Hatena::ブログ(Diary)

garage sale このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-03-19

ディオニュソスの美徳 ロジェ・カイヨワ

 精神が自らに厳格な規律と最低でも極めて厳しいと言える掟を課している場合に限ってみれば、その精神は陶酔というものをそれらと同列に置き、それが存在するということそれ自体に当惑してみなければならない。というのも、そうした精神にしても、陶酔の誘惑やそれによる呵責を少しも感じないと確信してはいないからだ。こうした精神は、私生活においては、常におのれ自身に目を光らせ、衝動に走るような行為は必ずや自制し、また公的生活の面では、能力の発揮は無難なものだけに限り、うまく言い表せることや定義づけのなされていることしか公言せず、完全にものにした得意な分野でしか事をなさず、正当化できることや、既に動かしがたい体系の一部となっていること以外は一切提案しないようにすることもできよう。精神がこうした自己への厳しさを採択することによって得られる力は計り知れないほどのものである。事実、精神はこれにより軍隊なみの統一性を得て揺るぎないものとなる。つまり、各拠点に配置された戦略部隊の各々が軍全体の合わせ持つ力を有効に活用できる、そのような軍隊に見られる統一性である。だからといって、この精神が陶酔の誘惑を覚えぬわけではない。それどころか、これほど統一された精神ならば奪おうとすれば丸ごと奪えるはずであり、それがたやすく陶酔の餌食になってしまうのは当然であろう。要するに、統合が完全なあまり、眩惑を覚えた時点で自らを分断して火に一部を捧げる(大事なものを救うために一部を犠牲にする)ことができないのである。痙攣にうち震える時も、計算して行動する時と同じように全体的でないとは考えられない。こうした精神は一方に受容的であるのと同様に他方にも熟達しているのであって、そこにおいては緊張があまりにも強いからこそ、それに続く緊張緩和も爆発的なものとなるのである。

 思うに、陶酔もまた完き状態として発現するものであり、少なくとも実質的には存在のあらゆる活動域に浸透すると言ってよかろう。なぜなら、それがただ1つの領域だけを襲う時でさえ、他のすべての活動もそれに同調し、押し黙ってしまうからである。ニーチェが指摘した陶酔の3つの形態、つまり強い酒と愛と残忍さのもたらす陶酔と、ボードレールの言う卓越した明晰さの半陶酔状態とを考え合わせれば容易に理解されるように、恍惚が拠り所とできないような点は1つもなく、しかもその特徴である極度に力が充満した感覚は依然として薄れることはない。陶酔のもたらす効果がいかなるものであれ、またそれに人がどんな評価を下すにせよ、それによって人が興奮し(ある意味で麻痺性の麻薬だけは例外だと言えるが、それでさえ、瞑想的とはいえ安らぎに満ちた強い優越感を与えるものだ)、自己の存在を最高に実感し、この貴重な瞬間が人生における他のどんな瞬間よりも素晴らしく感じられ、いっときも早くもう一度それを味わいたいと願うのは確かである。

 このように陶酔は個人自身の最も侵すべからざる部分に関わっているのみならず、種々の陶酔は当然ながら個人の社会に対する暴力的状態を生み出すものであり、それが共同生活への個人の順応をある意味で難しくしている原因かとも思われる。ここにもまた、陶酔と知性とのかなり大きな対立が認められる。帝国主義的な宿命をになう知性と、一人勝手の興奮に身をゆだねる尊大な陶酔との対立である。

 しかし歴史はこうした対立がなにも絶対的なものではないと教えてくれる。つまり、個人が唯一社会から得るべきはずの満足を、社会に逆らった形で得るしかなくなるのは、たんにその社会がディオニュソス的な力になんら権利を認め得ず、自分の内に同化させるどころか、かえってそれを警戒し、迫害するからに他ならないということだ。事実、ディオニュソス信仰の本質的価値は、その信仰個人社会化しながら一体化する、しかも享楽個人的なものであるときにはほかの何よりも強く分離する力として働く何か、それによって一体化する、ということにあった。そればかりかディオニュソス信仰は、全員による恍惚への参与と聖なるものの直観的理解とを、この信仰を基盤とする共同体の唯一の絆にしていた。というのも、それぞれの都市の内部で閉鎖的に行なわれていた祭式とは違い、ディオニュソスの密儀は開かれた普遍的な性質のものであったからだ。この密儀はかくして社会機構の真っただ中に崇高なる騒乱を巻き起こしていたが、それが一旦鎮まると、今度は社会からその機構の外に、いわば社会が自らの解体を招く危険性のあるもの全てを投棄する荒れ地へと締め出されることになる*1。こうした展開はまさに社会の最深層における変革を物語っており、ディオニュソス信仰が都市の貴族階級に対抗する農民勢力の伸びとあいまって興り、天上の神々への信仰を尻目に地下の大神の祭りが普及したのが旧来の貴族階級に対する庶民層の勝利の結果であったことも、決してたんなる偶然ではない。これと同時に価値観にも変化が起こる。聖なるものの2つの極、つまり忌み嫌われていたものと神聖視されていたものとが逆転する。あれほどに疎んじられ、社会の片隅に押しやられていたものが、今や秩序の本質を成すものとなり、いわば結び目の役を果たすことにもなるのである。非社会的な(と見えていた)ものが、集団のエネルギーを寄せ集めて結晶化させ、それをつき動かす── つまり超社会化の力として働くのである。

 もしここで結束させるものを美徳とし、解体させるものを悪徳とするなら、これまでに見た内容をまとめてディオニュソス美徳という言葉で呼んで差し支えあるまい。というのも、この美徳の内に情動的基盤を見出だし、一切の地域的、歴史的、人種的、言語的前提条件を排して唯一その基盤の上に全員の連帯を打ち立て得た共同社会が存在したというだけでも*2、それを願う人々にとっては十分なのだから。すなわち、この美徳を従える術もなくただ無視したがるだけの社会の中だからこそそれが不当に踏みにじられている、という確信を裏付けるために。また彼らに意欲を与え、そんな社会に同化還元されることのない組織体として団結する可能性を示し、いつでもとれるこの戦略に訴えようという決意を固めさせるためにも。

*1:事実ローマにおいては、バッカス祭は良俗に反するのみならず国家公安を侵害するものとして禁止されていた。ギリシアでは、エウリピデスの書いた『バッカスの信女たち』が── ただしこの資料の扱いには細心の注意が必要だが── ディオニュソス崇拝の普及は既成権力との抗争なくしてはなされ得なかったことを十分に物語っている。

*2:この点に関しては友愛団体 confreries の社会学的研究を参照すべきであろうが、あいにくこの分野の研究はまだほとんど手付かずの状態だ。しかし次の二点だけは注意しておきたい。まず、友愛団体は弛んだ社会の中で唯一結束の固い組織として存在すること。次にそれは、こうした社会のまとまりの基礎となっている実質的規定条件(家柄、その他の)の代わりに選択の自由を置いていること。この選択一種の厳粛な入団儀式によって承認され、こうして得られた兄弟の契りは血縁関係と等価に見なされるのが普通である(団員同士が決まって「兄弟 frere 」と呼び合うのもそのためだ)。これによって兄弟間の絆は他の何にもまして固い絆となり、争いの生じた時にもまずそれが優先されるのである。



目次へ