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2016-06-09

20世紀初めのヨーロッパにおける 「黒人芸術art negre」の発見と評価  稲垣里芳


はじめに

 本論文は、ヨーロッパ、特にフランスにおいて、黒人アフリカの造形物が「芸術(art)」 と呼ばれ始めた20世紀初頭の状況を探ることによって、民族学的資料と芸術作品と の境目を問い直し、西洋的なファイン・アートとは異なる文脈において制作された造 形物が「芸術」とみなされるようになった根拠を探るとともに、同時代のモダン・アー トの展開の中で「芸術」という言葉の意味するものがどのように変化したかを論じる ものである。

 そのために、前衛芸術家の創作や言説に加えて、「アール・ネーグル art negre 」を 支持した美術批評家たちが、どのような理由からこれらの彫刻を評価し、「アール」 すなわち「芸術」として捉えたのかを、彼らのテクストに即して具体的に検討してい きたい。


1  「アール・ネーグル」の発見

1-1「アール(芸術)」と呼ばれる以前

 20世紀初頭における「アール・ネーグル」の「発見」以前、アフリカの造形物は どのように捉えられていたのだろうか。

 1870年以降、植民地化の文脈において、黒人アフリカに対する侵略のシステムが 整い、ヨーロッパに大量のアフリカの器物がもたらされるようになった*1

 時を同じくして、1860年代から80年代にかけて、ヨーロッパ各地で民族学博物館 の開館が相次いだ。フランスでも、1878年にトロカデロ民族誌博物館の前身となる 学術調査団民族誌博物館が開館している*2

 しかし、民族学博物館に収集された造形物は、「美的芸術的」なものとして捉えられることはなかった。「アール・ネーグル」の研究者であるジャン・ロードは、以下のように述べている。

これらの作品の収集は、2つの目的に応じたものである。すなわち、すでに収蔵された作品の研究と検討を容易にすること、アフリカとかかわりをもつさまざまな人びとに、植民地化の途上にある諸民族の風俗、習慣、欲求を教えることであった。[…]美術史家、民族学者、美学者たちは、20世紀初頭にいたるまでは、多少微妙な差はあるが、「黒人美術」を軽蔑するという点で一致していた*3

 このように、アフリカの造形物は、「美的」なものというよりは、植民地を知るための資料であり、フランスによる植民地化の成果として、一種の見せ物としての役割を帯びていたと考えられる。

 では、このような状況の中、どのようにアフリカの造形物は「美術」として発見されたのだろうか。


1-2 20世紀初頭における「アール・ネーグル」の発見

 「アール・ネーグル」は、1905年から07年頃に、当時のフランス前衛芸術家たちによって「アール」として「発見」されたと考えられる。この発見は、19世紀後半における日本の浮世絵エジプトの彫刻などの非古典的・非西洋的な美術の発見の後、もしくは同時期のことであったと、シャン・ロードは指摘している*4

 芸術家たちがアフリカ彫刻を美的なものとして発見した厳密な時期を示す資料は現存していない。しかし、1906年に、ブラマンクとドランはトロカデロ民族誌博物館を数回訪れている。また、同じ1906年の秋にマティスエミール・エイマンの骨董品店で黒人による彫刻を購入し、同年から翌07年にかけて、購入したコンゴの彫刻を自らの作品の中に描いている。また、ピカソについても、1907年の春にトロカデ口民族誌博物館を訪れたという記述が残っており、同年にコンゴのコタ族による遺骨容器の守護像(顔の部分)を参考にしたと思われる作品を描いている*5。これらのことから、芸術家の間では、1906年前後に「アール・ネーグル」が「発見」されたと考えてよい。

 1909年になると、黒人アフリカを含む異文化の造形物をモダンアートの作品と共に取り扱うジョセフ・ブジュメルによる画廊が登場する*6。このようなギャラリーの登場によって、アフリカの造形物は美的なものとして評価されるようになっていったと考えられる。

 そして、1912年には、『コメディア』紙に掲載されたアンドレ・ワルノーによる論評において「アール・ネーグル」という言葉が使われる。以下、これに対する大久保恭子による考察を引用する。

パリの芸術家や批評家たちはアフリカ美術を総称して〈アール・ネーグル〉と呼ぶことが多かったという事実がある。アポリネール式の呼び方[「アフリカの彫刻 sculpture d'Afrique」]が〈アール・ネーグル〉に変わったのは、おそらく1912年で、美術批評家アンドレ・ワルノーによってであろう。そしてそれ以降、この呼称は批評家のみならず芸術家の間にも浸透して行ったと考えられる*7

 このように、1912年においておそらく初めて、「アール・ネーグル」という呼称が黒人アフリカの造形物に対して適用された。つまり、1912年に、黒人アフリカの造形物を「芸術」とみなす用語が誕生したと言える。


1-3「発見」以降の「アール・ネーグル」

 発見と命名以降、アフリカの造形物を民族学的資料として捉えるか、芸術作品として捉えるかは、展示する側の分類、あるいは観賞者にゆだねられるようになった。

 例えば、1984年から1985年にかけて、ニューヨーク近代美術館において「20世紀美術におけるプリミティヴィズム『部族的なるもの』と『モダンなるもの』との親縁性」展が開催された。この展覧会は、ゴーガン、ピカソブランクーシなどのモダンアートの作品とアフリカオセアニア等の「プリミティヴ・アート」を併置することによって、両者の「親縁性」を示すことを目的としてい*8。しかし、民族学者であるジェイムズ・クリフォードらによって、西洋中心主義に基づく「プリミティヴィズム」に対する疑問や、非西洋から集められたモノが美術館と民族学博物館という組織の区分によって「芸術作品」と「物質文化」とに分類されてしまうことに対する批判が起きるなど、この展覧会は様々な問題を提起した。

 また、2006年パリに開館した非ヨーロッパの文化や造形物を展示するケ・ブランジ一美術館(または博物館)では、展示物を「作品」「もの」「仮面」などと分類・表記し、民族学的資料と芸術作品との境界を曖昧にした展示が行われている。

 日本でも、2014年国立民族学博物館国立新美術館との共同企画による「イメージの力」展が開催されているが、この展覧会では展示作品を「イメージ」と呼んで、「芸術」という言葉を用いることを避けている*9

 しかし、本論文が問題とするのは「民族学的資料」とは区別されて「芸術作品」と呼ばれたアフリカの造形物である。このときの「芸術」の規定は、西洋における近代以降の文化状況を反映していた。それゆえ、近代を特徴づける「ファイン・アート」としての「芸術」の変貌がアフリカの彫刻を「民族学的資料」から区別することを可能にし、西洋の文化状況において、「民族学的資料」だったものを「芸術」とみなすような芸術観が「モダンアート」の成立とほぼ同時期に生まれ、それがアフリカの彫刻を「アール・ネーグル」として発見させた、とは考えられないだろうか。

 民族学者である吉田憲司は、1996年の論考「創られた『アフリカ美術』一美術館と博物館の近代」の中で以下のように述べている。

西洋近代における「アフリカ美術」という概念の創造は、じつは「モダンアート」という概念の創造と一体になったものだったと考えられる。西洋が自己を中心とした世界システムを形成していく過程で、アフリカは「他者」イヒされ、変化・創造・抵抗の主体としてではなく、受動的な対象として表象された。「モダンアート」と「アフリカ美術」はこの一連の動きの両側で成立した概念だということになる*10

 しかし、吉田はこの論考において、「アール・ネーグル」が発見された当時の資料に基づく具体的な根拠を示してはいない。そこで、次章では、この吉田の指摘を参照しながら、「アール・ネーグル」が評価された理由と「モダンアート」との関係について、当時執筆されたテクストの分析を通じて考察していきたい。


2「アール・ネーグル」の評価と「モダンアート」の誕生

2-1 1912年の言説

 本章では、初めて「アール・ネーグル」という言葉が使われたとされる1912年から1920年までのおよそ9年間について、4人の美術批評家の言説を時系列に従って追っていく。「アール・ネーグル」に関する論評は、雑誌や新聞などの媒体に発表され、多数が現存しているが、その中で、直接的に「アール・ネーグル」を評価する理由が記されている個所について検討する。

 まず、1912年、「アール・ネーグル」という言葉が初めて使われたとされている、アンドレ・ワルノーによる『コメディア』誌の論評を取り上げる。

われわれは公式展覧会の料理に少々うんざりし始めている。われわれは別のものを望んでいるのだが、それが何か正確にはわからない。[…]まったく別な芸術の概念をわれわれは望んでいて、それゆえもっとも原始的で大胆な作品を注意深く検討するのである。これはいわば、甘味や砂糖菓子を食べ過ぎたあとで、不快で暴力的な、なにより簡潔な味覚を再発見したいという欲求である。非常な卑俗さに基づく現実性独創性、力強さを備えたこれらの黒人の彫刻に、絶対的にわれわれが感嘆するのは、こうした反応からのことである*11

 ここで、ワルノーは、「アール・ネーグル」の「現実性独創性、力強さ」を評価している。これらは、原始的なもののもつ性質であると同時に、アカデミックなサロンの出品作にはない性質である。アカデミズムにうんざりした芸術関係者たちが求めていた「別の芸術」が、西洋的な規範に従って制作されていない「アール・ネーグル」の中に認められた。また、このように「アール・ネーグル」を評価する文章の裏には、反アカデミックな「芸術」こそが現在求められているもの、すなわち「モダンアート」のあるべき姿であると考えるワルノーの思いを読み取ることができる。

 また、同じ1912年に、「アール・ネーグル」の愛好者であり、ピカソの友人であったアンドレ・サルモンは、評論「キュビスムに関する逸話」の中で、ピカソが「アール・ネーグル」を評価した理由について、以下のように述べている。

その芸術家ピカソ]はすでに黒人たちに情熱をかたむけており、彼らをエジプト人より上位に置いていた。彼の情熱は、物珍しさへのむなしい欲望によって支えられていたのではなかった。ポリネシアあるいはダホメのさまざまなイメージが彼には「合理的」に思えたのだった。ピカソは自らの作品を刷新するために、どうしてもわれわれが習得した物の見方にはそぐわない世界の姿を提示しなければならなかったのだ*12

 サルモンは、ピカソが「アール・ネーグル」を「合理的」と捉えていたとする。ここでの「合理性」とは、ピカソキュビスムで実現した「視覚の論理に従って形態を分解し、細分化し、断片化した後、新しい次元に置き換えられた形態として再構成する」*13といった性質のものであったと考えられる。ピカソは、1907年の春にトロカデロ民族誌博物館で「アール・ネーグル」を発見した後に、《アヴィニョンの娘たち》に手直しを加え、現在の形にしている。ピカソにとって、黒人芸術は既存の芸術を超えたキュビスム風の形態を作り出すための発想の源泉として評価されたのだと言える。実際、ピカソは、黒人芸術を源泉として「われわれが習得した物の見方にはそぐわない世界の姿を提示」することによって、「アール・ネーグル」を発見すると同時に、キュビスム以降の抽象的な「モダンアート」の作品を作り出していった。


2-2 1915年の言説

 次に、ドイツ出身の美術史家カール・アインシュタインが1915年に出版した、黒人美術に関する世界初の美学書である『黒人彫刻Negerplastik』を取り上げる。アインシュタインは、ヨーロッパの彫刻とは異なる黒人芸術に固有な造形方法を、以下のように高く評価している。

モダニズム芸術の諸問題が、アフリカ諸民族の芸術を究める契機となった。アクチュアルな芸術活動は常に歴史の牽引力となるが、目下その中枢をなしているのは、アフリカ諸民族の芸術である。かつてナンセンスとされたものが、造形芸術家の昨今の熱心な試みの中で、意義を獲得した。空間の諸問題と芸術創作の特殊な方法が、黒人芸術におけるほど純粋に取り上げられたことがあったろうか。[…]この新たな関係にみずみずしい情熱が即応し、黒人芸術は芸術として熱狂的に収集されるようになった*14

ヨーロッパの彫刻が空間性を弱体化する正面主義という代替の逃げ道を取るのに対し、黒人彫刻はそうした姑息な手段をはねつける。正面主義が手前の面のみ強調するのに対し、黒人彫刻は全体・合成としての立体性をありのままに表現し、強化された一面を中心に配置する*15

 このようにアインシュタイン評価する黒人芸術の造形性について、Negerplastikの36-38ページに掲載されている「アール・ネーグル」の図版*16と照らし合わせながら確認したい。

 これらの図版には、個々の彫刻がどこで、また、どのような意図で制作されたのかなどの情報はまったく記されていない。アインシュタインは、黒人彫刻の美的芸術的な価値だけを伝えたいがために、図版にキャプション情報を入れなかったのだと考えられる。これらの彫刻に特徴的なのは、突き出た胸、抽象化された四肢、長く伸びた首、そしてシンプルな顔のパーツの表現である。アインシュタインヨーロッパの彫刻とは異なる黒人彫刻に認める「空間の諸問題と芸術創作の特殊な方法」、「全体・合成としての立体性をありのままに表現し、強化された一面を中心に配置する」方法とは、このような身体のパーツの抽象化と視覚的に強く意識される部分を強調した造形のことを指しているのだと思われる。ここにもまた、キュビスムの方法との類似性が見られる。

 つまり、モダニズム芸術の1つの方向として求められていた抽象化がすでに実現されていると捉えられたことによって「アール・ネーグル」はこの時代に評価されたのだと考えられる。また、「諸問題」を抱えた当時の芸術を黒人芸術が牽引しているとの記述からは、「モダンアート」に求められる要素を「アール・ネーグル」に認めることによって、逆に「モダンアート」の概念が具体的に形づくられていったのではないかと考えられる。


2-3 1918年以降の言説

 最後に、「アール・ネーグル」の擁護者で蒐集家でもあった詩人・美術批評家のギョーム・アポリネールが1918年7月に執筆した雑誌記事「アフリカオセアニアの彫刻」、そして、アンドレ・サルモンが1920年に執筆した「アール・ネーグル」というタイトルの論評について検討し、本論を締めくくりたい。

 アポリネールは以下のように述べる。

素材も時には大切なのだが、ここでの主要な関心は造形にある。この形態はつねに力強く、われわれの物の見方から非常に隔たっていながら、芸術家たちの着想に資することができる。重要なのは、古典のさまざまなモデルと対立させることではなく、芸術家の観察眼を偉大な芸術の諸原理に立ち戻らせて、作品の主題や形態を刷新することだ*17

 また、サルモンは以下のように述べている。

古典のさまざまなモデルに黒人の作品を対置するのではない。目的は、主題と形態を刷新し、芸術家の観察眼を偉大な芸術の諸原理そのものに立ち返らせることによって、芸術を新たなものにすることにある*18

 アポリネールとサルモンは、ほぼ同様な指摘を行っている。すなわち、「アール・ネーグル」を評価し、芸術の諸原理に立ち戻ることによって、今までの主題と形態を刷新し、造形に新鮮さを取り戻すことが重要である、と。これらのテクストからも、「アール・ネーグル」が評価されることを通じて、西洋における芸術の「主題と形態が刷新」され、かつての芸術とは異なった「モダンアート」が生み出された状況が理解される。

 以上のように、1912年のアンドレ・ワルノーから1920年のサルモンの論評に至るまで、黒人芸術は、一貫してモダン芸術家たちの着想を豊かにするものとして評価されていたことが分かった。そして、いずれの文章においても、「アール・ネーグル」を評価する裏側に、それと同様な抽象化の傾向を有する「モダンアート」が生み出されつつある状況を読み取ることができた。


結びにかえて

 本論文を通じて、以下のことが明らかになった。パリで活動した前衛的な芸術家たちによるアフリカ彫刻の美的芸術的な価値の「発見」は、およそ1906年前後に行われた。そして「アール・ネーグル」という言葉が1912年に登場することによって、アフリカ彫刻は一般にも「芸術」として考察されるようになった。その後1920年までの代表的な言説を検討することによって、論者は「アール・ネーグル」と「モダンアート」の概念が表裏一体となって形成されていく状況を確認した。反アカデミズム的な、キュビスム、およびそれ以降の抽象芸術を中心とする「モダンアート」の概念は、「アール・ネーグル」の概念とほぼ同時に誕生したと考えられるが、テクストに記録された形で厳密にどちらが先であったか、という問題については、今回引用したテクストからは断定することができなかった。詳細な事実の確認は今後の課題としたい。

*1: Laude, Jean, La Peinture 夕angaise (1905-1914)et “'L'art negre". Paris, Klincksieck, 1968, pp.77-78.

*2:吉田憲司『文化の「発見」一驚異の部屋からヴァーチャルミュージアムまで』岩波書店,1999年,40頁。

*3:シャン・ロード『黒人アフリカの美術』(江口一久訳)白水社、1986年、21-23頁。

*4:Laude, Jean, op。冶。p. 14.

*5:ウィリアム・ルーピン編『20世紀美術におけるプジミティヴィズムー「部族的」なるものと「モダン」なるものとの親縁性』吉田憲司監修、淡交社 1995年、270頁。

*6:前掲書、143頁。

*7:大久保恭子『〈プリミティヴィズム〉と〈プリミティヴィズム〉一文化の境界を巡るダイナミズム』三元社、2009年、121頁。

*8:前掲書、40頁。

*9:吉田憲司「イメージの力をさぐる」、『イメージの力一国立民族学博物館コレクションにさぐる』国立民族学博物館2014年、19頁。

*10:吉田憲司「創られた『アフリカ美術』一美術館と博物館の近代」(『美術史スペクトルムー作品言説制度』光琳社、1996年)279頁。

*11:Wamod, AndreバArts decoratifs et Curiosites artistiques :L'art negre,” Comoedia, 1 Janvier,1912. (拙訳。 原文:≪ On commence a etre un peu las de la cuisine des Salons officiels. Onvoudrait bien autre chose. mais on ne sait pas au juste quoi. (…)on souhaite une conceptiontout autre des choses d'art, et c'est pourquoi on est tente de considerer avec attention les oeuvresles plus primitives, les plus franchement executees. C'est comme un besoin qu'on a. apres tropde douceurs et de sucreries, de retrouver enfin un gout apre, brutal et simple surtout. C'esten cherchant cette reaction que peut一etre on en viendra a admirer de la fa;on la plus absolueces statues negres d'un caractere reel. d'une originalite et d'une force qui reposent de tant devulgarite.≫)

*12:Salmon, Andre, “Histoire anecdotique du cubisme," La jeune peinture frangaise. Paris,Messein, 1912, p. 43. (原文:くくDeja l'artiste s'etait passionne pour les negres qu'il pla;ait bien au-dessus des Egyptiens. Son enthousiasme n'etait pas soutenu par un vain appetit du pittoresque・Les images polynesiennes ou dahomeennes lui paraissaient <raisonnables>. Renouvelant sonoeuvre, Picasso devait fatalement nous dormer du monde une apparence non conforme a notrevision apprise.≫)

*13千足伸行監修『新西洋美術史西村書店、1999年、375頁。

*14:カール・アインシュタイン『黒人彫刻』(鈴木芳子訳・解説)未知谷、2005年、6-7頁。

*15:前掲書、32-33頁。

*16日本語訳のカール・アインシュタイン『黒人彫刻』(鈴木芳子訳・解説)未知谷、2005年では、80-82頁に同じ図版が掲載されている。

*17:Apollinaire, Guillaume, "Sculptures d'Afrique et d'Oceanie", Les Arts a Paris, 15 juilletバ1918・(原文:くくL'interet essentiel reside id dans la forme plastique encore que la matiere soit parfoispredeuse. Cette forme est toujours puissante, tres eloignee de nos conceptionsetpourtantaptea nourrir l'inspiration des artistes. 11 ne s'agit pas de rivaliser avec les modeles de l'Antiquiteclassique, il s'agit de renouveler les sujets et les formes en ramenant l'observation artistique auxprincipes memes du grand art.

*18:Salmon, AndreバL'art negre" (1920), Propos d'atelier, Paris, Nouvelles editions excelcior.1938 (1922), p. 130. (原文: ≪On n'oppose pas les ouvrages negres aux modeles de l'antiquiteclassique. Le but est de rajeunir l'art par le renouvellement des themes et des formes. l'observationde l'artiste etant ramenee aux principes memes du grand art.



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