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2016-10-16

モダニズムの擁護(アドルノ) 田辺秋守

 モダニズムを理論的にもっとも精妙に擁護したのは、T・W・アドルノ(1903-69)であろう。アドルノの遺作となった『美学理論』(1970)〔邦訳『美の理論』〕は、ボードレール以降の歴史的なモダニズム芸術を範にとる、モダニズム美学批判的集大成となっている。ドイツ語ではモダニズムという芸術上の潮流を、それよりもやや広義な概念である「モデルネ」(Moderne)という語で表現するのが普通である。後にハーバーマスのところで見るように、モデルネは「美的モデルネ」や「文化的モデルネ」ばかりでなく、「社会的モデルネ」、すなわち社会の近代化論にまで拡大することのできる概念である。

a 〈新しさ〉のカテゴリー

 アドルノがモデルネの芸術(モダニズム)に特徴的なカテゴリーとして考えるのは、〈新しさ〉(das Neue)である。ボードレールが抵抗を示した社会は技術進歩と功利性ばかりを追求する社会であったが、アドルノはそうした社会、近代のブルジョワ資本主義社会を「非伝統主義的社会」と呼ぶ。「本質的に非伝統主義的な社会においては、美的伝統はア・プリオリに疑わしいものとなる」(Adorno 1970 p.38 /39頁)。「非伝統主義的な社会」のなかでモダニズムのもつ〈新しさ〉の意味は、モダニズムの登場以前にも芸術の発展の指標と考えられてきた新たなテーマの発見、ジャンルの拡大、ジャンル内での様式やパターンの変化、芸術手法の更新などとは区別される。「モデルネの概念は、つとに様式がそうであるように先行する芸術行為のあり方を否定するのではなく、伝統それ自体を否定する」(loc.cit./同上)。つまりボードレールが抱いていたよ うな、芸術の歴史、伝統との全面的対立の意識である。

 だが、アドルノの分析がボードレールと異なるのは、そうしたモダニズム芸術作品が、同時に否応なくブルジョワ社会の原理にしたがっているといことに注意を喚起する点である。モダニズム芸術作品資本主義社会の他のあらゆる事物と同様に市場においては「商品」である。「モデルネ〔モダニズム〕の概念の抽象性は芸術の商品性格と結びついている。そのためモデルネはモデルネがはじめて理論的に明確に現れるところで、つまりボードレールにおいてすぐさま災いの音調を帯びる。新しさは死の兄弟なのだ」(loc.cit./39頁以下)。アドルノのいう〈新しさ〉は、ボードレールと同様に新奇さを盲信するところからははるか遠くにある。

b 芸術作品の「物神的な性格」

 その際アドルノは、芸術作品の商品性格を「物神」(Fetisch)としてとらえることを躊躇しない。ズヴィダヴァートはアドルノ芸術作品を物神としてとらえることには大きく三つの意味があると指摘している(Zuidervaart 1990 p.72 f./192頁以下)。(1)アドルノマルクスの商品の「物神性」(Fetischismus)批判*1を受けいれ、芸術作品も交換原理が社会的諸関係の支配的原理となった社会に所属しているとする。(2)ところが、芸術作品の物神的な性格は、なぜか経済的な生産諸条件から離れた、優れた文化的完成態として現象する。その意味で作品のなかに組み込まれた分業を隠蔽し、それ自身が生命をもっているように見せかける。(3)芸術作品は、それ自身の存在以外には何の用途ももたない生産物である。用途のない生産物は非合理的な対象物であり、そのような生産物を尊重することは、物神的な崇拝である。

 しかし、この三点にはそれぞれに別の限定が加えられる。(1')芸術作品は、作品自身の生命をもって現れることによって、自分自身であることが許されない社会、すべてが交換原理に従属している社会に疑いを差しはさむ。(2')芸術作品は、経済的な生産諸条件から切り離されて現れることによって、現状とは異なった諸条件を示唆する能力を獲得する。(3')無用のものとして現れることによって、芸術作品は「道具的理性」*2が忘れてしまった生産の人間的な目的を呼び覚ます。したがって芸術作品の物神的な性格は単なる錯覚ではなく、「社会的な真理」をも含んでいることになる。「だが芸術作品の真理内容は、その社会的真理も含んでいるが、それは自らの物神的性格を条件とする」(Adorno1970 p.337/387頁)。つまりアドルノ弁証法的な説明ではモダニズムの作品の意義とは、作品がこうした市場原理を一見承認するかにみえて、まさに市場原理に屈服するそのあり方にこそ商品社会に対する抵抗を示しているということである。芸術作品は物神でありながらも商品の物神性を脱物神化する。

c 芸術の自律性

 新しさの追求や絶えざる革新そのものは、もともと市場から商品へ押しつけられた要請である。しかし、アドルノのいう〈新しさ〉はモダニズムの芸術を単なる商品の目新しさから区別する指標でなければならない。〈新しさ〉のカテゴリーは、新しさの両面的な価値からたんなる「交換価値」としての新奇さではない美的な「使用価値」を選り分けることである。美的な使用価値とはこの場合、「作品の中の経済的基体以上のもの」 (Schweppenh隔ser 1996 p. /172頁)である。アドルノは、美的な使用価値の獲得は作品が社会から相対的に自立するにしたがって成し遂げられると考える。つまり作品の自律性(Autonomie)の獲得である。

 自律性はアドルノが芸術の唯一の合法性と認めるものである。芸術の自律性は近代社会における世俗化の結果として生じた。「芸術の自律性、つまり社会からの独立は、それ自体もまた社会構造と一体化したブルジョワ自由意識の機能であった」(ibid. p.334/383頁)。アドルノは一方で、モダンの芸術を近代の解放的な潜勢力として宗教対立する審級と性格づける。しかし他方で、ヘーゲルに代表される観念論美学が主張するように、芸術の「美」を「理念の感覚的な仮象」(Hegel 1986 p.151./119頁)*3という図式で有機的にとらえることにはあくまでも反対する。芸術が社会から相対的に独立するには、芸術は個体化の原理を、つまり各々の芸術作品をますます細部にいたるまで精密に仕上げることを必要とする。だが、それは作品にとって他律的なものを排除することによってなすのではなく、一見芸術美にとって疎遠な要素を積極的に取り込むことによってなすのである。ボードレールは自覚的にそれをおこなった最初の詩人であった。「ボードレールの詩は、自らにとって他律的なものである市場を、まさに市場のレトリックを自らの自律性に供することによってのみ 乗り越える。モデルネは硬化したものや疎外されたものの模倣(Mimesis)による芸術である」(Adorno1970 p.39. /40頁)。モダニズムの芸術は「硬化したもの」や「疎外されたもの」、言い換えれば「非有機的な(nicht-organisch)もの」(コンパニョンの指摘する(2)断片性(3)無意味ないしは全体性の不在)を作品に取り入れることによって、逆にいっそう柔軟な個体化の働きを高めることになり、作品の自律性を獲得する。

 また、芸術の自律性が獲得される過程は、芸術作品自己言及的になり批評的になる傾向と平行している。作品の自己言及的な傾向は20世紀前半のモダニズムの作品の明白な特徴である。モダニズム作品に見られるやや自意識過剰な点は、作品の解釈すら作品が限定しようとする。だがそれだけではない。モダニズムの作品の批評性は、作品が自分自身のなかで、他の芸術作品評価したり批判したりすることにも及ぶ。「芸術作品の真理内容は芸術作品批判的な真理内容と融合する。そのため芸術作品はまたお互いに批判し合う。芸術作品は作品どうしの依存による歴史的連続性を通してではなく、こうした批判を通してお互いに結びつけられる」(ibid. p.59 /64頁)。自律的芸術作品は、作品どうしの批判と競合のダイナミズムに基づいて理解されるのである。

d 芸術の二律背反

 しかし、なぜこのような複雑な対応が芸術に、なかんずくモダニズムの芸術に可能なのだろうか。アドルノによれば、そもそも芸術作品の成り立ちそのものが構造的に二律背反的(antinomisch)だからである。アドルノは、現実の事物との一致としての真理と、ありうべき姿における事物との一致という規範的な意味での真理を、同時に芸術作品の「真理内容」(Wahrheitsgehalt )と考えている。しかし後者の規範的真理が見いだされるのは、現在の強制的な現実を逃れているような別の現実性痕跡や断片のなかであり、またユートピアのかすかな予兆のなかでだけである。したがって、芸術は規範的真理のために美的な総合に反することになる。「総合の否定が造形原理である」(ibid. p.232 /264頁)いうアドルノの逆説的な言い回しは、芸術が「真」となるのは、芸術が総合の否定を内容として分節化しつつも、美的な形式化をその否定を通してもなお作動させることができるということを意味するだろう。例えばカフカの小説の中の恋人たちが、いかに堕落し不道徳な関係のなかで成就しえない愛しか見いだせないとしても、それが一貫した美的な形式に結びついていることを見逃さないことである。美は形式の関数であり、その意味でモダニズムの芸術にとって形式の内容からの独立性は決定的に重要である。芸術作品は、同一の作品のなかで美的な内容を否定すると同時に美的な形式を産み出さねばならない。アルブレヒト・ヴェルマーの言葉を借りれば、「それはいわば、薄氷の上で現状肯定的仮象仮象なき反芸術との間でバランスをとるようなものである」(Wellmer 1985 p.18.)。「現状肯定的仮象」とは、芸術が、現実社会の条件をなんら変更することなく、現状のままで「幸福の約束」*4が果たされるかのような姿を描くことである(通俗的作品)。また「仮象なき反芸術」とは、芸術に特有な仮象を失い、たんに現実をなぞるだけの存在に堕した芸術(リアリズム、特に社会主義リアリズム)であろう。モダニズムの芸術は、この両者のあいだの狭い通路を通り抜けてゆかなければならない。「宥和の仮象」による安易な感動を拒絶すること、厳密な形式意識によって作品自身が一個の現実批判になること。アドルノによればこのような逆転不可能な批判性を獲得したことが、モダニズム芸術の〈新しさ〉なのである。「〈新しさ〉を通して批判は、つまり拒絶は、芸術そのものの客観的契機となる」(Adorno 1970 p. 41/42頁)。

*1マルクスの物神性の批判については、くわしくは本書第3章3節参照のこと。

*2アドルノホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』のなかで、近代的理性が道具化し、人間もすべて操作と管理と支配の対象に格下げされ、ついに文化と文明の野蛮を招いた事態を系譜学的に描いている。「理性とは計算と計画の道具であり、目的に対しては中立的であり、その基本原理は均等化である」(Adorno, Horkheimer 1947 p.107/136頁)。「理性は、目的を欠いた、それ故にまさしくあらゆる目的に結びつく合目的性になった。理性とは即自的に見られた企画である」(ibid. p.108/137頁)。

*3アドルノは次のように述べている。「伝統的な見方では芸術作品仮象性格は、その感性的な契機と関連づけられてきた。特にヘーゲル理念の感覚的な仮象〔現れ〕という定式においてはそうである。仮象についてのこの見解は、この感覚世界の仮象の背後には、あの真存在としての本質や純粋な精神が存するとする、プラトン?アリストテレス的な伝統的な見解の呪縛のもとにある」(Adorno 1970 p.165./185頁)。

*4アドルノは「幸福の約束」(promesse du bonheur)について次のように述べている。「幸福の約束というスタンダールの言葉が語っているのは、芸術は現実存在においてユートピアを予告しているものを強調することによって、現実存在に答礼するということである。だがこのことは、絶えず縮小しており、現実存在はますます現実存在自身に等しくなってゆく。それゆえ、芸術はますます現実存在に等しくなることができない。既存のものによる、また既存のものにおけるすべての幸福は代用品であり、偽りであるのだから、芸術は〔幸福の〕約束に忠実であるためには、約束を破棄しなければならない。だが人間の意識は、とりわけ敵対的な社会において特権化されている教養によって、こうした弁証法の意識から切り離された大衆の意識は、当然のことながら、直接的で物質的な姿をとった幸福の約束に固執する」(Adorno 1970 p.461/補遺98頁)。



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