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2012-08-24

バタイユが捉えたマネの「聖性」について 北川正

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 G、バタイユは,『マネ論』と『ラスコー,あるいは芸術の誕生』を晩年になった1955年にスイスのスキラ社から上梓している。一方は,19世紀後半かずかずのスキャンダルに苛まれながらも,ボ=ザールのアカデミズムと断絶して「沈黙の絵画」という新境地にたどり着いたマネの革命性にせまり,もう一方は, 1940年にフランス南西部のドルドーニュ川沿いで発見されたラスコー洞窟壁画をめぐって,旧石器時代後期に芸術はなぜ誕生したのか,芸術とは人間にとって何なのかという根源的な問いに答えようとする試みである。前者は近代絵画の誕生を,後者は芸術の誕生を扱っているのだが,2作品はほとんど同時期に執筆されており,「芸術」が人間本質とどうかかわっているかを相補的に示しているように思われる。

 本稿では,2作品のつなぎ目になっている「聖性(ポエジー)」の意味をできるだけバタイユコンテクストにしたがって確認したうえで,バタイユによるマネ再評価の切り口を見直してみたい。


「死の意識」から「芸術の誕生」まで

 『ラスコー,あるいは芸術の誕生』によると,芸術をはじめてこの世に生み落としたのは,今から30万年前ヨーロッパパレスチナに現れ2万年ほど前に忽然と地上から姿を消したネアンデルタール人ではなく,旧石器時代後期(17,000年前)に石器作りをし,狩猟採集生活をしていたクロマニヨン人だという。

 ネアンデルタール人は,身体的特徴からすると異様に眼寓がとびだし,がに股のため体重が足裏の外側にかかり,直立二足歩行していたといっても外目は現代人とはかなり異なっていたと思われる。しかし,彼らの脳の容積は1,300ccに達しており,すでに火や道具を使って組織労働を行い,しかも墓をつくり死者に花をたむけた痕跡さえ残している。

 「労働によって人間的思考が形成されたその分だけ,人間は動物から離れた」のは勿論だが,バタイユが『エロティシズム』( 1957 )でもっとも注目したのは,ネアンデルタール人が墓をつくり埋葬の習慣をもっていたという点だ。一体なぜ彼らは墓をつくったのか。群れをなして移動するチンパンジーは,仲間がのたれ死んでも墓はつくらない。少なくとも,ネアンデルタール大は仲間の死になんらかの激しい情動を覚えたのだ。バタイユは,これを「死の意識」と呼び,他の類人猿からヒトを引き離す決定的なきっかけだと考えている。「死に対するこうした遅ればせの反応は,時代が別種類の人間へと移っていくのを予告しているのである」ネアンデルタール人の墓の周囲から発見される夥しい花粉の化石は死者を悼んで花をたむけた名残りなのか,恐るべき腐臭を放って腐乱解体するおどろおどろしい仲間の遺骸に未来の自分の姿を見てとり絶望と恐怖のあまりこの過剰な負のイメージを隠蔽隔離せざるを得なくなったのか,それとも自分たちが他の物質とはちがって「時間の腐食作用に耐えない」儚い存在であることに気づき,その底無しの恐怖をできうるかぎり覗き込まないようにしたためなのか,彼らは遺骸を生者の生活の場から離れた場所に埋葬し,頭蓋骨が陥没するするほど大きな墓石を置いて死を禁止したのだった。

「文化は本質的に,あれこれの禁止が直接的なあらわれである原始的な恐怖に基づいている」「そのさまざまな禁止は,根源的に人間と動物とを区別するものであり,概して猥褻性や経血や近親相姦に対しておぼえるおぞましさ,死や死骸に対する尊敬や恐怖を,規定するものとしてある」(『神秘/芸術/科学』──私たちが存在しているのは,たわむれるためか,まじめでいるためか──) とバタイユが述べているように,「死の意識」と「死の禁止」を境にヒトは急速に人間化しはじめるのである。

 動物は「水のなかの水」のように「連続性( continuité )」を生きている,とバタイユは言い表す。「連続性」とは,羊水に浮かぶ胎児のように母子が一体化した感覚であり,ここには自他のちがいも意識と無意識の境もない。羊水の海はまさに「エデンの園」だが,ヒトは十月十日でそこから追放の憂き目にあう。しかも月が満ちて産まれても,ヒトはウマやイヌのように即座に現実に適応できない。いわば「慢性的早産」のために,ヒトは長い間他者に依存して生きざるを得ないのだ。むずがる赤ん坊は,自らの欲望を他者に欲望してもらえないフラストレーションを通して自他の意識を持つようになるといわれている。自他の意識とは,極論すれば,自分が死ぬとすれば死ぬのは自分であって他人ではなく,自分が孤独のうちに生まれかつ孤独のうちに死んでいく個体であることを意識することである。この意識をバタイユは「非連続性( discontinuité )」と呼んで,「動物性(連続性)」からはっきりと区別した。たしかに「死」は正視に耐えない恐怖を呼び覚ます亀裂だが,「土にかえる」という言葉が示すように本源的世界への帰還を意味し,[非連続]のカルマを脱して万物と融合(連続)する意味合いもある。因みにエクスタシー( extase )は「忘我」と訳されるが,フランス語では「小さな死」と表現されることもある。それはヒトが愛の行為を通して「個体性(非連続性)の死」を一時的に体験するからなのだ。「非連続」を意識する存在が「連続性」を回復しようとして足掻く痙攣を,フロイトは「母胎(連続性)回帰」衝動とよび,バタイユはそれに「エロティシズム」という言葉をあてだ。ことに近代以降そういったエロティックな痙攣は心理的退行として,すなわち病的なものとして市民社会から締め出されることになる。「個体の死」とエクスタシーの関係をうすうす感じとっていたから,ネアンデルタール人も「死」を日常から隠蔽隔離しなければならなかった。彼らは,はっきりと異なるふたつの時間を交互に生きはじめたが,日常はすこぶる空虚で長期間維持するにはあまりにも不安定だ。ネアンデルタール人は「ホモ・ファーベル(労働の人)」と呼ばれるようにすでに労働をはじめていたが,バタイユによれば,彼らが労働をはじめたのは飢饉にそなえるためでも,種の保存維持をより確かなものにするためでもない。というのも,飢饉が起きるとしても局地的であり,種が絶える可能性は地球全体規模でみればまずありえないからだ。だとすれば,彼らが労働をはしめた理由は他処にある。彼らが鏃や斧といった石器を作り,それを用いて労働(狩猟)をはじめたのは,日常の空虚を埋めるためだったのではないか,バタイユはそう推理する。

 労働といっても,ネアンデルタール人の場合は組織労働である。鏃を研磨する人,矢を作る人,弓を作る人,鏃の原料となる黒曜石や鏃と矢の接着剤となるタールを採取して集落に運ぶ人,狩りをする人,毛皮をなめし加工する人といったように,労働を組織化する必要がでてくれば,死の禁止や近親相姦の禁止や人肉喫食(カンニバリスム)の禁止といった普遍的なタブー以外にも,大小様々な義務や約束ごとが生まれてきたはずである。「人間と動物との相違は単に知的,肉体的分野にとどまるものではなく,人間が深い繋縛」に捉えられているためなのだ,とバタイユはみる。ネアンデルタール人は「労働によって組織された世界を,死と性活動が持ち込む混乱から庇護しようとした。」彼らは,禁止の内側で労働にいそしむことによって,かろうじて日常を安定させることができたのである。しかし,「ホモ・フアーベル」といえども禁止に蹂躙されたまま永久に労働をするわけではない。というのも,組織(家族,村)が成長を止めているのに労働を続ければ,種の保存維持に必要なエネルギー以上のもの,「過剰( excès )」を孕むからである。動物は刹那に対応し過剰な狩猟採集はおこなわないが,ヒトの壊れた本能は種の生存に要する以上のエネルギーを生産する。その「過剰」とは余裕を意味するのではなく,「汚れ」た「呪われた( maudit )」状態であって祓う( pacifier )べきものであり,生産性や利潤とは無関係に組織の外部に放出し抹消されねばならない。こうした儀式を経なければ,組織は平穏な日常が取り戻せないからだ。組織的なこのガス抜きが「祝祭」である。「労働=日常」の対立概念である「祝祭」は,非連続を意識する孤独な存在が日頃の労働規約を破り,「過剰の非生産的消費」といういわば[供犠]にともなう目眩や狂気じみた高揚感を通して非日常世界に入り込み,「宗教世界で聖なるものという奇妙な言葉で呼ばれている過剰な現実」に触れるチャンスでもある。だが,バタイユはこれ以上「この言葉について納得のいく定義をすることは出来ない」と断定を避けている。深淵を覗き込む場合と同じく意識が朦朧としてくるだけだからだ。

 ところで,生産に消費を従わせる近代経済学や「働かざるもの食うべからず」式のプロテスタンティシズム的倫理に慣れきっているわれわれ近代人には,祝祭や賭や利潤をともなわぬさまざまな非生産的消費( dépenser )は狂気の沙汰で,まっとうな労働だけが正義に叶っているようにうつる。一体なぜ非生産的消費が「汚れ」として忌避されるのかというと,まずそれがいかなる生産の媒概念ともつながりをもたぬ,いってみれば「消費そのものに目的をもつ」支出形態であるからだ。第2の理由は,それが悪や狂気として排除されてきた暴力の解放に繋がり,非日常の時空を生活の表層に浮かび上がらせてしまうからだ。熱狂的な蕩尽行為には万人の理性を狂わせる魔性が潜んでいるのだ。

 だが,バタイユは、「呪われた部分」(1949)のなかで,「生産」「蓄積」「拡大再生産」というエネルギー無限増殖金科玉条とする近代経済学とそれを倫理的に支持し,「聖性」を失って単なる道徳律と化したプロテスタンティシズムを「呪われた( maudit )」システムだとして批判した。労働すれば遊び,蓄積すれば消費し,まじめとたわむれを循環させ,日常と非日常を往還して,過剰(汚れ)を孕まないよう工夫をこらすのがバタイユの提唱する「普遍経済」である。リオのカーニヴァルはその一例である。リオの住人は,カ−ニヴァルの期間,1年間額に汗して働き蓄えた富を利潤追求とは無関係に蕩尽し( dépenser ),労働規約に縛られてきた沸騰するエネルギーを爆発させる。消費に生産を隷属させる狂乱と無秩序のなかで,彼らはいわく言いがたい何かに触れるのだ。

 また,アメリカインディアンの[ポトラッチ]という経済戦争も「普遍経済」が根底にある。ふたつの部族が抗争関係にあるとしよう。しかし両部族は武器を使わずに戦争をしている。A 部族は,B部族に,自分たち部族が滅びるかもしれない危険を犯してでも,毛皮や食物や犬橇の犬を気前よく贈答する。そのためポトラッチは「誇示的消費」とも呼ばれ, Bが奢侈に圧倒されなければ,Aはさらなる贈答を繰り返し,あげくは犬橇の犬を敵前で惨殺して,こうした生活必需品の損壊を続けても部族の生活に支障はないと虚勢をはる。

 近代合理主義からすれば愚の骨頂に思えても,Bは,これに対しAと同等かそれ以上の返礼を行わなければ体面が保てない。そうしなければ, BはAより劣る存在であることを認めざるを得ないからである。「呪われた( maudit )]とは,こうしたBの呪縛された状態を指している。この不条理なやりとりが際限なく繰り返されれば両部族が滅びる可能性があるので,20世紀になってカナダ政府が介入しポトラッチは全面禁止になったという。大事なのは,ポトラッチ非生産的消費から生じる「聖性」を基準に両者の優勝劣敗を決定している点である。一見何の益もない理不尽な贈与行為が,贈与をうけた者を呪縛する。そして受贈者に返礼・返済能力がなければ,贈与者は俄然優位にたち,受贈者を意のままに操ることができる。

 身近なところでは,「滅私奉公」という言葉がある。『葉隠』の武士は,来るべき有事に主君へ命を捧げることを最大の名誉とした。彼らは,ベルニーニイエスに焦がれて身悶えする「聖女テレサの法悦」のように,日々「個体の死」のシミュレーションを陶然として生きた。「死ぬことと見つけたり」という言葉が,禄高と沸騰する生命の交換関係を倒錯的なまでに甘美な忠君思想に変えたのである。

 バタイユはこれ以外にも,非生産的消費の例として,賭けや,生殖とは関係のない性愛行為や,異性愛ではない同性愛や,聖戦の名のもとに過剰な国力ばかりか国民の生命をも乱費する「戦争」を挙げている。これらは日常的なレベルでは禁制侵犯そのものであり,「悪」だとされるが,「禁制侵犯を体験することによって,はじめて〈聖なるもの〉ヘのアプローチが可能になることを,誰もがひそかに知っている」(『文学と悪』)とバタイユは人間本質を挟りだす。たしかに悪と知りつつ悪をなせば不安や罪責感は募るが,だからといって全的なブレーキにもならない。

 ボードレールも,『赤裸の心』で次のような名言を吐いている。「恋愛の唯一至高の悦楽は,悪をなす確信にある。」恋する相手の個体性は犯しがたい禁止であるはずだが,恋の魅惑は,恋する相手の個体としての秩序を侵犯し,侵犯された相手のパニックに感応してまた自らも個体性を失い,両者が忘我のうちに一体化の幻を生きることではないか。この場合,「個体性」とは1個の自発性や意志ではなくて,家族や近所や地域や学校や会社や国や時代といった様々な文化規定(禁止や役割)に取り囲まれ閉じ込められている非連続な存在である。そして,ヒトは自らを規定する制度や約束ごとから一時的に解放されることで,「個体の死」に触れ「忘我( extase )」を経験するのだ。

 とすると,「禁制」と「侵犯」はどちらか一方が他方を制する二項対立関係にあるのではなく,相補的である。禁制がなければ侵犯の要はなく,侵犯される可能性がなければ禁制を設定する必要もない。「侵犯は禁止を楽しむために,禁止を維持するのである」とまでバタイユは書いた。両者は本質的に共犯関係にあるのだ。いずれにせよ,「禁止と侵犯」「日常と非日常」「労働と遊び」といったからくりがヒトの時間を構成し生命を循環させているのである。

 旧石器時代前期から後期にかけて,すなわちネアンデルタール人からクロマニヨン人にかけて,ヒトは禁止を犯す不安とともに「恍惚」の昧をおぼえ,切り裂かれた日常や慣例の亀裂から「聖なるもの」を垣間見ることになった。しかし,ネアンデルタール人が「労働=日常」に対立する「遊び=非日常」として「芸術」を生みだした形跡はいまだ発見されていない。

 バタイユによると,「芸術の誕生は,それ自体先行する道具の存在に帰せられねばならない。芸術は道具の所有と道具の製作あるいは使用によって得られる手先の器用さを前提とする」という。芸術の誕生は,旧石器時代後期に出現したホモ・サピエンスの一種で現ヨーロッパ人の先祖にあたるクロマニヨン人の出現を待たねばならない。クロマニヨン人は, 17,000年前の第四間氷期フランス南西部のラスコーに,様々な道具を駆使し高等な技術(岩肌にどうやって顔料をしみこませたのか,それにそれが現代まで色槌せなかったのはどうしてなのか今のところ分かっていない)を用いて夥しい数の馬や鹿やバッファローの彩色壁画を残している。

 ヴァンサン・テクセラが,1997年に『非=知の絵画』で述べているように,バタイユの『ラスコー』は,「単に芸術を問うているのではなく……美とエロティシズムの関連を問うているのである。」バタイユが,生殖行為とエロティシズムをはっきりと区別し,エロティシズムを定義して「非連続(個体性)」を意識する存在が「連続性(個体の死=動物性)」を回復しようとして痙撃的に足掻くことだとしたことはすでに述べた。われわれは,個体としての秩序維持を放棄し,禁止を犯す不安が絶頂に高まったとき「聖なるもの」を掠めるのだが,繰り返し生まれてくるこのエロティックな衝動を,真夏の午後の闘牛場で漆黒の巨大な雄牛と対峙するマタドールや,時速300キロで疾走するF1レーサーの恐怖と恍惚など,性愛行為以外のさまざまな営みのなかにも感じとることができる。そしてバタイユによれば,芸術こそその「不可能」と一体化しようとするわれわれのエロティックな要求を対象化したものなのだ。

 バタイユが,ラスコーの壁画を「芸術」としてとりあげたことには本質的な理由がある。それが習熟した彩色技術やデッサンカをそなえているということ以上に,「人類が黎明期の洞窟から抜け出し,絵画という新しい表現形式とともに浮上してくる離脱の瞬間」を捉えているからなのだ。

 『ラスコー,あるいは芸術の誕生』の圧巻は,洞窟のいちばん奥の「井」と呼ばれる場所に描かれた壁画の解説だろう。そこには,勇壮な雄牛と「仰向けに転倒した」貧弱な人間が描かれている。傷ついて内蔵がはみ出した巨大な雄牛のそばに,おそらく雄牛と戦って倒れているのだろう,鳥の仮面を被った男がペニスを勃起させたまま横たわっている。しかし「野牛と男は単に並列されているのではない。」ラスコーの壁画にはヒトの姿はほとんど描かれておらず,描かれていてもヒトであることを恥じるかのようにその姿は簡略化され稚拙に描かれている。逆に,鹿や馬やバッファローは神性を帯びたように優美に,しかも克明に描かれている。壁画に登場する男は,「動物性(連続性)」を崇めるように自らの顔を隠して鳥の仮面を被り,動物性の名残である怒脹したペニスを誇らしげに露呈している。

この絵をどう解き明かしたらいいのだろうか。バタイユの『ラスコー,あるいは芸術の誕生』( 1955 )は,ブルイユ神父が1952年に発表した『壁画芸術の400世紀』という考古学的研究に負うところが大きいとされている。実際,バタイユは,『ラスコー』を発表する2年前「動物から人間への移行と芸術の誕生」という論文のなかで,「これらの人物画の大部分は,顔が覆われているか,いわば人間のものでない所属性を付与されている」というブルイユ神父の一節を引用し,「決定的な一歩が踏み出されたのは,人間が,動物から人間になったのを知って,私たちのように自分のなかの動物的な部分(連続性)を恥じるどころか,逆に自分を獣から区別するこの人間性(非連続性)をいつわりかくそうとしたときである,と考えざるを得ないのだ。彼は,私たちが誇りとしている顔を覆い隠し,私たちの衣類が隠しているものをさらけだした」「人間は自分の顔の自然主義的な外見を用いればたやすく表現したはずの,知恵と勤労第一の器用さとに背を向けたのである」とクロマニヨン人の人間化のベクトルを描き出している。

 鳥の顔をもち怒脹したペニスをさらけ出したこの稚拙な人間像は,芸術が「非連続」を意識した孤独な存在が「連続性(動物性)」を回復しようとして足掻いた痕跡だと物語ってはいないだろうか。


禁止の体系としてのフランス古典絵画の侵犯とマネの「聖性(ポエジー)」

 それにしても,人間の闇を硬質な言葉で切り裂くバタイユと,都会的で洒脱なマネはどこで繋がるのだろうか。ふたりの結びつきは意外だが,A.マルローがゴヤ(『黒の三角形』)を選んだように,バタイユは近代画家の先駆としてマネを選んだ。『死者』や『マダム・エドワルダ』の作者にはもっと似つかわしい画家がいそうな気もするが,バタイユに「電撃的な転覆の感情」を呼び覚ましたのは,ゴヤの「カプリチョス」でもゴッホの「鴉のいる麦畑」でもなく,「1865年の官展」で大スキャンダルを惹き起こしたマネの「オランピア」だったのである。

 そして,その『マネ論』は『ラスコー』とほぼ同じ時期に執筆されている。そればかりか,バタイユにとって両作品は,「禁制侵犯と聖性」という共通のテーゼの展開だったようだ。一体画家マネはどんな禁止の体系を切り崩し,どんな「聖性(ポエジー)」に触れたのだろうか。

 マネの祖父はジュンヌヴィリエ市長で,父は行政官,母は外交官の家柄で,マネ家は代々ジュンヌヴィリエ市近郊(アルジャントゥイユはその一部)に広大な地所をもつブルジョワだった。セザンヌがイタリヤ移民から成り上がったエックスの銀行家の父といがみ合ったように,進路問題に関してマネも行政官の父親と確執があった。だがマネは,ブルジョワ世界全体を敵にまわしたことはない。マネは,ブルジョワ世界からあえて脱出しようとはしないし,呪われた詩人ボードレールのように脱出しきれないまま自虐的にブルジョワ批判をする捩じれももたなかった。

『パリの憂愁』に「午前1時に」という散文詩がある。ここでボードレールは,夜半満身創痍でアパルトマンにたどり着き,ドアに二重の鍵をかけて独りごちる。彼は,自分が軽蔑している人達より劣った存在でないことを証明するべく美しい一行の詩を書かせてくれと神に縋り祈るのだが,こうした「憂愁」に満ちた人生に「救済」を求めるロマン主義のパターンはマネの作品には一切みとめられない。

 マネが,ルジョーヌ大佐の家で,はじめて詩人に出会ったのは1858年の暮れか59年のはじめである。マネは手許不如意のボードレールにちょくちょく金を貸し,カフェ・ゲルボワで詩人の甲高く鋭い声に耳を澄ました。詩人はすでに『悪の華裁判( 1857年 )で有罪判決をうけた経験があり,ポーの翻訳家として名も成し,1845年と46年の『サロン評』、 55年の『万博の展覧会評』,59年の『サロン評』をものした気鋭の美術批評家であった。詩人は文壇の有力者ではないにしても,駆け出しの画家からすれば雲の上の人だったにちがいない。ボードレールは, Ch.メリヨンやF.ロップスやフェリックス・ブラックモンなど若い不世出の画家を拾い上げる稀な嗅覚をもっていた。ことにマネに対しては,「現代生活の画家」コンスタンタン・ギイスのモダンな風俗画を油絵で描けるただひとりの若手だという期待があったかもしれない。とにかく,マネの品のよさには一目おいていただろうし,何よりこの素封家の息子からは気安く金が借りられたのだ。詩人は1867年に亡くなるが,そのときまだマネに500フランの借金があり,詩人の母親が清算している。ふたりが気のおけない関係を結んでいたのは確かだ。

 ファンタン・ラトゥールの「ドラクロワ礼賛」( 1864 )には,ボードレールとならんでマネの姿が描かれている。ふたりはともにドラクロワの崇拝者だが,心酔のしかたが微妙にちがう。

 ボードレールは,オスマニザシヨンの結果変貌著しいパリを主題に「パリ風景」と呼ばれる詩篇を書き, 1861年の『悪の華』再版のときにそれを組み入れて詩の領分を広げ,また『パリの憂愁』では,近代都市パリの日常に取材した不可思議な思いをポーの短編小説にならって纏めたり,メガロポリス化したパリでしか起こりえない人間関係の錯綜を素材に斬新な散文詩を書いた。こうしたボードレールの近代詩の理論的支柱になるのが,1862年に発表された『現代生活の画家(コンスタンタン・ギイス論)』で,「現代性( modernite )」というキー・コンセプトを展開して近代絵画論の先駆けになっている。

 だが,ボードレールにとって[自然は辞書にすぎない]というドラクロワの「想像力」が絵を見極める絶対的な評価規準であることにかわりはなく,ボードレールロマン主義的感性から脱却しきれていないというのがバタイユの見方だ。

 1860年前後に,ボードレールは「ロンドン画報」の挿絵画家でオスマニゼされていくパリをメモがわりに速筆でかきとめるギイスと一緒に,いかがわしい居酒屋をはしごしてアプサントを飲み歩き,娼館をひやかしたり外環道路を徘徊したり,あるいはまたカフェ・ゲルボワでマネと絵画の将来について語らう一方で,ロマン主義の落日に染まる中世以来のパリの町並みを22枚の細密な銅版画に刻んだ狂人シャルル・メリヨンのモノクロの世界に惚れ込み,メリヨンとふたりで詩画集を出そうと計画したことさえあったのだ。ボードレールは新旧両方向に引き裂かれていた。

 それに対し,11歳年少のマネには「ボードレールのようなロマン主義的なこだわりはもはやなく」,ドラクロワを敬愛こそすれドライに留保もみせる。ロマン主義ドラクロワは,カテゴリーで分類すると肖像画家でも風景画家でもなく歴史画家だが,マネは「歴史画」という伝統的なジャンルをはなから拒絶した。P.テックスは,「マネによれば,歴史画家とは,画家に投げつけられるもっともひどい侮辱である。戸外にはこんなにも多くの命あるものが存在するのに,作品を死せるものにしているモデルと衣装,そしてマネキンと装飾品にまみれて閉じこもっている画家たちを,マネはとことん軽蔑していた」と書いている。マネは神話解釈の饒舌さや歴史画の雄弁さを敬遠し,「サルダナパロス」や「キオス島の虐殺」のような劇的な歴史画を受けつけなかった。ボードレールと知り合った当時のマネは模索途中で,まだ画家としての本領を発揮していないが, 1865年の「オランピア」にいたっても,ボードレールの言う「想像力」で勝負にでたわけではないのだ。

 1865年にスペイン旅行をしたとき,マネはマドリッドゴヤの「5月3日」というフランス兵による銃殺処刑場面を描いた作品を見ている。恐怖におののき怒りに顔を引きつらせた男,うなだれ上目遣いに処刑の順番を待つ絶望的な顔,ゴヤの「5月3日」はナポレオンの不当侵略をまことに雄弁に批判している。マネは,この「5月3日」にヒントを得て,帰国後の1867年にフランス植民地政策の一貫であるメキシコの「マクシミリヤン皇帝の処刑」を描くのだが,「5月3日」からすべての意味作用を払拭すれば「マクシミリヤン皇帝の処刑」になるとA.マルローが指摘したように,すべての感情表現を削ぎ落としたマネの歴史画は,ゴヤの雄弁さをすっかり削ぎ落としている。マネは,ゴヤロマン主義的な「自我の肥大と自我の誇りを真摯な芸術の創造のために,主観性に対する関心を客観性の冷徹な明証性のために犠牲に」したのだ。バタイユは,「自分の関心事に対する内面的な火を」どうにかして隠そうとするマネのこのエレガントな革命を「非人称的転覆」と呼んだが,その言葉の意味をヴァンサン・テクセラにならって補足すれば, 「画家がアカデミックな絵画の埃を掃き清め,重苦しい教育による強制から自由になると同時に,画家のエゴイスティックな関心事を厄介払いするあの画家の請願にも対応しているのだ。」よくも悪くも,もはやボードレールの「想像力」でマネの真価は捉えきれない。

 マネがボードレールの言いなりになっていたというのは半分は伝説だろう。マネがボードレールを全面的に支持していなかった証拠は他にもある。ふたりをめあわせたルジョーヌ大佐は帝国親衛隊に所属したが,根っからの共和主義者で,マネ家とは以前から懇意にしていた。そしてルジョーヌの家には,ドールヴィリーやボードレール,ブラックモンやナダールがしょっちゅう姿をみせていた。マネがこうした「慣習を憎む」集まりに顔を出しているのは象徴的だ。タイミングとして面白いのは,冒険家のナダールが熱気球に乗って航空写真に成功したばかりの頃で,ルジョーヌのサロンはそのことでもちきりだったかもしれない。そういうナダールへの素朴なオマージュなのだろう,マネは「万国博覧会の眺め」( 1867 )にナダールの気球を描きこんでいる。しかし,写真に懐疑的ったボードレールは撫然としていた。詩人は,写真から芸術を保護するために,イギリスの「エッチング協会」に倣ってカダールが刷り師ドラートルと提携して1862年に設立した「腐食銅版画家協会」普及に協力したぐらいだった。しかし,マネは自分の作品を写真におさめたり,ドガと同じく写真から絵をおこすこともやっている。たしかにマネは,「その人こそは画家、真の画家と言えよう,いかにわれわれがネクタイやワニス塗りの長靴において偉大であり,詩的であるかを,われわれに示し,理解させる人こそは」というボードレ〜ルの言葉を心強く思い,その公式に忠実にしたがって「チュイルリーの音楽会」( 1860 )を描きはした。しかし画家として必要があると思えば写真を利用することも辞さなかったのだ。

 マネは徒党をくまず,同時代のいかなる流派とも同化しない。モンペリエの富豪ブルイヤスに支援を仰ぎ, 1855年万国博展覧会会場わきにテントをはって「38枚の油絵と4枚のデッサンの展示即売会」をひらくクールベのポレミックなレアリスムも敬して遠ざける。パステルの名手のベルト・モリゾーの影響をうけて一時「アルジャントゥーイユのセーヌ川」のような明るい印象派的な作品も描いたが,この世を光の関数空間と考える印象主義にも安住できない。歴史画はもとより受けつけない。[マネの魅力は不決断,ためらいから来ていないだろうか]とバタイユが言うように,気まぐれで優柔不断なマネはロマン派にも,レアリスムにも,印象派にもおさまりきれなかった。

 しかし, 1856年クーチュールと喧嘩別れしたマネにとって,批評家ボードレールはかけがいのない相談相手だっただろう。不幸にしてふたりの関係は長続きしない。債鬼に追われた詩人は, 1864年にはやばやとブリュッセルに逃亡する。ブリュッセル滞在中,1度だけボードレールフランスに戻り,パリ経由でオンフルールに住む母に借金の談判にでかけるが,マネには何の連絡もしないまま怯えきったように逃げ帰っている。

 またマネにはボードレールのような根深いペシミズムはなく,官展(サロン)のジュリーにも第二帝政下のブルジョワたちにも気に入られたくて仕方がなかった。1867年にボードレづレが亡くなると,マネは運よくゾラの支持を受けることになる。ゾラはマネの性格について「この反逆の画家は社交界が大好きで,パリでの成功をたえず夢見ていた。そこには女たちのお世辞,サロンの歓待,群衆の賛美のなかをギャロップで行く贅沢な生活がつきものなのだ」と描いている。バタイユも「マネが望んだのは(ブルジョワの)同意であり,公の成功であり,彼のうちなる致命的なまでに盲目となった世界の聖別であった」と書いている。しかしひとひねりがある。マネは,ひたすら挑発的な絵を描きながら,官展への人選にこだわりつづけたのだ。官展が近づくと,マネはきまって一喜一憂するのだ。

 ボードレールはマネの矛盾撞着についてある夫人にこう書いている。「マネは,その土台がゆっくり滑りだしはしめた世界の変革に参加しています。困ったことにマネは控えめで,倫理的に臆病なのです……マネには芸術家の分け前であり,芸術家を職人に対置させるこの重苦しい〈自我の肥大〉を埋め合わせる義務があるのです。職人は匿名の存在です……芸術家を,自我が空虚で腫れ上がっている病気から逃れさせるのは,自分たちの〈同族〉に知られたいという欲望なのです。」

 「アプサント吸引者」( 1859 )「チュイルリー公園の音楽会」( 1862 )「草上の昼食」( 1863 )「オランピア」( 1865 )と立て続けのスキャンダルにうちのめされ,「あなたがいまここにいてくれたら」と愚痴るマネを,ボードレづレは1865年5月11日の手紙でやさしく窘めている。[また君について話さねばなりません。君にどんな価値があるのか,必死に証明しなければならないのです。君が要求していることはほんとに馬鹿げています。誰もが君をからかっている,君は冗談にいらついている。誰も君の真価を見極められない等々。君は,君がはじめてこういう憂き目にあったと考えているのですか。君には,シャトーブリヤンやワグナー以上の才能があるのですか。でもみんな彼らを馬鹿にしたのです。けれども,そのために彼らは死んだりしませんでした。それから,君が天狗にならぬように言っておくと,こうした人々はそれぞれのジャンルにおいてそれぞれが亀鑑だったのです。それにひきかえ,君は,君の芸術の衰弱において第一人者にすぎないのです。」

 最後の一節は,ボードレールの, 60年代フランス画壇に対する複雑な思いが溶んでいて興味深い。

 もともと文芸は貴族のたしなみで,それを作る者も鑑賞する者もごく一部の人間に限られていた。だが,フランス革命が文芸を大衆化した。本来ロマン主義とはこの大衆化された文芸一般を指すのであり,ウージェーヌ・シューの『パリの神秘』という新聞小説がその典型だろう。しかしイージーで肩の凝らない読み物に群がるブルジョワには伝統がない。そのコンプレックスから逆に貴族が特権化していた伝統絵画や古典文学に拘泥するブルジョワが出現する。欠落を補おうとするブルジョワの欲望を挺に勢力維持をはかるアカデミズムは,ギリシャローマ神話聖書から「パリスの審判」や「十字架降下」や「東方三博士の礼拝」といった「主題」を引用し想像力ゆたかに解釈して描くもの,歴史的な名場面をこれまた想像力を駆使して解釈し描くもの,そして王侯貴族や大ブルジョワの肖像というジャンルしか認めず,静物画や風景画のヒエラルキーは依然として低かった。バタイユによると,マネ以前の「芸術は,ひとびとを統一していた圧倒的で,否定しえないある威厳を表現するつとめをもっていたのだ。」

 しかし,このアカデミズムには変貌する時代を摂取するゆとりと順応力が欠けている。マネがクチュールの画塾に通いはじめた頃(つまり第二帝政がはじまった頃),セーヌ県知事でパリ市長のオスマンがパリの大改造(オスマニザシヨン)に取りかかっている。パリは様相を一新する。中世以来の古いパリは掘り返され,貧民窟や伝染病の温床となる不潔な路地は撤去され,建物の高さと通りの幅が18メートルに統一され,イタリヤ大通りのような大通り( boulevard )が町を縦横に走り,夜の10時になってもガス灯がこうこうと灯って,パッサージュや百貨店には商品が堆くつまれ,クリノリーヌをはいた女性と山高帽にステッキといういでたちのモダンな男たちで溢れかえった。時代を呼吸し,「現在」をいちはやく作品にとりこんだボードレールやC.ギイスと同じく,マネが町の変貌を見逃すわけはない。マネには「自分の時代にいなくてはならない,そして自分の見たものを描かなくては」という信念があったのだ。マネは「見るべきものではなく,実際に見ているものを表現することによって慣習的な絵画の原則から決定的に離れたのである」(『エロスの涙』)。

 マネは中背で,髪はブロンド,黄色の手袋をはめ,いつも新しいネクタイを締め,ボタン穴には薔薇をさしてイタリヤ大通りを閑歩する洒落者だった。バタイユは,「カフェ・ゲルボワ」で軽妙な冗談をとばす粋な流行児という軽薄な外見のかげで,「ポエジーを要求する創造的な熱病によって内面を蝕まれている」マネを思い描く。

 マネは古典絵画をパロディー化し,「現在」を絵画に持ち込んで観客の爆笑をさそった。マネの脳裏にはつねにボードレールの「美はつねに風変わりなものだ」という言葉が反響していたのかもしれない。いずれにせよ,バタイユが『マネ論』で述べているように,「ポエジー(詩的感興)は最終的には考えられるあらゆる約束ごとの否定」からしか生まれてこないのだ。だから,ポエジーとは,禁止を犯す不安とともに湧出するエロティシズムと同じ生命の躍動だといえる。マネは,制作に関するかぎりアカデミズムという「場所をふさいでいる死んだ体系」を破壊して,主題のなかにも構図のなかにも「現代性( modernit )]を導入し,「新しい秩序の誕生」をもたらした。しかし「ブルジョワ化された世界は,それが約束ごとでなければ,ポエジーを最後まで否定する。」ブルジョワにとって画家マネの活動はつねにスキャンダラスに見えたのだ。

 美術史的に見ても,1850年代60年代は,ボードレールの言葉通り「偉大な伝統は失われ,新たな伝統はまだできあがってはいない」過渡期である。しかし,ボ=ザールが教える約束ごとの綻びやアカデミックな慣例の亀裂から,すでに「ポエジー」はあやしく惨み出てきている。 19世紀後半の前衛芸術とそれを理解できずに怒ったり笑ったりするブルジョワの攻防にざっと目を通しておこう。

 1850年には,レアリスト・クールベがフランシュ・コンテの故郷オルナンのブルジョワの葬式を描いて顰蹙をかった。クールベは,最初この作品に「オルナンにおけるある埋葬の歴史画」と紛らわしいタイトルをつけていた。これがスキャンダラスだと見なされたのは,まず一介のレアリストが「風俗画」の枠を逸脱して伝統絵画の最高峰に位置する「歴史画」の領域に踏み込もうとしたからである。それにレアリスト・シャンフルーリーが発見した17世紀の写実画家ル・ナンのように農民をモデルにしているならまだしも,ブルジョワを描いたのが致命的だった。

 つづいて1857年には,フロベールの『ボヴァリー夫人』とボードレールの『悪の華裁判があった。フロベールはマチルド皇女の文芸サロンの常連で,彼女のとりなしでことなきを得た。だが,ブルジョワの化身であるパリ軽罪裁判所のピナール判事は,ボードレールには風俗紊乱のかどで有罪判決を下し,『悪の華』から6編の詩を削除することを命じ,さらに300フランの罰金を課した。1861年には,ワグナーの「タンホイザー」がパリ・オペラ座で演奏されて大騒ぎを巻き起こし、1859年にはマネの「アプサントを飲む男」が官展に落選した。

 マネのスキャンダルにかぎってみると,まず彼は「アプサントを飲む男」( 1859 )で従来の遠近法を無視して背景を暗く塗りつぶし,画面左にきらりと白く輝く酒瓶をおいて画面を引き締め,右にコラルデという浮浪者をモデルに「アプサントを飲む男」を描いた。官展に出品する間際,旧師のトマ・クチュールの講評を仰ぐと,悪趣味なレアリスムの産物として一笑にふされてしまう。

 クチュールローマ賞の受賞者で, 1847年には「頽唐期のローマ人」で好評をはくし,グロ男爵をして「フランスのティチアノ」といわしめた優等生である。そんなクチュールから見れば,「アプサントを飲む男」は「笛を吹く少年」と同じく遠近法を無視した前代未聞の肖像画であり,本来肖像画の対象にしてはいけない,クールティーユあたりの入市税のかからぬ「関の酒場」でしたたかに酔っぱらい,官憲などどこ吹く風と皇帝批判を繰り返しながらパリ市内に千鳥足で戻ってくる「屑屋の酒」(『悪の華』)の主人公のような,乞食同然の人物を主題にするのは言語道断であった。案の定「アプサントを飲む男」は「1859年のサロン」に落選した。だが,ヴァンサン・テクセラが『非=知の絵画』で述べているように,「現実の美化を拒否することで,マネは官展芸術の理想主義や堕落から遠ざかった」のであり,「神聖な芸術と記憶の連鎖から解放されたマネは,描くという行為そのものに自らの至上性を見いたしていく。」マネの静かな革命はこうして始まった。

 1862年に,マネはふたたび人物画の禁を破って「チュイルリーの音楽会」という群像を描いた。これをマルチネ画廊に展示すると,激怒する観客が現れた。なぜそれほど観客の反発をかったのだろう。まずこの作品には,ギイスの淡彩画やデッサンに馬車でブローニュの森を散策する有閑階級の男女の姿があるように, 1860年代のブルジョワジーの安逸と歓楽に溢れた「現代生活」と流行についての情報が大量に組み込まれている。シルクハットに燕尾服,片眼鏡にジレといった流行児と,軍楽隊の音楽に聴き入る女性が大袈裟なポーズをとることもなく,あるがままに描かれている。クールベの「画家のアトリエ」( 1855 )にはまだアレゴリー的な意味がこめられているが,「チュイルリーの音楽会」はあくまでもパリ社交生活の現実のひとこまであって,登場人物も英雄や歴史的人物ではなく,職業やドラマチックな運命をあらわす属性などなにひとつ与えられていない匿名の群衆(ボードレールやマネのように特定できる人物もいる)なのだ。それだけに主題の意味は茫洋としている。それに,マネはシルクハットの黒や近代都市パリの灰色を多く使うため,「古典的原則や民衆の嗜好にあった伝統的なパレットをかきみだしている。」

 まだある,観客の怒りを買ったもうひとつのポイントは,後景の人物がほとんど「画面のシミ」のように簡略化されている点である。たしかに数メートルさかってこの作品を見れば,画面のシミも効果的だと頷けるはずだが,真近で子細に点検したため「仕上げ」の悪い「下絵」と見なされる結果となった。制作に要する労働時間の多寡を「仕上げの」よしあしの規準と考えるブルジョワが,「青と金色の夜想」を2・3時間で仕上げておいてそれなりの金額を請求したホイッスラーを下衆呼ばわりした話は有名だ。

 話が前後するが,マネは公的評価を気にするくせに,1849年プティ=ゾギュスタン通りの実家の真向かいにできた国立の「エコール・デ・ボ=ザール」にはあえて入学しなかった。その理由は何だろうか。P.デックスによると, 1849年にはまだ2月革命の余燼がくすぶっていて,「芸術が臨時政府の論争の中心にあった。」ルドリュロランがアカデミーによる官展支配に水をさし,全国国立美術館総裁に選出されたオーギュスト・ジャンロンも,ルーヴル美術館を「人民のための宮殿」に変革しようとして,「レアリスムの伝統をくむル・ナンやシャルダンのようなそれまで無視されてきた画家に名誉を与え,美術館を改革しようとする」気運が高まっていた。 しかし「エコール・デ・ボ・ザール(美術学校)は革命があってもなにひとつ変わらなかった。」ボ=ザールの総長に就任したシャルル・ブランは,「アカデミックな教育のためにのみ存在した。」以上のような経緯でマネは「エコ−ル・デ・ボ=ザール」を拒否し,トマ・クチュールアトリエに入塾したのだ。

 だが,クチュールも伝統という禁止の内側でアカデミズムを守護する腕のいい職人にすぎず,ティチアノやレンブラントならともかく,マネは「偽りの威厳に服従すること」に我慢がならなかった。マネは,モデルがけれんみたっぷりに不自然なポーズをとるのを嫌った。マネはモデルに言った。「もっと自然らしくやれないの,君は八百屋で一株のラディッシュを買うときも,そんな恰好をするのかい。」マネは,「見るべきもの」ではなく「目に見える」ものを描こうとする。あるとき,マネが,ドラロッシュのモデルであることを鼻にかけるジルベールというモデルを説き伏せ,服を着せて日常的なポーズをとってもらっていると,そこにクチュールが現れ,「わざわざジルベールに金を払って着物を着てもらっているのか」「哀れな奴だ,君は君の時代のドーミエにしかなれんぞ」と蔑むように言った。クチュールにすれば,モデルが現代風の衣装をつけるくらいなら裸のほうがましだし,「物語性」を削ぎ落とした主題などあるわけはないのだった。バタイユは,「主題の意味作用に関する無関心はマネにはじまる」と言い,実はその無関心にこそ近代絵画の先駆を探りあてている。

 「ギタレロ」も時流にのっとっていた。マネはまだスペインに行ったことはないが,母方の叔父で絵心のあったフルニエが,マネの画才に気づきロラン学院でデッサンを習わせ,A.プルスト(のちの美術大臣)とマネを連れてルーヴルに通ったのだが,当時のルーヴルには「スペイン美術館」というルイ・フィリップのコレクションがあって,12歳のマネがベラスケスゴヤやグレコやリベラやムリリョやスルバランなど,ルネッサンス以来フランス継承してきたイタリヤ絵画の伝統とは毛色のちがう夥しい数のスペイン絵画に接していることは興味深い。さらに,その後シュザンヌ・レーンホッフというオランダ女性と結婚すると,オランダ画家の作品にふれる機会も増えた。近代画家マネを考える場合,マネの人物画がフランス古典絵画よりもベラスケスフランス・ハルスの影響を強く受けていることを忘れてはならないだろう。

 「ギタレロ」に話を戻すと,モンチホ伯爵家からナポレオン?世のもとに嫁いできたうるわしのウージェニー効果でパリはスペイン・ブーム,おかけで「ギタレロ」( 1860 )は,「アプサントを飲む男」とはちがって美術批評の大御所Th.ゴーチエの絶賛を浴びた。それも束の間,訪仏中のスペイン舞踏団のプリマ「ローラ・ド・ヴァランス」( 1862 )を蝕刻したマネの銅版画に札付き詩人ボードレール


されどローラ・ド・ヴァランスには

黒とバラ色の宝石がもつ

思い掛けぬ魅惑が

揺らめいているのがわかる


と思わせぶりな4行詩を添えたため,司法当局から「黒とバラ色の宝石」の箇所がスペイン女性の性器描写ではないかというあらぬ嫌疑がかけられる。批評家モンスレにも,マネは「ボードレールゴヤの弟子」だと誤解され,マネの真骨頂がロマン主義からの脱皮にあることはなかなか理解されない。

 1863年の「草上の昼食」は官展に落選, 65年の「オランピア」は官展に入選するが前代未聞のスキャンダルの引き金になる。マネは古典を無視するのではなく,すべての画家と同じく美術館で大画家の模写を重ねてきた。しかし,ヴァンサン・テクセラが指摘しているように,「マネは過去の作品を侵犯する,すなわち古典的で上品で偉大な主題を取り上げはするが,それを汚すのである。」

 マネが古典的な主題や構図を破壊して「新奇なる」世界を現出させようとする試みに,バタイユは「供犠( sacrifice )」の働きを読み取ろうとした。バタイユは「供犠は,何らかの形で,禁止によって生の可能性が保証されているあの<俗>の時間を超克すべき,聖なる瞬間の探究に答えようとするものである」と述べている。「過去の体系が威力を失い」絵画が凡庸極まった19世紀後半,画家マネの不安は巨大な古典体系という犠牲を必要とした。その供犠の目的は,生贅を聖別したうえで殺害する(マネは大画家を模倣したうえで汚す)という手のこんだ演劇化をへて,供犠への参加者全員が生贅の死を分け持つことだ。孤軍奮闘するマネは詩人マラルメにあるときこんな手紙を書いている。「親愛なる友へ。ありがとう。あなたのような支援者が幾人かいたら,ジュリー(官展審査員)なんてまったくどうでもいいのです」アカデミズムの殺害を通して経験する「聖なるもの」をマネは,たとえばこのマラルメとの共振から確信したのではないのだろうか。

 「草上の昼食」は,ジョルジョーネの「田園の楽想」とラファエロの「パリスの審判」から構図と主題を借りてきているが,後景には水浴を終えた裸婦,前景には着衣の男2人と,彼らの前で女性がひとり裸身を晒している。ふたりの男は画学生風の現代的な衣装をまとい,裸婦のモデルのヴィクトリーヌ・ムーランルネッサンス風の美女とちがって,きわめて現代的で個性的な顔だちをしている。構図が古典を踏まえていても,主題は明らかにバスケットを広げた「現代」ピクニック風景であり,場所もブローニュの森かどこかだろう。しかし,なぜ着衣の男のまえで女が衣類を脱ぎ散らし裸になっていなければならないのか。それが現代の現実とオーヴァー・ラップしたとたんに,「草上の昼食」は「卑狼」という印象に収斂する。ラファエロやジョルジョーネは神話的・超越的世界の理想のイマージュを表しているが,マネの「草上の昼食」は「寓意」にも「聖像」にもならないのだ。

 さてマネの代表作といえば「オランピア」( 1865 )だろう。だが,この作品についてシェスノーは「マネ氏はスキャンダルをおこすために選んだこうした主題を破棄するときに趣味のよさを身につけるだろう」と辛辣を極め,「クーリエ・アルティスティック」のE.ロクロワは「マネにはジュリーを不快にする才能がある」と冷やかに言った。現代から見ると,なぜ「オランピア」がそこまでスキャンダラスなのか判然としない。マネにゴヤボードレールの影響をみてとるモンスレは,「オランピア」の寸評で「マネはすでにブルジョワの嫌悪を征服した,これは偉大なる1歩だ」と皮肉っている。だが,マネが『悪の華』の詩人から受け継いだのは,悪魔主義でも「ブルジョワへの復讐」でもない。マネがボードレール共振するのは,「自分の時代にいなくてはならない,そして自分が見たものを描かなくては」という視点だけだ。しかし,どうやら「オランピア」が絵画に「現在」をもちこんだことがスキャンダルの発端らしい。

 マネは過去2回イタリヤ旅行をしており, 1857年にはフィレンツェのウッフィチ美術館でティチアノの「ウルビノのヴィーナス」を模写している。「オランピア」と「ウルビノのヴィーナス」の類似は発表された時から指摘されている。侍女を黒人のメイドに,犬を黒猫に変えてあるが,構図に大幅な変更はない。ただし「オランピア」はラメのスリッパをはき,首にビロードのリボンを巻きつけた現実に存在する若い女性であって,裸の女神ではない(「フォリー・ベルジェール」( 1881 )の女性バーテンダーも首に同じリボンをかけており,流行だったらしい)。それに「ウルビノのヴィーナス」では,前景と後景で時間軸がずれている。後景では,幼くして嫁ぐ少女が背を向けて泣きぬれ,前景では豊満なヴィーナスが横臥している。 J.T .クラークが指摘したように,平面にふたつの時間軸をもちこめば「物語性」や「道徳構造」が現れる。だが「オランピア」にそんな雄弁な仕掛けはない。マネは物語ることを自らに禁じている。 A.マルローが,ゴヤの「5月3日」からすべての「意味作用」を取り除くと「マクシミリヤン皇帝の処刑」になると見抜いたように,マネは絵画から非現実ばかりかロマン主義的な感情吐露をそっくり締め出してしまったのだ。

 バタイユは「オランピア」に関して「主題の意味作用に対する無関心はマネにはじまる」と言ったが,「オペラ座仮装舞踏会」( 1873 )などは一種の「主題の難破として現れ」,オペラ座という当時流行の密会の場で仮面をつけた誰とも分からぬ匿名の群衆が主題になっている。ゴヤの「バルコニーのマハ」から構図を借りたといわれる「バルコニー」( 1868 )の3人の登場人物の関係もよく分からない。放心したようなモデルのベルト・モリゾーの目線の先にあるものと同じように,この作品の主題は漠としている。主題を無意味に還元して丸腰になったマネの絵には沈黙がはりつき,それはただフォルムと色彩の戯れに,「絵画の自立」にたどりっくだろう。

 ボードレールは「天狗になるなよ」と諌めるつもりで,「君は,君の芸術の老衰のなかで第1人者にすぎないのです」とマネに釘をさした。しかし,1863年にロマン主義の大御所ドラクロワが亡くなり,「雄弁な絵画がもはやどんな真実によっても活気づけられず底をついてしまったことが,かえって絵画の新しい形式への道を拓いた」とはいえないか。「この新しい形式は,今日のわれわれには身近なものでこそあれ,誰1人として予測した者はいなかった……マネの奇抜な反動と,危険を冒す苦悩に満ちた探究のみがそこに達することになるのだ」(『マネ論』)。果してマネは,芸術至上的に「述べるのではなく,描くという芸術に,形と色彩の歌に,自由に身を委ねるのだ。」(『マネ論』)

 マネは物語ることを自らに禁じ,神話的人物や聖人(1865年のサロンに「オランピア」と並べて出品された「兵隊に侮辱されるイエス」( 1865 )のモデルは,現実に酔っぱらいか浮浪者の類で品がなく,〈聖人〉の記号がどこにもみつけられない)さえ俗界に連れ戻す。フィクティフなヴィーナスが現れると思って展覧会に来てみたら,金で買える娼婦が横たわってこちらを睨んでいるのだ。饒舌な象徴性をもつはずの主題をマネが単なる「現存」にすり替えたことを,バタイユは「主題の意味作用に対する無関心」と呼んでいるのだが,「マクシミリヤン皇帝の処刑」におけるように,「マネは死刑宣告をうけた人物を,花や魚を絵の対象に選んだときと同じ無関心をもって描くのだ」(『非=知の絵画』)。

オランピア」では,パトロンか馴染みの客が妾宅か娼館の控えの間にいる。「1865年のサロン」の観客はパトロンと同じ目線で「オランピア」を見ることになる。それに,ヴィクトリーヌ・ムーランの瞬かない目は,ちょうどボードレールが『悪の華』で「偽善の読者よ」と呼びかけたように,観客を否応なく共犯関係に導く強引さをもっている。黒人のメイドが花束をうけとっているところをみると,「オランピア」はやはり囲われ者か娼婦なのだ。「オランピア」というタイトルは,美術批評家で友人のアストリュックが命名したといわれている。J.T.クラークが指摘しているように,それはアスパシアスなどと同じく娼婦の源氏名から引いたものではないのか。1860年以降, 100万都市パリの行政区画は12区から20区に変更され,それまでは1階に車庫や厩舎あるいは商店があり,2階は商店主が,3階は貴族の階と呼ばれ貴族か大ブルジョワが住み,最上階の屋根裏芸術家や貧乏人が住んで垂直的に階級分離が行われていたが,絶えざる革命騒ぎで市街戦にうんざりしたブルジョワが田園のたたずまいを残すシャンゼリゼ周辺の16区に移住し,逆にシテ島の貧民窟の住人が18区や19区に強制移住させられて,町は水平的に階級分離し,町には東西ではっきりと貧富の差が現れた。( Paris,histoire d'une ville,BernardMarchand,Points )。J.T.クラークは,『近代生活の絵画』で,「オランピア」はこの16区という郊外のどこかに住んでいる高級娼婦( courtisane )かもしれないと述べている。身におぼえがあるにしろないにしろ,ブルジョワは「裸の少女と燕尾服の男が同じ世界に住んでいる」ということに狼狽してしまうのだ。

ヴィクトリーヌ・ムーランという現代的で個性的なモデルはマネのお気に入りで,「草上の昼食」や「オランピア」以外にも,「町の女歌手」( 1862 )や「エスパーダの恰好をしたヴィクトリーヌ嬢」( 1862 )や「鉄道」( 1873 )でモデルをしている。マネは版画師や印刷工が住むモーベール・ミュチュアリテ界隈で彼女をみそめ,彼女の愛人だったこともあるといわれている。ヴィルデンシュタインによると,「オランピア」のモデルをした当時,彼女は18才で個性的だが器量は十人並み,胸や腰が未成熟でルネッサンス風の豊満な美女にはほど遠い。当時の裸婦の主流は,ナポレオン?世好みのグラマラスなカヴァネルの裸婦だろう。「1863年のサロン」に出展された裸婦について, Th.ゴーチエはカヴァネルの「ヴィーナスの誕生」はこのうえなく魅力的だが,栄冠は当サロンの真珠であるボードリー氏の「真珠と波」に与えられるべきものとすると書いている。「ヴィーナスの誕生」や「真珠と波」やクールベの[オオムと女]( 1866 )の裸婦は,神話的な小物や装置が組み込まれていなければポルノグラフィーといってもおかしくないほど煽情的で,「オランピア」の未成熟で血の気の引いた肉体とは較べものにならない。だからスキャンダルの原因は煽情的とはちがう。むしろ反対に,「オランピア」の色艶姿形が第二帝政時代のブルジョワが共同化している理想の女性の体形から甚だしく遠いためなのだ。また「オランピア」が「恋愛についてのロマン主義的なイマージュを娼婦の自然主義的なイマージュ」にドライにすり替えた点が観客の反発をかったのだろう。

 ざっと1859年の[アプサント吸引者]から1865年の「オランピア」までをたどってみたが,バタイユによれば「オランピア」は「近代詩と同様,この世界の否定である,それはオリンポスの詩と神話モニュメントの,モニュメンタルなモニュメントと約束ごとの否定」なのだ。19世紀の画家にとって,古典絵画の伝統と慣例は神聖不可侵の約束ごとであり禁止だった。フランスでは,文学における以上に絵画においてアカデミズムが支配的だった。クチュールやカバネルといった職人は,その禁止の内側で技芸の研讃に励むが,芸術家はその禁止を破り約束ごとを反故にすることによってはじめてポエジーを孕む。画家マネの偉業は,まさに古典絵画の伝統と断絶し,ギリシャローマ神話聖書から抜き出された「主題」を捨てさり,それを単なる「現存」に置き換え,「雄弁な絵画」から「沈黙する絵画」へと「非人称的転覆」をはかり,「描くという行為そのものに自らの至上性を見いだす」純粋絵画への道をとりつけたことだ。それはマルローがセザンヌの林檎に見た「王威」にも通じるものだ。バタイユはこう述べている。「この王威はそれ自体としてはどんなイメージに属するものでもなく,ただ自分のうちで至高の沈黙に達する者の情熱に属するのであり,この領域のなかで彼の絵画は変形され,この領域をこそ,この絵画は表現するのだ。」

 たしかに革命の気運は高まっていた。1863年にはナポレオン?世の肝入りで官展の落選者の作品を集めた「落選展」が開かれることになる。ガエタン・ピコンが言うように,この年に近代絵画は誕生したのかもしれない。そして1874年には,モネセザンヌモリゾールノワールやドガが参加する「第1回印象派展」がナダールの写真館で開かれ,フランス絵画が遠心分離するようにアカデミズムや慣例による繋縛から遠ざかりはじめる流れはあった。しかし,この時期マネほど挑発的でセンセイショナルな画家はいただろうか。バタイユが「マネは彼以前の画家たちとははっきり断絶したのである(『マネ論』)」と書いたように,画家マネの生涯はアカデミズムとの断絶の軌跡なのだ。

 マネの画家としての武勲が抽象的で分かりにくいのに対して,人間マネは親しみやすい。その分人間マネは1人歩きしやすく,かってな解釈がつけられることも多いのだ。たしかなことだけを言えば,人間マネは官展入選にこだわり,後世美術辞典にしか登場しない化石のようなジュリーの言葉に一喜一憂した。また批評家デュランティーが誹膀したと思い込み,カフェ・ゲルボワにのりこんで頬をはり,決闘を申し入れ,双方サーベルが曲がるほど激しい戦いの末和解したこともあった。こんなロマンチックな激情も追い詰められた気弱で自信のないマネの臨界反応のようにみえる。『悪の華裁判で煮え湯を飲まされたボードレールは,1865年6月マネに「人類などくそくらえだ」と活をいれるが,もとよりマネにそんな度胸はない。マネは,ボードレールのように「他人たちから超然とすることもできなければ」「自己崇拝」としてのダンディズムに殉じることもできないのだ。マネは,ボードレールのように「自分のうちにあの得体の知れない充溢した強さ,悪運であり,同時にアイロニーであり,確実に悲痛なものであり,彼に自己を主張することを許したものをもっていない。」しかし,そこがマネの欠点でもあり長所でもあった。

 バタイユは,ボードレールの批判からマネを護るように「ボードレールはマネに対してただひとつの利点しか持っていなかった,すなわちもっと優柔不断なこと,そして大胆と恐れがいりまじる美しい混乱のなかで,もっと不幸であること」と詩人ロマン主義の残滓を皮肉っている。

 1862年,ボードレールは最後の美術批評となった『画家と銅版画家』でマネをとりあげ,「ギタレロ」の「いきいきした感覚」を強調したあと,「この次のサロンでは,スペイン風の縁付けがされた,もっと強烈な,スペインの天才がフランスに亡命したかと思わせるような作品が見られるだろう」と褒めあげている。だがわずか数行の批評にすぎない。そのわずか数行に報いるように,マネはボードレールの愛人「ジャンヌ・デュヴァルの肖像」を描いた。詩人は不実なのだろうか。『ドラクロワ論』や『コンスタンタン・ギイス論』はあっても,『マネ論』はついに書かれることがなかったのだ。詩人はマネの「初期の努力を愛し勇気づけはしたが」,マネの革命性を真から認めていなかった,というのがバタイユの結論である。 しかし,ベルギー亡命( 1864 )後のボードレールは脳性梅毒が進行して不調きわまりなく,息の長い論文が書けなかったのも事実で,一方的にボードレールを薄情だと非難するのも酷なような気がする。

 だが,マネがボードレールの批判や挑発から遠ざかり,「自分が何を望んでいるかを決してはっきりと知らず,自分の公式を巧みに変化させるよりは,絶えずさがし求め,疑い,他人の判断を恐れることをやめなかった」その「慎ましさ」と[自信のなさ]ゆえにボードレールより遠くまでたどりついた,というバタイユの公正な解釈には胸をうつものがある。



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