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2016-10-12

いわゆるプリミティヴーアートの発見*1 トリスタン・ツァラ

 1907年ころ、アンリマチスがレンヌ街のエマン爺さんの店でひとつのアフリカ彫刻を買った後、当時はなお未知のものだったこの芸術*2に対して、新しい画家たちの関心を初めて喚起したのだが、この間の事情は今日ではすでにあらまし人々の知るところになっている。

 フォヴィズムの昂奮だけなわなこの頃、画家たちがさまざまな古い芸術の遺跡の中に、かれらの絵画探険の大胆な試みを確証する要素をいかに食欲に探求したかは想像に難くない。マチスに続いてこの黒人彫像術を評価したのはドランとピカソではあるが、もっとも直接的にこの新発見を利用し、立体感(ヴォリウム)とマスの積み重ねを 援用することによって、その絵画の中に、平面の単純化と画面構成の原則を導入したのは、マチスである。 ピカソのいわゆる”ニグロ”時代*3セザンヌの教訓を通じてキュビスムの創造に到達した時、この運動を特徴づける造形的探求は、黒人諸民族芸術の無名の資産から汲みとった実験が生んだ自然な結論の観を呈する。 周知のように、かつて印象主義者たちはかれらの理念に照応する範例を日本版画に発見したのだった。

 芸術の各世代はその分身を過去の中に探し求めた、そして幾世紀にわたって獲得されたあらゆる遺産の絶えざる集大成から生まれたものとはいえ、一時代のさまざまな芸術的傾向が形成する周期は、歴史的様相の もとにおいてもまた個人のそれにおいても、人間的進展の過程そのものを要約することは確かである。各時代が新しい感受性を誕生させるのであり、容易に考えられることだが、例えばエマン爺さんの店の前を通り かかったルノワールが黒人彫刻を前にして無感動だったとしても、かれの感受性の程度が疑われることはない。黒人美学が持つ発展への潜在的可能性、他の古典芸術あるいは既成の公認芸術が提供しえなかった可能性をマチスに、ピカソにかいま見させたのは、かれらの個人的関心であり、その関心がそれに対応する造形的感受性をかれらの中に目覚めさせたのだ。新しい世代はかならず過去の一時期の芸術の豊かな力が涸渇するのを、またそれと相関して、無視されていた一時代が脚光を浴びるのを確認するのが常だった。

 キュビストにとって黒人芸術(アール・ネーグル)の名称がアフリカのみならず太洋洲(オセアニア)の彫像をも含んでいたことは留意すべき である。より正確な識別を確立することができたのは、はるか後のことなのだ。フランク・ハヴィラン*4マリウス・ド・ゼヤス、ポール・ギョーム、ルヴェル、リュパレらの蒐集はアフリカオセアニアの作品の 雑然たる混淆であり、またついでながらその分類もおよそ不正確なものだったが、一般的にいえることは、 アフリカ彫刻はよりよく知られていたのだが、オセアニア芸術は特に植民地勤務者がもたらしたニューカレ ドユアとマルキーズ諸島のものにょって代表されていたことだった。フォーブの画家たちはかれらの時代に、 色彩のロマンチズムによって、凝りすぎた象徴主義と時代遅れの印象主義に対する叛旗をひるがえしたのだったが、造形分野における模索がそのロマンチズムに対する反動として一時代を劃そうとしていた時期、現代芸術にもっとも大きな影響を与えたのはアフリカだった。その当時、キュビスムは一種の古典主義の観を 呈した、そしてアフリカ彫像術の厳しさの中に、余剰を切り捨てその本質的表現に還元された立体感の中に、新しい傾向の担い手たちは伝統的大画面の基礎を再発見しようと努めたのだった。

 豊満過剰なフォヴィズムに対する、またすべてを本能のおもむくままに任せる明白な意志のもと、生きる歓びがその中に表現された色彩の豊饒に対するこの反動、キュビスムはこの反動をほとんど単色的な厳しさと明暗濃淡の強度の抑制によって形成しようと全力を尽くした。そしてこの厳しさと抑制はまた、特にメラネシア諸民族の芸術と比較する時、アフリカ芸術の特徴をなすものである。

 すでに1916年、ダダは早くもキュビスムをひとつの新しいアカデミズムと見なすことができたのだが、 それとおなじく、シュルレアリストアフリカ古典主義に反対する立場からオセアニア芸術に対する特別な愛好を表明した。造形分野におけるキュビストのあまりにも巧緻な研究はいわば芸術そのものをその目的とする態度を示すものであり、生の領域そのものを対象とする実験に与するシュルレアリストによって排斥された。芸術的創造は想像力を主体とする想念の働きと同一視されるものであり、芸術作品はもはやそのメカニズムを追跡する以外の目的を持たぬと考えられた。マックス・エルンスト、ミロ、タンギー、マソン、ダリの作品、さらに一時期のピカソ、クレーの作品は多がれ少なかれ新しい原理から霊感を得たものであり。 その原理とは現代人の精神構造(メンタリティ)を探索するために詩人たちが想像したものだった。

 オセア二ア芸術の意味は、かれらにとって、好みと流行の揺れに左右される観念論美学の領域よりはむしろ認識の分野に属するものだった。

 たしかにギョーム・アポリネールはすでに1912年、「地帯」*5の中でこう書いている。

”おまえはオートイユに向かっていく 歩いておまえの家に帰ろうとする

オセア二アとギネアの呪物にとりまかれて眠るために”

 しかし、かれがポール・ギョーム出版のアルバムの序文として、最初の評論「黒人の芸術について」を書いたのは、ようやく1917年のことである。ギョームは1913年以来、アフリカおよびオセアニア彫刻 の販売を手がけた最初の現代画画商だった。そしておなじ1917年、わたしは『シック』誌に「黒人芸術メモ」を、1918年「黒人詩メモ」を発表した。芸術を多かれ少なかれ人間の意図的所産と、したがって人間の深奥の本性からいわば分離できるものと見なしたアポリネール美学的関心に対して、ダダはより幅広い概念を対立させた、すなわち原始諸民族の芸術は社会的宗教的機能と不可分な一環をなすものであり、 かれらの生の表現そのものとしての姿を見せていると考えたのである。”ダダ的自発性”を称揚していたダダは詩を理知と意志の副次的表現であるより以上に、ひとつの生き方とすることを意図していた。芸術は、 ダダにとって、その深い根が情動生活の原始的構造と一体をなすあの詩的活動の、万人に共通な表現形式のひとつだった。ダダは即興的舞踊と音楽のソワレ・ネーグルを催して、黒人の、アフリカの、オセアニアの芸術を現代人のレベルにある精神生活とその直接的表現に結びつけるこの理論を実践に移すことを試みた。 それはダダにとって、詩的機能から湧く歓びの泉を意識の深みの底に再発見するための試みだった。

 美学に対する人間的要素の優先支配、それはダダがすでに原始諸民族の芸術をテーマにして明証を与えたものであり、シュルレアリストにとっては既得の事実だった。アフリカ芸術がとりわけキュビストの造形的探究の支えとして役立ちえたとするならば、オセアニア芸術、が発見されたのは、新しい詩を通じてだった。 この芸術を、また芸術活動一般を精神の領域に置き、それを想像力自由と解放へのひとつの権利と解釈することによって、シュルレアリスト画家たちはダダに続いて、芸術がその中に閉じこもり、そしてみすがらの完璧主義の中に窒息する危険を冒していた領域を拡げたのだった。

*1:「いわゆるプリミティヴ・アートの発見」は「詩人たちによるオセアニア芸術の発見」のタイトルのもとに、『ル・ミ ュゼ・ヴィヴァン』38号(1951年5月)に掲載されたもの。

*2:当時は…未知の芸術=ヴラマンクマチス、ドランらのだれが、いつこの芸術を発見したかについては諸説あるようだが、ツァラは当時の関係者の話からこの説を立てている。「エマン爺さんの店」は、「古い紡ぎ車」の屋号を持ち、かれは”レンヌ街のクロンボ屋(ネグリユ)”の通り名をもっていたよし

*3ピカソの…”ニグロ”時代=1904年、23歳のピカソはモンマルトルの「洗濯船」に住む。かれは「青の時代」 (ほぼ1901年から4年末)を経て「ローズの時代」(1905年から6年末)に入るが、キュビスムの、そして20世紀絵画の出発点とされる「アヴィニョンの女たち」(1906年から7年制作)の前後の時期は「ニグロ時代」とも呼ば れる。

*4:F・ハヴィランド……=リモージュの磁器製造業者であり、また画家兼蒐集家。M・ド・ゼヤスはフランシス・ピカビアの友人、P・ギョームは他の職業についている時、偶々フアン族(おもにガボン共和国に住む種族)の小彫像に接した ことからその道に入った。A・ルヴェルは早くからピカソに興味を持った蒐集家のひとり、『アフリカとオセア二アの芸術』(1925年刊)の共著者。P・リュパレもおなじく蒐集家。

*5:「地帯」=、詩集『アルコール』の冒頭の詩。同詩集はピカソによる詩人の肖像をつけて、1913年発行される。そしてあまりにも有名な「ミラボー橋」ほか約70篇の詩が収められている。「地帯」は1921年制作されるが、この年の末頃から、アポリネールは詩中の句読点を廃止する。ピカソの「アヴィニョンの女たち」が20世紀絵画の出発点なら ば、『アルコール』は、ツァラもいうように現代詩のそれといえよう。



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