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2018-07-22

アヴァンギャルドの芸術作品 5. モンタージュ ペーター・ビュルガー


 あらかじめ明らかにしておかねばならない重要な点は、モンタージュの概念によって、アレゴリー概念のかわりをつとめるべき新しいカテゴリーが導入されるわけではない、ということである。ここで扱うのはむしろ、アレゴリー概念のある特定の観点を、より正確に規定してくれるカテゴリーである。モンタージュの概念は現実の断片化を前提としており、作品構成の位相を記述説明する。この概念は造形美術と文学のみならず、映画においても重要な役割りを担っているので、これらさまざまな表現メディアにおいてこの概念がそのつど何を意味するかという点 を、前もって明らかにしておかなければならない。

 映画は、周知のように、撮影された像を並べ合わせてつくられ、これらの像が眼前を通りすぎるその速度によって、見る者に動いている感じを呼び起こす。映画における像のモンタージュは、根本的に技術的な手法である。ここで言う技術とは、芸術に固有の技法ではなく、表現メディアによってあらかじめ与えられた技術である。むろん、 この手法の使用のしかたによって諸々の相違が生ずる、と言うことはできるだろう。つまり、自然的な運動経過が撮影されるのと、人工的な動きの経過がフィルム編集によってつくりだされる(たとえば、『戦艦ポチョムキン』 において、大理石のライオンの眠っている像と、目覚めつつある像と、身を起こしつつある像とを編集してつくりだされた、跳躍する石のライオン)のとは、同じことではない。第一の場合には、たしかに個々の像が「モンタージュ」されてはいるが、しかし映画のなかで生み出される印象は、目の錯覚により、自然的な運動経過を再生しているにすぎない。これに対して第二の場合では、動きの印象そのものが、像のモンタージュによってはじめてつくりだされる。*1

 したがって、映画におけるモンタージュは、映画という表現メディア自体によって与えられた、技術的な手法である。これとはちがって絵画におけるモンタージュは、ひとつの芸術的原理のステイタスをもっている。モンタージュが後になってからいつも発見されうる「先駆者」をひとまず度外視すれば歴史的には、立体派の脈絡においてはじめて登場するのはけっして偶然ではない。現代絵画のなかで立体派は、ルネサンス以来通用してきた表現システムを、最も意識的に破壊する運動である。ピカソとブラックが第一次大戦前の数年間に制作する「紙のコラージュ( papiers coelles )」においては、つねに、二つの技法の対照が問題となっている。その二つの技法とは、 張り付けられた現実断片(かご細工や壁紙の切れはし)による《錯覚主義(イルジオニスムス)》と、描写対象を処理する際の、立体的技法による、抽象》である。この二つの技法の対照がピカソとブラックの関心を支配していることは、同じ時代の、 モンタージュ技法を採らない作品(たとえば、ピカソの『壁に掛けられたバイオリン』1913 )にもこの関心をやはり認めうる、という点からも理解される。

 最初期のモンタージュ絵画に読みとれる作用美学志向性を規定しようとする場合には、きわめて慎重にふるまわねばならない。絵のなかに新聞紙を張り付けることには、疑いもなく、挑発的要素がそれに固有のものとして存在する。ただしこの要素を過大評価してもならないだろう。というのはこれらの現実断片が、全体的にみた場合、 個々のエレメント(量感や色彩など)の均衡を求める美的画像構成に強く支配されているからである。最も端的に言って、その志向性は、屈折した志向性と規定できるだろう。つまりそこで志向されているのはたしかに、現実の描写に拘束された有機的作品を破壊することではあるのだが、しかし、歴史的アヴァンギャルドにおけるのとはちがって、芸術そのものを疑うことではない。そこでめざされているのはむしろ、徹頭徹尾、美的オブジェの制作である。ただ、それにもかかわらずこの美的オブジェは、伝統的な判定規準の手をすり抜ける。

 ハートフィールドのフォトモンタージュは、全く別のタイプのモンタージュである。かれのフォトモンタージュは、根本的に、美的オブジェではなく、読むための画像なのである。ハートフィールドは寓意画の古い技法をとりあげ、 これを政治的に用いた。その寓意画はひとつの画像を二つの相異なる文言(テクスト)断片──すなわち、(しばしば謎めいた)見出し( inscriptio )、およびやや長めの説明文( subscriptio )──と結びつける。一例をあげれば、ヒトラー演説しており、その胸郭部に硬貨の詰まった食道が認められる。見出しに「アドルフ超人」とあり、説明文に「金を飲み、たわごと(Blech=鉛)を喋る」とある。いまひとつの例、SPD(社会民主党)のポスター「社会主義化は進軍する!」を取りあげた場合では、この本来のポスターに、山高帽をかぶり雨傘を手にした財界のキリッとした紳士たちと、それよりもいくらか小さく、鉤十字ハーケンクロイツ)の旗をかかげる二人(原文のまま──訳者注)の軍人とがモンタージュされている。見出し『まだドイツは失われてはいない!』、説明文『〈社会主義化は進軍する!〉と〈社会〉-民主主義者たちはポスターにうたった──しかも同時に決議した、社会主義者たちは撃ち倒さるべし、と.........」。*2ハートフィールドにおいて強調すべきは、かれのモンタージュ技法を特徴づけている反美的要素とともに、そのはっきりとした政治的メッセージである。ある意味では、フォトモンタージュは映画に近い。だがそれは、双方ともに写真術という表現手段を利用するからというだけではなく、双方において、モンタージュによるものだという事実が判別のつかないように、あるいは少なくとも容易にそれと認めえぬように処理されるからでもある。この点によってフォトモンタージュは、根本的に、立体派の画家たちのモンタージュシュヴィッタースモンタージュと区別される。

 右に述べたことがらはもちろん、対象(立体派のコラージュやハートフィールドのフォトモンタージュ)の、たとえおおよそであれすべての論点を網羅している、と主張するものではない。そこで問題としたのは、もっぱら、モンタージュ概念の意味範囲の輪郭を描くことであった。アヴァンギャルドの理論の枠内では、映画によくうかがえるようなモンタージュ適用は重要なものとはなりえない。それはこの適用がすでに表現メディアによって、あらかじめ与えられていることによる。フォトモンタージュについていえば、それを少なくともここでの考察の出発点とすることはできないだろう。なぜならフォトモンタージュでは、モンタージュしたという事実がしばしばそれとわからないように処理されており、そのかぎりにおいてフォトモンタージュは、映画的モンタージュ絵画モンタージュ中間の位置を占めるからである。アヴァンギャルドの理論は、立体派の初期コラージュ作品が理解させるようなモンタージュ概念から出発しなければならない。このコラージュルネサンス以来発展してきた画像構成技法と分けるのは、芸術家の主観による処理を経てはいない原材料たる現実断片を、絵のなかにはめ込むという点である。だがこれにより、すべての部分において芸術家の主観性の刻印を受けた全体たるべき画像の、その統一性が破壊される。ピカソが絵のなかに張り付けたかご細工は、さほど構成上の意図を顧慮して選ばれたものではないだろう。このかご細工は、まさにかご細工として、一片の現実でありつづける。それは本質的変化を加えられることなく、ありのまま絵にはめこまれた現実断片である。これによってひとつの表現システムが打ち破られる。すなわち、現実の描写という原理にもとづく表現システム、芸術家の主観が現実の置換を果たさねばならないという原理に依拠する表現システムが打ち破られる。立体派の画家たちは、なるほど──少し後のデュシャンとはちがって──一片の現実をむき出しのまま示すことに満足しようというのではない。とはいえかれらは、ひとつの連続体たる画像空間を細部にいたるまで完全に形成することを放棄する。*3

 何世紀にもわたって受け入れられてきた画像構成技法を疑問とするこの原理を、余計な努力の節約削減という次元に限定して説明することでわが意を得たりとする*4のでなければ、とりわけアドルノの、現代芸術にとってモンタージュがもつ意味についての論述が、ここで扱っている現象を把握するための重要な拠りどころを与えてくれる。アドルノはこの新しい手法のもつ革命的な質を次のように書きとめている。「芸術は異質の経験(エムピリー)を造型することによってこの異質の経験(エムピリー)と融和している、というのが芸術の仮象にほかならないのだが、こうした芸術の仮象は、作品が、文字どおりの仮象なき経験(エムピリー)の残骸を自身のなかに取り入れ、断絶を告白し、そしてこの断絶を美的作用へと機能変換させることによって、壊れる運命にある」(『美の理論』p.232)。人間の手によってつくられていながら自然たるを装う有機的芸術作品は、人間と自然との融和の像をたてる。他方、モンタージュの原理を用いる非有機的作品の特質は、アドルノによれば、それが融和の仮象をもはや生み出しはしないという点にある。アドルノのこの認識の背後にある哲学の、そのすべての点には必ずしもくみしえぬ場合でも、右の認識そのものには首肯できるだろう。*5現実断片を芸術作品のなかにはめ込むことは、芸術作品を根本的に変えてしまう。芸術家が画像全体の造型を断念するだけではない。画像もまた全く異なったステイタスを獲得する。というのもこの画像の各部分は、現実との関係において、有機的芸術作品に特徴的な関係にはもはやないからである。つまり画像の各部分は記号として現実を指し示すものではもはやない。これらの部分そのものが現実である。

 もっとも、アドルノがするように、モンタージュという芸術的手法に政治的な意味をも付与することができるかどうかは疑わしい。「芸術は後期資本主義的総体性にたいする己れの無力を告白し、しかもこの総体性の廃棄を開始しようとする」(『美の理論』p.232)。この見解には異議を唱えうる。資本主義を廃棄しようとしたなどとはけっして言えないイタリア未来派の人びとによっても、また、建設途上にある社会主義社会において活動した、十月革命後のロシア・アヴァンギャルド芸術家たちによっても、モンタージュ技法は用いられた。だがこの事実のみならず、根本的には、あるひとつの手法にひとつの固定的な意味を与えようとすることこそが問題なのである。この点においては、E・ブロッホのふるまい方がことがらにより適っている。歴史的に異なるコンテクストにおいては、ある手法がまた別の作用を及ぼしうる、という考え方からブロッホは出発する。そこでかれは「直接的モンタージュ」 (後期資本主義社会におけるモンタージュ)と「間接的モンタージュ」(社会主義社会におけるモンタージュ)とを区別する(『この時代の遺産』[文献8] p.221-228)。ブロッホモンタージュについて与える具体的規定がときとして精密さに欠けるとしても、それぞれの手法のもつ意味をこの手法に一回的に認められる意味に固定してしまうことはできない、という見方には充分留意しなければならない。

 したがって、アドルノが与える規定のなかから、現象にひとつの固定した意味を与えることなくこの現象を説明するものを取り出さねばならないだろう。次の規定はモンタージュについてのそうした規定とみなすことができる。 「綜合(ジュンテーゼ)の否定が造型原理となる」(『美の理論』p.232)。綜合の否定とは、さきに作用美学観点から融和の断念とよんだところのものを、創作美学観点からとらえる言表である。アドルノの規定を吟味するために、いま一度立体派の画家たちのコラージュに即して考えるなら、事実、次のように言える。かれらのコラージュにはたしかにひとつの構成原理が認められはするが、しかし、意味の統一としてのいかなる綜合も認められない(すでに指摘した 《錯覚主義(イルジオニスムス)》と《抽象》の対照を考えられたい)。*6

 アドルノが総合の否定を意味一般の否定と解釈する(『美の理論』p.231)とき、われわれはつねに、意味の拒絶もまたひとつの意味措定類型である、ということを心にとめておかねばならないだろう。シュルレアリストたちの自動筆記によるテクストも、アラゴンの『パリの土地者』やブルトンの『ナジャ』も、ともに、モンタージュ技法の刻印を受けたテクストだといえる。自動筆記によるテクストが、表面的位相においては、意味連関の破壊を特徴としているのは事実である。しかしながら、論理的連関の把握に拘束されるのではなく、テクスト構成の手法を検討することから始める解釈は、充分に、自動筆記によるテクストのもつ相対的に一貫した意味というものを取り出すことができる。ブルトンが『ナジャ』の冒頭に書き並べる一連の個々の出来事についても同様のことが言える。これらの出来事にはたしかに、最後の出来事が物語上の論理としてそれに先行する出来事を前提としているというような、いかなる物語的連関も存在しない。ところがこれらの出来事には別の種類の連関が存在している。つまりこれらの出来事はすべて同一の構造原型にしたがっている。構造主義の概念を用いて言えば、この連関は範列(パラデイグマ)的な 性質のものであって、連辞的(シンタグマ)な性質のものではない。連辞的な構造原型、つまり文(ザッツ)、は──それがどんなに長いものであれ──終わりをもっているということによって特徴づけられる。これに対し範列的構造原型、つまり範列系(ライエ)、 は原理的には閉じていない。この本質的な差異の結果としてまた、二つの異なる受容のあり方が存在することにもなる。*7

 有機的芸術作品は、連辞的な構造原型にしたがって構成されている。個別部分と全体はひとつの弁証法的な統一を形成している。それに適った読みは、解釈学的循環 ( der hermeneutische Zirkel )により記述される。部分は作品全体からのみ、作品全体はこれまた諸部分からのみ、理解されうるのである。すなわち、先取り的全体把握が部分の把握を導くとともに、同時に、この部分把握によって先取り的全体把握は修正される。個別部分の意味と全体の意味との必然的一致を仮定することが、この受容類型の根本的前提をなしている。*8ほかならぬこの前提を非有機的作品は破棄するのであり、この前提をもたぬということが、有機的芸術作品にたいする非有機的芸術作品の決定的差異である。部分の上位に位置づけられ、そして部分を必然的構成要素として自身にはめ込む、そのような全体から、部分はみずからを《解放》する。このことが意味するのは、部分が必然性を欠くということにほかならない。さまざまのイメージを並べたてる自動筆記テクストにおいては、いくつかのイメージが欠けても、それによってテクストが本質的に変わりはしない。同じことが、『ナジャ』で報告される諸々の出来事についても妥当する。本質的変化をもたらすことなく、同タイプの新たな出来事を挿入することもできれば、そこに報告されているいくつかの出来事を省くこともできるだろう。出来事の配列を変えることもまた考えうるだろう。決定的なことは、それぞれの出来事に固有の特殊性ではなく、出来事の範列系(ライエ)の根本にある構成原理である。

 こうしたことはすべて、自明のことながら、受容にとって本質的な帰結をもたらすものである。アヴァンギャルドの作品の受容者は、有機的芸術作品に則して形成された、精神的客体物の受容方法が、いま向き合っている対象には適合しないという事態を経験する。アヴァンギャルドの作品は、意味解釈を可能にする全体的印象を生み出さないし、また、個別部分に立ち戻ったとき場合によっては生じるやもしれぬ印象も、これらの個別部分がもはや作品のもつひとつの志向性といったものに従ってはいないので、なんら解明されえない。こうした意味の拒絶を受容者はショックとして経験する。アヴァンギャルド芸術家はこのショックこそを志向する。それはアヴァンギャルド芸術家がそのショック志向に、ある希望を結びつけるからである。この希望とは、意味の剥奪によって受容者にその生活実践のあり方の疑わしさを指摘し、その生活実践を変革する必然性を指示したいという希望である。ショックは態度変革の刺激剤として求められる。ショックは美的内在を打ち破り、受容者の生活実践の変革を開始するための手段である。*9

 ショックを受容者がとるべき反応として志向するとき、その問題性は、一般にショックそのものは方向規定的ではないという点にある。美的内在の打破が成功するものと仮定した場合でも、受容者のありうべき態度変革の方向がこれによって決定されているわけでは、まだない。ダダのイヴェントにたいする観衆の反応は、ショック反応が方向規定的ではないということをよく示している。ダダイストたちの挑発にたいし観衆は盲目的憤激をもって答える。*10そこでは、受容者の生活実践における態度変革はまず起こりえないだろう。それどころかこの挑発はむしろ、すでに存在している態度が顕在化する契機を与えることにより、この在来の態度を一層強化するのではないかという疑問すら生ずる。*11ショックの美学はさらにいまひとつの問題を投げかけている。ショック作用を持続的に保つことは不可能だ、という問題である。ショックほど速みやかにその作用を失うものはない。ショックはその本質上、一回的な経験だからである。ショックは繰り返されると根本的に性質が変わってしまう。予期されたショックといったものが存在する。ダダイストたちが現われただけでもう観衆が激しく反応したことは、そうした事態の一例である。つまり観衆は、しかるべき新聞報道によってショックにたいする心構えをし、ショックを予期していた。このようなすでにほとんど制度化されたショックが受容者の生活実践に作用しうるとは、およそ考えられない。ショックが「消費」されるのである。

 残るものはといえば、形成物の不可解さ、形成物から意味を獲得しようとする試みに対する形成物の抵抗である。 受容者があっさりと諦めたり、あるいは、作品の個別部分だけにもとづいてなされる随意の意味措定に満足したりしたくなければ、受容者は、まさにこのアヴァンギャルド作品の不可解さを理解すべく試みなければならない。そうすることによって受容者は、解釈のいまひとつ別の位相におもむくことになる。解釈学的循環の原理にしたがって作品の全体と部分の連関からひとつの意味を把握しようとはもはやせず、そのかわりに、受容者は意味の探求を 中断し、作品の質を規定している構成原理に注意を向ける。それはこの構成原理のなかに、形成物の不可解さを解く鍵をみいださんがためである。したがってアヴァンギャルドの作品は、その挑発によって、受容のあり方にひとつの断絶を、創作美学的に見た場合にいう形成物のもろさ(非有機性)に相当する断絶を、惹き起こす。有機的芸術作品に則して形成された受容方法が適合しないという経験は、ショックを通して確認されるのだが、この経験と、 構成原理を把握しようとする努力とのあいだには、ひとつの断絶が存在する。その断絶とはつまり、意味解釈の断 念ということである。歴史的アヴァンギャルド運動が巻き起こした芸術発展上の決定的変化のひとつは、アヴァンギャルド芸術作品に挑発されて成立したこの、新しいタイプの受容にある。受容者の注意は、もはや諸部分を読むことによって把握される作品の意味にではなく、構成原理にこそ向けられる。有機的作品における部分は作品全体の意味構成に与り作用するという点で必然性をもっているが、アヴァンギャルドの作品における部分はある構造原型のたんなる充填物でしかない。このことによって受容者は、右に説明した新しいタイプの受容を強いられることになる。

 われわれは、芸術および文学研究の形態的方法を、伝統的解釈学の方法をもってしてはとらえられないアヴァンギャルドの作品にたいする受容者の反応として叙述し、この叙述を通して、アヴァンギャルド芸術作品とこの形態的研究方法との連関を生成発展的に再構築することを試みてきた。この再構築の試みに際しては必然的に、形態的(つまり、手法に目を向ける)研究方法と、意味解釈を志向する解釈学とのあいだにある断絶をとくに強調しなければならなかった。とはいえ、生成発展的連関をこのように再構築したからといって、特定の作品類型に特定の 研究方法が割り合てられる、といったふうに誤解されてはならない。たとえば有機的作品には解釈学的方法が、アヴァンギャルドの作品には形態的方法が割り合てられるというのではない。そのような配分はここに概略説明した考え方とはまさに相容れない。アヴァンギャルド芸術作品は、たしかにそれを把握するための新しい研究方法を強いるものではある。がしかしこの研究方法は、アヴァンギャルドの作品に限って適用されるというものではない。 同じように、この新しい研究方法によって、意味理解という解釈学的問題が単純に消滅するというわけでもない。 むしろ、対象領域が決定的な変化を遂げたことにより、芸術という現象の学問的把握の方法もまた構造変革されることになる。この構造変革の過程が形態的方法と解釈学的方法の対立から両者の綜合(ジュンテーゼ)へと発展し、この綜合において両者が──ヘーゲルのいう意味で止揚されるものと想定できる。今日、私の見るところ、文学研究はまさにこの地点に立っている。*12

 作品の個別部分の解放はアヴァンギャルドの作品においても、けっして作品全体からの完全な離脱にまではいたっていないと考えられる。このことが、形態的研究方法と解釈学的研究方法の総合を可能にする条件である。作品全体と部分の統合の否定が造型原理となる場合でも、それとは判別しがたいながらなんらかの統一性を、なお考えうるにちがいない。これは受容にとって次のことを意味している。つまり、アヴァンギャルド作品もまたやはり解釈学的に(すなわち、意味を担う全体として)理解することができるが、ただそこに想定される統一性とは、自身のうちに矛盾を引き受けている統一性にほかならない。作品全体を構成するのは、もはやさまざまな個別部分の調和ではなく、異質な諸部分の矛盾にみちた関係である。歴史的アヴァンギャルド運動の後において、解釈学は、フォルマリスムの形態的方法によって単純にとって代わられるべきでもなければ、直観的把握方法としてさらに引き続き適用されうるものでもない。解釈学はむしろ、新しい歴史的状況に応じて修正されねばならない。これにたいして芸術作品の分析における形態的方法には、批判的解釈学の範囲内でますます大きな意味が認め与えられる。もっともそれは、伝統的解釈学の要請するところの全体による部分の統合支配とはつまるところ古典的美学に拘束されたままの解釈上の思考パターンにほかならない、ということが認識可能になっている、その度合いに比例する。 批判的解釈学は、全体と部分の必然的一致という理論的立場のかわりに、作品の個々の位相間の矛盾を探り解明す る立場をとり、この解明をもってはじめて全体の意味を推しはかるであろう。

*1:映画におけるモンタージュの問題については、W・プドフキン『モンタージュ』([文献57] p. 113-130)、お よび、S・エイゼンシュタイン弁証法的映画理論』([文献19-a] p. 65-81)を参照のこと。

*2:『ジョン・ハートフィールド──ドキュメント』(文献28)p. 43 および p. 31。

*3:現代絵画におけるコラージュ技法の使用について有益な概観を与えている J・ヴィスマンは、立体派のコラージュの影響を次のように把握する。「現実を告知する諸々の部分」は、「具象性をなくしてしまった図像記号を、見る者にとって判読可能なものとなす」という使命を引き受ける。これによって伝来の意味での幻覚主義的効果(イルジオニスムス)を得ようとするのではない。「それに代わってここで達成されているのはある異化なのであって、この異化は非常に特殊なやり方で、芸術と現実との対立にわたり合っているのである」。その際、描かれた部分と現実断片との矛盾は、「見る者自身が解決すべく見る者に委ねられて」いる(『コラージュ、あるいは芸術作品における現実の統合』[文献] p. 333 以下)。ここでコラージュについて考察するヴィスマンの立場は、「内在美学」の立場である。つまりそこでは「芸術作品における現実の統合」という問題が中心にくる。ヴィスマンの大著において、 ハウスマンとハートフィールドのフォトモンタージュについて語られるのは、辛うじてわずか1ページにすぎない。ヴィスマンがこれらのフォトモンタージュを詳しく扱っていたなら、次の点について吟味する機会を得たことであろう。すなわちそれは、コラージュにおいて必然的に「芸術作品における現実の統合」が起こるのか、あるいはむしろ、コラージュの原理はこのような統合に対して少なからぬ抵抗を示しており、しかもまさにこの抵抗が、新しいタイプの社会参加(アンガジュマン)芸術を可能にしているのではないか、という点である。この問題連関については、 S・エイゼンシュタインの考察がある。「テーマにもとづいて必然的にすでに与えられている問題事と、こうした問題事と論理的に結びついている作用だけによるこの問題事の解決の可能性とを、静的に〈反映〉させるやり方に代わって、新しい芸術手法が登場する。それは、自由モンタージュという手法であって、意識的選択された、それ自体で自立している(ということはつまり、当面の構成や題材場面の範囲外においても有効な)作用 (つまりアトラクション)を、自由に、とはいえテーマ上の特定の究極的効果を狙う正確な意図をもって、モンタージュする。すなわち、アトラクションのモンタージュである」((アトラクションのモンタージュ』[文献19-b] p. 77)。この点についてはまた、カルラ・ヒールシャー『モスクワプロレタリア文化連合におけるS・M ・エイゼンシュタインの演劇活動』(文献34)p.68 以下をも参照のこと。

*4:ヘルタ・ヴェッシャーは、ブラックによるコラージュ技法の導入を、「骨のおれる描写プロセスを省きたい」 という願望から説明している(『コラージュ──ある芸術的表現手段の歴史』[文献73] p.22)。E・ロータース はコラージュ技法の発展を簡潔に叙述しているが、そのなかでロータースは、正当にもこの技法のもつ意味の変遷に注目し、これを追求している(『造形美術におけるコラージュの歴史的発展』[文献58])。

*5アドルノ美学理論と、『啓蒙の弁証法』(文献37)に展開されている歴史哲学との関係については、Th・バウマイスター/J・クーレンカムプ、『歴史哲学哲学的美学──アドルノ《美の理論》について』(文献5)を参照のこと。

*6:現代抒情詩におけるモンタージュ技法については、W・イーザーが論じている。イーザーは、詩的像(イメージ)を 「現実を幻想により短縮するもの」(詩的像 (イメージ)は、対象の、直観によりとらえうる個別要素だけを描き出す)と規定するところから出発して、同一対象に関係するさまざまな像( イメージ)の併存(積み重なり)を、像(イメージ)のモンタージュ、とよぶ。このモンタージュの作用を、イーザーは次のように説明している。「像(イメージ)のモンタージュは、さまざまな〈像(イメージ)〉の幻想上の有限化を破壊し、現実の現象とそれを直観する形式との取り違えを止揚する。そのとき、 互いに干渉し合うさまざまの像(イメージ)は、あふれるほどの多くのきわめて風変わりな情景──それは、まさにその個的性格のゆえに、可能なかぎり無限につくりだせるを呈示しつつ、現実を描写することの不可能性を表わすのである」(『イメージとモンタージュ』[文献38] p.393)。「現実を描写することの不可能性」は、ここでは解釈の結果ではなく、像(イメージ)のモンタージュが顕わにする事実、と考えられている。一体なぜ現実が描写不可能なものとしてたち現われるのかと問うのではなく、その代わりに描写不可能性が、解釈者イーザーにとっては、もはやその根拠を探りえない確信となる。これによりイーザーは、反映理論とは正反対の立場をとっていることになる。かれはさらに伝統的抒情詩の像(イメージ)のなかにも、写実主義リアリズム)的な幻想(「現実の現象とそれを直観する形式との取り違え」)をみいだしている。

*7:ギーゼラ・シュタインヴァックスの研究(『シュルレアリスムスの神話、あるいは文化の自然への変容』[文献63])において、範列(パラデイグマ)および連辞(シンタグマ)のカテゴリーブルトンの『ナジャ』に適用する部分(同書、第五章)は、 この研究の最も説得力ある部分である。ただシュタインヴァックスは、シュルレアリスムの諸モティーフと、構造主義のさまざまな定式項目とのあいだに、その認識価値が疑わしいような類似関係をみいだすことに甘んじている。それがこの研究の本質的欠点である。

*8:解釈学的循環については、H = G・ガーダマー『真理と方法』(文献24)p. 275 以下、および、J・ハーバ マース『社会科学の論理』(文献27-c) p. 261 以下を参照のこと。──M・ヴァルンケは、作品解釈における部分と全体の弁証法がどのようにして、「個別的なものにたいする全体の無際限の権威を繰り返しふりかざす」解釈パターンへと零落しうるか、を示している(『芸術史的通俗文学における世界観的モティーフ』[文献71]p. 88 以下、引用箇所は p. 90)。

*9:モデルネにおけるショックの問題については、W・ベンヤミンの刺激的な見解を参照のこと (『ボードレー ルにおけるいくつかのモティーフについて』[文献6-c]とくに p. 206 以下)。ただしベンヤミンの見解は、個々の点において、それがどの程度生産的なものであるかをさらに吟味しなければならないだろう。

*10:この点については、R・ハウスマン『はじめにダダありき』(文献31)を参照のこと。かれの叙述は生き生きとしており、とりわけそこに翻刻された多数のドキュメントによって価値がある。

*11ブレヒトの異化理論は、ショック作用のもつ無方向性を克服し、ショックをいわば教育的に取り戻す、という首尾一貫した試みである。

*12:この点については、P・ビュルガー『研究方法について──弁証法文学研究覚書』(『フランス初期啓蒙主義研究』所収 [文献15-e] p.7-21)、および、P・ビュルガー『ベンヤミンの〈救出する批評〉──批判的解釈学構想のための覚書』(文献15-f)を参照されたい。フォルマリスムと解釈学の綜合(ジュンテーゼ)によって課される学問論上の問題については、研究方法批判の枠内で扱いたいと思う。



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