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2013-12-27

所有と表現の自由 小倉利丸

 旧聞に属することだが、ストリート・グラフィティ・アーティストの Zevs が昨年7月に香港の Art Statements Gallery における個展の際に、香港アルマーニブティックシャネルのロゴを、絵の具をたらす手法(Liquidated Logos)で「落書き」して、逮捕された「事件」はメジャーなアート関係のメディアでも取り上げられて話題になった。(たとえば、SLA'MHYPE、装苑、artforum、South China Morning Post とか)

 Zevs に関心をもっている多くのアートブログでもセンセーショナルな話題としてとりあげている。この「事件」で Zevs はアルマーニから建物の修復費用として746000香港ドル(860000US$)を請求されたという。( Adbusters)Zevs は、使用した絵の具は容易に除去できる子供用の絵の具を使用していて、ベルリンニューヨークなどでも使用しているが、掃除するのに特に問題は起きていないと反論したという(上記、Adbuster )。

 この Zevs のパフォーマンスはアーティスティックなものとして、ギャラリーでの個展とも連動して「アート」の文脈で取り上げられ、解釈されるだろうが、しかし、多くの無名のストリートのグラフィティライターの作品は、単なる「落書き」として蔑視されて、路上の「安全・安心」を脅かす犯罪行為として警察、自治体、公共交通機関、商店街などから目の敵にされつづけている。しかし、こうしたストリートの表現を「犯罪化」することは、実はそう容易には正当化できるものではないのだ。むしろ、「落書き」として軽視して排除を正当化すること自体には重要な権利侵害となる問題がはらまれていることに気づく必要があるというのが私の考えだ。

 Zevs のブランドロゴに対する Liquidated Logos の試みがブランドやマクドナルド象徴されるアメリカ的な消費生活への明確な批判になっていることは容易に理解できる。こうした批判的な行為としてのアートが都市空間の既存の秩序に介入する手法をとることは珍しくない。屋外広告塔の広告の書き換えから巨大企業のウエッブをハッキングしてトップページを書き換えるような行為に至るまで、さまざまな違法性をはらんだアーティストの表現行為の長い伝統がある。こうした表現行為は、思想信条に関わる非言語的な批評行為であることは明らかだろう。

 「違法化」「犯罪化」されるということについて、当のアーティストは、あえて法を侵してでも自らの表現を貫くことを選ぶというリスクを選択している。他方で、こうしたアートに接する「見る側」は、こうしたアーティストのリスクに対して果たしてどこまで同伴できているだろうか?もっともありがちなのは、たとえその作品がいかに優れたものであるとしても、無許可で他人の店舗や公共施設、交通機関に対して「表現行為」を行使することが、違法であることは「しかたがない」という理解なのではないかと思う。(少なくともこの日本では)このように考える理由は、たぶん、他人の所有物に対する侵害行為(器物損壊やあるいは建造物侵入の罪など)が犯罪であるということは「公理」であり弁解の余地はない、という考え方を前提にしているからだろう。しかし、はたしてこれは証明を必要としない「公理」なんだろうか?

 他方で、多くの国の憲法では言論表現の自由を基本的な人権として保障している。したがって、問題は所有権の侵害に単純に軍配をあげていいような簡単な問題ではなく、所有権と表現の自由の権利という、多くの国で憲法レベルでその権利が保護される基本的な人権のジレンマに関わる問題なのだ。現在の日本では、所有権の優先が当然というのが「常識」の位置を占めているが、このような常識は戦後憲法下の日本で一貫してとられてきた立場であるとはいえず、海外の場合も同様であって、所有と表現の自由トレードオフ問題で、表現の自由を一方的に抑制するような態度が一貫してとられてきたとはいえないのだ。所有権と表現の自由相克規範は、つねに、所有を優先させようとする警察、政府、企業などと表現の自由を優先させるアーティストや無産者たちとの闘争のなかで繰り返し構築されてきた。

 たとえば、日本の「常識」とは逆に、表現の自由を所有権よりも優位にある権利とする考え方を前提としてみるとどうなるか。 Zevs の行為やストリートのグラフィティライターのタグを犯罪化することは表現の自由への侵害ということになる。所有の権利と表現の自由がともに権利として保護されるべきである場合、このように表現の自由優先権を与える「社会」があってもけっして不思議ではないし、そのこと自体が基本的人権それじたいの否定にはあたらない。しかし、所有権を理由に表現の自由を規制したり禁じることは、表現の自由への侵害行為となるという考え方は、むしろわたしたちにとっては馴染みのない立場であるように思われてしまっている。路上や交通機関に広告を出したり、都市空間を占有できるような資産資金を持っていない人々が大半なのに、無産者すら所有権に優先権を与えてしまいがちだ。

 私が問題にしたいのは、基本的な権利として、所有の権利と表現の自由の権利は、現在の多くの社会では、対等な権利としては受け止められておらず、あきらかに所有権に優先権を与えているということだ。しかし、所有権に優先権を与える理由は、明確ではないのではないか? なぜ、「明確ではない」のだろうか?逆に、所有権を優先させる考え方については、「なぜ」という理由を明確にすることなく「当然」と考える。「自分の家に勝手に人が落書きするのを容認するのか?」といわれれば、多くの人たちは「それは困るし、やるべきではない」と答えるだろうと想定されているからだ。だがしかし、アーティストとして、自分が表現したい表現の場所が路上には存在しない。すべてが誰かの所有に帰せられているし、金のある企業は土地であれメディアのスペースであれ自由に「買い取って」自らの商品を宣伝するための手段にすることができる。表現の手段も場所も奪われるアーティストの表現の自由は極めて限定されているという「現実」に多くの人たちはあまりに無関心だ。問題は、現代の社会システムの根幹に、所有に優先権を与えるような暗黙の意思が作用しているということ、同時に、多くの人々が自分をアーティストとして、あらたな表現行為の主体としては認識せず、受身の「鑑賞者」の立場に追い込まれているという、この社会に固有の特性と密接に関わっている。言い換えれば、資本主義の所有構造と非創造/想像的な人格形成をもたらすこの社会の構造的な問題と深く関わっているのだ。

 今はこうした問題提起だけにしておくが、ストリートにおける表現の自由という問題は、実は非常に深刻な問題を内在させている。「割れ窓理論」として有名な路上の微罪を徹底して取り締まる治安維持の手法が有力となってきたここ四半世紀の間に、アーティストの路上での表現だけでなく、ありとあらゆる市民的自由に関わる表現の自由への抑圧がすすんできた。路上の監視カメラの急速な増殖、「町内会」をまきこんだ警察のパトロール強化と職質の横行、野宿者(ホームレス)が路上で寝起きすること、若者が深夜に出歩くこと、路上でタバコを吸うことすら「犯罪」化され、表象に関わる問題だけでなく、文字通りの私たちの振る舞いそれ自体が「犯罪化」される危険性に直面している。こうした微細な逸脱行動を犯罪化することを正当化するイデオロギーとしての「割れ窓理論」には多くの破綻があるが、日本では警察も自治体もいまだにこの理論を金科玉条のようにして信奉している。路上におけるアートの自由を抑圧する問題は、商業広告や資本が支配する消費生活批判のアートの自由という問題だけでなく、「所有」というこの社会の根幹にかかわる重大なアキレス腱にも触れる問題でもあるのだ。この問題はまた別個に論じたい。



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