いに取り入れるということが挙げられよう。ドローイングのもつ意義は,レオナルドジャコメッティについての筆者のこれまでの考察で明らかである。ただ彼らのような芸術家は,ドローイングのもつ意義を主体的に把握して描いているわけであり,その意義を生徒に理解させて描かせることは極めて困難であろうと思われる。ここで筆者が提案したいのは,アクションペインティング的手法をそこに取り入れるということである。図13に見られる実例は,筆者が筑波大学附属桐が丘養護学校で実施したものであるが,それはつまりスクリブルの延長のようなことを数多く行うというものである。筆であろうとローラーや指であろうと,描材を限定せず一切の制約を与えずに,何しろ白い画面を汚すように仕向けることである。このようにして出来上がったドローイング的画面は,プレフィグラツィオンにも先行するマッキアの段階,つまり形態素因と呼ばれるものに相当する。このような形態素因は,主観と客観の両方にあり,主観的には作者が一定の創作過程に向かう気分になることであり,客観的には作者が具体的,対象的に発展させうる何等かの造形可能性が内包されている視覚的予件を指すことになる*10。このような作業の後に今度は,それらの1枚1枚から何等かのイメージを具体的に読み取って描いていく作業を課すのである。これは言わばマッキア的段階からプレフィグラツィオンの段階への移行を意味するわけであり,こうして創造過程は活性的な状態で自ずと進んでいくことになるのである。ここで筆者が強調したいことは,作品を創るという結果を目的とするのではなく,あくまでそれが出来上がる過程を各自が主体的に把握していくことをその第一の目的としているということであり,漠然としていた自己の内部のヴィジョンが,どのようなきっかけで具体的な画面へと転化され,定着していくのか,そのメカニズムを自ずと知らしめることなのである。筆者の実践では,生徒の殆どが積極的にこれらの過程に取り組み,結果的に1人で何枚もの作品を描き出すことが出来た。

 あるいは別の方法として,エッチング等の版画の積極的導入も一考に値すると思われる。先のレンブラントの例のように,版画はその制作過程の各段階を逐一試し刷りで記録に留めておくことが可能な唯一の手法である。図14はマックス・クリンガーエッチングの例であるが,こうした連続的な版の羅列により,彼の造形思索の在り方の理解が可能となるのであり,同様のアプローチの導入によって,生徒に自分のイメージの変遷を主体的に把握する機会を与えることは十分に可能であろう。肝心なことは,まめに生徒に試し刷りを行うように指導するということであり,それらの試し刷りとはまさにプレフィグラツィオンを残すことであって,それが多い程創造過程のメカニズムを生き生きと捉えることが出来るのである。また版画に限らず,ジャコメッティの例にもあるように,制作過程の写真をなるべく多く記録しておくという手段に依れば,絵画制作であろうと彫刻制作であろうと,プレフィグラツィオンの痕跡を残すことは可能である。例えば1枚の静物画の制作を例に取れば,それを仮に30分という時間を決めて途中経過を定期的に写真に撮っておき,完成作とともにそれらも同時に提示することで,フィグラツィオンとプレフィグラツィオンの2つの相を一挙に捉えることが出来るわけであり,それが結果的に生徒に自己省察の機会を与えることになるのは間違いないだろう。その他,こうした認識の下に様々な教材の工夫が考えられるであろう。作品制作を,「もの」を作り出すことでなく,「こと」自体として,持続の相の下で捉えるように仕向けていく方策が,今後大いに問われねばならないと思われる。


VI.考察の今後の展開について

 これまでの考察では,特に西洋絵画について,その未完成のプレフィグラールな作品の諸側面からに限定したものであった。ここには東洋絵画における同様の問題の考察が欠落しており,グローバルな視点から美術を捉えた場合,それでは片手落ちであることは明らかである。今後は特に東洋の未完成の問題について考察を進め,西洋のそれと対照することで地球的な立場から美術を統合的に捉え直さねばならいであろう。そうすることによって初めて,教育の実践へと向けられ得る理論構築が完了するのである。そしてその理論を。いかにして教育的に還元していくか,その具体的方策に対する詳細な考察が,今後の最大の課題として残されることになるのであり,表現・鑑賞の両側面から徐々にその課題に対処していきたいと考える。

*1:拙稿「ジャコメッティ的アプローチによる鑑賞教育への一試案」(『教育美術』第52巻第8号:佐武賞受賞)における,特に鑑賞教育への具体的適用についての研究が,筆者のこのアプローチの教育的還元に対する最初の詳細な考察となるものである。

*2:A.ジャコメッティ,(矢内原伊作・宇佐見英治編訳):『ジャコメッティ私の現実』,みすず書m, p.164,1982年

*3:J.A.シュモル編,中村二柄他訳:「芸術における未完成」,岩崎美術社, pp.11−13, 1971年。(Hrsg.v.J.A.SchmolL, Das Unvollendete als Kiinstlerische Form, A.Francke AG Verlag,1959)

*4:K.コンラート, (野村太郎訳):「前形成の問題」; J.A.モシュル編,前掲書,p.61.

*5:J.ガントナー,(中村二柄訳):「近世美術における未完成の諸形式」: J.A.モシュル編,前掲書. p.80.

*6下村寅太郎:「作家論レオナルド・ダ・ヴィンチ−人及び芸術家思想家として」;『世界美術全集レオナルド・ダ・ヴィンチ』,集英社, p.85,1977年

*7:前掲書(3),p.86。

*8:H.アイネム. (浅井朋子訳) :「ミケランジェロの作品における未完成なものと完成し得ないもの」;J.A.シュモル編,前掲書,p.111.

*9:J.ガントナー. (中村二柄訳):『心のイメージ−美術における未完成の問題』,玉川大学出版部,p.159, 1983年。(J.Gantner, Das Bild des Herzens, liber VoUen-dung und Un-voUendung in der kunst, Gebruder Mann Verlag,1979)

*10:D.フライ, (海津忠雄訳):「レンブラント一変転するものの表現形式としての断片的なもの」;J.A.シュモル編,前掲書, p.l55.



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