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2012-10-03

講義 ネオ・リベラリズム期のナショナリズムとセキュリティ 小田亮


1.はじめに

 後期講義の最初で述べたように、この講義では、現代社会の特徴を、「個人化」による社会全般の「液状化」にみてきた。繰り返せば、「個人化」とは、ウルリッヒベックらが言うように、社会の規範や慣習や規制といった、人びとの行為を律する枠組みが崩れ、あらゆることが個人の選択の対象になってきたことを意味する。選択の対象が増えれば増えるほど、その選択の失敗によるリスクも増えていき、不安も大きくなる。そして、伝統的な規範や従来の慣習などは自己選択や自己決定には役に立たず、かえってしがらみになって自己決定を妨げるだけだとされるため、個人化が進展すれば、社会の既存の規範はますます崩れていく。それが社会の液状化である。

 この「個人化」「リスク化」「液状化」は、現代のネオ・リベラリズム新自由主義)や新資本主義に限ってみられることではないが、ネオ・リベラリズムと新資本主義が社会の液状化を推進していることはたしかである。たとえば、「リスク化」をとってみても、ネオ・リベラリズムと新資本主義においては、生活の多くの局面が市場化され、自己選択は市場での選択を意味するようになり、その選択の失敗にともなうリスクは、「自己責任」として自分で負わなければならなくなっている(社会福祉やセーフティ・ネットは切り詰められている)。そして、伝統的なセーフティ・ネットであった人びとの間の持続的な関係や労働組合などの中間集団は、「個人化」によって、その形成や維持が困難になっている。つまり、ネオ・リベラリズム期では、リスクは増大するわけである。

 そして、すでに述べたように、液状化リスクの増大から、現代社会に生きる人びとの不安は増大している。犯罪が増えているわけでも凶悪化しているわけでもないのに、セキュリティが叫ばれているのは、この不安からくる「安全」「安定」への関心が高くなっていることと無関係ではないだろう。また、ネオ・リベラリズムには、個人の自己責任という価値規範とともに、ナショナリズムおよび家族主義の価値規範が付随しているが、これも、持続的で安定した関係の喪失の代償として国家や家族への帰属を求めているといえよう。

 ここでは、ネオ・リベラリズム期のナショナリズムおよび国家への依存の強化を、不安からくるセキュリティという価値の上昇から説明してみたい。


2.ネオ・リベラリズム期の国家と家族の価値の上昇

 ジークムント・バウマンによる社会の「液状化」という診断は、あらゆることが個人の選択の対象になるという「個人化」と経済の「グローバル化」が進展すると、国家や家族を含めて、不確実化し不安定化になるというものだった。『リキッド・モダニティ』(原著は2000年)に先立つ著書である『政治の発見』(原著は1999年)において、バウマンは、新自由主義=新資本主義による規制緩和は、資本と金融に対する政治制度による制限を縮小することで、資本も金融も国境を越えて自由に移動することを可能にし、国民国家の活動範囲をどんどん狭くしている。また、個人化は、働く人の孤立化・アトム化を招いて、労働者の権利を集団的に護る労働組合、アソシエーション、協同組合、そして家族でさえもが無力化していくと指摘している。家族は、世代に応じた市場の再編成によって家族1人ひとりの消費をコントロールできなくなり、もはや消費の場としても不安定になっていて、また若者の雇用が不安定になっているにもかかわらず、子どもの仕事や人生の選択についてもコントロールできなくなっている。つまり、ネオ・リベラリズムによる「雇用のフレキシビリティ」は、人びとの生活を不確実化していくとともに、その不確実性に対処するための基盤となる連帯関係のネットワークを不安定化していき、人びとの抵抗を無力化していくのである。

 しかし、ある意味ではこれは奇妙なことのようにみえる。新資本主義的な政策は、ナショナリズムの基盤である国民国家を無力化し、家族の基盤をも崩しているのに、ネオ・リベラリズムは、個人の自己責任とともに、ナショナリズムや家族の価値を強調するからである。

 バウマンは、家族同士の結束を固めるべきだというネオ・リベラリズムの要求が、欺瞞的とはいわないまでも虚ろに聞こえるのはそのためだと言っている。つまり、家族に対して、人びとが激烈な競争のなかで躓いたりした場合にその衝撃を緩和したり応急措置をとることを期待していながら、その一方では、個人が自分のやり方で生きていけるように家族そのものまで解体していくという矛盾がそこにあり、ネオ・リベラリストたちがその矛盾に無知であることを示しているという(無知でないなら欺瞞ということになるが)。

 これは、あきらかに「マッチポンプ」である。自分で破壊しておいて、その不安感を利用してほとんど役目を果たせなくなった国家や家族の価値に人びとをひきつけるというわけである。ただし、「個人化」と「グローバル化」とが進展したため、社会の固定された価値という基盤が「液状化」してしまい、その「不安」がナショナリズムの強化を生んでいるということはよく指摘されているが、このことだけなら、グローバル化と新資本主義それ自体が国家を解体していくのだから、ナショナリズムの強化は一時的な反動に終わり、いずれ消えていくということになる。先ほど挙げた奇妙さも、ネオ・リベラリズムの抱える矛盾によるものであって、そのうちにその矛盾が取り繕うことのできないほど大きくなっていき、ネオ・リベラリズムは早晩自己崩壊していくという見通しが語られてきた。

 しかし、そのような見通しは、すでに現実によって裏切られているといえるだろう。ネオ・リベラリズム期の国家は、弱体化していかずに、むしろ強力なものになっていっているからである。その意味では、グローバル化や新資本主義(市場絶対主義)に対抗するために国民国家の強化を唱える保守主義者やナショナリストなどの敵とも共闘すべきだと述べたブルデュー(『市場独裁主義批判』藤原書店、2000年)のような立場は、現実的になんでも利用すべきだという点では理解できるが、結局は、ネオ・リベラリズムナショナリズムおよび国家の強化という方向に絡め取られてしまい、その有効な批判とはならないだろう。

 その1つの要因は、すでにこの講義で述べたように、「個人化」による個人のアトム化とナショナリズムの基盤となるネイションという想像の共同体の想像の仕方とが一致していることによる。ベネディクト・アンダーソンは、『想像の共同体』(NTT出版1997年)において、「実際には、日々顔付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである。共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される」と述べて、ネイションネイション以前の共同体の想像のスタイルの違いが重要なのであり、ネイション以前の想像の共同体が「個々それぞれ独自に、無限定に伸縮自在な親族関係や主従関係のネットワークとして想像された」のに対して、ネイションは、そのような具体的な関係のネットワークなしに無媒介にネイション全体と個人とを結びつけるような想像のスタイルによって創られているということなのである。

 このように個々の具体的な関係のネットワークという媒介なしに想像される共同体というものは、その関係のネットワークを破壊し無力化していくネオ・リベラリズム親和性があるのである。そして、そのことは、家族の価値についてもいえる。家族を超えたネットワークやアソシエーションを無力化していくことは、身近な関係が家族だけだという家族の孤立化を招く(ついでにいえば「プライバシー」という価値の上昇も、家族の孤立化の要因であり帰結でもある)。


3.セキュリティの価値の上昇とナショナリズム

 しかし、国家の価値の上昇の要因は、そのような親和性だけでは説明できない。ネオ・リベラリズム期の国民国家の強力化は、セキュリティの価値の上昇と結びついている。このセキュリティの価値の上昇は、実際の治安の悪化からくるものではなく、新資本主義による不安定化と不確実性の上昇によるものである。そして、ネオ・リベラリズムは「小さな政府」、すなわち近代資本主義初期の「夜警国家」の復活を標榜しているが、この「夜警」は巨大化した夜警なのである。

 ネオ・リベラリズム期の新資本主義は、人びとの生活から安定性と確実性を奪ってしまう。たとえばバウマンは、現代のアメリカ合衆国では、3人の被雇用者のうち1人は現在の会社で現在の仕事を1年以下しか続けておらず、3人のうち2人は現在の職業に5年以下しかついていないという数字を挙げている。ネオ・リベラリズムは、人びとの生活から、安定性と確実性を奪いつつ、その不安を安全性へと転化していくわけである。

 バウマンはそれについて面白いことを言っている。すなわち、街路灯の下で何かを探している男に、どうしたんですかと聞くと、お金を落としたという。一緒に探してあげようとして、ここで落としたんですかと聞くと、いいやそうじゃないけどここのほうが明るいからと答えたというジョークを引き合いに出して、グローバル化と社会の液状化による不安定性および不確実性に起因する不安を私的な安全性へと移し変えることは、このジョークの男の論理と同じだという。

 バウマンは、グローバル化と社会の液状化による不安定性や不確実性という脅威は目に見えないが、安全性に対する脅威は、実体的で目に見えるものとして言及することができるという利点があるという。そして、ネオ・リベラリズムは、その利点を利用して、安全性に関する人びとの不安によって、不安定性と不確実性を生み出す体制への関心をそらして、その体制を阻止したり少なくとも減速しようとしたりする意思を妨げるのである。

 つまり、ネオ・リベラリズムの政治エリートや評論家たちは、不安の本当の原因である個人の生活の不安定性や不確実性を、根拠がないのに実体的に与えられた安全性への脅威へとすり替える傾向があり、メディアもその共犯となっている。不安定性や不確実性を生み出すメカニズムはグローバルなものであり、しかも人びとが具体的に見たり触ったりできないものである。それに対して、安全性への脅威は、実体的で可視的で触れることのできるものに転化できる。まったく根拠なしに与えられる具体的な原因(間違った原因)とは、個々の犯罪者であったり、特定の外国であったり、移民であったり、若者であったりする。国家は、それに対して、「犯罪に対して厳しく対処する」、「移民に対して国境を閉ざす」、「難民法を強化し、歓迎されざる外国人を検挙する」、「少年法を改正して厳罰化する」、そして民衆の感情を利用して「一度犯罪を犯した者は永久に犯罪者として監視する」、「街じゅうに監視カメラを設置する」などといった、目に見える具体的な方策をとることができる。そして、人びともそのような国家権力の政策を支持していくのである。

 たとえば、バウマンは、合衆国大統領選挙議会選挙で、死刑拡大がほとんどの選挙公約のトップに掲げられ、死刑への反対は政治的な自殺行為を意味するようになってきていることを指摘している。

 このように、新資本主義による不安定性や不確実性を、安全性の崩壊というまったく根拠のない言説にすり換えることによって、人びとが不安に思えば思うほど、「夜警国家」としての国民国家への依存を高めていき、国家の価値を上昇させるというメカニズムがそこに働いている。それが、ネオ・リベラリズム期のナショナリズムを支えているのである。



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